第一章 ファーストインパクト

Episode 01 はじまり

『本日の昼過ぎ、渋谷の街に大量のサカナの死骸が散乱しているという通報を受け消防が駆けつけたところ、スクランブル交差点一帯に衣服と死骸が散乱していたとの情報が入っています。また、防犯カメラの映像によると、現場にいた人がサカナの姿に変えている映像が残っていると情報が入っています。警察によると、渋谷に向かったと思われるたくさんの人が行方不明になっているという情報も――』



 帰ってきてからずっとこのニュースばかりだ。

 リビングのソファーに体操座り永遠と同じニュースの流れ続けるテレビをじっと眺めていた。

 外はもう夕日が沈んで暗くなっている。部屋の中だって、テレビの光がなければ真っ暗だろう。

 制服のまま何時間経過してしまったのだろうかそれすらも記憶に無い。

 制服はキャメル色のブレザーに赤色のリボン。スカートは赤をベースにした明るいチェック柄だ。

 テレビで流れている映像は渋谷のスクランブル交差点で、人で賑わっていたはずのそこにはたくさんの救急車やパトカーがランプを光らせている。空から撮影しているであろう、人が小さく見える。

 そして、地面には様々な色が見える。目を凝らすとそれは洋服であることがわかる。

 映像の空は青色で、地面がところどころ光っている部分がある。

 数時間前の映像だろう。今はどうなっているかはわからない。

 緊急車両から降りてきた人はそれぞれ衣服を抱きかかえるように回収している。

 何かフィクションのドラマを見ているかのような非現実感がそこにあった。

 もう、アナウンサーが何を言っているかなんて耳に入ってこない。というより、同じことしか言っていないので、もう耳に入れる必要もなくなっている。

 どうしてこんなにもずっとテレビを凝視し続けているかというと、


「風香(ふうか)……って、わ、暗ッ!? 電気くらい付けろよ」


 背後から声が聞こえて、部屋が急に明るくなる。

 目が慣れていないため、一瞬だけ目の前が眩しくなる。


「あ、お兄ちゃん。勉強は?」

「ずっと勉強してるのも疲れるだろ……それに、腹減ったよ。今何時だと思ってるんだ?」


 座ったまま顔を向けると、お兄ちゃんがそこにいた。名前は日向春斗(ひむかいはると)だ。

 髪は短く整えられていて、顔はこれといった特徴はない。可もなく不可もない。体型もソレだ。

 すなわちわたしも可もなく不可もないということだ。

 服装は灰色のだらしないティーシャツとグレーのジャージのズボンだ。灰色とグレーの差は特にない。

 そして、時計を見るとすでに二十時を回ろうとしていた。


「あ、もうそんな時間なんだ……」

「そんな時間なんだじゃないよ。父さん母さんが心配なのはわかるけど、それじゃ風香が倒れるぞ……それと、窓ガラスにパンツが見えてる」

「わ……」


 部屋が明るくなったせいか、窓ガラスにスカートと太ももと白いパンツが見えていた。


「まあ、家だから良いけどさ、外では気をつけろよ?」

「それくらいわかってるよ!」


 わたしは顔が火照るのを感じながら舌をベッと出す。


「で、父さんと母さんから連絡は?」

「ううん、まだ」

「そっか、心配だな……今日に限って渋谷にでかけてるんだもんな」

「うん」


 そう言いつつも、お兄ちゃんは台所から菓子パンの袋を取り出している。


「あれ、夕飯は?」

「俺はこれでいいや。勉強しながらラジオ聞いてたんだけどさ、面白くなってきちゃってさ」

「ふうん……って、勉強はちゃんとやってるの?」

「やってるさ。それに大学受験までどれだけ時間があると思ってるんだ?」

「まあ、そうだけどさ。わかった、頑張ってね」

「ああ……なんか、ラジオ局がジャックされてるみたいで、いいところなんだ」

「それって大変じゃん!」

「ただ、渋谷のことに関係がありそうでさ……どうせ、俺にはラジオ局は救えない」

「……」


 そう言って、お兄ちゃんは部屋に戻っていった。

 さて、様々なところでいろんなことが起きているみたいだ。

 そんな中、わたしにできることはお母さんやお父さんを待つことしかできない。

 今日は渋谷で従姉妹の結婚式が行われるということで両親は出かけていった。

 わたしとお兄ちゃんは学校があるということで諦めたのだ。

 それで学校にいる時、昼間に渋谷のニュースを聞いてその時からわたしは胸のざわめきが止まらなかった。そして、帰ってきてニュースを見たらこの有様で、今の今まで二人からの連絡は来ない。



