第17話 天境線

 筆を持つ手は震え、記した文字は本来の姿とはかけ離れて崩れている。陣中にあった海里はそれで初めて、自分が緊張していることに気が付いた。

 戦が怖いのか。それともはたまた別の恐怖か。答えは明らかだ。

 海里は軽く舌打ちして、木簡を手元に置いた。が、たまたま不安定な場所だったらしく、それは音もなく地面に落ちた。腕を伸ばせば優に届く距離だが、何故か拾う気は起きなかった。

 晩夏の夜、明るめの月光は鬱蒼とした木立の間を照らしている。東国とは風合いが異なる樹木は、ここが未知の地であることをまざまざと見せつける。

「ご機嫌斜めのようだな」

 ふらりとやって来た砲はそう言うと、水の入った木の器を海里の目の前に差し出した。

「ほら。冷たくて美味いぞ」

 注がれた水に映るのは見慣れぬ表情だった。不安で頼りなさげな自分と目が合って、憎らしさに奥歯を噛みしめる。けれど砲は、その仕草を戦前の緊張と勘違いしたらしかった。

「安心しろ。必ず勝つ」

 躊躇いなどない、自信たっぷりの言葉だ。

「お前は自分が欲しいものを探せばいい。ついでに俺達が暴走しない様に見張っていてくれればな」

 彼は意味有り気にそう続けると、にかっとして海里を見た。

「なぁ海里。お前、本当にここに武項様達がいると思っているか?」

 どういう意味だという視線を向けると、彼は頭を掻いた。

「いや、悪い。忘れてくれ」

「はっきり言ったらどうだ。私が戦を口実に辰国を訪れたかっただけなのではないか、とそう言いたいんだろう」

「あぁ、まぁな。だけどお前はそんなことのためだけに、軍を動かす様な男じゃない。それは俺も風見様も十分承知している。ただ、」

「ただ?」

「浅海に会いたいという気持ちは本物だろう。お前のその地位や名誉と引き換えに犠牲になって、こんな山奥に逃げざるを得なかったのだから」

「犠牲?」

 海里は口調を荒げると、砲を睨み付けた。すると彼はやはり知らないのかと小さく呟く。

「まさか、あの事件…」

 語尾は震えていた。意識はなかったが、おそらく顔色も変ったのだろう。砲の気まずそうな様を見れば、自分に起きた変化も容易にわかる。彼は地面に視線を落としたまま、こう続けた。

「ああ。察しの通り、仕組んだのは武項様だ。お前を確実に浦に引き入れるため、そして玖波を牽制するために我らが図ったことさ。放っていた間者から、お前の策も、それを逆手に取った立飛の策も全て知っていた。だからその時機を狙って、中ノ海里を手中に得る算段を立てたのさ」

 強い吐き気に襲われたのと同時に、頭の中を思い出したくもない記憶が駆け巡る。

 浪海、処刑場、牢獄、そして岩場の川。忌わしい記憶の断片が順々に時を遡って、浅海の最後の笑顔に行き着いた。すぐ目の前に彼女の幻影を見つけた海里は、大声でその名を叫んだ。

「浅海っ」

 だが、ぼんやりとした彼女の体は一瞬にして真っ赤に染まり、そのまま闇に消えて行った。慌てて追いかけようとしたが、身体が動かない。それでも尚進もうとしていると、横からぼかりと殴り付けられて、はっと我に返った。

「落ち着け」

 砲はそう言いながらも、申し訳なさそうに目を伏せた。

「話は最後まで聞け。いいか、浅海との直接の交渉には、風見様ご自身が当たられた。そこで俺達が彼女に命じたのは二つ。お前との別離、そして東国からの追放だ」

 心臓を射ぬかれたような衝撃だった。体中の血が凍るような感覚。熱く燃え上がるのではなく、静かに冷めていくのがわかる。これは怒りなどという単純な感情ではない。

 何も知らなかったのだ。何も知らずに、自分は自らの地位と権力を享受していた。

 自分を捨てた浅海を心の底で憎み、恨んだ。けれど憎まれるべきは自分であり、海里が真に恨まねばならなかったのは自分自身であったのだ。知らずのうちに声が震える。

「どうして、そこまで」

「武項様の理想のためには、何が何でもお前が必要だったからさ。浅海がいれば、お前はあのまま東国から出ていただろう。成功すればお前を得られないし、失敗でしようものなら、投獄されて処刑される。あの時点では、あれが最善策だったのさ」

 悪かったよ。砲はそう言って項垂れた。

 

 海里は時折感じていた違和感の正体に、今やっと気付いた。

 風見が浅海を随分庇ったのは罪悪感のため。そして策のために浅海を犠牲にしたにもかかわらず、己の感情のままに動く武項を風見は軽蔑したのだ。

「すまなかった。本当に悪かった」

 海里に向き直った砲はそう言うと、ぺこりと頭を下げた。殴るなら殴れと言わんばかりの彼を呆然と眺めていると、そのうちに海里にも冷静さが戻って来た。

「もういい。やめろ」

 海里は動こうとしない彼の体を引っ張って、頭を上げさせようとした。けれど、頑固な彼のこと。あくまでも頑なな態度を崩そうとしない。なかなかしつこく抵抗されたので、海里は遠慮なく叩き起こすことにした。

「いいと言っているだろう。それよりもさっさと体を休めたらどうだ。明日は早いぞ」

 それでも尚渋る砲に呆れた海里は、仕方なく彼の部下を呼び、寝場所へ連れて行くように命じた。すると、さすがに引きずられるわけにはいかないと思ったのか、彼はすぐさま体を起こす。

 砲はどうしていいかわからずにいる部下達をさっさと下がらせると、海里に向かってこう約束した。

「明日を楽しみにしていろよ。必ず、勝ってやる」



 敵襲を告げられたのは、明け方までもう少しといった頃だった。嫌な予感に眠れずにいた浅海が、滝壺の端で一人祈りを捧げていた時である。

 まだ眠りこける相手を攻め込むのは、東国軍の常套手段。戦意も整わない相手を、力の限り叩き潰そうとする彼らが、荒ぶる鬼武者と呼ばれる由縁である。

 おそらく、この戦の旗色は相当悪い。占にもそう出ていたし、浅海自身の直感もそう告げていた。

 勝つか、負けるか。生きるか、死ぬか。繁栄か、滅亡か。

 戦の結果はそれらのどちらかに落ち着くしかない。敵と味方に分かれる以上、それはどうしようもないことだ。

 この戦が自分にとって何を意味するのか。頭ではわかっている。

 再会の瞬間に敵同士。不意に涙が零れそうになって、浅海はまだ蒼い天を仰いだ。


「敵方の将はおそらく海里だ。もう一人いるとすれば、砲だろうな」

 武項がそう打ち明けたのは、彼らがこの地を去る直前のことだった。星涙すらも交えず、浅海だけを岩陰に呼び出した彼は、去り際になってようやくその重い口を開いたのである。

「三臣とは風見と砲、それに海里を加えた三人の呼び名だ」

 一番聞きたくなかった名に、浅海は大きく動揺した。けれど武項はこちらの反応を愉しむかのように、にやっと顔を歪めた。

「喜ぶがいい。中ノ海里はそなたの望み通り、東国を手中に入れるほどの権を手に入れたぞ」

 海里が来る。東国の軍勢を率いて、彼がこの国を攻めに来る。その姿が脳裏に鮮明に浮かび、浅海は強い眩暈に襲われて額を押さえた。体はがくがくと震え、気持ちの悪さに、目には涙がじんわりと溢れてきた。

