第19話 ミャンマー マンダレー



「マンダレーまでは四、五時間てとこですから。まあヤンゴンからここへ来るバスに比べたら楽なものですよ」


バスに乗り込む前の広場でカワセさんはそう言った。


実際、つい先日乗ったバガン行きの深夜バスに比べればエアコンも常識的な温度だったし妙なコメディドラマも垂れ流していないから幾らか快適ではあった。


相変わらず隣との会話が無いという点を除けば、今回のバスは居心地が良い。僕の隣にはまたもや無口なミャンマー人が座っている。英語での挨拶すらない。しかしもっと驚くべきは僕の前の席二人で、カワセさんとマユさん。両方日本人で僕という共通の知り合いがいるにも関わらずさっきから会話が一切ない。


僕とカワセさんとマユさん。僕ら今、バガン発マンダレー行きのバスに乗っている。


バガンでの宴会のあと、寝不足と二日酔いで僕がいつもの朝食を食べに離れに行くと前日と変わらない食欲のカワセさんとぐったりしたナカムラのコンビが既に来ていた。


「おはようございます」


「おはよう」


「おはようございます」


僕らは一通りの挨拶をすませ各自の席に着いた。そこに、昨日結局宴会に参加できなかったマユさんが部屋の中に入ってきた。


「あっ、おはようございます」


「マユさん!おはようございます」


僕が二人にマユさんを紹介して、四人で朝食を囲む事になった。


「そう言えば、準備の方はどうですか?お昼に出発するんですよね?」


「へ?」


マユさんは僕に訊いていたのだが当の僕は昨日の余韻のせいで頭がまわっていない。


「あれれ?お忘れですか?マンダレー行きのバスのチケット、昨日買ってましたよね?」


「あ」


すっかり忘れていた。何しろ僕がミャンマーに滞在できる時間は限られている。タイへ帰るチケットの日にちまであと一週間ほどしかない。ヤンゴン、バガンと来て次の目的地をマンダレーという地に決めていた。それをすっかり忘れていた。


「やばい。飯食ったらすぐ準備しなきゃ」


「一緒のバスですから、焦らなくても大丈夫ですよ」


マユさんは相変わらず優しかった。


「お二人もマンダレーに行くんですか?」


カワセさんが驚いた顔をしていた。


「も?じゃあカワセさんもですか?」


「そうなんです。いやあ嬉しいなあ」


「いいですね!楽しいです」


僕ら三人の盛り上がりに対して、ナカムラさんだけが一人浮かない顔をしていた。


「いいなあ。みんな一緒で。俺はマンダレーからこっちに来たからなあ」


ナカムラさんは完全にいじけていたが僕らとしては苦笑いで返す以外の方法が思いつかなかった。


「マンダレーってどんなところですか?何か見所は?」


カワセさんがすかさずフォローを入れる。流石は年長者である。


「何も。まあ都市ですからね。観光地という感じではないですよ。でも不便ではないですよ。飯屋も色々あるし」


「はあ」


「他に何かないですか?」


「うーん」


ナカムラさんはしばらく考えてから、ポンっと手を打って思い出した。


「日本語学校がありますよ。しかも何軒か」


「学校!?」


そのワードを聞いた瞬間カワセさんの目の色が変わった。


「まあ色々と行ってみたら良いですよ。皆さん楽しんで下さい。俺を抜きでね」


そう言ってナカムラさんがまたいじけ始めたので僕らは早々に朝食に取り掛からねばいけなくなった。


そういうわけで、ナカムラさんひとりを残し僕らはマンダレーに向かった。


マンダレーはヤンゴンに次ぐ大きな都市である。ミャンマーを日本に置き換えるならばヤンゴンが東京でマンダレーは大阪といった具合である。


自分自身が何故マンダレーに向かっているのかは皆目見当がつかなかったがこういう行き当たりばったりも旅の醍醐味だと考えて流れに身を任せていた。


しかしこのバスがまたえらく揺れた。エアコンも社内の雰囲気も調子が良かったが揺れだけは半端じゃなかった。相変わらず前の二人は会話がない。そんな感じだったらどちらかに席を変わって欲しかった。


そうこうしてるうちにマンダレーに到着した。


相変わらずミャンマーに停留所という概念はなく、完全に何処かの空き地で降ろされた。


「どなたか、地図をお持ちですか?」


カワセさんが不安そうに僕らに尋ねた。幸いな事に僕が日本から持参した唯一みんなの役に立つアイテムが地図である。


バガンのスタッフに教えてもらったゲストハウスの住所を地図で確認して、僕らはタクシーに乗り込んだ。


「少し狭いですが、我慢して下さい」


「大丈夫です。トゥクトゥクには慣れてますから」


タクシーと言っても東南アジアでは貧しい場所に行けば行くほど普通の乗用車タクシーではない。トゥクトゥクと呼ばれる後ろに荷台の付いた軽トラの様な車を俗にタクシーと呼んでいる。


「コレに乗るんですか!?荷台に!?」


僕は完全に腰が引けていた。もやしっ子な僕は荷台に乗って移動するのが生まれて初めての経験だった。しかもいきなり異国である。


道の状況はあまり芳しいものではなく、オマケにエアコンなどもあろうはずがない。ドライバーに、とにかく目的地までちゃんと行ってくれとマユさんが伝えると、後は3人で一言も交わさずひたすら陽に照らされながら必死に荷台に捕まっていた。終始手が痺れていたのを覚えている。


