第2章 第2話

 ロウと呼ばれたそのオオカミは、自分より一回りほど大きな獣を弾き飛ばして自らの主に嬉しそうに鼻先を摺り寄せた。

 やっと呼んでもらえたことを喜んでいるかのように。


 目の前に突然に現れたこの味方に、後先考えずにただ抱きついた。

 その懐かしいぬくもりに、涙があふれた。


 一人ではなかったのだ。

 まだ自分には残されていた。何よりも心強く信じられる味方が。

 危険が去ったことにほっとし、頼りになる親友の首を抱きしめたまま、その身を預けた。


 しかし、危険はまだ去っていなかった。


 威嚇をこめた激しいうなり声にはっとして顔を上げる。

 銀のオオカミの身体越しに、さっきの獣が飛び掛かろうと身を低くしているのが見えた。



 「危ない!!」



 悲鳴のような警告の声を上げる。

 獣は明らかに、新たに現れた銀色の強敵を狙っていた。


 その声を聞くまでもなく、ロウも自分を狙う獣の気配に気が付いていたのだろう。

 頼るように毛皮を握りしめていた手が開かれるやいなや、身をひるがえし敵に向かった。


 しかし、今度の攻撃は相手に先手を取られた。

 直撃は避けたものの、鋭い爪に脇腹を抉られ、地面に転がる。

 致命傷ではないが、すぐに立ち上がれる傷でもなかった。

 それでも立ち上がろうともがく相手に追い打ちをかけるように獣が迫る。


 が、その前に小さな影が立ちふさがった。

 手には、どこに落ちていたのか、己の身の丈の半分ほどはある棒切れを握っている。



 「ロウに手を出すな!!」



 叫びはしたが、獣を撃退できるとは思っていなかった。

 勝てるはずがない。

 だが、大切な親友を見殺しにすることも出来なかった。


 邪魔をされていきり立った獣が襲い掛かってくる。

 大きな爪が迫ってくるのを見ながら、死ぬことを覚悟した、その時。


 大きな黒い影が、獣の横から飛び出してきた。

 一角の獣よりややほっそりとした優雅なその姿は黒豹と呼ばれる獣に酷似していた。


 黒い獣は、幼子と傷ついたオオカミを背にかばうようにして、もう一頭の獣と対峙する。

 ロウが飛び出し挑みかかったときにはいきり立った獣が、なぜかこの黒い獣には尻込みをしているようだった。

 それを不思議に思いながら、なぜか言いようのない安心感に包まれている自分に気が付き、小さく首をかしげた。


 その感覚には覚えがある。

 それは、母の腕に抱きしめられ、守られている時の感覚に少しだけ似ていた。


 獣たちはしばらく睨み合っていたが、ふいに一角の獣が身を翻し、草の向こうへ消えた。

 黒い獣は、遠ざかっていく気配を確かめるようにしばらく草むらを睨み付けていたが、もう戻ってこないことを確信したのか、大きく息をついた。

 まるで人間のように。

 それから、背後にかばった存在を振り向いた。


 今度はこの獣に襲われるのかと、思わず身を固くする。

 だが、その眼にも、牙にも不思議と恐怖心がわいてこなかった。

 少しだけ後ずさり、ロウの首に腕を巻きつけて大きな黒い姿を見上げる。

 そんな主に倣うかのように銀のオオカミすっかり警戒を解いているようだった。


 目の前の獣を前に唸り声一つ上げない。


 しばらくそうやってお互いを見つめあっていたが、不意に黒い獣が口を開いた。

 ずらりと並んだ牙に、恐ろしいと思う気持ちはなぜだかわいてこなかったが、条件反射のように身がすくむ。


 そんな姿を見て黒い獣は苦笑をもらした。

 獣なのに、人間のようなしぐさで。

 そして、



 「この姿は恐ろしいか?」



 初めて聞く言葉で問いかけられた。

 初めて聞くはずなのに、雷砂はなぜだかその言葉を理解していた。

 問いかけられている内容が不思議と頭の中で自分の知る言葉と結びつくのだ。

 不思議だったが、もっと不思議な出来事を前に思わず言葉が口をついていた。



 『動物が、しゃべってる……!?』



 それは、聞きなれた己の国の言葉だった。