「どうした?」

 からかうような口調でそう問う武項を、浅海は思い切り睨みつけた。

「彼と戦えと、そう仰るのですか。私が何のために佐間を捨てたのか。誰よりもあなた様がよくご存知でしょう」

「お前はこの国の巫女だろう。ならば取るべき行動は一つしかあるまい」

 武項はさらりとそう言った。

 至極真っ当な答えではあるが、それが彼の口から平然と告げられると、嫌悪感が沸々と涌いてくる。

 武項に唆され、浅海は全てを捨てたのだ。何もかも海里を想うがためである。それなのに今、彼は自分と星涙を救うために、浅海と海里が争うことを望んでいる。

「都合が良過ぎるとは思いませんか」

 非難の感情を隠すことなく、浅海は冷たくそう問うた。すると武項はゆっくりと目を閉じ、若干寂しげにこう答えた。

「浅海。もしそなたが我らを浦の軍に差し出すというのであれば、そうするがよい。だが、私は何があっても星涙を守り抜く」

 あの時、武項の星涙への想いは、痛いほどに伝わってきた。

 迷いなど一つもない、愛という名の美しい覚悟。

 それは当人達にとっては命を賭しても惜しくない代物なのだろう。けれど他者からすれば、自分本位で手前勝手なものでしかない。

 夢見心地の気分に酔いしれ、綺麗事を述べるだけの人間を相手にすることほど苛立たしくて不快な事はないのだ。

 

 間違っていたのかもしれない。浅海は今更になって二人をそのまま逃してしまったことを後悔していた。

 彼らを護ろうとしたがために、今多くの命が犠牲になろうとしているのだ。苦々しさが口の中いっぱいに広がって、身体中がぞわりとする。

「巫女?」

 すぐ後ろに控えているユキに心配げに呼び掛けられ、浅海ははっと我に返った。

「あぁ。ごめんなさい。それで戦況は?」

「はい。敵方は麓の集落を攻め落とし、今は中の里に向かっております」

 辛そうに告げる彼女に、また、どっと後悔の念が押し寄せて来た。

 中の里が落ちれば、残るは上の社のみ。神殿を擁するこの地はそう簡単に攻め込まれはしないだろうが、問題はここまで何人の人間が辿りつけるかである。

「戦の指揮は、誰が?」

「先陣を火明が、後を樹様が執られております」

 そう、とだけ告げた浅海は、そのまま滝壺を見つめた。

 この辺りは未だ静かなままだ。戦火も見えなければ戦の怒声も聞こえない。ただ滔々と水が流れ、風が樹木を揺らしている。いつもと何ら変わらない風景は、もうすぐこの平穏さが壊されることを知らないようだ。

「ユキ。私はここを下ります」

 浅海は彼女を振り返ってそう言った。一瞬、わけのわからなそうな表情をした彼女であったが、すぐにこちらの意図に気付いて反対してきた。

「何を仰います。あなた様には、ここで祈りを捧げる役目がございます」

「いいえ。星涙様なら御自分で剣を振るわれたはずよ」

「あの方は軍の将でございました。あなた様は違います」

 ユキは相当慌てた様子でそう食い下がってきた。絶対に行かせないという気持ちが浮き彫りだったが、ここは浅海とて引くわけにはいかない。

「祈ることなら仮宮でも出来る、そうでしょう。ここにいては状況がわからないもの。皆がどうしているかもわからないなんて、そんなの巫女失格よ」

 無意識のうちに気が昂っていて、最後の方はかなり強い口調になってしまった。 ユキの目にも迷いの光がちらちら浮かぶ。止めるべきか、行かせるべきか。必死に思案しているようだった。

「中の里は絶対に落とさせない。どんな手を使ってでもね」

 自分が国を護る。そう決めてからまだ一年も経っていない。負けるわけにはいかなかった。


 かさねの少ない、裾の短い略衣に身を包んだ浅海が現れるなり、里は大騒ぎになった。

 戦下の混乱の中では、もはや儀礼など皆無。人々は寄ってたかって浅海に群がり、口々に突然の戦の理由を尋ねてきた。

「麓はやられました」

「夫がまだ下にいるのです」

「戦はどうなっているのですか?」

 泣き叫ぶようにして浅海の体に縋りつく者もいた。聞こえる声が多すぎて、誰が何を言っているのかは良く解らなかったが、皆それぞれに苦しんでいることだけは確かだ。

 彼らを宥めながらどうにか仮宮に入り込んだ浅海は、息つく間もなく、中にいたフユに戸を開けるように命じた。

「宮の中が、見えるように、全て、開けてちょうだい。」

 ぜいぜいしながらそう言った浅海は、祭壇の前に滑るように座り込むと、既にフユが用意してくれていた薪を火中にくべた。両手を合わせて簡易な祝詞を述べると、種の様に小さかった灯りが、ばちばちと音を立てながら、少しずつ大きさを増していく。

 良かった。目の前の紅い生き物は、珍しく思う様に成長してくれる。十に一つあるかの出来の良さに、浅海は内心でほっとした。

「巫女。樹様が」

 ユキがそう告げるのと、がしゃがしゃという武具の音が聞こえたのはほぼ同時だった。彼は何の許しもなくどかどかと宮に乗り込んで来たかと思うと、聞いたことの無い怒声を放った。

「ここで何をしている。神殿に戻れ」

「祈りの最中です。お控えください」

 ユキは懇願するようにそう言ったが、彼は一切聞く耳をもっていなかった。樹は浅海のすぐ隣まで来ると、荒々しく片膝をついた。

「自分が何処に身を置いているのか知っているのか。敵の手はもうすぐここにまで及ぶのだぞ」

「樹様っ。お止め下さい」

「ユキ、フユ。お前達もお前達だ。何故こんな勝手を許した」

 樹は本気で怒っていた。

 今の彼からは、いつものほんわりとした空気は微塵も感じられない。自らが囚われる羽目になったあの時でさえ見られなかった焦りと恐怖が、彼を別人のように変えていたのだ。

 炎が充分になったことを確認した浅海は中断の意を告げると、ようやく樹に向き直った。彼の白い頬は泥と血糊で汚れていた。

「私は戻らないわよ。ここで戦うの」

「何を馬鹿な事を」樹は苛々しながらそう吐き捨てる。

「お前は巫女だ。もしお前が、浅海がこんな戦場で命を落とすことがあれば、私は」

 彼の震える訴えに、浅海の心はじんわりと熱くなった。本当に戦の似合わない男である。浅海は潤みだした彼の瞳を見つめながら、優しくこう言った。

「私を心配してくれたのね。ありがとう」

「敵はもうそこまで来ている。逃げるなら今しかない」

 彼の声は、本当に切実なものだった。戦況は思う以上に悪いのだろう。浅海はゆっくりと立ち上がると、ユキとフユを交互に見やった。

「お願いがあるの。二人で神殿に火を入れてきてくれない?」

「神殿にですか?」

 フユが驚いたように問う。浅海はこくんと頷き、そして微笑んで見せた。

「ええ。甕に神酒を入れて篝火を全て灯して来て欲しいの。万一に備えて用意は整えておきたいから」

 思ったよりもすらすら言えたことに、内心ほっとした。もし、彼女達が浅海の本当の意図に気付いてしまえば、この策は決して成功しない。

 まさかという顔をしたユキは、困ったように母親を見た。樹もそれに倣う。

「本当に宜しいのですか?」

 フユは二人から注がれる眼差しは一切無視して、ただひたすらに険しい眼差しを浅海に向けて来る。

 未熟な浅海が龍神を呼び起こすことは、下手をすれば死に繋がる。

 荒ぶる神の力を以てして敵を蹴散らすことは巫女自身の命を削り、鎮めに失敗すれば食われるのだ。龍神の現し身であった星涙ならばともかく、浅海ではどう考えても生存の可能性の方が低かった。

