第11話 別離と出会い

 火明の読みは当たっており、敵方は村の四方を囲むように陣を取っていた。先陣を切った星涙達が村に入るなり、防ぐ間もなく弓や飛礫が飛び交った。彼らは辰国の軍と充分に距離をとった上で攻撃を仕掛けてきたのだ。何しろ多勢に無勢、兵達のうちには集団で襲われる者もおり、これまでのような楽な戦ではなかった。

 浅海は少し離れた場所から二人の兵に護られながら、初めてのまともな戦を目にしていた。荒々しい怒声や、けたたましい悲鳴。たちまち戦場は砂埃にまみれた。

「臆するな。逃げ隠れしながらの攻撃など何でもないぞ」

 火明の大声が響き、兵達もそれに続くように声を張り上げる。

「敵の姿を見つけるのだ」

「奴らは物陰に潜んでいるぞ」

 兵達は次々に、身を隠しながら弓矢を放つ敵を捕らえては攻撃をしかけた。星涙は後方の援護を火明に任せると一目散に櫓へと向かった。相手方は策のわりに攻撃は雑で、隊列も組まれていなければ、攻めの順もばらばらだ。近くの村の寄せ集めなのか、とても東国軍とは思えない手法である。そのため苦戦は強いられたものの、星涙達が彼らを蹴散らすまでにそれほどの時は要しなかった。

 多少の怪我人は出たが、大きな痛手を被ることなく、砦を落として火をかける。燻されるように敵の大多数は逃亡し、逃げ遅れた幾人かを捕虜とした。

星涙は深追いすることなく、みなに休息を命じた。その間に浅海は薬草を持って怪我人の手当てに走り回った。

「痛いわよね。大丈夫?」

 浅海は初老の兵士の傷口に薬草を塗り込みながら、そう尋ねた。

「何のこれしき。近頃体がなまっていたからな、ちょうどいい薬です」

 男は豪快に笑って見せると、傷口をばしばしと叩く。

「先代の将軍の時なんぞ、生傷が絶えなかったもんです。星涙様が将軍になってからは、ワシらはただの壁ですよ」

「星涙様は、武将としても優れていらっしゃるのね」

「もちろんです。二人の将軍の下で戦にでたワシが言うんだから間違いありませんぞ。あの方は戦術においての優れた知識をお持ちだ。次から次へと奇策を思いついては、ワシらを驚かせてくれます。加えてあの天才的な剣の扱いだ。馬上からのあの剣捌きを出来る者はそうはいません」

 男はまるで自分を自慢するかのように、熱を込めて星涙を褒め称える。

「巫女としても武人としても、右に出る者はおりますまい。あの方がおられる限り、国は安泰です」

 そう言うと彼はまた大きく笑った。浅海も豪快なそれにつられて笑ったが、心中には薄寒い風が一筋通り抜けていた。

 

 誰もが星涙を慕い、畏れ敬っている。彼女は紛れもなく特別な存在だ。後に、浅海がその跡目を継いだとき、皆はここまで慕ってくれるだろうか。

 そもそも余所者である壁ですら、まだ取り除けていないのである。それが解決したとしても、星涙ほどの人物になれる保証などどこにもない。武人としての彼女はともかく、巫女としてもちっとも追いつける気がしない。そんな自分が巫女の娘を名乗るなど、とてつもなくおこがましいように思えた。

 最後の怪我人の手当てにあたりながらも、浅海はその考えに憑りつかれていた。一度思うと、しばらく忘れられないのは悪い癖だ。

「気になりますか?」

 星涙が火明とその直属の部下達と共に軍略を立てているのを、横目でちらちら観察する浅海に、右腕を差し出したままの兵がそう問いかける。小さく頷き返すと、彼は自信たっぷりに告げた。

「ご安心なさい。星涙様が指揮を執られる限り、絶対に勝ちます」

 まただ。青年の眼には、自らの指揮官への厚い信頼がありありと浮かんでいた。 彼は浅海の心配事が今後の行方であると勝手に思い込んで、励ましてくれた。浅海よりはいくつか年上であるが、それでもまだまだ青年だ。自信に満ち溢れた声と強気な態度から察するに、おそらく彼は負け戦というものを知らないのであろう。

「あなたたちのその自信はどこから湧いてくるのかしら。相手は東国なのよ」

 若干嫌味を言ってやりたくて、浅海は多少苦々しくそう言った。過剰な自信に溢れている彼は、聞き捨てならないとばかりに眉根を寄せた。

「巫女の娘の言葉とは思えませんね。我が軍が負けることなどどうして考えられるのですか。たとえどんな相手だろうと龍神と星涙様の前では敵ではありませんよ」

 むっとして言い返してきた彼には、言葉の如く、迷いなど無いのだろう。辰国の者達にとって、絶対無二の神は龍神であり、星涙はその化身だ。彼女が敗れるということは、国の終焉さえも意味している。戦に出る者も残る者も、そんな結末を考えるわけがない。

