第19話 残月

 時折吹く、突風のような風が樹木を揺さぶる。強めの海風は、兵達が並べておいた武器を次々と地面に転がした。まだ篝火を要するような刻限ではないが、このままでは夜になったとしても、危なくて火は灯せそうにない。

 風見に同行した浅海が連れて来られたのは、荒居の浜から林を抜けただけの小さな漁村だった。

 とは言え、住民は数えるほどしか見当たらない。此度の戦のために、あらかたの村人は強制的に余所に移されたらしく、ひしめき合っているのは武装した兵達ばかりだ。

 夕餉を済ませた一行は、後から合流した砲達も交えて夕餉を楽しんでいたが、浅海は特別に用意された座席から、無感情に彼らを眺めていた。

「食事は済ませたのかい?」

 不意に現れた風見の問いに、つい首を縦に振ってしまいそうになったが、現実には水すら喉を通らなくて、用意された食事は手付かずのまま横に置いてある。彼はそれをちらと見ると、困った様に息を吐いた。

「戦の一番の敵は空腹だよ。前線の兵でないにせよ、少しは食べておきなさい」

 風見はそう言うと、自然な様子で浅海の隣に腰を下ろした。鎧に身を包んでいるというのに、元々の線が細いためか、横に居てもちっとも圧迫感がない。さっきまでそこにいた、砲とは大違いだ。

「今宵は三日月。どうもお前と私は、満ちた月には縁が無いようだね」

 天を仰いで、軽い口調で告げる彼の表情は優しげで、これから戦を、処刑を行おうとする者のそれとはとても思えない。砲などはもう既に血を滾らせて燃え上がっていたというのに、彼はどこまでも静かそのものだ。浅海は涼やかな横顔をまじまじと眺めた。

「どうかした?」注がれる強い視線に、彼は微笑で応える。

 風見の雰囲気に呑まれてはいけない。浅海は拳を握り締めると、彼の黒い瞳に向き合った。

「あの…戦況は、如何なのでしょうか?」

 おずおずと問い掛ける浅海に、風見は苦笑を浮かべると、まるで子供にするように頭をそっと撫でてきた。

「何も始まってはいないよ。彼らはまだ現れていない。斥候達もその姿を捉えてはいない」

「けれど、砲様が…」

 もごもごとそう言いながら、浅海はついさっき彼から聞かされた近況を思い浮かべた。


「喜べ。夜半過ぎにも戦になるぞ」

 一軍の将としては、さすがに酒を控えているようで、砲はそう告げると、水をがぶがぶ飲んだ。あまりに勢いよく筒を傾けたものだから、口の端から零れたが、そんなのはお構いなしのようだ。

 彼の言う意味を測りかねた浅海は、眉を顰めながらこう問い返した。

「何を喜べとおっしゃるのですか?」

「戦に決まっているだろう」

 疑う余地もない決定事項のように言い切られ、浅海は思わず、はぁと間の抜けた声を出してしまった。砲はその様子に不思議そうに首を傾げる。

「人と人とが争い傷つけあい、時には大切な人間を失う。私がそんな所業を好むといわれるのですか」

「お前の気持ちなぞ知らん」

 砲は筒を一気に空にすると、吐き出す息と共にそう告げた。飾り気のない率直な言葉だった。

 思ったことをそのままに述べる彼は、言葉すらも道具として扱う海里や風見とは全く対照的だ。そう言った意味で言えば、浅海の単純さに通ずるものがある。

 浅海は一度ふぅと息をつくと、出来るだけさらりと答えた。

「戦は、何も生みません。命を奪うだけです」

「おいおい。武人相手に随分と度胸のあることを言うな。戦場は俺の生きるに相応しい場、戦は生きる術だ。第一、戦が無ければ東国の平和も発展も有り得ん」

 あっけらかんと聞こえる口調だったが、砲の目は本気だった。

 彼にしてみれば面白くない発言だったろう。だが、浅海は訂正する気にはなれなかった。

「東国の発展と引き換えになるのは、いつも、罪もない他国の人々。彼らの平穏を踏み躙り、めちゃめちゃに壊して得るものなど、本当の幸せでしょうか」

 彼を見てはいなかったが、隣の気配が変わったのはすぐに気付いた。苛立ちと怒り。恐怖こそなかったが、空気はひたすらに重苦しい。

「そろそろ、自分の立場を自覚しろ。今の言葉は聞かなかったことにしてやるが、次は無いぞ」

 砲はふるふると震える拳を無理矢理抑えつけながら、吐き捨てるようにそう言い、どかどかとその場を去って行った。

 

 浅海は、その時の彼の幅広な背中を思い出しながら、ゆっくりと問い掛ける。

「夜半にはまだ時間がありますけれど。戦になるのならば、既に配置がなされているのでしょう」

「さぁ。正直、私ではわかりかねるよ。軍略的なことは全て砲に任せているからね」

「まさか。風見様が状況を把握しておられないわけがありませんわ」

 浅海は片方の口角だけを釣り上げただけの、憎たらしい笑みを彼に向ける。

 武項という後ろ盾を失くしたとは言え、今や風見は実質的な浦の司であり、国府にあっても、彼に表立って意見するものはいない。むしろ武項という強烈な目隠しが無くなった分、風見本来の存在感が際立って来たと言ってもいい。いくら砲でも、そんな彼を無視して布陣を組めるわけがないのだ。

 浅海の内心が透けるようにわかりやすかったからか、風見ははらりと前髪を掻き上げると、言い訳のように言った。

「今回の私の役目は、明日の裁きの検分。たとえ、今から戦になろうとそこは与り知らぬ事だ」

「では、今宵、私をここへ連れてきた理由は?」

「お前に明日の裁きを、現実を見せるためさ。辛いものを見ることになるだろうけれど、それでも、今後のお前には必要なことだからね」

 風見は泣き笑いのような表情を浮かべながらそう言うと、浅海の頬にそっと触れた。

 ひんやりした感覚に背筋がぞくりとなる。そしてそれに触発されたのか、本音が零れ落ちた。

「それは建前でしょう。本当は私を餌にするために、ここへ連れてきたはずです」

「餌、というと?」

「星涙様を釣るための餌です。風見様達は、彼女がここへ来ることをほぼ確信しておられる、そうでしょう。そして彼女を確実に捕えるために、私を利用する御積りなのでしょう」

