娘と鴉2


 窓辺に止まった小鳥の鳴き声で、サリアは目を覚ました。

 ベッドの上で体を起こした時に、青い小鳥が飛び立っていくのが一瞬だけ見えた。


 夏が近付いていると、朝日と共に塔に入ってくる爽やかな風を浴びて、サリアはそう思った。

 フリッツとここで暮らし始めて、もう一月近く経っていた。始めて来た時よりも、日が長くなり、山の緑も濃くなっていた。


 朝支度を終えたサリアは、次に朝食を作り始めた。

 流し台でスープに入れる野菜を切っている間に、暖炉で紅茶を入れるためのお湯を沸かす。紅茶の準備を終えると、大きな鍋いっぱいに水を入れて、野菜と出汁を煮込み始めた。

 テーブルの上にはパンを用意した。これは、小麦粉からサリアが手作りしたパンだった。その小麦粉は、山を越えた所にある町で、フリッツが塔に元々あったものを売って手にしたお金で買ったものだった。


 サリアが目を移すと、暖炉の横に、籠に山盛りになった杏子が置いてあった。昨日、フリッツが持ってきたものだった。

 朝のデザートにいくつか出して、お昼に残った分をジャムにすることにした。


 その時、下の階の梯子が軋む音がして、床板が外れてまだ眠そうな顔をしたフリッツが現れた。大きくあくびをして、短い黒髪をわしわしと掻いている。


「おはよう、フリッツ」


 サリアが微笑みかけると、フリッツもにっこりと笑ってくれた。

 フリッツは仮面を右手に持っていて、顔には沢山の青痣が生々しく残っていたが、どちらも気にしていない。


 フリッツの素顔をサリアが見たのはまだ半月ほど前の出来事であったが、今ではフリッツが仮面をせずに過ごすのが当たり前になっていた。

 それも塔の中でのことで、外に出るときは仮面をしている。町に行く時も仮面をして、背中の真っ黒な羽は大きめのコートで隠しているらしい。


 仮面をして街を歩けば、迫害されたりするのではないのかとサリアは心配したが、町の人々はフリッツに好奇の目を向けるものの、ものの売り買いはちゃんと応じてくれるのだと、サリアは喋れないフリッツの相槌で知った。

 山の向うの町は、サリアが育った町よりもずっと小さな町で、住んでいる人たちはおおらかなのか、それとも単純に商売ごとにはきっちりしているだけなのかは分からなかったが、それほど悪い場所ではないのかもしれないと、サリアはそう考えていた。と同時に、いつの日かフリッツと一緒に行きたいなとも。


 朝に弱いフリッツは、何度も大きく伸びをして眠気を紛らわせている。サリアはそんな彼に、熱い紅茶を一杯用意した。

 椅子に座ってフリッツは小さくお辞儀をする。サリアも、「どうもいたしまして」と笑いかけて答えた。

 良い塩梅に煮込んだスープをよそって、フリッツの座ったテーブルの前に置きながら、サリアは彼に話しかける。


「今日はどこに行く予定なの?」


 カップに口を付けていたフリッツは、南南東を指差した。

 そこは川のある場所だと、以前にフリッツに連れられて、塔の屋上に上がった事のあるサリアは思った。


「いいわね。もうそろそろ、鱒が獲れ始めるんじゃなかったけ?」


 サリアの弾む声に合わせて、フリッツも嬉しそうに頷く。


 フリッツの部屋から、古いながらも十分に使う事のできる釣り竿が見つかってから、時折魚料理が食卓に並ぶようになった。

 農家生れのサリアは、生の魚を見る事も珍しかった。その為に始めは魚を捌くことにも中々慣れなかったが、今では頬が落ちるほどおいしい魚料理が作れるようになったという自信があった。