「はい、出来たわ。動かすなとは言わないけれど、無理はしないでちょうだい」

 余計な雑念を振り払うように浅海は、青年の腕をぺしぺしと叩いた。彼は痛そうな顔をしたものの、それでも傷口が覆われたことで多少安心したようで、嬉しそうに布の巻かれた腕を上下に振ってみせる。

「これでまだまだ戦えますよ」

「良かったわ。さぁ、私はそろそろ星涙様の元に戻ろうかしら」

「あちらは捕虜の尋問でしょう?行かないほうがいいと思いますよ」

 青年は顔をしかめると声を低くした。その態度を怪訝に思って、浅海は首を傾ける。

「どうして?」

「若い娘が見るもんじゃない。やめておきなさい」


 浅海は青年の忠言を聞き入れなかったことを、即座に後悔した。尋問というより、むしろ拷問だ。彼らの悲鳴が聞こえるたびにぎゅっと目を瞑った。

「彼らは奈須軍に雇われただけよ。ただの賊に過ぎないわ、だから」

 敵兵のうちで一番若いと思われる青年が地面に倒れたとき、たまりかねた浅海はついそう口を挟んだ。彼は既に話す気力も失っている。一歩間違えれば命も奪ってしまいそうなほど厳しいそれは、既に戦意を失っている彼らには相当酷なものであろう。

「お前は引っ込んでろ」

 星涙に代わって火明が浅海を怒鳴り飛ばす。あまりにも迫力がある彼の声に、身体がびくっと反応した。

「何度も言わせるな。ここは戦場だ。お前が出る幕じゃない」

 火明にそう畳み掛けられ、浅海はどんどん小さくなっていったが、それでも口は出し続けた。

「けど、彼らは何も知らなかったじゃない。東国に利用されただけよ」

「こいつらは敵の手先だ。そんな奴ら誰が許せるか」

 火明はますます激昂して浅海に詰め寄ってきた。意識しているわけではないのに、じりじり足が後退していくのが自分でもわかる。これからどう反論しようかと考えていると、不意に弱弱しい声が辺りに響いた。

「お前らじゃ、とても東国には勝てねぇな」

 賊の首領らしい男は、そう言って体を震わせた。

「俺らも奴らと戦った、だからよくわかるぜ。奴らは攻撃する隙さえも与えちゃくれなかった。それに相手は奈須と東国の連合だ、兵の数も半端じゃねぇ」

「ふん。お前達が弱いからだろう」

 呆れるようにそう言った火明を男が睨みつける。何もわかってはいない、男の目はそう言っていた。口出しすべきではないことは重々承知していたが、浅海は勇気を出して一歩前に踏み出してみた。膝を折って目線の高さを合わせ、慎重に問いかける。

「軍の、将の名はわかるかしら?」

「あんた、東国を知っているのかい?」

 覗うように浅海の顔を見る男に、首をかすかに縦に振ってみせる。

「浦の大将さ。その側近もいたよ」

 男はその名前を知らなかった。けれど風貌から察するに、おそらく武項という造の弟に当たる男だろう。浅海はちらっと見たことがある程度だったが、その評判は相当なものだった。智や海里でさえ、彼を称する言葉を発していた程である。浅海はすくっと立ち上がると、星涙の目を見つめた。

「この男が言うとおりです。正面から戦えば間違いなく敗れるでしょう」

 浅海がそう告げても星涙は眉一つ動かさなかった。口を開こうともしない彼女に代わって、また火明が怒鳴りつけてくる。

「だから何だ?お前は我らが敗北することしか考えられないのか?」

「私は事実を告げているだけよ」

 きっ、と見返した浅海に、今度は火明の方がいくらかたじろいだ。彼は救援を求めるかのように星涙を見る。すると彼女は数秒の沈黙の後、腰の剣に軽く触れながら静かな声でこう告げた。

「戦の結果は終わるまでわからない」


「無茶よ」

 浅海は一言そう呟いたが、火明は完全に無視である。二人はこれ以上ないほどぴりぴりした状態で馬上にあった。

 結局、星涙は進軍する事はもちろん、次は正面突破を命じたのである。何本かの小川を渡り、二つ三つの林を抜けた先で、辰国軍は戦場として相手が用意した舞台に乗り込むことになった。

 明らかに敵が迎え撃つ中、星涙は剣を片手に突撃を開始した。彼女に続いて先陣の兵達も敵の中に突っ込んでいき、布陣は既にめちゃめちゃである。火明率いる後陣からも我先にと駆け出して行く者が続出したが、彼自身も星涙の護衛に回るため、火矢や飛礫が飛び交う中に飛び込んでいってしまった。