 ――人間がサカナになった。



 一言でまとめると、こんなことが起きたらしい。

 渋谷のスクランブル交差点周辺。

 電車も車も一部盛大に事故を起こして交通網は麻痺、そして人がいなくなる現象が少しずつ広がっているらしい。

 現在テレビを見て、友人からのメールを見る限りはこんなことが起きているらしい。

 両親が一日くらい帰ってこなくも寂しい歳ではないが、こんなニュースを知ってしまったら落ち着いてもいられなかった。

 ソファーから降ろしていた足を再び抱えようとした時、


「あ、お腹すいた」


 お腹が鳴って、私も空腹であったことに気がつく。

 とりあえず、簡単なものを作って食べてしまおう。

 それと、多めに作ってお兄ちゃんにも食べさせてあげよう。菓子パンだけじゃ足りないはずだ。



「ごちそうさまでした」


 キッチンで立ったまま手を合わせる。

 制服から着替えてエプロンを付けて、調理をした。

 完成した料理をリビングのテーブルに持っていくことなく、その場で食してしまった。

 お兄ちゃんがまた部屋から出てきたら小言を言われていたに違いない。

 ちなみに作った夕飯はカツカレーうどんだ。

 茹でたうどんにレトルトカレーをかけて、切ったカツを乗っける。カツはちょうどいいものがなかったので、駄菓子のカツを乗っけてしまった。

 お兄ちゃん用のはただのカレーうどんだ。これいっそご飯にかけた方が良かった気がする。

 持って行く前にお兄ちゃんの様子でも見に行こうかな。

 勉強中、部屋にこもっている時も静かだけど、なんだかやけに静かなような気がしたのだ。

 どこか嫌な予感すらするのだ。


「……」


 キッチンからお兄ちゃんの部屋まで数歩もかからない。

 一歩一歩、ゆっくりとドアまで近づいて行く。

 お兄ちゃんの部屋の前の茶色いドア。ノックしようと拳を握る。その時だ、



 ――ガタタン。



 中から何か重いものが床に落ちる音がした。


「――ッ!? お兄ちゃん!」


 ノックすることも忘れて、反射的にドアを開ける。

 部屋は机と本棚とベッドだけというあまり広くない部屋だ。

 正面に机があって、右手にベッドだ。そして、その机の目の前にある椅子には誰も座っておらず、床にお兄ちゃんが倒れていた。膝を丸めたうつ伏せで、どんな表情をしているのかはわからない。

 机の上には参考書とノートがちゃんと広がっている。床には古い型のラジカセが大破しており、壁に凹みがあった。お兄ちゃんが大切にしていたラジカセを投げたのだろうか。

 そんな状況で、ラジカセからスッポ抜いたであろうイヤホンをしたままのお兄ちゃんが身体を上下させて息を荒げてだらしなく倒れているのだ。

 時折、うめき声のような唸るような声を発しているようで「うぅ……」やら「あぁ……」と言った声が耳に入る。


「ねえ、お兄ちゃん? どうしたの!?」


 わたしは床に座って、お兄ちゃんの身体を回転させる。そして、現れた顔を見て、わたしは驚愕を隠せなかった。


「お、にい……ちゃん?」


 額に汗を浮かべて、荒く熱い呼吸を感じる。

 お兄ちゃんに起きている異変はそれだけではなかった。

 鼻のてっぺんが黒ずんでいて水分で光っている。さらに口は腫れているという表現では表せないほどに盛り上がっている。

 よくよく見れば、顔全体が産毛で覆われ始めているようだ。

 身体を抱きかかえて膝の上に乗せてあげる。その身体も少しずつ軽くなっているような感覚がある。


「お兄ちゃん! しっかりして、ねえ、お兄ちゃん!」


 ゆさゆさと身体を揺すると、きつく閉じていた目がゆっくり弱々しく開かれる。


「ふう……か……」


 喉のほうから濁るような、絞りだすような――まるで風邪を悪化させたかのような声だった。

 お兄ちゃんの伸ばす手が、指が短くなっている。身体のいたるところで、パキパキ、メキメキと立ててはいけない音を発している。


「音だ……。音を聞いてはいけない」

「え、音……?」


 ラジオで何を聞いたんだろう。ラジオを壊してしまうほどのその音とは……。

 お兄ちゃんの耳が変形と移動を始めている。丸っこい耳から、やや三角形に変わり始めている。

 伸びていた口は、鼻を頂点にして尖っている。口は裂けていて、何でも丸呑みにできちゃうんじゃないだろうか。

 そう、お兄ちゃんは別の生き物になろうとしているのは明らかだ。

 渋谷で起きた現象っていのはきっとコレだ。

 お兄ちゃんの来ていた服がぶかぶかになり、脚に至っては長ズボンの中に飲まれている。顔はもう完全に『イヌ』そのもので、顔も身体も薄茶色の毛で覆われていた。

 こんなにも可愛らしい姿になってしまったのだ。ただ、救いはサカナのように環境によって生死に関わる生物に変わらなかったことか。


「……」


 ハァハァと息をしているお兄ちゃんに、わたしはどう声をかければ良いのかわからない。

 わからないんだけど、それよりも嫌な予感がするのだ。

 お兄ちゃんが聞いていたラジオはかなり有名な番組だったはずだ。

 他にも聞いていた人がいるとすれば、こうして姿を変える人がたくさん出てもおかしくないのだ。

 ほら、聞こえてきた。マンションのこの部屋の外からたくさんの悲鳴が。


「お兄ちゃん、ちょっと待っててね」


 お兄ちゃんをゆっくり床におろしてから、走ってリビングに向かい窓を開ける。ベランダに出る。

 やっぱり悲鳴が聞こえる!