「負けるわけにはいかない。そうでしょう」

 目を逸らせば負けだ。駄目押しにそう告げて、凛とした風を演じてみせる。そして彼女達を急き立てるため、わざと後ろを向いた浅海は、押し殺した声でこう告げた。

「早く行ってちょうだい。間に合わなくなる前に」

 意図は偽りだが涙は本物だった。水滴で濡れた瞳には、ぼやけた炎が大きく揺らめいた。

「浅海、お前も」「嫌よ」

 樹の強い命令口調にも最後まで言わせず、浅海は二人を急き立てた。

「ほら、早く。早く行って」

 続く、早く逃げてという本音は口にしない。

 側近だけを助けるなど、巫女としてあるまじき事だ。けれど二人だけは絶対に死なせたくなかった。

 生きて。浅海は心の中でそう大きく叫んだ。

「お前も行け」

 彼女達の無事を必死に祈る浅海の隣で樹はそう声を荒げた。彼は浅海の肩を掴むと、無理矢理外に放り投げようとする。

「やめてちょうだい」

「浅海。解ってくれ」絞り出すようにそう言った樹は、本気で泣いていた。

 頬にこびり付いた血痕が涙で熔かされ、まるで血の涙のように見える。

 大切な人を死なせたくない。その気持ちは痛いほどわかったし、彼がそこまで自分を想ってくれていることは本当に嬉しかった。でも、ここで浅海までもが助かっていいはずはない。

「樹。諦めちゃだめよ。最後まで戦いましょう」

 浅海は彼の両手をそっと包み込むと、そう言ってにっこり微笑んだ。

 結末は見えている。その時既に、敵の魔の手はすぐそばまで迫って来ていたのだ。

 

 荒々しい足音と金属のぶつかり合う不快な音と共に、敵は一気に攻め込んできた。大人の狂った様な叫び声や子供の泣き声、断末魔の悲鳴が響き渡り、仮宮の外はあっという間に地獄絵図にも劣らん光景に変わった。

 こちらの手勢の攻撃などものともせず、東国兵達は鬼神のように襲いかかって来る。彼らはそれぞれの屋形を目指し、通る先を邪魔する者は何であれ切り捨てた。そして目的の場につくなり、すぐさま隊列を整えて一斉に火矢を放つ。それが何度か繰り返されると、中の里は火の海に包まれた。

 小屋の中で震えるように助けを待っていた女子供は、煙に巻かれて飛び出して来た所を次々と捕らえられ、縄をかけられた。

 残るは浅海のいるこの仮宮だけだ。

「放てぇ」

 掛け声に続いて迫って来たのは、雨霰のように降り注ぐ矢の嵐だった。

 ひどくゆっくりとしたその映像を、浅海はまるで他人事のように、ぼけっと眺めていた。樹が飛び掛かってくれなければ、全身に無数の矢を射たれていたことだろう。

「大丈夫か」

 樹にそう問い掛けられて、遅れて恐怖がやってくる。浅海は震えながら彼に抱きついた。

 壁や柱は既に黒煙を上げている。樹は浅海が煙を吸わない様、当て布をしてくれた。

「このままでは蒸し焼きになってしまう」

「でも、出たら捕まるわ」

 どちらにせよ、もう終わりだった。それならば、いっそ。

 

 浅海は樹の腰から抜き取った短剣の切っ先を自らの腕に滑らせた。一筋の赤い線が浮かんだのを確認するなり、浅海は祭壇にある神酒の甕の中に腕を突っ込む。

「馬鹿な。何をする」

「龍神を解放するのよ」

 早口でそう告げるなり、浅海は一番近くで燃えていた火に榊を近付け、それを薪の中に投げ込んだ。すると祭壇の炎はその色味を強めて、より煌々と燃え出した。

 まだ加護は失われていない。今なら間に合う。この身を龍神に捧げさえすれば、辰国は救われるはずである。

「樹。後の鎮めは任せるわね」

「自分を贄にするつもりか。やめろ」

 短剣を取り上げようとする彼の制止をどうにか振り切った浅海は、そのわずかな隙を逃さず、勢いよく剣先を腹に向かって突き立てた。

 だが浅海の意に反して、刃が体を捕えることはなかった。別の強い力で腕が抑え付けられており、切っ先は寸での所で静止していたのである。何事かとそろそろと目を開けてみれば、見たことのない青年が自分の腕をしっかりと掴んでいた。

「一族を見捨てての自害は好ましくないな」

 彼はそう告げると、浅海の手から短剣を払った。あっと思って振り返ってみると、そこにはもう縛り付けられて転がされている樹がいた。

 間に合わなかった。

 悔しさと情けなさでいっぱいだったが、浅海は泣かなかった。きっと相手を睨みつけ、挑むように告げた。

「何故、こんな無益な戦を仕掛けて来たのですか。私達があなた方にしたと言うのです」

「ほう、流石に気丈なもんだ」

 彼は面白がるように浅海を見ると、快活に答えた。

「俺は東国の将、砲だ。見たところかなり若そうだが、お前がこの国の巫女といったところか」

「だとしたら何です」

「ふん。大方、そこの優男と心中でもしようとしたのだろうが、残念だったな」

 そんなんじゃない。思わずそう叫びそうになったが、寸での所で押し留めた。敵にわざわざ一族の秘儀を教えてやる必要はどこにもない。

 浅海が黙っているのをいいことに、砲はどんどん侮蔑の言葉を並べたてた。

「鎧から察するにその男も、それなりの身分の者だろう。それが戦から逃げ出して女と死のうとは、よくまぁ思い付くものだ」

「黙れ」樹の低い声が響く。すると砲は可笑しそうに嘲笑を浮かべた。

「ほう。そのなりで刃向うとは良い度胸だ」

「巫女から手を放せ」

「成程。この国の巫女は男を誑かすのが上手いわけか」

 砲はそう言うと、浅海の顎に手を当ててじっくりと顔を眺めて来た。

「よく見れば、なかなか愛らしいじゃないか。東国へ連れ帰って、妾にでもしてやろうか」

「放して」

 浅海は冷え冷えする声でそう言った。すると途端に砲の顔色が変わる。

「生意気な女だ。あの女によく似ているよ」

 あの女。それはきっと星涙のことだろう。彼らの内に何があったのかは知る由もないが、彼女への憎しみが深そうな事は伝わってきた。

「おい。そこの男は他の奴らとまとめて縛り付けておけ。俺はこいつを預かる」

 砲はすくっと立ち上がると、部下達にそう命じた。彼は慣れた手付きで浅海の両手首を縛ると、力任せにその縄を引っ張った。急に動かされたことで当然体勢は崩れ、前につんのめる。