 サリアも自分の分のスープを入れ、フリッツの向かいに座る。いつものように二人で微笑み合って、サリアは「いただきます」と言い、フリッツは小さく頭を下げた。

 二人ともスプーンを持って、スープを掬おうとした瞬間だった。

 外から盛大なラッパの音が聞こえてきた。


「な、何?」


 驚いた二人は、思わず椅子から立ち上がる。

 その間も、威勢の良いラッパは鳴り響いていた。


 気になったサリアは、音が入ってくる、台所の向かいの窓へゆっくりと歩いていく。心配そうな顔をしたフリッツが彼女を止めようとしたが、目に入っていない。

 フリッツも仕方なく、テーブルの上に無造作に置いてあった仮面を素早くつけると、足早にサリアの後に続いた。


 不思議そうな顔をした二人がほぼ同時に窓から顔を出した。窓の外、塔の真下には二十人ほどの人が集まっているのが見えた。

 その先頭には、馬に乗った領主と、彼の従者の一人が同じく馬に乗って控えていた。


 まさか今更になって領主がここに来るとは予想だにしていなかったサリアは虚を突かれたような顔をし、フリッツは緊張感から拳を強く握った。


 領主は眉間に深く深く皺を刻み付けて、二人を睨んでいた。口を歪めて閉じていても、その奥で歯をぎりりと嚙んでいるのがよく分かる。

 彼が片手を上げると、列の一番後ろでラッパを吹いていた私兵たちがやっと演奏を止めた。

 すると、領主はサリアの方に顔を向けて、声を張り上げた。


「サリア、ここにいたのか!」

「え、ええ」


 突然そう聞かれて、サリアは戸惑うよりも先に小さな声で答えていた。しかし、やはり納得の行かない部分が多い。

 なぜ一月も放っておいて、どの口が言っているのだろうか。単純に、ここを見つけられなかったのか、あるいは機会をうかがっていたのか。


 フリッツ一人に対して沢山の私兵を連れて来たことや、領主の横柄な態度を見ると、彼自身はサリアに何の未練もないのに、体裁の為に彼女を連れ戻しに来たようである。

 サリアは不快感から、珍しく顔を顰めていた。


「行け」


 領主が短く合図を出すと、マケット銃を抱えた全体の半数ほどの私兵が、ぞろぞろと塔の中へと入っていった。

 階段を勢いよく登っていく音が聞こえたが、それは途中で途切れて、また駆け足で彼等は戻ってきた。


「駄目です、階段が崩れていて、最上階まで登れません」


 一番最初に戻ってきた私兵が代表して報告すると、領主はますます歯ぎしりを強くして、きっとフリッツを睨みつけた。


「化け物め……、サリアをこのような場所に監禁するとは、卑怯者!」


 これほどの私兵を引き連れて何を言うのかと、サリアは呆れ顔でため息をついた。フリッツも、困惑したように頭を掻いている。

 そもそもサリアは塔で暮らすことを自ら選んだというのに、領主はフリッツに捕らえれていると盛大に勘違いしているようである。いや、自分に都合のいいように解釈したというのか。