 浅海はというと、戦場が混乱に陥る直前に乱暴に馬から落とされてしまったため、護衛として残された三人の兵と共に木陰へと追い立てられたのであった。

「いいか、決して邪魔になるようなことはするなよ」

 火明はそう捨て台詞を残すと、星涙を追って勢いよく戦場に向かって行ったのである。

 取り残された浅海達は身を潜めながら戦況を覗った。

「大丈夫かしら」

「ご安心を。巫女を信じなさい」

 心配そうな浅海に、皆、全く同じ言葉で自信たっぷりの返事をくれる。

「樹様はここにいると思う?」

「さあ。けれどこれだけの兵がいることを考えれば、可能性は充分ですよ」

 物陰でそんな会話をひそひそと続けていると、一人が低い声を上げた。

「おい、あれを」

 彼が指差した先には、数名の兵に囲われながら移動している樹の姿があった。身体を傾かせながらよろよろと歩く様子に、浅海は胃がぎゅうと締め付けられるのを感じた。彼は遠目からもわかるほどの負傷を負っていたのである。

「助けないと」

 浅海がそう言って不用意に立ち上がろうとするのを、兵たちが押し留める。

「お静かに」「敵に気付かれます」

「離して。樹様がそこにいるのよ」

「巫女の娘を危険に晒すわけにはいきません」

「そんなこと言っている場合じゃないでしょう。彼がすぐそこにいるのよ」

 押し問答に勝ったのは浅海だった。その強硬な態度に彼らもついに観念したのである。

 樹を救う手順を手早く決め、それぞれの持ち場にそっと移動した。浅海も、危険ぎりぎりまで相手方に近寄り、木陰に上手く滑り込んだ。息をじっと潜め、別れた三人の兵から送られる合図に互いに目配せする。

 敵の真横に回る釣り餌の役目を引き受けた兵からの合図を受けて、二人が敵の正面に飛び出した。と同時に、残りの一人も背後から不意打ちをかける。相手は同じく四人、樹を解放できれば人数的にはこちらが有利である。

 三人が敵相手に奮闘している間に浅海はこっそり樹に近づいた。そっと小刀を手渡してやると、彼はこれ以上ないほど目を丸くする。しぃっと指で示して彼に微笑みかけた浅海は、仕事を終えるとまたこそこそと物影に身を潜めた。

 わずかな間制止していた樹もようやく状況を察したらしい。彼は両手を縛り付けている縄を器用に切り裂くと、戦闘に混ざれずにおろおろしている見張り兵を殴り倒し、浅海の腕を引いて森の中へと走り出した。

 遅れてばらばらに追い付いてきた三人とも、それほど時を置かずに合流出来た。追っ手がいなくなったことを確認して、それぞれ切り株やら根に腰を落ち着ける。 浅海はようやくほっと息をついた。

「樹様が御無事で本当に良かったわ」

 笑顔でそう告げる浅海に、樹は何とも言えない表情を見せた。それは怒りと喜びとが入り混じった複雑なもので、発せられた声は更に難解な感情に満ちていた。

「無茶をするな。お前達も何故助けに来た」

 彼にしては信じられないほど厳しい口調でそう言い捨て、兵達をじろりと睨みつける。

「負け戦の将など、助ける価値は無い」

「何をおっしゃるのですか。私達はあなた様を救うために来たのですよ。それなのに、みすみす機を逃せるわけがないでしょう」

 困った様に俯いた兵達に代わって、浅海がそう言い返す。

 彼らは何も悪くない。この作戦を立て、押し切ったのは浅海なのだ。彼らが文句を言われる筋合いはどこにもなかった。

 樹は一瞬泣きそうな顔で浅海を見たが、すぐに目を逸らして押し黙ってしまった。気まずい沈黙が訪れたが、兵の一人がそれを破る。

「あの…中の状況は如何ほどに?」

 樹は不自然なほど浅海に背を向けて、彼の方に向き直った。

「悪いが戦況まではわからない。ただ、姉上の突撃で敵の陣形は崩れたことは確かだ。敵方もまさか正面から切り込んでくるとは思わなかったのだろう」

「何故、樹様は外に?」

「私が捕えられていた櫓が火明達の攻撃で壊れてしまったのだ。それで慌てた敵方に場所を移されるところだった。まぁ続きは皆の前で話そうか。とにかく本隊と合流しよう」

 樹がそう提案すると、兵達は浅海の時とは打って変わって素直に従った。三人と二人に別れ、そろそろと戦場に向かっていたのだが、怒声が交差する付近に近づいたとき、状況は急変した。樹が何の前触れもなく、浅海を突き飛ばしたのである。