「痛っ」変な方向に腕をぶつけてしまった。

 浅海を案じた樹は口を開いたが、あさ、まで呼び掛けたところで兵達に蹴られ、後は呻き声に変わった。彼の苦しげな表情に胃が冷たくなる。

「止めて」

 浅海は縛られた両腕をがむしゃらに動かしてそう叫んだ。抵抗をやめた樹に、兵達の攻撃も止んだが、浅海の方は引き摺られるように宮の外に連れ出されてしまった。

 

 着いた先は敵の本陣、長の屋形の前だった。そこだけは火矢を射かけてないようで、他の居のように黒炭には成っていないが、中にいるのは東国の者達ばかりで辰国の者の姿はなかった。

「おい、あいつは?」

 砲は入口の見張りにそう尋ねる。

「はっ。只今、こちらにはおられません。おそらく後陣の方かと」

「呼んで来い」

 偉そうにそう命じた砲は、浅海に構わず、どかりと手摺に腰掛けた。当然縄は引っ張られ、浅海は強か《したたか》に脇腹を柱にぶつけたが、彼は気付いてさえいないようだ。


 海里は捕虜たちが一同に集められた場で、長と思しき男の尋問に取り掛かっていた。

「して、この地に星涙は来たのか」

 これで五度目。だが回答は未だになかった。体中に傷を負った原矢という男は、だんまりを決め込んでいたのである。

 拷問のような真似は好きではないが、いつまでもこうしていても時間の無駄だ。海里は仕方なく、鞭を手にした兵の一人を呼び寄せた。

「いい加減にしないと、一族が傷つくだけだぞ」

 その脅しに原矢はびくりと反応したが、更にきつく唇を噛んだ。

「言うつもりはない、か。やれ」

 海里の命令に、兵は輪の一番端にいた屈強そうな男に鞭を当てた。野獣のような咆哮が辺りに響き、女の啜り泣きがより騒がしくなる。

「言わねば死ぬぞ?」

 淡々と告げる海里の言葉は、本人が思うよりも一層冷たく聞こえたようである。 兵達も顔を強張らせ、鞭を振るう当人も思わずその手を止めた。だが、そんな中で娘が一人、場にそぐわない愉しげな笑い声を立てたのであった。

 彼女は、静かにしろと言って槍を向ける兵を余裕の笑みで見返した。星涙のそれとはまた違うが、群を抜いた相当な美貌である。

「綺麗な仮面ね」

 形の良い桃色の唇から零れる声は、鈴の音によく似ている。

「あなたはそれを付けて、平気で何人もの人間を手にかけてきたのでしょう。」

 真っ直ぐに海里を見つめてそう言った彼女は、薄ら笑いを浮かべた。こんな状況なのに、驚くほどふてぶてしい。単に気が強いのか、それとも恐怖でおかしくなっているのか。他の誰よりも堂々としていられる彼女に、海里は何となく興味を惹かれた。

「縄を解け」

 海里のその命に、二人の兵がすぐに対応する。彼らはぎゅうぎゅうに詰められた集団から彼女を引っ張りだすと、その両脇を固めて海里の前に連れ出した。

「そなた、名は?」

「私は菫。先代の長の一人娘よ」

「菫、黙れ」

 原矢の怒声が響き、そのすぐ後に呻き声が続く。それ以上横槍が入らない事を横目で確認した後で、海里はこう問い掛けた。

「私が仮面を付けていると、何故そう思う」

「あなたは、星涙によく似ているもの。あの、鬼に」

 菫はそう答えると、本当に綺麗に笑った。

 やはりこの女は壊れているのかもしれない。これほどの神経の図太さは、常人には有り得ない。彼女はそんな海里の思いなど、全く気付いていないようで、嬉しそうに続けた。

「あの女はね、仮面を付けていたの、絶対に取れない仮面を」

「何のために?」

「決まっているじゃない。自分が犯した罪から逃げるためよ。巫女を演じてさえいれば、誰も彼女を咎めることは無いもの。何の感情も見せない仮面をつけることで、恐怖から逃げていたのよ。けどね、哀れにもそうしすぎたあの女は、感情というものを本当に忘れてしまったわ。だから誰に対しても、何に対しても、物のようにしか接することが出来ないの。あなたもそうじゃなくて?」

 表面上こそ余裕の表情を崩さなかったものの、海里は心中でかなり焦っていた。

 星涙と自分が似ていることは、自身でもよくわかっている。しかしこんな若い娘に、秘められた内面を言い当てられるとは思いもよらなかった。

 

 天辺に昇った太陽に、雲がかかる。濃い青空にかかる白雲は厚くて、辺り一帯は大きな影に包まれた。その翳りの所為かはわからないが、目の前の菫の表情はまるで小鬼のように見えた。

「随分な言い様だが、そなたには星涙を敬う気持ちはないのか」

「あるわけないじゃない。笑わせないで」菫はけらけらと笑った。

「あの鬼には生きる価値すら無いもの。あなた達はあの禍々しい鬼を捕らえに来てくれたのでしょう。喜んで差し上げるわ」

 彼女の言葉に込められていたのは、何を以てしても癒されることはないであろう深い憎しみだった。いっそのこと自分の手で止めを刺したいと言わんばかりのことを、こんなにも愛らしい表情で平然と言える彼女の方が余程空恐ろしい。

「菫、口を慎め。姉上を、巫女を侮辱するな」

 海里が返す言葉に逡巡していると、今まで黙っていた優男が突如として口を開いた。菫が、きっと彼を睨みつける。

「姉ということは、お前が彼女の弟か?」

 海里はそう問いかけたが、彼はこちらを一瞥しただけで、すぐまた地面に視線を落とした。

 年は自分とそう変わらないだろう。顔形が星涙と似ているとは思えないが、どことなく儚げなその姿が彼女を思い起こさせる。他を圧倒する独特の雰囲気の裏に隠された星涙の脆い一面、それと重なるものが目の前の青年に見えた。

「裏切り者の女に随分と肩入れするものだな。あの女はお前たちを裏切り、自分の罪をお前たちに肩代わりさせてどこかでのうのうと生きているのだぞ。それでも信じるというのか」

「私は血を引く者として、巫女を信じる務めがある」

 海里の射る様な視線を、彼は正面から受け止めた。素直で純真。自分と正反対の心を持っているであろう彼に、嫉妬に近い感情が湧き上がる。

 海里は長い息を吐くと、無理矢理気持ちを落ち着けた。

 何はともあれ、詳しい事情は近しい人間に問うのが一番だ。この男ならば彼女がここへ来たか、何処へ行ったかを知っているだろう。気を取り直して彼への尋問を始めようとした矢先、砲から予定外の招集をかけられたのだった。


 

 浅海は背後に走り寄って来る足音を聞いた。慌てた様なばたばたした足取りは次第に落ち着いたそれに変わり、すぐ後ろに来た時には、まるで躊躇う様に慎重になっていた。

「おお。来たか」

 ひらひらと手を振った砲は、軽やかな口調でそう言った。だが応える声は無い。

 直感だった。振り向いてもいないのに、相手は誰だか解った。浅海の全身は総毛立ち、心臓はこれ以上ないほどにうるさく騒ぎだす。

「戦利品だ」

 砲は何の意味も含まずにそう告げた。だが、相手の予期せぬ反応で自分が地雷を踏んだ事を悟ったようである。嘘だろうと言わんばかりの顔で浅海を見下ろした彼の顔色は、見る見るうちに白くなっていく。

