[3] 目標なき侵攻

 実際に部隊を率いる軍司令官たちは「総統指令第21号」を一読した際、不可解きわまる気持ちを抱いた。それは主に、モスクワと他の戦略目標の優先順位が曖昧されている点だった。特に中央軍集団から、その問題について大きな懸念が投げかけられた。

「バルバロッサ」作戦の第1段階―白ロシアにおける敵兵力の殲滅が終了した時点で、中央軍集団には第2段階の目標としてレニングラード、モスクワ、キエフの三都市が想定されていた。しかし、「総統指令第21号」ではそれらの相互の厳密な優先順位が明確にされておらず、中央軍集団司令部は事前に作戦計画を練ることが困難となった。

 例えば、中央軍集団の北翼を担当する第3装甲集団は西ドヴィナ河に到達(第1段階)した後に取るべき行動として、2通りの解釈が可能だった。すなわち「北に転進してレニングラードに向かう」べきなのか、「東進を続けてモスクワ攻略を目指す」のか。

 同様の解釈は中央軍集団の南翼を担当する第2装甲集団でも考えられた。第2装甲集団は第1段階が終了した時点で、南方軍集団を支援して「キエフに南進すべき」なのか、「東進を続けてモスクワ攻略を目指す」のかという状況である。

 2個装甲集団を統轄する立場にあるボックは戦略目標の明確な優先順位を問い質すため、ブラウヒッチュとハルダーに繰り返し上申した。ところが2人は話を中断し、はぐらかすといった曖昧な態度を取りつづけた。

 1941年3月31日、「バルバロッサ」作戦に関する最高首脳会議が開催された。ブラウヒッチュとハルダーに話をはぐらかされて、業を煮やしていたボックは戦略目標の優先順位をヒトラーに確認しようとした。ところが、ボックがヒトラーに発言しようとすると、議題の紛糾を恐れたブラウヒッチュとハルダーはボックの発言を途中で遮ってしまった。会議の終了後、怒り心頭のボックはハルダーに詰め寄った。

「本官が陸軍総司令部より受領している命令文によれば、中央軍集団の第2・第3装甲集団は、緊密に接触を保ちながら進撃すべしとなっておりますが?」

 ハルダーは笑いながら、このように答えた。

「それはあくまでも『気持ちの上での』接触を言っているのだよ」

 ボックはまたしても、ハルダーに答えをはぐらかされてしまった。結局、ホトの懸念も解消されず中央軍集団は明確な戦略目標を持たないまま、開戦の日を迎えることなった。

 一兵卒としての従軍経験しかないヒトラーのみならず、そのヒトラーを補佐する立場にある国防軍と陸軍首脳部が「目標なき侵攻」に踏み切った背景にさまざまな理由が考えられる。最も大きな理由の1つとして、1940年の西方攻勢(対仏戦)の勝利が挙げられる。

 1940年5月10日に始められた「黄」作戦は第1次世界大戦の教訓もあって立案段階から長期戦になることを想定して慎重に計画が練られていた。しかし、「電撃戦」が想定外の大きな成功をもたらしてしまった。西の大国フランスを約6週間の戦闘で、事実上の降伏に追い込んだのである。対仏戦の勝利を受けて、ヒトラーは自国の軍事力に過剰な自信を持つようになり、陸軍首脳部にもこの勝利を過大に評価する風潮が広まった。

「バルバロッサ」作戦の素案であるマルクス案とロスベルク案はソ連軍の主力を西ドヴィナ河とドニエプル河の西側で包囲するという作戦の第1段階は一致していたが、これは対仏戦における勝利の図式をそのままロシアに当てはめたものだった。ヒトラーがモスクワ占領の優先順位を下げる判断に対して、陸軍総司令部が異を唱えなかった点についても同様だった。

 すなわちソ連軍を包囲・殲滅しながらレニングラードとキエフを奪取できれば、対ソ戦における自軍の勝利はすでに決定的になっているはずであり、どのような形でモスクワを占領するかはパリ無血入城と同様、その後に判断しても充分に間に合う「枝葉の問題」と見なしていたのである。

 ヒトラーは一刻も早く「ソ連共産主義に対するヨーロッパの聖戦」を開始したかったが、「バルバロッサ」作戦の発動直前にユーゴスラヴィアで反独勢力によるクーデターが発生したことを受けて、国防軍首脳部の計画は変更を余儀なくされる。作戦の開始予定は5月15日とされていたが、4月に発動したバルカン半島侵攻作戦で主力を担う第1装甲集団の攻撃発起点への展開に影響が出たため、発動は約1か月後の6月22日に変更された。

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