「伏せろ」

 恐々と頭を上げると目の前には樹が立ちはだかっており、その向こうには東国の兵がいた。

「絶対に動くな」

 樹は腰から剣を抜き、三人の兵達も敵に向かって構える。しかし次の瞬間、強い衝撃受けたかと思うと浅海はそのまま意識を失ってしまったのであった。


 浅海は、暖かくて柔らかなものに包まれている夢を見た。昔、母に抱かれたときのあの感触によく似ていたが、ふと鼻腔を掠める香りは、母のそれではない。もっと激しくて、脳がくらくらするような香り。大好きなのに近付き難いこれは、星涙の香である。

 浅海は焦点の合わない目をこらしながら目の前の顔を見た。

「星涙様」

 彼女は片手で浅海を支え、もう一方の手には剣を構えていた。その剣の先にいるのは、間違いなく東国の軍である。

「身体を起こし、私の懐から剣を取れ」

 星涙はいつもより数段低い声でそう言った。鼓動の速さから彼女の緊張感が伝わってくる。浅海は素直に頷くと、彼女が肌身離さず身につけている短剣を抜き取った。ずっしりと重いそれは一族の宝の一つである。

「取りました」

 浅海の身体が離れるやいなや、星涙は両手で剣を構えた。そして有無を言わせぬ厳しい口調でこう告げる。

「いいか、この奥に樹がいる。お前は奴を探して合流し、一旦戻れ」

「嫌です。私もここに残ります」

 浅海は首を振ると、星涙の隣で短剣を相手に向けた。しかし星涙は有無を言わせてくれなかった。

「邪魔だ。さっさと行け」

 彼女は今まで以上に厳しい声で怒鳴った。するとそのすぐ後で、浅海に行けと示したのとは別の方向から何人もの男の悲鳴が聞こえてきた。どれも聞き覚えのある声ばかりである。

「助けなければ」

 浅海は無我夢中で叫んだ。そちらに向かって駆け出そうとしたが、星涙がそれを許さない。彼女は剣を再び片手で持ち直すと、浅海の腕をしっかりと捕らえた。

「お前が行っても何の助けにもならない。無駄だ」

「そんなこと言っても、このままじゃ皆が」

「奴らも武人。己は己で護る」

 でも、といいかけた時である。びゅうっという風切音が聞こえたかと思うと、浅海は左腕に熱い痛みを感じた。星涙を攻めあぐねている敵方から矢が放たれたのである。

 初めて味わう痛みに目には涙が浮かんできた。星涙は慌てて浅海を自分の後ろへと追いやると、背に隠すような体勢を取る。そして結界を張るかのように剣を構えなおした。

「ある程度の攻撃であればこれで凌げる。早くこの場を去れ」

「そんなこと出来ません」

「手負いの分際で偉そうな口を叩くな。お前がいれば私の気も反れる、足手まといになりたくなければ行け」

 もはや星涙から冷静さは失われていた。激しい焦りが口調にもよく現われている。

「星涙様を置いていくなんて出来ません」

 泣きながらそう訴える浅海に、星涙はほんの少しだけ表情を緩めた。彼女が初めて浅海に見せた優しさ、そして弱さである。

「いいから行け。樹と共に戻れ」

「でも」「行け」

 その一言で、浅海はようやくその命に従うことを決意した。彼女を残していきたくはなかったが、浅海がいれば星涙を危険に晒すのは必至だ。何の役にも立たない浅海がここに留まるよりは、樹と共に戻って新たな策を講じるべきであろう。

「わかりました。けど約束してください、必ず生きて戻って来て」

 浅海はそう言うと、彼女の首元に目をやった。そこで揺れるのは、この戦闘の前に浅海が託した宝である。手放すことは一生ないと思っていたそれを、浅海は何のためらいもなく彼女に手渡した。

「絶対、絶対に戻って来て下さい」

 再度願いを込めるように、浅海は何度もそう繰り返した。そして何も答えてはくれない星涙に背を向けると、浅海は勢いよく駆け出したのである。

 とめどなく溢れてくる涙を拭うことも忘れ、ただひたすら走った。腕の痛みは感覚が麻痺したか、不思議なほど感じない。星涙が命懸けでつくってくれたこの好機は、絶対に逃すわけにはいかないのである。


 

 生まれてはじめての危機だった。浅海を逃がすことには成功したが、そのため一人が犠牲になり、もはや星涙の元にいる兵は五人に満たない。さらにその中で無傷であるのは自分だけであった。全員に疲労が見られ、敵の攻撃を待つまでもなく体力が尽きてしまうかもしれない。このまま戦ったところで勝機は全く見えそうになかった。