「浅海」

 静かにそう名を呼ばれ、浅海は呼吸する事を忘れた。

 聞き慣れたそれより少し低い声。けれどそれは間違いなく海里のものだった。聞きたくて、聞きたくて仕方なかった彼の声だった。浅海は腕を縛られている事も忘れて、弾かれた様に後ろを向いた。

 

 吐息に混じる、会いたかったという微かな言葉。涙で曇る目に映る、黒一色。頬には鎧の冷たい感触が、首には手の温もりが伝わって来て、浅海はようやく彼に抱きしめられていることがわかった。

「海里」

 たった一言なのに、喉には焼け付くような熱さが走った。

 堰を切ったように止めどなく溢れる涙は、彼の鎧を伝って下に流れる。

 もうぐちゃぐちゃだった。自分の立場も数年前に交わした契約も、何もかもどうでもよかった。

 いつ外されたのかわからないが、両手の縄は解かれていた。浅海は全身を彼に投げ掛け、しがみ付く様に抱きついた。

「海里ぃ」

 海里もそんな浅海の姿に我を忘れそうになっていた。

 何もかもを捨てても手に入れたかった唯一の存在。何にも変えられない大切な宝である。一度は失った彼女を再びこの腕に抱くことは、叶わぬ望みであるはずだった。

 

 二人はそうすることが当然であるかのように顔を寄せ合い、唇を重ねようとした。しかし触れ合う寸前、我に返った二人は同時に体を引き離したのであった。

 海里は一歩だけ後ろへ下がると、凛と姿勢を正した。彼は数秒ほど躊躇った後に、冷え冷えとした声でこう告げた。

「私は、中ノ海里。東国の将だ」

 彼の言葉に、浅海はさぁっと血の気が引いていくのを感じた。

 そう、今は戦の最中。辰国の者達は生き地獄のような苦しみの中にその身を置いているのだ。一時でも全てを忘れて幸せに浸れると思った自分の愚かさに、腹の底がずんと重くなった。

 浅海は唇を強く噛んで、まだ濡れたままの瞳を彼に向けた。

「私は辰国の巫女です。こうして捕られた以上、殺される覚悟もあります。けれどその前に教えて下さい。あなた方は何故この国を襲ったのですか」

 姿勢をぴんと正してそうは言ってみたものの、威厳の欠片もなかった。

 星涙の足元にも及ばない自分の微力さに心底嫌気がさしたが、それでも海里の顔つきはがらりと変わった。

 浅海の知らない、浦での中ノ海里。その厳しい視線にたじろぎそうになったが、強気に彼を見返した。

「何が目的なのですか」

「この国の長という男にも尋ねたが、我々は星涙を追っている。お前は彼女らの行方を知っているか」

「知らない、と。そう言ったら?」

「ならば尋問を続けるまでだ。口の利ける人間がいなくなるまで」

 暗にどころではなく、あからさまに拷問の意を告げられ、浅海は戸惑った。それを見逃すはずもなく、海里は薄笑いを浮かべてみせると、おもむろにこう切り出した。

「星涙が何の咎で追われていると思う?」

「咎?」

 嘲るような言い方に、浅海は思わず声を荒げる。

「そうだ。彼女は浦で大罪を犯し、そして、保身のために武項様を伴って逃亡した」

「大罪って、だって」彼女はそんなこと、何も…。

「何も聞いていない、か。犯した罪のことなど当然明かさないだろうな」

 冷たい表情に嘲笑が加わる。彼が浅海にこんな顔をするなんて初めてだった。全く知らない人間のように思えて、体はひとりでにこわばる。

「知らないなら教えてやる。あの女は武項様の弟を、力様を手にかけた」

 砲は吐き捨てるようにそう言うと、思い出すのもむかむかするとばかりに顔を歪めた。

「それだけじゃない。武項様の正妻であるナミ様も斬って捨てた。武項様を誑かすに止まらず、浦の人間の命を二つも奪ったんだよ」

「嘘よ」浅海は大きく首を振って否定した。

「あの方は、彼女はそんなことしないわ」

 まるで聞き入れようとしない浅海に、砲は小馬鹿にするような顔をしてみせた。

「お前、あんな女をまだ信じているのか。男に惚れて故郷を捨てるようなあの女を?」

「あの方は、御身を犠牲にして我が軍の兵を救ったのです」

「それこそ偽りだ。あの戦に出ていた俺が言うんだから間違いないさ。あいつは、自分の欲望のために、国を捨てたんだよ」

 砲は今度は憐れむようにそう言った。しかし浅海は頭をぶんぶん振って反論する。

「信じません。浦での事だって、あなた達が図って」

「大方、俺達に、三臣に追放されたとでも言っていたんだろう。政を放り投げて、あの女との生活に惚けていたのは自分の方だろうに。挙句、形振り構わず逃げ回るなど、恥でしかないな」

 目の前が真っ暗になる。そしてその黒面には、やたらはっきりと星涙と武項が映った。武項にしなだれかかるようにして抱きつく星涙。その姿は一人の男に甘えるただの女でしかなかった。

「行き先は…本当に知りません。信じてください」

 気付いた時には、浅海は乾いた声でそう告げていた。

 

 多分再会したあの時から、自分でも意識しないままに彼女への疑惑は芽生えていたのだろう。星涙の変わり様を目にする度に、ぴしぴしと刻まれていった胸の奥底の亀裂は、もはや渓谷のように深い溝になっていた。

 彼女を信じたい。護りたい。それらは全て浅海の偽善心でしかなかったのである。

 急な眩暈で危うく倒れそうになった浅海は、寸での所で海里に抱きとめられた。

「大丈夫か」

 目の前には痛ましげな目を向けてくる海里の顔があった。さっきまでの冷徹なそれではない昔のままの彼だ。色んな事に耐えきれなくなった浅海は、そのまま彼に抱きつくと、声を上げて泣き出した。

「しばらく、二人にしてくれないか」

 昔と同じ手つきで浅海の髪を撫でながら、海里は砲にそう告げた。それを受けた彼は、わかったと合図して、周りにいた兵達を引き連れて本陣へと戻って行く。残された浅海達は戦の爪痕が生々しく残るこの場所で、しばらくの間身動ぎもせずに、ただ互いにその身を預けていた。

「浅海…東国へ戻ろう」浅海の嗚咽が治まった頃、海里はそう告げた。

「戻って、今度こそ共に生きよう」

 掛け値なしの本音だった。彼のその想いは体の温かさを通じて、浅海にもひしひしと伝わって来る。

「お前に無理強いをさせた男は、もう浦にいない。誓いも既に無効だ。だから」

「いいえ、戻らないわ」

 海里の言葉が終らぬ内に、浅海はふるふると首を横に振ってそう答えた。

「私はこの国の巫女。国と生き、共に果てると決めたの」 

 正直、迷いはあった。全てを投げ捨てて、彼の手を取るのはそれほど難しい事じゃないだろう。むしろ、心半分はそちらが良いと嬉しい悲鳴をあげている。けれど、今でも自分を信じてくれる人々を裏切り、見捨てることはどうしても出来そうになかった。

 浅海はそこで初めて彼の全身をまじまじと眺めた。上背こそそんなに変ってはいないものの、纏う雰囲気は全く違う。その原因は、彼のその灰色の瞳の色がより濃くなったからだろう。