そんなこんな、一時間しないくらいで僕らは目的地のゲストハウスに到着した。


バガンのゲストにいた日本語を流暢に操る謎のオッさんから


「マンダレーはピンサルパゲストハウスがイイね!!」


とゴリ押しされたので、あての無い僕らはひとまずそこを目的地にしていたのだ。


「とりあえずここが幾らか聞いてみましょう。体力的にもそろそろ限界ですからね」


「同意見です」


「では、私が聞きましょう」


ということでマユさんが先陣切ってゲストハウスに入って行った。


「たくましく人ですね。本当に素晴らしい女性だ」


カワセさんが関心して呟いた。


「そうなんですよ。僕なんか頼りっぱなしで。本当に情けないです」


「そんな事はありませんよ。あなたも十分勇気のある人だと思いますよ」


「そうでしょうか?」


「そうですとも」


カワセさんは確かに歳上であるのだが、年齢以上に達観した感があり何処か摑みどころのない人だった。


「値段聞いてきました!でも、聞いていた値段より少し高いですね。相場と比べても少し高いかと」


マユさんが浮かない表情で戻って来た。


「うーむ。私はここにしようかと思います。値段は少し高いけど他が安いかは解らないし、今から動き周る気力はありません」


とカワセさん。


「私はもう少し先に行ってみようと思います。まだ陽も高いし、少しでも節約したいので」


とマユさん。


「あなたはどうしますか?」


ここで意見が分かれた。


断わっておくと、この時の雰囲気はいたって平和的でありあくまでそれぞれの意思を尊重した話だった。皆それぞれが自分の道を行く人ばかりの旅である。誰も誰かの行く道を強制したりしない。


選択肢は非常に解りやすい二つ。


可愛いくて英語ペラペラの年下女の子と行くのか。


40後半で髭モジャの自称教師の怪しいオッさんと行くのか。


男性諸君100人に聞けば、みな同じ答えが返ってくるほど明確だ。


僕は悩まず即答した。


「僕もここに泊まります」


「!?」


「!?」


僕は女の子に別れを告げ、オッさんと行く道を選んでいた。二人は驚愕の表情が隠せない様子だった。


「じゃ、じゃあ私は先にチェックインしてます。荷物が多いので」


カワセさんは先にゲストハウスに入って行き、僕とマユさんがその場に残った。


「ここでお別れですね」


「はい。本当に、今までありがとうございました。マユさんのお陰でなんとか生きてここまで来れました」


「大袈裟ですよ。私こそ、凄く楽しいバガンでした」


お礼を言い終わってしまうと、僕らはそれ以上何を言うべきか解らなくなってしまった。少しの間沈黙が続いた。


「そうだ!アドレス帳、持ってますか?無かったらノートでもいいです」


僕は日記をつけているノートを差し出した。


「後ろのページ、使っていいですか?」


「も、もちろん!」


マユさんはサラサラと何かを書き込んでいた。


「はい、ありがとうございます」


そう言って彼女は再びノートを僕に手渡した。


「あの‥」


「メールアドレスと電話番号です。日本に帰ったら連絡下さいね」


「!?」


僕は女の子から連絡先をいただいたのは生まれて初めてだった。今だから正直に言えるが、相当舞い上がったのは言うまでもない。


「もちろん!必ず連絡します!!」


「約束ですよ?」


少し寂しかった雰囲気がようやく和んだ。そして僕らは別れの言葉を口にする。


「それじゃあ、また何処かで」


「またいつか、何処かで」


僕はマユさんの姿が見えなくなるまで見送った。もしかすると、またバガンの時のように一旦は別れた彼女が戻って来てくれるのでは、と期待していたがそれっきり旅先で彼女と会うことは無かった。


もちろん、その後僕は日本に帰りすぐマユさんに連絡をした。そして一度だけ会って食事をしたのだがそれ以来、会っていない。これだけ盛り上げて書いておいて、全く何の発展もない辺りが、僕の根性無したる所以である。


僕がゲストハウスに入ると、受付でカワセさんが待っていてくれた。


「良かったんですか?こちらに残って」


カワセさんが僕に尋ねた。


「良かったんです。彼女は一人でも大丈夫だし、僕は彼女といたら彼女に頼りきってしまうので」


これは本心だった。あのままマユさんに頼って旅をしていたら、人間として何も成長できないと思った。だからあえて、別れを選んだのである。


「そうですか。私なりに気を遣ったつもりでしたが、余計な御世話でしたね。申し訳ない」


「とんでもないです。こちらこそ、申し訳ありません」


僕らは顔を見合わせて笑った。なんともむさ苦しい画の完成である。


「いやあでも正直ホッとしました。一人旅もいい加減飽きてきたところだったんです。このゲストハウスも高いだけあってなかなか良いですよ」


「そうなんですか?」


「そうですよ!今までロクな所が無かったけど。なんと言ってもここは洗濯機が使える!」


「はあ」


僕が首を傾げるとカワセさんは少し恥ずかしそうにこう言った。


「お恥ずかしい話ですが、私はもう一週間もパンツを洗っていないのですよ。ハッハッハッ」


この瞬間、やっぱりマユさんと一緒に行くべきだったと深く後悔した。


ミャンマーで二番目に大きな都市マンダレーに到着し、マユさんとお別れして今度はカワセさんと一緒にいる。僕の旅はなんとかまだ続いていた。


続く

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