 どうやら、理解できるからといって、話せるわけではないようだ。



 「異国の者か?獣人ではないようだし、人間の子供だろうな……。しかし、参ったな」



 獣の表情は読み取ることは出来ないが、困った様子なのは伝わってきた。

 先ほどは驚きすぎていて気が付かなかったが、その声は獣の口から出るのにふさわしいとは思えない、澄んだ若い女の声をしていた。



 「今まであまり異国の言葉に興味がなかったから、どこの国の言葉かも分からん。もうすこし、勉強をしておくんだった……」



 今度は少し落ち込んだように。

 表情は分からずとも、彼女の感情は手に取るように分かった。

 もともと感情豊かな性質なのだろう。声の中に、その感情がにじみ出ていた。


 そんな彼女の様子を見ながら、考える。

 自分は彼女の言葉を理解しているが、そのことをどうやって伝えたらいいのだろう。

 なにしろ、彼女には自分の言葉はまるで伝わっていないようだから。



 「しかし……」



 言いながら、彼女はあたりを見回す。

 そうしている間、鼻と耳をピクピク動かしていたのは、においと音の情報も同時に収集していたからだろう。


 しばらくそうしていたが、何の収穫もなかったようだ。


 彼女は鼻面にしわを寄せ、大きく息を吐いた。

 なんだか少し、怒っているような感じだった。



 「近くに他の人間の気配はないか。血の匂いもしてこないから、獣に喰われてしまったわけでもないだろうし……。幼子の足で、ここから匂いも感じられないほど遠くから来たとは考え難い。と、いうことはだ。この子の親は、こんな幼い、しかも獣人の子ならいざ知らず、人族のこんなにも無力な存在をよりにもよってこの草原に置き去りにしたということだ。……なんて親だ」



 いらいらと前肢を踏み鳴らす彼女が、自分のために怒ってくれているのが分かった。

 怒らなくていいと伝えたくても、彼女に伝えられる言葉が無い。だから-。

 ロウの首から手を放し、疲れ切った体で立ち上がる。

 そしてそのまま彼女のそばに行き、太くたくましい黒い前肢を両腕で抱きしめた。


 彼女は自分に抱きついてきた小さな生き物をしばし戸惑ったように見つめ、それから優しく目を細めた。



 「お前の名前は?……っと、言葉が違うんだったな」



 ギュッと腕に力を籠め、真上の彼女の眼を見ようと体を反らせながら、一生懸命に彼女の問いに答える。

 母親がつけてくれた、大好きな自分の名前を、自分を助けてくれたこの人に伝えたくて。



 『雷砂らいさ


 「ライ……?すまない、もう一回たのめるか?もう一回、言ってみてくれ」



 頷き、繰り返す。今度はもっとゆっくりと。



 『ら・い・さ』


 「ラーイーサ。ライサ、でいいのか?これが、お前の名か?」



 問われて頷いた。

 名前を伝えることが出来た。そのことがただ嬉しかった。

 彼女は雷砂の名前を覚えるように何度か口の中で繰り返した後、嬉しそうに、



 「ライサ。雷砂だな。よし、覚えたぞ」



 そう言って笑った。

 声は人でも姿は獣のままだったので、何とも言えず怖い笑顔だったけれども。


 その後、彼女は雷砂を鼻面で少し押し離すと、ゆっくりと伏せの姿勢になって改めて小さな体に向き直る。

 雷砂を怖がらせないようになのか、慎重に目と目を合わせ、それから口を開く。



 「お前はどうやら私たちの言葉を理解しているみたいだな。

 ならば、私も名乗らねばなるまい。

 私はこの草原の獣人族の一部族、ライガ族の長の一族に連なる者。名はシンファという」


 『し…ふぁ?』


 「少し難しい発音だったか?シンファだ。シ・ン・ファ」


 『シンア…シーンファ……シンファ?』


 「そうだ。シンファだ。よろしくな、雷砂」



 満足そうにそう言って、シンファは大きな舌で雷砂の顔をぺろりと舐めた。




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