 こんな状況なのに、龍神は現れてはくれない。

「何故だ」

 星涙は、ぎりぎりと奥歯を噛みしめながらそう呟いた。

 浅海には告げなかったが、龍神の声が聞こえなくなったのは、先の戦、奈須との勝ち戦を終えた頃からだ。いくら炎を起こしても、彼は一切、星涙の問いに答えなくなった。

「民の危機だというのに、救いの神が素知らぬふりか」

 その絶対性をまるきり信じていたわけじゃない。だがそれでも怒りと悔しさで、おかしくなりそうだった。いくら占を無視したからといえ、この仕打ちは酷過ぎる。今でなくて、いつ力を貸す時があるというのか。

「随分と、当てにならない神だ」

 星涙はそう吐き捨てると、この瞬間から彼を頼りにするのをきっぱりと止めた。

 少しでも犠牲を減らすべきか。横目で兵達を見た星涙は、そう意を固めた。

「お前達、とりあえずこの場を逃れることを考えろ」

 声を低く抑えてそう告げると、兵達の間には緊張が走った。けれど、彼らは迷いもしないで異を唱える。

「なりません」

「戦場で敵に背を見せるなど、武人としてあるまじき行為です」

「我らが巫女を見捨てることが出来るとお思いか」

 彼らの心意気を讃えてやりたかったが、今はそれどころではない。

「これは命令だ」

 星涙は先程より強く言った。しかし動く者は皆無である。

「このままでは壊滅だ。私もすぐに後を追う」

「でしたら、まずは巫女からお逃げください」

「いくら命令とはいえ、こればかりは従うわけには参りませんな」

「我らは巫女を護ることが役目。どうか最期まで務めさせてください」

 星涙はひどく戸惑った。彼らがここまで自分を慕っているとは、正直思ってもみなかったのである。

 共に戦に出るようになって、もう十年。それなのに星涙が彼らを心から信じたことは、ただの一度もなかった。どこかで一線を置き、火明以外とは戦場以外ではろくに口を利いたこともなかった。

 巫女としての立場を考えれば当然かもしれない。けれど、星涙はわざとそうしてきた。国の人間に心など開きたくはなかったし、何よりも人と関わることが嫌であった。だから巫女という立場に甘んじて、兵達と交流を深めようとしてこなかったのである。

「お前達」

「巫女、俺達は巫女と共に戦えること、それだけで充分幸せなのです」

「そうです。今更いらないなどといわないで下さい」

 兵達は星涙にそう言うと、苦痛を堪えて無理に笑顔を作ってみせる。星涙はそんな彼らを見て、不覚にも涙が溢れそうになった。

 自分が感情を表に出せる唯一の場、それが戦場であることはわかっていた。けれどまさか自分が何かに対して感動するという感情を持っているとは思わなかったのだ。

 星涙は一度目を瞑ると、静かに告げた。

「切り込め。辰国軍の力を見せ付けてやれ」

 星涙は兵達に最後の突撃を命じたのである。数名対数十名、結果など明らかだ。けれど、出来る限りの抵抗をしたかった。無駄でも何でもいい。このまま、じりじりと敗北を喫するのが、一番つまらない終わり方だ。

 星涙は、一斉に襲い掛かってきた兵達を次々に倒して突き進んだ。敵の数は確かに多かったが、その割に前に進むのは難しくない。こうまでなっても、星涙の醸し出す威圧的な気配は陰をひそめておらず、相手の兵達も尻込みしながらの攻撃しか仕掛けてこなかった。剣を振り回しながら、星涙は敵兵の背後、兵達のずっと奥にいる馬上の人物に目を向けた。

「あそこか」

 星涙は敵方の将軍を目指して、更に奥へと踏み込んで行った。無謀だということはわかっている。だが後に引く気はなかった。何人もの兵を相手に、必死に剣を振るう。そうしながら、ちらちら奥の様子を確認していたのであるが、何度目かの時に、そこから将の姿は消えていたのに気付いた。