「辰国の者達は、捕虜として東国へ連れ戻る。全員だ」

「そして主だったものは処刑し、残りは奴とするのでしょう」

 その光景を想像することすら嫌だった。浅海は彼の両腕を掴み、揺さぶった。

「ねぇ、海里。私が犠牲になる。晒し者にでも何にでもなる。それではいけないの?」

「残念だが、私以外の者にとってお前はそれ程価値がない」

「辰国の巫女は一族を統べる役目を担うわ。だからこの戦の責も私にあるの。全ての責を私が負うから、だから皆を」

 解放して。そう続くはずだった言葉は、海里の唇に塞がれて出て来なかった。驚きに目を見開く浅海に、彼は怒りに満ちた眼差しを向けてくる。

「お前は誰にも渡さない」

 怒りと悲しみ、それに嫉妬。荒れ狂う感情が彼を支配していた。注ぐ愛情が深い分、拒絶されれば全てを斬り裂く狂気に変わる。

「お前は何を護ろうとしているのだ?私以外の誰にその情を向ける?」

 海里は叫ぶようにそう言うと、力任せに浅海を抱きしめた。息が苦しくなる位に力を込められて、浅海はふと昔を思い出した。彼はかつて一度だけこんな風にしたことがある。二人で西へ旅立つと決めた、あの時だ。

 

 あれからもう何年経っただろう。共に過ごした時間より離れていた方が長いというのに、二人の想いは何一つ変わってはいなかった。海里も浅海も間違いなく、互いを必要とし、欲していた。

 けれど、それでも変わったものはある。浅海は彼の胸をそっと押し返した。

「あなたにもあるように、私にだって負うべきものがある。そこから逃げるわけにはいかないの」


 先陣を切ったのは砲である。意気揚々と旗を掲げる彼に続き、他の兵達も大勝利への喜びを露わに前進する。だがそんな彼らに無理矢理続かされる辰国の一団は、葬列よりもずっと、暗く湿った恐怖と苦しみに包まれていた。

 各々の手首を麻縄できつく縛られ、住み慣れた大地と引き離される苦しみは、想像に難くない。厳めしく連なる山々には、捕虜達となった彼らの咽び泣きが木霊していた。その音は隊列のすぐ側の渓谷にも悲しく響き渡り、渓流の水音もまた人々の嘆きのように聞こえた。

 捕虜の列に加わることを許されなかった浅海は、海里が行く後尾の軍に混ぜられた。

 鎧兜を身に付け、濃茶の毛の馬に跨った彼の隣をとぼとぼと歩いていく。彼の計らいで体そのものは自由だったが、心は重苦しい鉄の鎖でぐるぐるに締め付けられていた。

 浅はかさ、中途半端な同情心、心根の弱さ。それらによって一国が崩壊しようとしているのだ。

 全てを忘れられたら、無かったことに出来たら、どれほど心は軽くなるだろう。今更後悔したってどうにもならないが、それでも平然としていられる程の器も図太さもない。いっそ気が狂ってしまえるのなら、そうしたかった。

「もうすぐ三谷に入る。そこを抜けて小河に入れば、東国の領分だ」

 無言で地面ばかりを見て歩く浅海に、海里はそう告げた。それを受けて馬上を見上げると、彼の灰色の瞳はぞくりとするほど冷え冷えとした色を帯びていた。怒りなんて単純なものではない。むしろ憎しみに近かった。

 理由なんて考えるまでもない。心の内に在る本音はともかく、結果として浅海は海里を拒絶したのだ。激情家の一面も持つ彼に対してそうすれば、返ってくるのは愛情と真反対の感情になる。当然のことだろう。

「それまでに覚悟を決めておけ」

 そう告げる彼の背景には、日の光を反射させたような明るい青色が広がっていた。赤茶けた大地ばかり見ていた目には眩し過ぎて、浅海は反射的に目を細めた。


「ん?」

 空の異変を感じたのはそれとほぼ同時だった。

 青空は急にその色を濃くすると、あっという間に色そのものを変えた。何の予兆もなくわいて出てきた黒雲が一面を覆い尽くしたのである。天は墨を流したのかのようにどす黒く変色し、辺りは夜中のように真っ暗になった。

「何事だ」

 空を見上げて、海里はそう叫んだ。その直後、爆発のような大きな音が辺りに響き渡り、大粒の雨が降り注いできた。

 耳を劈く様なそれは龍神の嘶き。心の臓に直に伝わる大きな雷鳴に、肌がぴりぴりと痛み出した。

「まさか」浅海は目を疑った。

 黄金色の稲光を纏いながら、漆黒の空で踊り狂っているのは、間違いなく龍神だ。

「誰が解放したの?」浅海は呆けたように天を見つめながら、そう呟いた。

 少なくとも自分でないことは確かだ。だとすれば…。

「やっぱり、裏切られてなんかいなかった」

 浅海は確信をもってその答えに行きついた。彼女が解放したに違いない。自らの国を救うために。

「浅海、こっちだ」

 どこからともなく樹の自分を呼ぶ声が聞こえた。それに応じようと駆け出したのだったが、案の定、すぐさま海里に掴まった。

「捕虜の逃亡を許すわけがないだろう」

「龍神が私達を護るわ。あなた達こそ、逃げた方がいい」

「龍神?そんなもの」「だったら空にいるのは何?」

 浅海は雨音にかき消されないよう、声を張り上げた。

「星涙様はやっぱり星涙様だった。彼女が私達を救うために龍神を解放したのよ。このままじゃあなた達が危ない。早く私達から手を引いて、逃げて」

「ばかな」

 話を信じようとしない海里はイライラした様子でそう怒鳴った。彼の素の感情を受け止めると、この期に及んでまた気持ちが揺らぐ。

 でも、だめだ。彼の胸に飛び込んでしまいたい衝動を抑え込むと、浅海はくるりと背を向けた。

「ごめんなさい」

 そう言い終えたと同時に、樹率いる少数の兵が浅海を取り戻しにやって来た。そこに隠れるようにして、浅海は海里から逃げ出した。


 怯える東国軍を尻目に、辰国の民たちは狂喜乱舞していた。そこへ浅海が姿を現したことで、彼らは一層騒がしくなる。

「巫女、信じておりましたぞ」

「やはり我々をお見捨てではなかったのですね」

 口々にそう言われたが、浅海が何かをしたわけではない。この功績は星涙のものだ。

「星涙様はどこにいるのかしら?」

 浅海がそう尋ねると、樹達は驚いたように目を見張る。

「お前がやったんじゃないのか?」

「私は何も知らない」

 樹の問いにそう答えると、横から愉しそうな笑い声が聞こえた。

「ずいぶんと頼りになる巫女だこと」

 菫は急にしなだれるように寄り掛かってきた。そうして背後から浅海の首に腕を巻きつかせると、耳元にそっとこう囁いたのである。

「教えてあげる。龍神を解放したのは星涙よ」

 吐息のように告げられたその言葉を聞いた瞬間、浅海は唾をのんだ。

「星涙は国に戻ってきていた、そうでしょう。私ね、見たの。あの女が社の封印を解いているところを」

「何言って」

「あの女は、私達に怒りが降りかかるように願をかけたわ。そしてすぐに国を去った。何でだと思う?」

 浅海の動揺を面白がるように、菫はけらけらと笑った。彼女は更にぴたりと体をくっ付け、その唇が浅海の耳に触れる程にまで近付いた。おかげで彼女の声は浅海にしか聞こえない。

