第2話


恒例の、四半期締めの飲み会。

四半期締め、と言っても、明日も明後日も普通に仕事は続くから。

一旦のシメ的な、軽い飲み会だった。



出欠入力のためのエクセル表を開いた時、私の名字“井瀬”の下に並んでいた“岩田”。

彼の名の横、○になっているセルをコピーして自分も参加にした。


営業一課のエースである岩田さんは、“彼に微笑まれて、堕ちない女はいない”という。

冴えない私にとっては、目がチカチカするような見事な肩書きの持ち主で。

その上、甘い王子様マスクの下には野心的な営業力も秘めていて。

簡単に言えば、恐ろしく仕事も出来る。


誰もが憧れる、社内の王子様。



幸い私は、彼に微笑まれた事もなければ、崖から落とされそうになった事もない。

もう二年も今の課で仕事を共にしたけど、私たちは特に遠くもなければ、近くもないまま。


ただの、“同僚”。










昨晩、偶然同じテーブルの左斜め前に座った岩田さんとは。

飲み会中は、一言も言葉を交わさなかった。

何度か、涼しげな横顔が目に入ったけど。

彼は一度も、こちらを振り向かなかった。



お店を出て、ダラダラと流れで解散して。

軽い酔いに微睡みながらも、明日の企画プレゼンを思うと、疲れと欠伸が込み上げて。


早く、帰ろ。


タクシーを止めようと車道に出れば、既にタクシーを捕まえたての岩田さんがいた。

偶然、振り返った彼と、目が合って。

軽く頭を下げると、彼も同じ動作を反復した。



「乗る?」


『いいんですか?』



この時間にこんな場所、タクシーなんてなかなか捕まらない。



「いいよ。先降りるけど。」


『じゃあ、乗る。』




気づけば、同じ車内の中。

すぐ隣で、窓の外流れる景色を見ていた。




「飲む?」


『飲む。』



彼の唇を離れた、ペットボトルの水を飲んで。




「食べる?」


『食べる。』



彼の口内と同じ、チェリーフレーバーのフリスクを噛んだ。










「降りる?」




彼のマンションの前で。

先にタクシーを降りた彼が、私を見下ろした。

彼の口元から溢れる、うっすら白い息がとても綺麗で。



『降りる。』



彼の差し出した左手を、右手で握り返した私には。

断る理由なんて、一つもなかった。










部屋に入ってからは、わりとすぐに後ろから捕らえられて。

首筋で、岩田さんの息の熱さと、唇の柔らかさを知った。


それからはもう一度も、私は何かを聞かれることはなかった。










彼は、私の下の名前を呼んで。


『何で知ってるんだろう』


どろどろと熔けていく意識の片隅で、そう思ったのに。

それは何故か疑念なんかではなくて、甘く刺すような痛みだった。


もう一度、あの声が私を呼んだ時。

私はもう迷わず、彼の首元を引き寄せた。






岩田さんは、ちっとも王子様なんかじゃなかった。


一つもロマンティックより、全てが獰猛で。


だけど私は、その仕草全てに息が上がった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る