「いない」

 動揺し、焦って振り返ろうとしたその瞬間、星涙の首筋に冷たい何かが触れた。

「なかなか腕はいいが、この人数を一人で相手にするのは無謀だろう」

 低い声が背後から聞こえ、背を冷たい汗が伝う。

「ここまでだ」

 男がそう告げると敵兵達は一斉に頭を垂れた。そして再び陣形を整えるように、その場を去っていく。

 星涙は幾度も戦場に身を投じてきたし、その中で命の危険を感じたことがないわけではない。しかしこのように身体が冷たくなるほどの恐怖は初めてであった。

「殺せ」星涙はやっとのことで声を絞り出した。

 最期まで武人としてありたいのならば死を願うのが筋だ。しかし星涙の覚悟とは裏腹に、男はそれを鼻で笑い飛ばした。

「潔さは認めてやるが、少々諦めがよすぎるだろう。もう少し抵抗して見せたらどうだ」

「今更何をどうしろと」

 星涙は恐怖を押さえつけて問い返す。すると男は星涙の首から剣を外し、正面へと回り込んできた。

「命を粗末にするものではない」

 男はそう話すとこちらを見つめてきた。星涙も顔を上げて彼を見返す。二人の視線がぶつかったその時、星涙は心がざわつくのを感じた。

 端正な顔立ちには気品が溢れ、長身の体躯からは武人としての強さが伺える。そしてその涼やかな目元にはほんの少し翳りが見えた。がっしりとした身体つきなのにどこか繊細そうな、すらりとした印象を受けるのはそのためだろう。美しい、星涙は正直にそう思った。

「美しい」

 思わずはっとした。思いを声に出してしまったのかと思ったが、どうやらそうではないようだ。その言葉は自分に向けられたものであり、口にしたのは目の前の男であった。

 男は星涙の細い顎に手を当てて、上を向かせる。そして、恐怖に怯える表情をまじまじと見つめた。

「女神といわれても信じるぞ。お前、名は?」

「星涙」彼に魅せられるがまま、つい正直に答えてしまった。

「巫女から手を離せ」

 一人の辰国の兵が怒鳴り声を上げた。彼は押さえつけられているにもかかわらず、力の限り叫んだのである。男はそちらを軽く見たが、すぐに星涙へと視線を戻した。

「巫女?これほど美しい女が巫女とはもったいない」

 武項は星涙を見つめながら、目を細めてそう言った。彼の言葉に星涙の顔は熱くなる。

「しかしなぜ巫女であるそなたが戦場で剣を振るう。祈りを捧げるのが役目のはずだぞ」

 動揺を悟られないよう心を落ち着かせると、星涙はわざと低い声を出した。

「我は巫女であると共にこの軍の将。負け戦は我一人の責、彼らを手にかけるのならばまず我の命を絶つがよい」

 武項は星涙からゆっくり手を離すと、先程下げた剣を振り上げた。星涙の身体に再び緊張が走る。

「そこまで言うのであれば、願いを叶えてやろうか」

 男は冷ややかな目で星涙を見下ろした。

 星涙は恐怖で震えそうになる身体を必死に押さえて男を睨み付けたが、あまりの緊張に息をすることも儘ならない。助かる気はないと思っていても、本能はそれを拒否する。

 到底自分の力では叶わない相手を目の前にして、星涙は自分がいかに驕っていたのかを思い知らされた。浅海に散々警告されていたにもかかわらず己の力量を過信していた。結果がこれだ。

 東の者の手に掛かる最期、まさに占の通りだった。星涙は覚悟を決めるかのように目を閉じた。

「冗談だ。お前を手に掛けるつもりはない」

 男は微笑みながらそう言った。星涙は驚いて目を見開く。

「どういうつもりだ?」

「お前が気に入った。私と共に来い」

 男の突然の申し出に、星涙はもちろんその場にいた全員が度肝を抜かれる。

「お待ちください」

 誰しもが呆然としていた中、敵軍の武将が声をあげる。

「武項様、一体どういうお考えですか」

「この者を連れ帰る。何かいけないか?」

「奴婢、としてでしょうか」

「いいや」訝しむように尋ねる部下に、武項はあっさりと答えた。

「と、言うと?」

「妃とする」

 武項の一言に部下の顔は青ざめた。

「何を馬鹿な。そんなことはなりません」

「何故だ」

「その理由はあなたが一番わかっておられるはずです」

「砲、お前の言わんとすることはわかる。だが、これだけは譲れん」

 武項は面倒そうに答えると星涙の方を向き直った。そして微笑を浮かべながら命じたのである。

「私と来い。さすれば仲間の命を見逃してやってもよい」

 星涙は武項をまっすぐに見た。

 彼の意図などわからない。けれど心の内にその言葉を喜ぶ自分がいることは事実である。

「どうだ?」

 星涙が答えあぐねている間、砲はさらに食い下がろうとした。

「武項様。どうかお考え直しを」

「うるさい。お前の話はもう聞かん」

 武項は、何とか言い包め様とする部下を見もせずに、ばっさりと切り捨てる。彼の交渉の対象は、星涙ただ一人だった。

「部下の命を護るために己を犠牲にするのもまた将のつとめだと思うが」

 彼はそう言って、捕虜となっている兵達の方を見た。星涙もつられてそちらを見やる。

 いつの間に連れてこられたのか火明達も一まとめにされており、そこにいる者は十数名だろうか。いずれも星涙に忠義をつくして最後まで戦い抜いた者達である。彼らの全身にある痛々しい傷の数々は全て星涙を護ろうとしたために付いたもの。そして今は星涙の出方次第で自らの命を投げ打つ覚悟であろう。