 浅海は彼の柳眉を見つめながら、きっぱりとそう言った。

 明日の件は東国中に知られた事実。おそらくは、逃亡中の二人の耳にも届いている。今更星涙が辰国の者達を救いに来るとは思えないが、浅海がいれば話は別だろう。

 本来ならばとっくに逃げ出しているはずなのに、未だに東国に留まり、危険を冒す様な真似をしてその姿を現しているのは、浅海にもう一度会いたいから。会って、龍神の最期を確かめたいからだ。

「さすがは浅海だね。正解だ」

 褒められるほどのことでもない。普通に考えれば、これ以外の理由なんて有り得ない。彼らがただの情けだけで行動を起こすはずがないのだ。そこには必ず、幾重にも張り巡らされた策が用意されているに決まっている。

「彼らが何を思って東国に留まっているのかは、わからない。だが、そうである以上、捕える機を逃す手はないからね」

「私は、何をすれば?」

「海里が合流次第、浜に行ってもらいたい。悪いけど、護衛は無しだ」

「一人で、ですか?」

「不安かい?」

 浅海は、ふるふると首を横に振った。むしろ有難い話だ。

 星涙のことだから、余計な人間がいれば躊躇いなく始末する。そうなればすぐさま戦の火蓋が落とされるだろう。

「海里は、」

「伝えてはいない。けれど、知っているだろうね」

 こちらの言葉を待たずに、風見はそう答えた。

「海里に会う前に、浅海には浜に降りてもらうよ。でないと、自分もついていくと言ってきかないからね」

 きっぱりした口調とは裏腹に、風見の黒い瞳には、ほんのわずかだけだが同情の色が浮かんだように見えた。道具としてしか価値がないと判断した相手であっても、やはり罪の意識はあるのかもしれない。

 

 彼らの意図はとっくに解っていた。

 こうしてここに連れて来られた時から、辿るべき道筋も終わりも決められているのだ。そこには、海里の情が入る余地すらない。風見が単なる思いやりで行動する様な人間ではないのは昔から重々承知だが、それでもこうなってみると、胃がきりきりと痛んで、喉が苦しかった。

 浅海は文字通りの餌。獲物に喰いつかせるために、眼前に放り投げられる肉の塊だ。捕獲となれば、狩人達に踏み荒らされ、見るも無残な最期を迎えることになる。

「彼を宜しくお願いします。暴走して自分を失わないように」

 そこまで言って、ぎゅっと目を瞑った。

 どの感情のせいかはわからないが、目頭が急速に熱くなった。

 海里に二度と会えない寂しさか、それとも少しでも信じた彼にあっさりと裏切られた悔しさか。はたまた、単に死ぬのが怖いのか。

 悲しみ、落胆、後悔…。

 原因になりそうな負の感情をあげればきりがないが、心の片隅では、逆にその結末を望んでいる自分もいた。これで全てが終わりになれば、あの悪夢から解放される。恐ろしい未来を生み出すことがなくなるのだ。そうすれば、海里もきっと救われる。

「ああ。約束しよう」

 一呼吸置いてそう答えた風見に、浅海は小さく頷いた。


 海里が荒居の浜に着いたのは、月が天辺に昇った頃だった。

 冴え冴えとした細い明かりだけを頼りに林の中を進み、風見達が待つ本営に向かう。だが不思議な事に、その途中に配置されているはずの兵の姿は、予想していた数の半分にも満たなかった。

 何かある。海里は直感でそう思った。

 どうやら単なる策の変更ではないようだ。自分の知らぬところで、何か嫌な企みが進められている様な気がして、どうにも落ち着かない。

 海里は何とも言えない焦燥感を押さえ付けながら、本営の最奥にある天幕の前に立った。

 入口の警護兵は海里を認めるなり、数歩下がって頭を垂れた。ひとしきり深呼吸をしてから、海里は中に向かって口を開いた。

「私です。只今、北からの軍を合流させました」

 おぅ、と言う砲の野太い声の後で、中で人が動く気配がした。背の高い影が中の明かりに照らされて浮かび上がる。ばさっという雑な音と共に、砲がぬっと姿を現した。

「やっと来たな。待ちかねたぞ」

「済まない。途中の道がいつだかの嵐で崩れていた」

「まぁいいさ。入れ」

 砲に続いた海里は、奥に座っていた風見にぺこりと頭を下げた。遅くなりました、と小さな声で告げると、彼はふっと表情を和らげた。

「この位は想定内だよ。気にするな」

 風見はいつにも増して落ち着いていた。が、これはあくまでも表面上だけの話である。彼がこうして必要以上に悠然と構えて見せる時は、大抵何か大事を始める前の合図だ。海里は嫌な予感が外れていないことを確信した。

「何故、兵をお下げになったのですか?」

「配置は全て砲の独断だ。文句があるならこちらに言ってくれ」

 風見はそう答えると、砲に笑顔を向けた。それを受けて苦笑いを浮かべた砲の顔を見ればすぐにわかる。二人は確実に何かを隠していた。

「浅海をお連れになったのですね?」

 海里は単刀直入にそう切り込んだ。事実ならば、回りくどく会話をしている暇はない。

「彼女は何処ですか?」

 風見は答えてくれなかった。彼はただ静かに炎を見つめているだけである。海里は苛立ちをぶつけるように大きく舌打ちすると、くるりと二人に背を向けた。

「海里?」

「自分で探します」

 そう告げるなり、海里は浜辺に向かって走り出していた。後ろから風見達の声が追いかけてきたが聞こえない振りをする。

 ぼうぼうに生えた草藪が幾度も行く手を阻んだが、無理に掻き分けた。そうやって直感だけを頼りに南東へ進んで行ったが、もうあとわずかで林を抜けるといった矢先、とんでもないものを目撃した。