「あなたに龍神を滅させるためよ。星涙は身の内に龍神を宿している。その力はそう簡単に消えないわ。星涙が望めば龍神はいつでもその中に帰るけれど、その逆に望まない時でも身に巣食われることもある。それがいい加減嫌になったんでしょうね」

 黒瞳の中に宿った赤い光。恐ろしいまでに研ぎ澄まされたその気迫。右肩にくっきりと浮かぶ龍の痣。確かに星涙は常に龍神と共に在った。

「星涙様がそんなこと、するわけがないじゃない」

 言い返したものの、自分自身でもそう信じることは出来なかった。

「嘘をつくのはやめて。何が本当か、わかっているんでしょう」

 菫はそう言ってくすりと笑うと、浅海の手に自分の手を重ねる。白くてほっそりした指を艶に動かしながら、彼女はこう続けた。

「あなたの力で葬るしかないのよ」

 浅海は天の龍神を見上げた。明らかに荒々しいそれは、とても自分に制しきれるようなものではなさそうだ。


『荒れ狂った龍神は、生けるものを全て滅ぼす』

 不意に脳裏に星涙の声が蘇る。天にいるのは、まさに彼女の言葉通りのそれだった。

 まるで星涙自身が暴れ狂っているかのように見えて、浅海は背がつうっと寒くなるのを感じた。そしてちょうどその時だった。龍神の発する稲光が、辰国の陣営のど真ん中に落ちてきたのである。

「きゃあ」

 皆の悲鳴が入り混じる。浅海はすんでのところで避けたが、運悪く直撃に遭った者も出た。

「大丈夫?」

 彼らを慌てて支えるも、もう虫の息だった。

 自国の護り神に命を取られるなど誰に想像できただろう。浅海はぞっとしながら、自分の考えが誤っていたことに気が付いた。 

 星涙の狙いは国の救援ではない。ならば、東国軍はもとより、辰国の皆もこの近隣の村々も全てが滅ぼされてしまうだろう。

 とにかく鎮めなければ。

 浅海は数歩踏み出すと、龍神の姿がはっきり捉えられる位置に膝をついた。

 両手をしっかりと合わせて、鎮めの詞を述べる。だが、炎も起こせないこの場では無意味でしかなかった。龍神は鎮まる気配などこれっぽっちも見せず、むしろますます激しく暴れまわった。その間にも、陣営の中に何撃も雷をおとしてきた。


『龍神を鎮めることが出来なくなったとき、その時は巫女の手で国を救わねばならない。その目に向かって毒矢を打ち込み、弱らせてから一斉に火矢を放つ。最後に念を込めた剣で巫女自らがその身を切り裂く』

 こんな儀があると知ったのは、つい最近、星涙が辰国に戻ってきてからのことだ。彼女は軽口を叩くようにこの滅の法を告げ、そして去って行った。

 あの時、薄い笑みを浮かべていた星涙の顔がくっきりと脳裏に浮かぶ。

「数多いる歴代の巫女たちも、一人としてこれを行った者はいない。だがお前が必要だと感じたならば、何もためらうことはない」

 突然聞かされたこの話を、その時はうまく理解できなかったが、今になってようやくわかる。星涙が滅の法を教えたのは、全てを見通してのことだったのだ。彼女は浅海を信じていたのではく、利用しただけだった。

「仕方ない」

 あまりにかすかな浅海の呟きは、誰にも届かなかっただろう。

 今さら何を悔いたとしても遅すぎる。どんな事情があるにせよ、この状況は打破するしかないのだ。

 浅海は目を閉じて胸に手を当てた。大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。残された手はもうこれしかない。

「安全な場所に逃げて。早く」

 浅海は近くにいた者達にそう命じた。自分ではない誰かが話しているような錯覚に陥ったが、この声は確実に自分のものだ。

「浅海?」樹が心配そうに顔を覗き込んでくる。その彼に浅海はこう告げた。

「滅するわ」

 

「敵襲だぁ」

 誰のともわからない叫び声が響いたせいで、辺りは更なる混乱に陥った。辰国の民達は怯えて方々に逃げ惑い始めた。火明や他の兵達が落ち着く様に呼びかけるも、誰も聞く耳を持ちやしない。その間にも、天からは無情な雷が降り注いでいた。

 浅海はくらくらしそうになるのを必死に堪えて、地に足を踏ん張った。が、気合を入れなおしてよくよく状況を見てみると、驚くべきことが起こっていた。

「味方?」

「らしいな」

 新たに現れた一団は、東国軍に対して攻撃を始めたのである。そしてあろうことか、こちら側に武器を提供してもくれたのだった。

「辰国か?俺達は武項様の手の者だ。お前達に加勢する」

 頭らしき男はそう言って、火明をはじめとする何名かの兵達に一揃いの武具を与えた。

「敵は東国。力を合わせるぞ」

「ありがたい。よろしく頼む」

 火明はそう言うと、部下を引き連れて勇んで戦渦の中へと進んでいった。樹は心配げな眼差しを浅海に向ける。

「お前はどうする?」

「…星涙様を探してみる」

「なら一緒に」

「ううん、一人で大丈夫。あなたは火明のところへ」

 樹の申し出を跳ね除けるようにそう言うと、浅海はもう一度天を見た。

 もう頭の中はぐちゃぐちゃだ。星涙の意図が全くわからない。ならば、本人に確かめるしか術はないだろう。

「とにかく、出来るだけのことはしてみるわ。あなたも気を付けて」

「わかった。お前もどうか無事で」

 樹はそう告げるなり、浅海を強く抱きしめた。そして何かを吹っ切るようにぱっとその身を離すと、こちらを振り向くことなく駆け出していった。


 

 浅海は手に入れた弓を持って、龍神のすぐそばまで近づいた。

 妙に生臭いのは、雨が降ったせいばかりではないようだ。吸い込んだ湿った空気の中には、血の臭気が混ざっている。人の体温が溶け合った様な生温かな風は、気味が悪いどころか、体中から全ての力を奪っていくようである。

 この辺りに来れば星涙に会えると思ったのだが、見当違いだったようだ。ここには彼女の気配すらない。

 どうするべきだろう。弱り切った浅海は、爪を立てて額に手を当てた。

 信じるか、滅するか。判断しかねているうちに、目の前に稲光が落ちてきた。金色の光は地を這うように足元にまで転がってくる。それを反射的に払おうとしたとき、どこか懐かしいような声が頭の中に響いた。

「天境線を望んではならない」

 はっとして辺りを見回したが、周りには誰もいなかった。ただ激しい雨が打ちつけてくるだけである。そして龍神は先ほどまでと何ら変わることなく、誰彼構わずに稲妻を落としている。

 嘶きのたびに雷が落ち、至る所で火の手が上がっている。もはや、その姿のどこにも『護り神』の面影は見られない。ただただ無慈悲に人間を戒めにかかっている荒ぶる存在でしかなかった。

 浅海はようやく心を決めた。

 

 腕の方はまずます。百発百中とはいかないが、余程距離が離れていなければ、目当てのものを射落とせるだろう。巫女の心得の一つとして強制的に教え込まれたこの武術が、まさかこんな理由のためだとは思いもしなかった。

