第5話 タイ ゲストハウスのカフェ

朝起きるとまたバカでかいファンがブンブンと回っている。また同じ天井だ。


三日目にして早くも引きこもりと化している僕。一体コイツは海外に来てる意味があるのかと思われるけど実際の旅行者なんて概ねふたパターンしかいない。超アクティブか超引きこもり。最初の頃の僕はまさに後者だった。


その日の僕が前日と一体何が違うのかと言えばお腹が痛くて目が覚めたことくらいだった。すぐさま共同のトイレに駆け込む。どうやら派手にお腹を壊している様だ。


幸い熱も無いし何かの病気というより単純に水が変わって身体がまだ馴染めていないのだろうと推測した。念のため日本から持参したワカマツジョウを飲んでおく。


コンビニでゲータレードを買いチャオプラヤ川に散歩に行く。いつもの様にダラけた連中に混じって惚けていようと思ったのである。


しかし予想外に人がおらず気のせいか公園の雰囲気が違う。


当てが外れた僕はすぐに帰ろうとしたのだが、次の瞬間どこからかワラワラと人が集まってきた。しかも全員が、サイケデリックな模様の服を着ている。なんだ?ヤバい集団か?恐る恐る遠目から眺めていると、彼らは突然爆音のテクノポップに合わせてエアロビを始めた。


文章にするのが容易でないくらいシュールな絵面で、僕はひたすらに笑い転げていた気がする。大の大人であるタイ人が二十人くらいでサイケデリックな服を着てテクノポップに合わせてダンスしている。これを笑わない奴がいたらどうかしてる。


後でゲストハウスに帰ってカレンダーを見たらその日は日曜日だった。きっと、中国でいうところの太極拳をやっているノリでテクノポップなのだろうと、一人合点をいかしていた。


ゲストハウスに帰った僕は本を読んで少し眠りについた。とにかくのんびりしていた。


僕は徐々に


「まあ旅の目的も特にないわけだし、日がな一日昼寝してる日がたまにあってもいいだろう」


という考えになり始めていた。


これがたまにではなく結構頻繁になり始める。

それからの僕は昼寝と散歩と食事を繰り返すだけの全く非生産的な男になっていった。朝起きて受け付けの少女に連泊の旨を伝え散歩に行き、川を眺めてタバコを吸う。帰りにヌードル屋に行って飯を食い、ゲストハウスで本を読んで昼寝。起きて散歩。夕方飯を食う。そんな生活をかれこれ三日間も繰り返していた。流石に飽きていたのだろう、当時の日記にも


『洗濯の手洗いばかりが上達する毎日』


と書いている。


七月。季節はちょうど雨季。地面を揺さぶる程の途轍もないスコールが昼から夕方までずっと降り続いているそんな日だった。僕はすっかり常連になってしまったゲストハウスにあるカフェでチキンソテーとタイ米のセットを口に運びながら、いつ止むとも知れない雨をひたすらに眺めていた。


タイに来て六日目。僕は一体何をしているんだろう。少なくとも散歩したり読書をする為だけでない事は確かだった。それにこの六日間、僕が会話した相手はゲストハウスの受け付けの少女、コンビニの店員、そしてヌードル屋のオバハンだけだった。それまでのスタンスは「焦らなくても人や出来事なんかは待ってれば向こうから来るだろう」という物だった。しかし六日も何も起きなければ、日本人に会う事もなかった。とにかく孤独だった。


僕の泊まっていたゲストハウスが最初の予想とは大きく外れ、日本人宿泊客がまったくおらず欧米人ばかりだった事で英語の喋れない僕の孤独さは加速していった。


もしかすると、僕の旅は間違った方向に進んでいるのかもしれない。そう思い始めた矢先の出来事だった。


ふと、カフェの中で僕に注がれる視線を感じた。視線の先を探すと僕が雨を眺めていたのとは反対の方向に女の子が一人、同じ様にテーブルに座って佇んでいた。


彼女は黒髪のロングヘアーで色がとても白かった。痩身の美人で歳の頃は恐らく22、3と見受けられる。


僕は心臓の鼓動が早くなるのを感じた。久しぶりに見る、タイ人以外のアジア人。しかも彼女も独りぼっちの様で、さっきからしきりにこちらの様子を伺っている。もしかして彼女、日本人じゃないのか?


どうやって話しかけ様か悩んでいた時、僕が飲み終わったコーラを受け付けの少女が片付けに来た。彼女の目は「もう頼まないんだったら席を離れろ」と言わんばかりに冷たい。仕方ないのでコーラをもう一杯注文した。


再び黒髪の女の子に目を向けると、今度は確実に目が合ったのが解った。間違いない。彼女も僕と話したがっている。


僕は、はやる心を抑えながら最初の言葉を考えた。


「ども、お一人ですか?」とか「こんちわ。一人旅ですか?」もしくは「すごい雨ですね」みたいな。ダメだ!パッとしない。勇気が出ない。なにせ日本にいたって見知らぬ女性に声をかけるなんてした事がないのに。


五分くらい、物凄い葛藤があった後に僕はついに彼女へ向き直り話しかけようとした。半分くらいあったコーラを飲み干して立ち上がろうとした正にその時だった。


「アニョハセヨーー!」


外からかなりの勢いで若いカップルが彼女に突っ込んできた。それまで何処か寂しげな表情をしていた彼女は途端に破顔して、三人でワイワイと盛り上がり出した。


そうか、彼女は韓国人だったのか。良かった。日本語で話しかけなくて。あと少し早いタイミングで話しかけてたら悲しい事になっていた。


『本当に良かった。少なくとも、彼女はこれで独りぼっちじゃなくなったんだ。いや本当良かったマジで。強がりとかじゃなくて本当マジで————当時の日記より引用』


浮かれる韓国人三人を眺めながら死んだ魚の様になっている僕に受け付けの少女が一言


「まだコーラ注文する?」


「いや、もう結構」


僕はその夜、次の目的地ミャンマーに行く決意をした。


雨は結局、明け方まで降り続いた。


続く

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