 今までの自分であれば、迷わず死を選んだ。それこそ彼らのことなど考える余地もなかったはずだ。しかし今はどうだろう。何故だか彼らを死なせたくはない。そしてそれより何より目の前の男に心を動かされていた。

「約束を違えることはしないか」

 星涙は意を決すと、慎重にそう尋ねた。武項はもちろん、と首を大きく縦に振る。

「ならば、従おう」

 自分の声でないかのような響きに、星涙は思わずたじろいだ。武項はその言葉に満足そうに笑んだが、彼の表情に星涙は身体が熱くなるのを感じた。欲望に身を任せただけかもしれない。けれど星涙は己の思いに抗うことが出来なかった。

 浅ましい欲望を悟られないように星涙は顔を伏せ、武項から視線を逸らした。すると武項はすっと彼女に近づき、軽く抱きしめた。星涙は離れようとしたが、彼の力は思いのほか強くて敵わない。

「巫女」

 背後から火明達の叫び声が聞こえた。

「巫女、我らの命など構うことはありません」

「どうか自分の意志にお従いください」

 悲痛な声をあげる彼らに、星涙はこれが自分の意志であるなどと言えるわけがなかった。彼らを救うことを建前に、胸を高鳴らせる男についていこうとする自分がひどく醜く思える。けれどもはや思いを止めることなど出来なかった。

 星涙は彼らを見ることがないよう、武項の広い胸に顔を隠した。

「連れて行け」

 掠れたように小さな声でそう呟く。武項は彼女を抱く力を少し強めると、そのままの状態で兵に命令を下した。

「その者達をここより離れた場所で解放せよ。手荒に扱ってはならぬ」

すると部下達はざわめき、反対の声が上がる。

「解放すると申されるのですか。そんな馬鹿な」

「捕虜を解放するなど誰が考えても間違っております」

 それらの声に、武項は先程より強く言った。

「命令だ。責任はすべて私が取ろう」

「しかし…」

「よく考えろ。こんな辺鄙な地域だ、捨て置いても何ら問題はなかろう」

 命令だ、と半ばそう怒鳴られて、砲はしぶしぶそばにいた兵達に合図をした。命じられた十数名の兵は、火明達を取り囲みながら森の奥へと去っていく。その間、火明達は必死に抵抗し、薄暗い森にその姿が見えなくなるまで星涙の名を、謝罪の言葉を叫び続けた。体力をほとんど残していない彼らの抵抗は限られたものであったが、その分彼らの叫びは星涙に重い罪悪感を負わせる。こだまする声は怒声に聞こえ、裏切ることを責め立てられているようだ。

 部下を助ける名目で、星涙は自らの望みを叶えた。自由を得たのである。

 立場も果たすべき役目もわかっている。けれど、ただ感情の赴くままに決断を委ねた。

 後悔なんてしない。この代償がどんなものになろうと、きっと耐えられる。星涙はそう自分に言い聞かせた。


 武項は捕虜となった者達が充分に遠く離れたことを確認すると、出立を命じた。

兵達はきっちりと隊列を組み、いつ誰に襲われてもよいように武具を構える。その様子に星涙は改めて自分の驕りを思った。こんな訓練の行き届いた軍相手に勝利できるほどの力を持ってはいない。星涙が軍の様子を見てため息をついていると、武項は明るく言った。

「星涙と言ったな。私は武項、この戦の将だ。それにしても神々しいまでの美しさだな。これも巫女であるゆえか」

 敬われ、崇められる事に慣れていた。けれど、巫女としてではない一人の女としてそう告げられるのは初めてだ。知らずのうちに顔を赤らめた星涙に、武項はそっと微笑みかけた。

「星涙は私の後ろだ」

「お前の馬に?」

 一緒に乗れと言うのか。星涙は怪訝に思って聞き返した。いくら彼が気に入ったからといっても捕虜である自分がそうすることは許されないはずである。思った通り、先程から彼に口煩く文句を言っている兵がすかさず口を挟んだ。

「なりません」

 武項はそれに一々反論するのが面倒になったようで、今回ばかりは有無を言わせなかった。

「お前はさっきから喧し過ぎる。この軍の将は吾だ、余計な口を出すな」

 彼ははっきりとそう言い切ると、再びその部下が口を開く前に星涙を軽々と馬上に乗せた。兵達は何も言わなかったが、ただただ皆目を丸くしている。

「あぁ、それから、砲。お前は先に戻ってくれ」

 何かを思い出したかのように、武項はその男にそう告げた。すると彼はあからさまに不機嫌な声を出してみせる。

「…先程の叱責は一体何なのでしょうか」

「頼む」

「私に小細工をしろと?」

「誰もお前にやれとは言わん。風見に事情を告げてくれ」

「全く困ったお方だ」

「感謝するぞ」

 砲はやれやれとしながらも軽く礼をとると単独で馬を走らせ、どこかへ向かって行ってしまった。それを見た武項は自分も馬に乗り、星涙に何の合図もせずに馬を駆らせた。突然のことに星涙は多少身体をぐらつかせたが、放り出されるようなことはない。