 毒を塗った矢を弓につがえ、弦を充分に引き絞り、慎重に龍神の目を狙う。一瞬の好機をとらえた浅海は、ぱっと手を放した。

 びゅうっと風を切る音が耳元を通り過ぎ、放たれた矢は真っ直ぐに的目掛けて飛び込んで行く。そして突き刺さる鈍い音が響いた。

「当たった」

 見事に命中した。だがそれを喜ぶことも、驚くこともできなかった。耳を劈くような嘶きが辺りに響き、大地が大きく震えたせいで、尻餅をついてしまったのである。

「もう一発。奇跡でも起こらないと無理かもね」

 浅海は立ち上がりながらそう呟くと、次の矢をつがえた。

 今度は左目だ。けれど龍神が痛みに暴れ狂っているせいで、的がなかなか絞れない。

 浅海は一度大きく深呼吸すると、心を落ち着けて目を細めた。狙うは一点。そこだけを見つめて、全神経をそこに集中させた。

「当たれ」

 その声と共に、矢は再び勢いよく飛び出した。すると、もう一度龍神は大きく嘶き、さっきよりも激しくのた打ち回った。まるで神懸ったかのように、浅海は二発目も無事成功させたのである。

 だが、奇跡はそこで打ち止めだった。

 せめて地に引き摺り下ろさない事には勝負の着き様がないというのに、浅海の武器は手持ちのこの矢だけ。少しでも動きを鈍らせそうと、ありったけの毒矢を放ったが半分以上はかすることもなく地面に落ちていった。

「急がないと」

 焦りは次第に苛立ちに変わり、集中力は砂のようにさらさらと流れていく。頼みの矢も残りわずかになってしまった。

「どうしよう」

 浅海がいよいよ追い詰められたその時だ。一際大きな雷鳴と同時に、赤い稲光が走った。

 何事かと目を凝らすと、龍神の心臓部には深々と矢が刺さっていた。目の前にあった巨体は、まるで芯を失くしたように崩れ、飛沫を立てながら水の中に落ちていく。

 一体、誰が? そう思って振り返った浅海は思わず目を見開いた。

「矢をどれだけ無駄にしたのだ」

 馬上の星涙は嘲るようにそう言った。浅海が固まっていると、彼女はかすかな笑みを浮かべた。

「両目を貫いたまでは良かったのだがな」

「あなた様が龍神を解放したのですか?」

 憤慨した浅海は、つい責め口調になる。

「どうしてこんなこと」

「…滅するため。それだけだ」

 星涙はそう答えると、はらりと舞う黒髪をさっと払う。

「龍神がある限り、私は自由になれない」

「なら、兵を率いてきたのは?国を救うためではなかったのですか?」

 悪びれない様子の彼女に、浅海は低い声でそう問うた。彼女は肩を竦めると、仕方ないとばかりにこう言った。

「それはついでだ。偶然、海里や砲を恨む者達と出会ったから」

「ついでって…国の者達は、あなた様を今でも信じておられるのですよ。あなた様が救いに来てくれたって」

「私が奴らを救う?ばかばかしい。そんなわけがないだろう。それにどうせ東国に行けば、処刑か奴への道しかない。戦で仇相手に散った方が満足いくだろう」

 怒鳴った浅海に、星涙はあっさりとそう答えた。非情過ぎる身勝手な言い分に、ますます怒りが募り出した。

「酷い」

 星涙はその言葉に何も答えず、変わりに冷ややかな視線を浅海に向けた。凍りつくような彼女の目に何度も怯みそうになったが、その度に気をしっかり持ち直した。

 二人はそうして睨み合っていたが、先に視線を外したのは星涙であった。

「今は、あれを滅することのほうが先だ。お前に構っている暇はない」

 彼女はそう言うと馬の向きを変え、龍神が逃げ込んだ川に向かってしまった。浅海はその後を必死に追い縋る。

「待ってください。私も行きます」

 

 浅海を完全に無視しきった星涙は川縁に着くと、おもむろに手にしていた酒を水の中に流し込んだ。誘われるように生臭い臭いが段々と近づいてくる。一段と臭気がきつくなった頃、彼女は自分の腕を剣で裂いた。血が滴り落ちるが、そんなことを気にする様子もない。

 星涙は川に向かって、即座に弓を構えた。浅海もそれに倣う。

「邪魔はするなよ」

 星涙は早口でそう告げると、弓を引き絞った。馬上にある彼女よりずっと低い位置にいる浅海は、狙いを下に定める。

 水飛沫が上がったその瞬間、浅海は星涙に少しばかり遅れて矢を射た。

 狙うは、さっき星涙が射た所のすぐ隣。しかし不運な事に、矢は溢れ出てきた水の中に飲み込まれてしまった。浅海はすかさず二本目を引き絞ったが、龍神は嘶きを上げながら陸に倒れこんできた。星涙が狙った眉間の間には、彼女の矢が見事に刺さっている。

「どけ」

 星涙は馬から飛び降りると、龍神に突進していった。そして剣を振りかぶるなり、力一杯斬りつけた。まさに疾風のごとく。

 浅海は呆然とそれを見ていたが、はっと気がついて彼女に続こうとした。しかし星涙は厳しい口調でそれを制した。

「来るな」

 浅海は思わず動きを止めたが、目の前で起きた光景に再び駆け出した。龍神が手当たり次第に撒き散らした雷鳴が星涙の剣に直撃し、あっという間に砕けたのである。彼女の右腕には、その時に受けた傷が無数についていた。

「星涙様、離れて」

 浅海は星涙の前に立って剣を構えた。得物はさっき近くで拾った、何の力も込められていないただの剣だ。だが、一歩も引く気はしなかった。

 浅海は真っ直ぐに相手の目を見つめ、苦しげにうごめく龍神と正面から対峙する。すると突然、頭の中に声が響いてきた。

「裏切り者」

 直感で龍神の声だと悟った浅海は、ますます気を引き締める。

「散々我の力を利用し、挙句に滅ぼすつもりか」

「…全ては皆を護るためです」

「我なくしての繁栄は有り得ない」

「ならばこれは運命よ」

「娘よ、天境線を越える気か」

 天境線という言葉に、浅海はぴくりと反応した。龍神はその心の動きに気付いたのか、更に畳み掛けた。

「我の命を奪うことは、天に逆らうも同じ。人のお前が踏み入れてはならぬ領域だ。我に贄を差し出せ。さすれば全てを水に流そう」

 再び大きな嘶きが響き、浅海は思わず目を細める。しかし次の瞬間、天がまるで昼間のように明るく光りだしたかと思うと、星涙に向かって稲妻が走った。反射的に星涙を突き飛ばしたまでは良かったのだが、代わりにそれは浅海に襲いかかる。 焼け付くような熱さに包まれ、全身に切り裂かれるような痛みが走る。それでも浅海は歯を食いしばって剣を高々と掲げた。

「絶対負けない」

 無我夢中だった。浅海は異常に重さを増した剣を、龍神に向かって思い切り振り下ろした。

 ぱあっと辺りが明るくなり、光の刃が龍神の体を切り裂いていく。浅海自身もその光に飲み込まれたが、地面に剣を突き刺し、それを力一杯握り締めることで熱さや痛みと必死で戦った。次第に光は薄くなり、やがて消えていく。消え去る間際、龍神は再び語りかけてきた。そしてある映像を浅海の頭に映したのである。

「お前は天境線を越えた。決して許されはしない」

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