第5章:功罪

[1] 粛清

 スターリンが「粛清」という見境のないテロルを発動した理由については、未だ定かになっていない点が多い。多くの独裁者と同様にスターリンもまた、自分への忠誠と自己の権威への服従を求め、自立した思考を持つ者に対しては不安を抱いていた。

 独裁者の恐怖心には、単なる被害妄想では済まされないものがあった。実際、ソヴィエトは誕生した瞬間から、諸外国の干渉を受けた。不安の中には根拠のない妄想もあったが、スターリンの場合、その妄想が偏執症にまで肥大していたのである。

 赤軍参謀本部でドイツを仮想敵国とした本格的な戦争計画の研究が始められたのは、1935年9月のことだった。このとき中心的な役割を果たしたのが、当時の国防次官兼戦備局長トゥハチェフスキー元帥であった。トゥハチェフスキーは共産主義を批判するヒトラーに警戒感を持ち、将来ドイツとの戦争は避けられないとの認識を持っていた。

 トゥハチェフスキーは内戦の英雄であり、ソ連軍の作戦概念である「縦深作戦」の提唱者であった。「縦深作戦」とは「敵側の前線から後方までを空爆と砲撃で同時に制圧し、その援護の下、機械化され機動力の向上した地上部隊が敵陣深くまで突破する」というものであった。トゥハチェフスキーの提言により、赤軍はドイツ軍に先立って空挺部隊、機械化部隊の創設を成し遂げていた。

 スターリンはトゥハチェフスキーの提案を気前よく受け入れる一方、旧帝政軍人らに対して深い猜疑心を募らせていた。ロシア内戦時、トゥハチェフスキーら旧帝政軍はヴィスワ河において敗北を喫したというのがその理由だった。

 独裁者の猜疑心をさらに煽ったのは、赤軍内部の権力闘争だった。スターリンの内戦時代からの盟友である国防相ヴォロシーロフ元帥やブジョンヌイ元帥をはじめとする「騎兵閥」は、赤軍の機械化が進めば、やがて騎兵は「無用の長物」となり、自らの地位も脅かされるという危機感を抱いていた。ヴォロシーロフはスターリンに対して、トゥハチェフスキーがドイツに長く滞在していたことを理由に、ドイツのスパイであると言い触らしていた。

 赤軍に対する粛清は、1937年に始められた。5月27日、トゥハチェフスキー元帥以下数名の同僚が逮捕された。この粛清が尋常でなかったのは、全ての審理が非公開かつ大急ぎで行われた点に現われている。

 6月12日、前国防次官兼戦備局長トゥハチェフスキー元帥、前ウクライナ軍管区司令官ヤキール上級大将、その他六人の将校に対して外国に寄与するスパイ等の容疑で有罪判決が下り、直ちに処刑されたと報じられた。

 1937年から1939年に続く一連の粛清によって、元帥5人のうち3名、一等および二等軍司令官(上級大将・大将に相当)級15人のうち13人、軍団長(中将に相当)級85人のうち62人、師団長(少将に相当)級195人中110人、旅団長(准将に相当)級406人中220人、大佐級も4分の3が殺され、中佐以下の下級将校の割合はずっと少なく全体の10%、政治将校の3分の2が姿を消した。

 逮捕された将校への容疑や証拠は、そのほとんどが検事総長ヴィシンスキーによって捏造されたものだった。ロコソフスキーに至ってはおそらくポーランド出身という彼の出生がスターリンの猜疑心に触れ、彼は20年も前に死んでいる男が提供したとされる証拠を突きつけられ、日本およびポーランド秘密警察のスパイ容疑で3年間投獄された。

 粛清によって一世代すべての軍人がなぎ倒されてしまった。その補填として、もっと若い世代の人材が上級司令部へと押し込まれた。1941年6月の開戦時には、全将校の75%が現職についてから1年未満という状態だった。

 当然ながら軍隊としての管理と訓練は損なわれ、このテロルが緒戦時の壊滅的打撃の一因につながった。「縦深作戦」は赤軍の公式の作戦概念として残されはしたが、トゥハチェフスキーの処刑によって機械化部隊の構想は水泡に帰し、はるかに原初的な段階にまで衰退してしまった。

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