 海里の心臓は一瞬鼓動を打つことを忘れた。

「浅海っ」

 思い切りそう叫んだが、彼女は既に波に飲まれていた。

 

 ここから届くわけがないのに、海里は必死に右手を伸ばした。が、その手は何者かによって下ろされ、さらには両脇を強い力で抑え付けられてしまった。どうにか振り切ろうとするものの、がっしりと固められていてちっとも身動きが取れない。

「放せ」

 じたばたと暴れては見たが、無駄な抵抗だった。相手は砲と彼直属の部下であり、すぐ傍には風見の姿もある。彼らは皆一様に、困り顔で海里を眺めていた。

「落ち着け。よく見てみろ」

 言い含めるようにそう告げられ、海里は砲を睨みつけたが、その視界の端に映った影を見て、ようやく多少の冷静さを取り戻した。

 波間から現れたのは二人。一人がもう一人を背負っていた。

「現れたか」

「ああ。ここまで来た甲斐があったな。あの様子じゃ浅海も無事だろうよ、安心しろ」

 これだけ遠く離れていても感じられる、独特の威圧感。夜目にもくっきりと映る、長身のすらりとした体躯。

 あれは間違いなく星涙だ。そして彼女に背負われている小さな影は、これまた確かに浅海だった。

 横たわる浅海に寄り添って何かの術を施している星涙は、月光に照らされて女神の様に神々しい。そのせいか、海里は何の根拠もないのに、浅海の無事を確信した。

「もう逃げない。離せ」

 ほっと一息ついた海里は、ようやく腕の痛みに気が付いた。軽く舌打ちして忌々しそうにそう告げると、砲は今更気付いたかのように、おぅと手を離した。が、圧迫を逃れたはずの腕からはなかなか痛みが消えない。

「悪いな。力を込めすぎた」

 血の巡りを良くしようと腕を振っていると、砲は苦笑いでそう言ったきた。けれど、海里はそんな彼をまるっきり無視して風見に詰め寄った。

「やはり、浅海を利用する計略だったのですね」

 彼は押し黙ったまま何も答えてくれなかった。無言は肯定の証。海里は感情のまま二人に食って掛かった。

「私を本陣から遠ざけた理由はこれですか。浅海にも、そう覚悟させるために」

「辰国の象徴である巫女を、そのまま生かしてはおけまい。最悪の前例があるんだ」

 黙りこくったままの風見に代わって、砲が面倒そうにそう言い捨てる。

「公衆の面前で刺し貫かれるよりは、この方が幾分ましだろう」

「ふざけるな」

 怒鳴ったはずだったのに、飛び出した声は恐ろしく低いそれだった。

 彼らの意図など解りきっている。だからこそ先手を打って、浅海を佐間に戻したというのに、風見は更にその上を行っていたようだ。

「海里、自らの役目を忘れるな。お前は罪人としての武項と星涙を捕えに来たのだ。それ以外は私情、勝手に行動することは許さないよ」

 政務を執るときにも聞いたことのないような厳しい口調で咎められ、海里は思わずぎくりとした。政治家としての風見の恐ろしさは、海里とて充分に知っている。 彼が感情を露にすることはごく稀であったが、それは決まって最大限に苛立っているときであり、そして口調を強めるときは絶対の命令を下すときである。

「浅海を勝手に連れ出したことを、何故私達が認めたと思う? 彼女は餌だ。星涙を釣るに打ってつけの大事な餌。見てごらん、その策は大成功だ。星涙は浅海に釣られてやって来たばかりか、こうして東国軍の網の中にまで追い詰めた。かかった魚を目前にして騒げば、また逃げられてしまうよ」

 風見にそう告げられ、海里の中で全く別の感情が激しくせめぎ合った。

 冷静と激情。相反するそれらはどちらも海里の一面であり、そう簡単に折れる代物ではない。感情に押し流されて浅海の元に走り寄れば、これまで築き上げてきた全てのものが音を立てて崩れていくだろう。けれど、今ここで彼女を失う様な事があれば、迷うことなくその後を追うだろう。

 ぎりぎりと奥歯を噛みしめて正面の風見を睨みつけていると、彼は不意に柔らかな笑みを浮かべて見せた。

「とにかく、もうしばらく様子を見てみないかい? 私に斬りかかるのはそれからでも遅くないだろう?」



 心なしか、海鳴りは昼間より大きく聞こえた。

 ここならどんなに声を上げようと、潮騒の響きが嗚咽を掻き消してくれるだろう。誰にも気兼ねすることなく、心ゆくまで泣くのにこれ以上ふさわしい場所はない。現に、囚われ人たちもこの近くまで連れられてきているはずなのに、その気配すらどこにも感じられなかった。

 ここまでどうやって来たのかの記憶は、ほとんどなかった。

 時間だ、と風見に告げられ、促されるままに歩いてきただけだ。当然、海里にも会っていない。

 おぼろげな足取りでふらふらと浜を進みながら、浅海は濡れた瞳で天高くから差す光を眺めた。

 こうして一人、夜の浜に佇むのは、海里と出会ったあの日以来だ。あの日もそう、巫女に別れを告げられて、この世の終わりの様な気分だった。

 夜空にあるのは細い三日月。ほとんどを暗闇にのまれ、細々としか輝けない月だというのに、それに照らされる海はやたらと明るかった。天から注がれる一条の光に縋るかのように、浅海は波打ち際へと足を踏み入れ、引き寄せられるようにどんどん波の中へと進んだ。

 明るいとはいえ、辺りは夜の闇。透明なはずの海水は黒く重く感じられたが、気付いたときには既に腰の辺りまで水に浸かっていた。頬を伝う涙に潮風が当たり、濡れている部分が余計冷たく感じられた。

