9 ピーク

   ◆◆◆


 二十時三十分。

 “ワタシ”は竹ノ内のオフィスを出た。


 生暖かいビル風が夜空に向かって拭き抜ける。

 スカートがふわりとした。

 ようやく解放されたのだ、と“ワタシ”の気持ちも軽くなる。


 軽快けいかいなステップを踏むように、コツコツとヒールを響かせ、“ワタシ”は表通りを歩いた。

 オフィス街とはいえ、この時間ならまだまだ人通りは多い。

 雑踏を行き交う人々特有の、何処か遠くを眺める目線の幾つかが、“ワタシ”の顔を一度行き過ぎたかと思うと、また舞い戻ってくる。

 驚きと興味に、あるいは称賛によってピントが引き絞られた眼。

 それらの視線は見るともなく見ていても、海底で銀色にひるがえる魚の腹のように目についた。


 “ワタシ”は軽く顎を反らして、素知らぬ顔で歩く。

 いちいち気には留めない。

 自分の容姿に関して、それなりの自負もあった。

 惜しむらくは今日はネイルが欠けてしまっていることだろうか。

 コピー機のカートリッジを開こうとした拍子に、うっかり引っかけて右手中指の爪を割ってしまったのだ。

 マリンカラーをワンポイントストーンでまとめた、控え目な長さの涼しげなネイル。

 透明感があって気に入っていたのに。

 ネイルサロンで欠けたエッジを修復してもらいたかったけれど、あいにく今日は先約があって、サロンへ行く時間はない。

 せめて欠けた部分を目立たなくさせたくて、ネイル用のペーパーやすりを求めてコンビニへ立ち寄った。


 出入口で男性客と入れ違いになる。

 男はそっとガラスドアをおさえ、“ワタシ”が通るのを待った。

 全く面識のない男だ。

 軽く会釈してドアを抜けると、男はヘラヘラと会釈を返した。

 目当てのペーパーやすりを見つけてレジに向かう。

 店員は見覚えのある中年の小男。

 たいして常連でもないコンビニだけれど、店員に覚えがあるのは彼の目がいつも“ワタシ”の胸元ばかり見ているからだ。

 額が後退しつつある友人男性が、「みんなの視線が顔のやや上にばかりいくのは俺だって気づいているさ」と切なく話していたのを思い出す。

  “ワタシ”だって視線がやや下にずれているのは気づいている。

 胸元に吸い寄せられる彼らの顔は、きまってフレーメン反応のようにぐにゃりと間延びしていた。

 本当に鼻の下ってのびるんだな、と感心してしまう。


 「袋はいりません。レシートも」


 “ワタシ”は商品だけを持って踵を返す。

 ドアのところでまた別の男性客とすれ違う。

 男はガラスドアを後ろ手に持って、“ワタシ”が行き過ぎるのを待った。

 やはり面識のない男。

 今度は会釈しなかった。

 わざわざ振り返るのが億劫だったのだ。

 “ワタシ”は額にかかった髪をかきあげフンと鼻で笑った。


 「ホント男ってバカ」




 約束のバーに彼の姿はなかった。

 ここのところ進行中のプロジェクトが立て込んでいるらしい。

 何かと多忙な彼は「忙しい」と言っては大幅に遅刻した。

 すっぽかされたことさえある。

 あの時は本気で別れようかと思った。

 遅刻。

 すっぽかし。

 電話もメールもない。

 “ワタシ”はこれまでの恋愛で、こんな雑な扱いを受けたことがない。

 恋人はもちろん、数多くいる異性の友人たちでさえ、優先順位の最前列に“ワタシ”を置くのが当然だった。

 呼びだせば何を差し置いてもさんずる勢いだ。

 その“ワタシ”が、カウンターで一人、待たされている。


 また遅刻だ。


 もう慣れた。


 この雑な扱いに。


 この低い優先順位に。


 この──屈辱に。


 それでも彼との関係が続いているのは、これが『ごっこ』だからだろう。

 屈辱を感じるたびに、「所詮しょせん、遊びなのだから」と“ワタシ”は鼻で笑って自分に言い聞かせた。

 彼の前でもその姿勢は変わらない。

 “ワタシ”の冷めた態度に彼は寂しそうに笑う。

 そして黙る。

 言い訳は一切しない。

 ただ迷子の仔犬のように寂しげな眼を“ワタシ”に向ける。

 それを見れば全ての屈辱ヘの帳尻ちょうじりが合った。

 結局、“ワタシ”は彼を許してしまうのだ。


 “ワタシ”はカクテルグラスを傾ける。

 ルビーのように目に鮮やかないカンパリ・シェカラートが喉に流れ込んだ。

 キリっと冷えたカンパリのほろ苦さがたまらない。

 今日のように暑い日は涼をとるのに最適なカクテルだった。


 ──また来てる。


 グラスを傾けながら“ワタシ”はカウンターの端を見やる。

 カウンターの向こう端に女がいた。

 よく見かける顔だ。

 年の頃は三十代半ばか。

 美人と言えなくもない。

 バーテンたちとも親しげで、常連なのがよく分かる。

 最初は“ワタシ”と同じ待ち合わせなのかと思っていたけど、彼女に決まった連れ合いが現れることはついぞなかった。

 バーで一人呑みらしい。

 別段、珍しくはない。

 それでも、つい目の端で追ってしまうのは、彼女が発散するソワソワとした気配のせいだろう。

 もちろん、彼女はキョロキョロソワソワなどしていない。

 一見しっとりと落ちついた様子でカクテルを嗜んでいる。

 それでいて全身から伝わる微かな緊張感。

 カラン、とドアが開くたび、誰かが通り過ぎるたび、チラリと滑る観察の視線と、自分も観られているのだという自意識がにじみ出た仕草のひとつひとつから、彼女の目的がお酒だけではないらしいことがうかがえた。


 ──ナンパ待ち。


 それに準ずる出会いへの淡い期待。

 バーでも、クラブでも、この手の女はよく見かける。

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