 名前が、何の姿になって、そして人間のうめき声。マンションが揺れている。

 動物はどれだけの種類がいる。この現象は人間をサカナに変えるだけじゃないとしたら、様々な可能性があるとしたら。

 マンションは人が住むために作られていてそれより大きな生物が突然現れたとしたら……。

 わたしは全身から汗が吹き出ていた。わたしが動物になるわけではない。そうじゃない、それ以上の嫌な予想が頭をめぐる。だって、マンションが揺れているんだよ。ってことは――。



 ――ワン!



 部屋の中から『棒読みのイヌ』の声が聞こえて振り返る。

 そこには服が身体に巻き付いたままのお兄ちゃんがそこにいた。当然イヌの姿だ。大きさはわたしの膝丈くらいか。 


「お兄ちゃん!」


 お兄ちゃんは口にリュックの肩ベルトを加えて運んでいた。さて、それはなんだろう?


「ウ……ワン、ワン」


 随分とヘタクソな鳴き声だなぁ……。しかもどこか恥ずかしそうで。


「ねえ、お兄ちゃん、なんだよね」


 声で返す代わりに頷いた。

 そっか、姿が変わろうとも、お兄ちゃん、なんだね。

 視界が少しぼやけて、このまま動けなかった。が、しかし。

 真上から、メキメキ、バキバキと硬いものが破壊される音が聞こえている。悲鳴も大きくなる。


「え――マズい!」


 反射的に駆けていた。お兄ちゃんへ飛びつくようにダイブしてリビングから廊下に転がり出る。

 どうしてこんな行動に出れたのかはわからない。でも、次の瞬間には、


 ――リビングが消失していた。


 廊下から見えるのは、遠くの夜景だった。

 涼しい風が廊下で転がっているわたしとお兄ちゃんを撫でる。


「……」

「……」


 その様子に、わたしは、お兄ちゃんは、何もできなかった。

 恐る恐るリビングがあったはずの空間を見下ろしてみると、一頭のクジラが鮮血を流してピクピクとうごめいていた。恐ろしいことに『右足』が人間からクジラのソレに変化している最中だった。

 地面の様子は見えないが、上の階だった部分を見てみれば、何フロアのリビングを巻き込んだかなんて考えたくもなかった。何人が巻き込まれたのだろうか。

 わたしは巻き込まれなかった。その事実だけが残った。

 自分の身体の中で嫌なものが蠢く感覚が止まらなかった。この正体は恐怖でも動揺でも緊張でもない。

 きっとこれからも経験するかもわからない、でも二度と起きてほしくはない感覚。

 身体の中を刷毛で触るようにぐちゃぐちゃにかき混ぜられるようなそんな感覚だった。



 さて、どれだけ経ったのだろうか。

 座り込んだままの姿勢で、気がつけば玄関のドアがダンダンと叩かれている音で我に返った。

「大丈夫か?」「生きているか?」という声だ。

 横にはお兄ちゃんがじっとわたしの顔を見ていた。


「……服、邪魔だよね」


 とりあえず、お兄ちゃんに絡まっている服を取ってあげる。いわゆる全裸になったお兄ちゃん。しかし、今はイヌの姿なので咎める人はいないだろう。

 外から心配の声が聞こえるが、マンションはここまでえぐられたのだ、暮らすことは当然不可能でいつ倒壊してもおかしくないだろう。

 お兄ちゃんのリュックの意味。それは


「渋谷に行くつもりだったんだね。お兄ちゃん」

「ワフ」

「なら、行こう。もう、ここにはいられないし、ここにいたらきっと迷惑をかける」


 そんな気がしたのだ。ヒトからイヌになった親族とともに、誰かの世話になるのは想像つかなかった。

 だから、


「大丈夫です! 別の場所から脱出します!」


 と外に叫ぶ。この声が聞こえたかはわからない。でも、もう決めたんだ。


「だから、行こうお兄ちゃん」


 リュックはわたしが背負って立ち上がる。

 ここはマンションの三階だ。クッションさえあれば、怪我もないはず。

 目下には動く無くなったクジラが一頭。

 玄関で運動靴を履いてから、呼吸を数回。

 お兄ちゃんは準備OKといった様子だ。


「渋谷へ行こう。お母さんとお父さんがどうなかったかをこの目で確かめるんだ」


 そして、わたしは助走をつけて――



 ――クジラを踏んづけた、肉に脚が埋まっていく感覚。それを忘れることは一生無いだろう。



 飛び降りた瞬間、青い影が一瞬見えたような気がしたが、すぐに消えた。

 その存在はもう二度と現れない。そんな気がした。

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