 天の明りが水面に降り注ぎ、海原にはもう一つの月が浮かぶ。明確な線を描かずに、ゆらゆらと揺らめく海上のそれは、白銀のような光を放つ天のものとは明らかに違う。自分の意思で形を決めることが出来ず、ただ上にあるものを真似ただけ。落ちて来た光を映しているだけだ。それなのに、さも自分も同じものであるかのように振舞っているその様は、まるで星涙を模した自分そのものにみえた。

 秋の海水は冷たかったが、きっと心中の温度よりは高い。浅海は海に体をぷかぷかと浮かべながら、天に向かって両手を伸ばした。

 天境線はどこにあるのだろう。

 決して人が超えてはならないその線は、この広い空のどこに存在するのであろうか。目に見えるものではないとわかっているのに、今だけはその姿を確認したくて仕方がなかった。自分を罰するものの存在を、直に確かめたかった。

「わかってる。全部わかってるのよ」

 浅海はうわ言のようにそう繰り返した。自分に言い聞かせることなど、もう飽きるほどやってきた。けれど、気持ちが揺らぐことは押さえられない。

 犯した罪は消えない。浅海一人の命で償えるほど軽くもない。このまま罪を背負って苦しみながら生きるよりかは、この月下で最期を迎える方がよっぽど楽だろう。

 けれど、死というものはそんなに生半可な気持ちで受け入れられるものではなかった。普段は感じることの出来ない様な焦燥感が募って、どうにか生きたいともがく自分がいた。だが、それは浅海だけが特別に感じるものではなく、命あるもの全てが終わり間近で思うことなのだろう。そう、辰国の皆もきっと…。

「ごめんなさい」

 今更こんなことを呟いた所で、無意味なことはわかっている。それなのに言わずにはいられなかった。

 溢れてきた涙が滔々と頬を伝い、水面へと落ちていく。大海原にとっては、たった数滴の浅海の涙など取るに足らないもの。すぐに大海と混じりあって、その存在そのものがなかったかのように消えていった。きっとそれが浅海自身だとしても、結果には大差ないのだろう。

 いっそこのまま、波にのまれてしまいたい。

 そう思った時だった。すぐ横には驚くほど高い波が迫っていて、あっと思った瞬間には、体はまるごとその波の中にのまれていった。


 意識を取り戻したと同時に味わったのは、心臓が止まるかと思うほどの苦しさだった。頭はぼうっとしていて目は霞んでいる。そんなままおぼろげに闇を見つめていると、誰かに乱暴に体を傾けられ、これでもかと言うほど強く背を叩かれた。息苦しさに涙が溢れ、げほげほと咳き込む。

「星涙様?」

 焼け付くように痛む喉を押さえながら、浅海は彼女の名を呟いた。

 涙で視界はぼやけていたが、その姿かたちを見紛うはずもない。長かった黒髪はばっさりと切り落とされ、以前よりも更に痩せていた。けれど彼女の持つ独特の空気が本人であることを証明していた。

「溺れかけていた。危なかったぞ」

 これは夢か現か。浅海はぼうっと彼女の姿を見つめた。

「…死のうとしたのか?」

 浅海の顔に張り付いている髪をそっと払いながら、星涙は厳しい口調でそう問う。だが、適当な答えは見つからなかった。

「いえ、別に…。ただ、高波にのまれただけです」

 何がしたかったのか。自分でもわからない。ただ言えるのは、この時季に好き好んで水に入る者などいないということだ。

 星涙は浅海の真意を探るよう、じっとこちらの目を見つめてきた。か細い月明かりしかないのに、その姿はまるで闇夜に浮き上がるようにくっきりしている。彼女に支えられながら浅海はゆっくりと体を起こした。

「助けてくれて、ありがとうございます」

 星涙はその切れ長の目で浅海をじっと見つめていたが、不意に表情を和らげると、白い手で浅海の額を優しく撫でた。月光に照らされた彼女は女神にしか見えない。彼女は浅海からそっと手を離すと、憎らしいほど優雅な所作で隣に座り直した。

 潮騒だけが響く中、二人は揃って暗い海を眺めた。

「…罰を受けるのは私のはずだ」

 星涙は何かを吐き出すようにそう言った。浅海は思わず手元の砂を握り締める。

「あの時、」

「龍神を滅したのは私です。あなた様ではありません」

 彼女の言葉を途中で遮り、浅海は首を横に振った。精一杯の虚勢だった。

「…星涙様は元よりそれをお望みだったのでしょう」

 そう。彼女がとったのは、身勝手で我儘すぎる振る舞いだ。

 誰を、何を、犠牲にしてでも自らが解放されることだけを望み、己の思うように生きる道を選んだ。

「そこまで気付いていて、どうして私を助けた?」

 星涙は浅海の両肩を掴むと、切り込むように真正面から見据えてきた。その瞳には燃えるような怒りが浮かんでいる。

「私はお前達を利用したのだぞ」

 憤慨したようにそう言われて、浅海は困惑した。怒られる理由なんてどこにもない。浅海のおかげで彼女は計画通りに事を運べ、そして全てを叶えたのだから。

 理不尽さに釈然としないまま、浅海は手元の砂にぐちゃぐちゃと文字を描きながらこう答えた。

「…体が勝手に動いたのです。裏切られたことが悔しくて、あなた様を恨んでいたっていうのに。不思議でしょう」

 正直、理由なんて本当にわからなかった。

 星涙が皆を犠牲にしたのは紛れもない事実だ。一人の自由と引き換えに、どれほどの血と涙が流れたかわからない。それなのに浅海は、無意識のうちに彼女の望みを叶えることを手伝ってしまった。反射的に彼女を突き飛ばし、自らの手で天境線を越えたのだ。