 二人の乗る馬が軍の先頭に踊り出ると、武項は快活な声で告げた。

「出立」

 乗馬も軍の先頭に立つことも手馴れたものであるはずだが、星涙はどうも落ち着かなかった。それは間違いなく、背中にひしひしと感じる武項の体温が慣れないからである。

 どうにも心臓が早鐘を打つのを止めることが出来ない。一方の武項はそんなことは意に介さないようで、ただ黙々と馬を走らせていた。普段口数少ない星涙であったが、どうしたことか彼の声が聞きたくて仕方がなかった。

「これからどこへ?」

 突然口を開いた星涙に、武項は驚いた様子で答えた。

「浦に帰る」

「浦?」「ああ。吾の領地だ」

 軍を率いる彼の姿から、さぞかし名のある武将であろうと勝手に思い込んでいたので、一領主とは少しばかり意外な気がした。

「武将といえばそうだが、出自で言えば吾は東国の造の弟だ。今は兄の命で浦郡を任されている。何かあれば将となって出陣するが、根っからの武人ではない」

 そう語る武項は若々しくて凛々しい一方で、たしかに落ち着いていて余裕があった。それが彼の生まれによるものであることは想像に難くない。

「父が三年前に亡くなってから、兄が国造としての跡を継いだ。吾とは違って、優しい大人しい男だ。ただな、父と同様に兄も必要以上に吾の世話を焼きたがる。互いにもういい年だというのに、こちらはてんで子ども扱いだ」

 はにかみながらそう告げる彼からは、兄への愛情が伝わってきた。両者が成長した今でも、彼らはきっと仲の良いままなのであろう。

 星涙は、もう二度と会う事は無いであろう樹と菫を思って、気が塞ぎ込むのを感じた。たとえ血が繋がっていないとしても、建前上は弟と妹。だが、自分は彼らにこのように語られることは絶対にないと言い切れる。憎み合い、怖れ合う自分達とは根本から違うのだ。星涙がこうして辰国を離れたことを知れば、菫は飛び上がるほど喜ぶに違いない。

 俯いて黙りこくった星涙の態度を心配に思ったのか、武項は優しげな声を出した。

「ところで、星涙。もう一度言っておくが、吾はお前を捕虜にしたわけではない。妃とするために連れ帰るのだ」

「…さっきは大反対にあっていたようだが?」

「ああ、あれか。すまなかったな」

 部下との遣り取りを思い出したのか、気まずそうに口籠った武項は、愛想笑いを星涙に向けた。

「つまらぬことは案ずるな。奴には既にお前を迎え入れる準備を任せてある。さっさと雑務を片づけて、すぐにでも祝言を挙げよう」

 武項の笑顔と明るい声に、星涙は激しく心を揺さぶられた。誰かに対するこんな気持ちは味わったことがない。ましてや自分が祝言などで浮かれ喜ぶとは驚きもいいところだ。これまた初めての体験で自然と頬がぽおっと熱くなったが、それも決して不快ではなかった。


 道中、武項はもっぱら東国についての話をしてくれた。

 どれほど広大で豊かな国であるか、祭りがどんなに盛大か、はるか西の都から結構な優遇を受けているか等々、様々なことを星涙に話して聞かせた。可愛げのある相槌が打てるわけではなかったが、それでも彼は楽しげだった。その中でも、彼が一番力を込めたのは『海』について語った時である。

「東国の海は雄大で果てしなく、偉大な存在だ。その先は西の都よりもずっと遠くの他国にまで続いている。絶え間なく砂浜に波を打ちつけ、水面は常に眩いばかりの光を映し出すのだ」

 あまりの熱っぽさにぽかんとしていると、武項はそっと星涙の髪を撫でた。

「朝焼けの海辺は格別だぞ。いずれ二人だけで訪れよう」

 夕日に翳る武項の姿に、言葉にならない感情が星涙の全身を駆ける。紅く染まった大地が果てなく広がっていて、空の雲も茜色に染まっていた。彼とその背後の何とも言えない美しさに、星涙は息をのんだまま一心に彼を見つめた。

 だが、その綺麗な景色は、どこか物悲しくもあった。落ちていく日には、まるで何かを暗示しているような不吉さも感じられた。


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