 フリッツも同じように感じているのか、サリアの横で肩をすくめていた。


「心配するな、サリアよ! 今すぐその化け物の手から解放してくれよう!」


 領主が高らかに宣言する。

 サリアとフリッツは、何が起きるのか予想できずに、顔を見合わせて首を捻った。


 領主が片手を上げると、私兵たちはマケット銃を構えた。それを見た瞬間、フリッツはサリアの上に覆いかぶさるように飛び上がった。


「撃て!」


 領主が手を下げると、一斉に銃口が火を噴いた。

 地面に倒されたままでサリアは、銃声が頭上で鳴り響くのをぽかんとした表情で聞いた。部屋の物が割れる音が止んだ時、やっと彼女は状況を理解した。


 フリッツが庇ってくれたおかげサリアは無事だった。


「フ、フリッツ、大丈夫?」


 半身を起こしながらサリアが尋ねると、フリッツも頷いて立ち上がった。そして、汚れてしまったズボンの膝を部分をはらっていた。


「なんて酷い事をするの……あっ!」


 同じく立ち上がり、テーブルの方に目を向けたサリアは、思わず驚きの声を上げた。


 いくつもの銃弾を撃ち込まれて、塔の中は酷い状況になっていた。

 テーブルの上の食器は全て粉々に砕け散り、季節の花を挿した花瓶も割られている上に、サリアが丹精込めて育てていた菫を植えた鉢も壊れている。

 テーブルや家具などは形自体は残っていたが、あちこちに穴が開いてしまった。


 領主の動きを警戒して、窓の横の壁に背を付けて外を覗っていたフリッツは気付いていなかったが、この時サリアは眉を吊り上げて肩を震わせていた。

 それはサリアが塔に来て以来、いや育ての親に引き取られて以来初めて見せる、怒りであった。


 サリアはずんずんと暖炉の方へと歩み寄ると、鍋の取っ手を掴み、それをそのまま窓辺へと持ってきた。

 フリッツは、サリアの行動が読めずに仮面の下で眼を瞬かせながら、彼女の様子を見ているだけだった。


 窓から顔を出したサリアは、怒りに満ちた表情のまま、下でマケット銃に火薬を詰めている私兵たちに向かって、まだ熱を籠っている鍋の中身をぶちまけた。


「うわっ」「あっつい!」「ひい!」

「な、何をするんだ、サリア!」


 体にスープの雫がついたり、火薬の火が消されたりしてしまった私兵たちは悲鳴を上げ、手前の方にいたためにスープの被害から免れた領主も、サリアの突然の行動に戸惑いを隠せない様子だった。

 するとサリアは、窓辺から身を乗り出して、始めてフリッツや領主の前で腹の底から叫んだ。


「それはこっちが言いたいわよ! 私は、捕まっている訳じゃなくて、フリッツとここにいることを選んだのよ。絶対にあなたの所に行かない。なのに勝手に押しかけて来て……私たちの平穏を壊さないで!」


 サリアは本心を叫んでもまだ物足りないのか、今度は杏子の入った籠を持ち出して、その中身を乱暴に掴むと下に投げ出した。


「はやく帰ってよ! 私はあなたと結婚するつもりなんて、最初からなかったのよ。フリッツとずっとここで暮らすって決めたんだから。だから帰ってよ!」


 フリッツが彼女の腕を掴んで制止しようとするのも振り切って、サリアは杏子を投げ続ける。

 私兵たちは杏子を絶えず当てられいるために、また先程火薬が湿ってしまったために、反撃できずにいた。


 サリアの必死の形相を見ても、彼女の本心からの言葉を聞いても、領主は未だにその言葉を信じられずにいた。ぽかんとした間抜け面でサリアを見上げたまま、おろおろと自身の混乱を口にする。


「で、では、サリアは私よりもその化け物の方を選ぶというのか?」

「当り前よ! あなたなんかよりも、ずっとずっと、フリッツの方が優しくて、かっこよくて……、愛しているのよ!」


 サリアが投げた渾身の一言と一粒の杏子が領主の頭に当たり、彼は目を見開いたまま完全に動きを止めた。

 フリッツも同じように、サリアの口から思いがけない言葉が出た事で、ぴたりと固まってしまった。顔は仮面で隠されているために分かりにくいが、耳の先まで真っ赤になっている。


「領主様、如何致しましょうか?」


 従者がそう言って領主の肩を揺らすが、反応がない。馬の手綱を強く握って、硬直したままだ。

 痺れを切らしたサリアが、杏子を投げながら再び声を張り上げた。


「ちゃんと聞こえた!? 私は、フリッツが大好きだから、フリッツを愛しているから、もう、私たちの邪魔しないで!!」


 いくつもの杏子が体に当たっていても、領主は呆然自失をしている。

 対してフリッツは、恥ずかしさのあまり仮面を付けているのにも拘らず、両手で顔を覆っていた。


 その間にサリアは籠いっぱいの杏子を投げ終えて、肩で荒々しく息をしていた。やっと落ち着きを取り戻しつつあった。

 フリッツの方も、いつまでもそうしていられないと、窓枠に足をかけて羽を大きく広げ、離陸の体制を取った。


 化け物から攻撃されると思った私兵たちは、口々に怯えの声を上げながら、方々好き勝手に逃げ始めた。


「領主様、に、逃げましょう」


 従者が領主の肩を再度強引に揺らすが、彼はまだ動かないままである。

 仕方なく、領主の馬の手綱を引くと、彼もそこから逃げ出した。その間も領主は成すがままにされている。


 しばらくして、フリッツは塔の下に誰もいなくなったことを確認すると、籠を以て地面へと降り立った。そのまま、地面に散らばった杏子を集め始める。

 サリアが塔から、誰か戻ってこないかどうかを確認してくれたが、その間は誰も来ずに、フリッツは無事に籠を持って戻ってきた。しかし、杏子は潰れてしまったものも多かったため、籠の三分の一の数だけになっていた。