 浅海は、三日月がゆらゆらと揺れる大海に向かって静かに告げた。

「あなた様が犯したのは大罪です。御二人が自分勝手な戦を仕掛けたことで、辰国は滅ぼされました。明日にはここで樹達の処刑が執り行われます」

 知っている、と彼女は小さく呟く。

 一瞬、その横顔に寂しさが浮かんだような気がした。だがちょうど雲に覆われた月のせいで、はっきりとはわからなかった。

「あなた様は罪を償わなければなりません」

 我ながら大胆な発言だった。全てを学んだ師である星涙に対して、説教とも言える言葉を告げたのだ。彼女は浅海のこの言葉をどう受け止めただろう。

「なぁ浅海。罪とは一体何だ?」

「えっ?」

 思わずそう聞き返した浅海に、彼女はすうっと目を細めて見せる。

「人を殺すことが罪だというのなら、戦に出る兵達は皆、咎人だ。人を傷つけることならば、この世の殆どの人間もまたそうだろう。人間だけじゃない。万物は多かれ少なかれ、何かを犠牲にして生きているのだ。ならば誰もがその責めを負い、喜びや楽しみを封じて苦しみだけを味わうのが筋、違うか?」

 星涙の切れ長の眼には、諦めに似た色が写っていた。

「罪を償うことと、罰を受けることは同じではない。犯した罪は何があっても償えるものではない」

 あまりに重いその言葉に、浅海は黙りこくった。彼女が言いたいことは何となくわかる。けれど、それに対する答えは簡単には用意できなかった。

 浅海は思いつくままに立ち上がると、砂の上を数歩進んだ。そのまま打ち寄せる波に足を浸からせると、思った以上の冷たさに鳥肌が立った。

「私は星涙様の事が大好きでした。いいえ、今でも大好きなのです」

 浅海は月を背にして、星涙の方に向き直った。これならば逆光でこちらの顔は見えない。

 おそらくこれが星涙と言葉を交わせる最後の機会だ。浅海は洗いざらいの本音をぶつけることにした。

「私は心底あなた様に憧れておりました。でもそれは私が勝手に創り上げた、星涙様という偉大なる巫女の偶像でしかなかったのです。本来のあなた様のことなど、何もわかっていなかった。あなた様にも感情があることなどこれっぽちも理解せず、ただ勝手に理想を押し付けていたのです。だから武項様と共に現れたあなた様を見た時、裏切られたと思いました」

 浅海はいったん息をつくと、視線を足元にずらした。星涙は無言のままだったが、何となくその表情には陰りがあるように見える。

「戦に出て自由に振る舞うあなた様を見て、気付くべきでした。逃げ出したかったのでしょう。望んでもいないのに自らに課された重い枷と、憎しみのままに人を手にかけた罪から。違いますか?」

 浅海がためらいがちに下を向くと、彼女は無造作に浜辺へと倒れこんだ。

「その通りだ。私はただ逃げたかった。厄介な己の運命から逃れ、この身の内に巣食う血腥さを好む龍神から解放されたかった」

 きっぱりと言い放った星涙に、浅海は唇を噛んだ。自分の中で消化してはいたものの、彼女の口から改めて聞かされると重みが違う。何も言えずにいると、星涙は静かにこう続けた。

「私を解ってくれたのは武項だけだ。散々崇め奉ってきた龍神は救うどころか、形代として私を利用するだけだった」

「けれど、巫女であれば」憤然とした浅海を星涙が目で制す。

「わかっている。神と一体になることは、最大の力の証だといいたいのだろう? だがな、浅海。私はおしつけられた運命に何の未練もありはしない。龍神もろとも国が滅ぶことを願ったことが何度あっただろう。全て消え去ってしまえば私は自由になれる。誰がどれだけ犠牲になろうと、そんなことはどうでもよかった」

「では、全てから解放されたあなた様はお幸せなのですか?」

 その問いに、星涙はわからないと大袈裟に首を横に振る。まるで幼い少女のようなその仕草だった。

 浅海はくいっと首を上げて、天上の三日月を見上げた。全身に優しく降り注ぐ柔らかな光で、全部が浄化されればいいのにと都合のいいことを思う。

「犯した罪は消えないし、償えない。だから罰があるのでしょうね」

 目からは涙がとめどなく溢れてきた。またあの悪夢が蘇る。

 何がどうであれ、最後に手を下したのは自分だ。辰国を滅ぼし、幾多の命を奪ったのもまた、自分。どうしたってその事実からは逃れようない。

「最初にお会いした時、あなた様は仰いましたね。東国より亡びが来る、と。そしてあの戦の前にもくっきりと滅の卦が出ていました。龍神はこうなることを全てわかっておられたのでしょう。私とあなた様の取るであろう選択も踏まえて」

「国の亡びが運命だというのか?」

 星涙は苦しそうにそう絞り出した。浅海は空に向かって弱弱しく微笑んだ。

「ええ。そして幕を引いたのは浅海でございます。だからその罰を引き受けなければなりません」

「…一つだけ教えて欲しい。お前に科せられた罰は何だ?」

 重々しい口調でそう問いかけられ、浅海は背筋に重圧を感じた。彼女との距離は少しあるはずなのに、すぐ後ろにいるかのような絶対的な威圧感である。浅海の心臓は自然と早鐘を打ち始めた。

「あなた様はもちろん、誰にも関わりのないことでございます」

 多少迷ったがそう答えた。全てを言ってしまいたい、そう思わないでもなかったが口に出す勇気もまたなかったのである。

 

 再び思い起こされるあの悪夢。一瞬で悲しみに覆われ、吐き気に襲われた。星涙は俯いた浅海の腕を無理やり引っ張って後ろを振り向かせると、その両肩を掴んだ。

「言え」

 初めて見る切ない表情の星涙に、気持ちはぐらりと大きく揺らぐ。浅海はゆっくりと顔を上げだ。真っ直ぐに見つめる先は彼女の漆黒の瞳である。

「あなた様はどうしてこの地にいらしたのですか? 逃げようと思えばいくらでも逃げられたはずです。なのに、わざわざこうして敵陣の只中に乗り込んできたのは、今宵が私に会える最後の機会と知っているからでしょう?」

 星涙は口を真一文字に引き結んだ。浅海は構わずに続ける。

「明日の処刑を待つことなく、私はもうじきこの場で命を落とします。だから、あんな恐ろしい未来は有り得ない」

 未来、と浅海の言葉を繰り返し呟いた星涙の眉間の皴はますます深くなった。

「そこで、何があるというのだ?」

「私の宝が最も愛する者の手によって奪われます」

 激しく音を立てて割れる瑠璃杯。飛び散る透明な酒。女のように白い喉を掻きむしりながら、床に伏して苦しげに呻く男に、氷よりも冷たい視線を突き刺さしているのは、彼の実の父親である。

 浅海は唇をぎゅっと噛むと、口元に手を当てた。頭の中で鮮明に繰り広げられる悲劇は幾度見ようと、慣れることはなかった。

「その場にお前はいないのか?」

「幸か不幸か、私は既に存在しないようでございます」

 浅海の小さな声は、寄せ返る波の音の中にのまれていった。

 自分がいない遠い未来での出来事に成す術などあるわけもなく、ただ無惨な結果だけを気が狂わんばかりに何度も何度も突き付けられる。最愛の人間との間に出来た大事な存在は、最悪の形でその命を落とすことになるのだ。これが浅海への罰だった。

「けれど、この悪夢ももう終わりです。私は未来を迎えることはありませんから」

 そう告げる声は、知らずの内に涙に濡れていた。

「こんな形で償いから逃げることが赦されるかはわかりません。けれど…」

 世の大きな渦には決して逆らえない。行く末を決めるのはもはや自分ではないのだ。

 無理やり声を絞り出した浅海を、星涙は思い切り抱きしめた。冷えた体に彼女の温かさはとても心地良くて、瞳からは止め処なく涙がぽろぽろと零れ落ちる。

「すまなかった」

 耳元で囁かれた謝罪の言葉に浅海は、はっと彼女を見上げたが、宵闇の中で月光を背から受けているせいで表情は窺えない。

「お前だけに全ての罪を押しつけはしない。もう、楽になれ」

 そう告げる声には彼女には相応しからぬ、情に溢れた感情が込められていた。

 背後から月光を浴びた星涙は、光を纏った女神が天から舞い降りた様だ。だが次に取った行動はそんな見目とはかけ離れた、全くもって彼女らしいものだった。

 

 金属の擦れる音が波音にも紛れず、はっきりと空気を伝う。独特の不快な音が、闇間に浮かぶ白光が、浅海の背筋を冷たくさせた。

「…星涙様」

「浅海、お前はもう苦しまなくていい。私がこの手で解放してやる」

 細身の彼女が持つには些か大き過ぎる長剣の剣先が向く先は、浅海の喉元。直接触れているわけでもないのに、その切っ先からはひやりとした感覚が伝わって来る。これこそがまさしく、死への恐怖なのだろう。

 星涙に剣を向けられたことなど、これまでに何度もあったし、初対面の時など切り捨てられそうになったが、それでも彼女は一度もそれを実行に移すことはなかった。

 だが、今は違う。彼女の目には躊躇いの色がちっとも見られない。見つめ合っているうちに、浅海の硬直しきった体はがくがくと震え出した。

「私を捕えるために、お前はこの場で犠牲にされる。たとえ無事だったとしても、明日には皆と共に処刑されるだろう。そして万が一にもそこで生きながらえても、お前に待つのは…」

 最悪の未来。浅海は星涙が言わなかった言葉を心中で呟いた。

 生であろうが、死であろうが、どれを辿ったとしても、与えられるのは犯した罪への罰だけだ。ならばいっそここで星涙の手にかかるのが、最善の道の様に思えた。

 浅海は覚悟を決めて目を瞑った。だがその時、耳元をびゅうっという矢呻りが走ったのであった。

 うっ、という小さな呻き声に薄眼を開けると、星涙の顔が苦痛に歪んでいるのが見えた。驚いて目を見開いてみれば、剣を構えていた彼女の右腕には深々と矢が突き刺さっていた。彼女は薄ら笑いを浮かべて、林の方に目をやる。

「やってくれたな」

 ちょうど雲が切れ、辺り一帯が月光に照らされた。その中に黒い影を見つけた浅海は思わず、あっと叫んだ。黒々と光る鎧兜を身に付けた海里が、まだ弓を射た後の体勢のままでそこにいたのである。

「三臣が勢揃いとは、随分な持て成しだな。光栄に思うぞ」

 腕を抑えながら、星涙は皮肉たっぷりに声を張り上げる。それを合図とするかのように、海里の両脇にいた風見と砲がそれぞれこちらに歩を進めてきた。

「お久しぶりですね、星涙様。お元気そうで何よりです」

 柔らかな風見の声が辺りに響いたが、空気は一瞬にして緊張の色を濃くした。

 ちっとも気付かなかったが、よくよく目を凝らして見れば、林の中には大勢の兵が配置されていて、一番前面に居る者達は一人残らずこちらに向かって弓を構えている。浅海は反射的に両手を広げて星涙の前に躍り出た。

「何の真似だい、浅海?」

 まるで浅海がこうすることを予期していたかのような楽しげな声で、風見はそう言った。浅海はこちらを食い入るように見つめる海里とは目を合わせない様、彼だけを睨みつけた。

「弓兵を下がらせて下さい。彼女は手負いの上、たった一人です。女一人捕えるのに、ここまで大仰にする必要はないでしょう」

「お前に指示される謂れはない。黙って下がれ」

 腰に手を伸ばした砲がそう怒鳴りつけたが、風見はそれを気にもせずに、自らの問いを口にした。

「武項様はどちらですか?」

「答えるとでも?」

 星涙はそう言うなり、乾いた笑い声をたてた。彼女は自信たっぷりの笑みで東国軍を見返すと、浅海の身体を横に押しやる。

「武項と私は常に共に在る。決して離れることはない。」

 彼女がそう言った時、突如、三臣が立つ木立のすぐそばに明るさが戻った。夜目に明々と映るそれは、木々の燃える色だった。林の奥からは矢鳴りと人々の悲鳴が響き渡り、焦げた臭気が磯の香と交じり合う。

「何事だ」

 砲が怒声を張り上げたが、彼らの背後はもはや無法地帯だった。炎から逃れようとする兵達は我先にと次々と浜辺に押し寄せ、押し退けられて転んだ者達は、情け容赦なく踏み越えられていく。

 金物のぶつかり合うがしゃがしゃという音、恐怖に怯える叫び。互いに罵り合う醜い争いの声の中では、将校達の発する命令は何の意味も持たない。辺りはすぐさま混乱状態に陥った。

 星涙はそちらに嘲る様な視線を送ると、無理矢理浅海の腕を引っ張ってその場を走り去った。


 足場の悪い浜辺をひたすら南に向かい、ようやく彼女が足を止めたのは松林の入口近く、小振りな岩が砂の間に点々と転がるような岩場だった。

「成功だな」

 肩で息を吐く浅海の背後でそう呟いたのは、星涙ではなかった。驚いて後ろを振り向いてみれば、彼女は既にその声の主、武項と共に馬上に在った。彼がそっと星涙の肩を引き寄せると、二人はしかと見つめ合う。

「奴らは煙に巻かれて、暫くは統制も取れまい。今のうちに望みを」

 星涙はそれにこくりと頷いて見せた。折良くその頭上には月光が落ちている。薄雲を通り抜けているせいか、その光は冷たく、青白い。それを受けた彼女の横顔は先程までとは較べようもないほどに、儚げな美しさで輝いて見えた。

 星涙は腰にあった短剣の方を手にすると、そっと浅海に向き直った。

「もう時がない。覚悟はいいな」

 ほんの少し前と全く同じ状況だった。ただ違うのは、彼女と二人きりの静寂の中ではなくなったこと。そして今度こそ海里の矢は飛んで来ないということだ。

 さっき感じた燃え広がる炎の熱さの感覚を背後に負ったまま、浅海はまたぎゅっと目を瞑る。

 今度はもう何があっても開かない。そう自分に命じたのは正解だったのだろう。おかげで気を失った直後に起きた惨劇を目にすることはなかったのだ。


 逃げ惑う兵達を鎮めようとその渦に飛び込んで行った砲とは別に、風見と海里はいち早く人垣から逃れ出た。二人はそのまま傍らの馬に飛び乗ると、逃げた浅海達を追った。その姿は既に遠くなっていたが、徒歩と馬ではないも同然の差だった。

追い付いた時には、ちょうど星涙が剣を手にしたところで、海里は今度は矢を番える間も惜しんで二人の間に割って入った。

「やめろっ」

 頭に血が上ったまま、馬の駆ける勢いのまま、がむしゃらに突っ込んで行く。この後に起きるであろうことを考える余裕すらなかった。とにかく浅海を救いたい、海里はその一心で武項達の馬に体当たりしたのであった。

 ぶつかり合った二頭は互いに痛みを訴える嘶きを上げ、暴れて砂煙を立てた。その砂塵の間に、巻き添えをくらって弾き飛ばされた浅海の身体が滑り込み、少し離れた砂の中にどさりと倒れ落ちた。海里はすかさず馬を飛び降りると、彼女の傍に駆け寄った。

「浅海っ」

 転がる様にしてその傍らに辿りつくと、海里はがばっと浅海を抱きかかえた。

 息はある。何よりも先にそれを確認してほっと胸を撫で下ろしたが、打ち所が悪かったのか、意識は失っているようだ。顔にかかった砂を軽く払ってやり、蒼白の額にそっと自分のそれを重ねる。

 その間、よろめきながら後退した武項達だったが、体勢を崩したせいで星涙は不覚にも剣を取り落としてしまった。拾う事を諦めた彼女は即座に残る長剣に手を伸ばしたが、それもまた叶わない。先程負傷したその腕をまたもや、今度はいつの間にか追い付いた砲に射られたのである。さすがに二度の怪我は堪えたのか、彼女の顔は苦痛に歪んだ。

「もう逃れられませんよ」

 風見と砲の苦々しい声が混じった。夜目にはわからないが、彼らは憎しみを満面に浮かべて、かつての主を睨みつけていた。

「戦に欠かせないのは、勝機を逸しないこと。そう教えたのは、他ならぬあなたでしょう」

 馬をゆっくりと進めながら、砲は弓を担ぎ直して素早く剣に持ち替えた。武項は負傷した星涙を庇う様に、彼女を自分の身体に引き寄せると、彼らに負けず劣らずの視線を投げ返す。

「お前達、許さんぞ」

「それはこちらの台詞です。御二方の所為で東国がどれ程の打撃を被ったか。よもやわからぬとはおっしゃられますまい」

「自らが手塩にかけた兵を平然と斬り捨てたお気持ちは、如何ほどのものですか」

 二人の心底の言葉だった。だが愛しい星涙を眼前で傷つけられた武項には、その心情など欠片も伝わらない。

「黙れ。このままで済むと思うなよ」

 武項は片手で星涙を抱きながら、彼愛用の太刀を構える。

「それが答えですか」

 そう告げる風見の声は、彼らしくもない湿ったものだった。

 十数年を共に過ごした幼馴染とも言える武項。その彼を支えるべく、兄である造から遣わされ、共に政権を執ってきた幾年もの日々。

 数え切れぬほど多くの苦楽を常にその傍らで歩んできた自分に対して、彼は最後に剣を向けた。それもただ愛する女を護るという下らなすぎる理由のために。

「情けない事この上なし」

 国政を放り出して放蕩に耽った咎人。東国に刃を向けた罪人。

 堕ちる所まで堕ちた彼だが、風見の中での武項はいつまでも強大で尊大な存在だった。だからこそ彼を捕えるために寝食を忘れて策を練り、一大兵団まで率いてこの地まで来たというのに、結果はこの有様。裁きを与える価値すら無い。

「残念です」

 全てを諦めきった風見がそう吐き捨てたのを合図に、砲は武項に向かって斬りかかった。それを予測していた武項は素早く防御に回り、二人の剣は激しい音を立ててせめぎ合う。

 前方の星涙が手綱を取って有利な体勢を取ろうとするが、如何なる名馬と言えども、二人を乗せたままでは動きは鈍る。身軽な砲の馬にくるくると周囲を動き回られ、動揺したのか二人の方の脚は乱れた。

「観念して下さい。もうこれ以上…」

 情けない姿は見たくない。言葉にすらならない砲の激情さえ、武項には伝わらない。

 彼は必死に星涙だけを護っていた。その気持ちは確かに素晴らしい力を発揮し、がんがん打ち付けてくる力に、砲も幾度かは後ろに退がるはめになったが、冷静さを欠いているのも事実だった。武項の振るう剣にはキレがなく、かつての美しい剣線などどこにも見られない。

 このままでは遅かれ早かれ、砲に軍配が上がる。誰しもがそう思う中、先に覚悟を決めたのは星涙だった。

 一対一の戦いに手を挟むのは卑怯とはわかっていたが、この際、関係のないことだ。

 星涙は躊躇うことなく、腰の長剣で砲の剣を弾き飛ばした。武項相手に夢中になっていた砲はひとたまりもなくそれを取り落とし、数歩の退却を余儀なくされた。わずかに生じたその間に、星涙は思い切り馬の腹を蹴り、波間へと駆け抜けた。

 ばしゃばしゃと水音を立てながら沖へ向かった二人は、ひらりと馬から飛び降りると、最後の抱擁を交わした。

 星涙はそのまま武項に口づけすると同時に、彼の腰から抜き取った短剣をその胸に突き立てる。互いに一瞬の微笑を交わした後、彼女は武項の身体から引き抜いたそれで己の胸をも刺した。抱き合いながら崩れ落ちる二人の身体は、まるで吸い込まれる様に紅く染まった波の中に落ちて行った。


 三臣は何も言えず、何も出来なかった。時間的なことだけを言えば、彼らには二人を追い掛けて止めるだけの余裕はあった。だが、まるで金縛りにでもあったように誰も動けなかった。

 月光の白い輝きが、葬送のように波間を漂う二人を照らす。生々しい赤色さえなければ、ただ目を閉じて浮かんでいる様にさえ見えた。引き上げるどころか、近寄ることすら躊躇われる光景だ。

「止めるべきでしたか?」

 砲は殆ど放心状態のまま、傍らの風見に問う。

「また、あの女にしてやられました」

 砲にすれば、部隊を率いてここまで追い詰めたからには、正々堂々とかつての将を討ち取りたかったのだろう。そこまでもうあと一歩の所だったのだ。が、結局は今度もまた星涙によって阻まれてしまった。

「あの戦の時、あの時に何が何でも討ち果たしておけば、こんなことにならなかったろうに」

 砲は悔しそうに歯噛みすると、地団駄を踏んだ。風見はそんな彼を一瞥すると、深い溜息を吐いた。

「どんな形であれ、これで終わりだ。追討は成功した。あとは彼に力を貸した有象無象を捕えるだけだよ」

「明日の処刑は?」

「もちろん、予定通りに」

 そう告げた風見は、浅海を庇ったままでいる海里に視線を向けた。砲もそれに倣うと、ある思いを込めてこう問う。

「あちらはどうなさるのですか?」

 風見はわずかな間、目を閉じて黙りこくっていたが、その後で小さく首を振った。

「あの調子では、海里から取り上げることは無理だろう。好きにさせよう」

 はぁ、と告げた砲だったが、その息には安堵の思いが見て取れる。この上、海里を討てと言われたくはなかったのだろう。

「国の立て直しにはもうしばらくかかる。それまでは、海里を失うわけにはいかないからね」

 その後は斬り捨てる。暗にそう告げていたが、当然砲は気付かなかった。

 彼は曖昧に頷いては見せたものの、心中はかつての主の情けない最期を悔しがっていただけであった。

 本来であれば、立派な墓を築き、子々孫々までその栄誉を語り継がれるはずだった武項。それがこの様である。ゆらゆら漂うその姿には、かつて名君と謳われた面影は一切感じられず、全てを犠牲にすることさえ厭わずに一人の女を愛し抜いて身を滅ぼした、ただの男でしかなかった。

 まだ彼への憧憬が失いきれていない砲には、それがどうしても受け入れられず、同時に嫌悪すべきことだった。これが武項にとっての美しい散り様とはどうしても思えなかったのである。

 歯噛みする砲の隣で、風見はまだ暗い夜空を睨みつけた。その瞳は濡れていた。誰にも気付かれないほどに、うっすらと。

 

 二人とは少し離れた場所で海里もまた、武項と星涙の最期に言葉を失っていた。だが彼らより多少冷静でいられたのは、海里自身が武項の行動に共感するところがあったからだろう。そして、星涙という人間を少しは知っていたからだ。

 女だてらに腕は立ち、賢く、統率者としての器も持ち合わせている彼女の強さの後ろに隠された脆弱さ。武項はそれを支え、共に生きることを選んだのだ。この国に生きる万人の幸せや命よりも、彼にとってはそれが尊いものだったに違いない。誰に受け入れられなくとも、彼にはかけがえのない護るべきものがあったのである。

 運命だの何だのを信じるわけではないが、二人が出会ってしまった以上、こうなることが必然であった様な気がしてしまう。浅海を得た自分が取るべき道が一つであるように。


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