 部屋に入ったフリッツに、サリアは申し訳なさそうに眉根を下げて言った。


「ごめんなさい、つい頭に来ちゃって、大人げない事をしてしまったわ」


 領主に対して感じていた嫌悪感、自分自身を蔑ろにされていたこと、先程フリッツを何度も化け物呼ばわりしていたこと、それに輪をかけるような領主の自分本位な言動、今まで降り積もっていたサリアの怒りが、部屋を壊されたことで爆発した。

 しかし、それでも少しやりすぎてしまったと思い、サリアは顔を赤くしていた。食べる前の朝食や杏子まで駄目にしてしまって、子供っぽい自分が恥ずかしい。


 フリッツは仮面を外すと、気にしなくていいよと口元を弛めながら、手を振ってくれた。

 それを見たサリアはふうと息を吐いて、視線を下に向けたまま小さく笑った。


「でも、本当のことを全部言えて、ちょっとすっきりしたな」


 その一言を耳にすると、フリッツの動きが再び止まった。

 真っ先に脳裏に響いたのは、領主に向けて叫んだ、あの言葉。あれは売り言葉に対する買い言葉だと思いたかったが、もしも彼女が常日頃抱いていた思いだったとしたら――


「……ねえ、フリッツ…」


 はっとフリッツが気が付くと、サリアの顔が驚くほど近くにあって、その澄んだ琥珀色の瞳が自分を見上げていた。

 彼の顔が、火にかけられたやかんのように、あっという間に熱を帯びた。


「私、本当にあなたのことを……」


 サリアが最後まで言い切る前に、フリッツの頭の中は真っ白になり、気を失ってしまった。


「きゃああ! フリッツ!?」


 サリアの叫び声を聞きながら、真っ赤になったフリッツは後ろに倒れてしまった。

























「よいしょっと」


 完全に失神してしまったフリッツは、仕方なくサリアのベッドの上に眠らされた。

 背の高い彼を運ぶのは短い距離でも苦労して、サリアは多少乱暴にフリッツを横にした。何とか体制を整えて、いつもフリッツが眠っているように壁側に顔を向けさせて、頸まで布団をかぶせる。


 見慣れてきたフリッツの素顔だったが、やはり大きな痣が痛々しい。消えるまでは時間がかかりそうだったが、サリアのこの痣に対する認識は段々と変わってきていた。

 フリッツが勇気を出して私を救い出そうとしてくれた証なのだと思い、サリアもその痣が誇らしく感じられるようになっていた。


 領主がここに現れたのは初めてのことだったが、二人とも何事も無くてよかったと、サリアは胸を撫で下ろす。

 もしも、マケット銃が構えられたときに、フリッツの反応が少しでも遅かったらと想像すると、背筋が冷たくなる。


 いつも彼は私を守ってくれた。サリアは、そっとフリッツの後ろ髪を撫でる。

 フリッツに対する信頼感や安心感が、徐々に深い愛情へと変化していったことを、サリアははっきりと自覚していた。


 ただ、この感情をなかなか口にするのは気恥ずかしくて……。

 激情に任せてとはいえ、フリッツに告白するきっかけをくれた領主には、小指の爪の先程だが、感謝はしていた。


 フリッツが初心だということは知っていたが、まさか気絶するとは思わなかったと、サリアは彼に気付かれないように小さくため息をつく。

 いつの日か、彼の心構えが出来た時に、この気持ちをもう一度伝えようと、サリアは秘かに決心した。


 それでもやはり、まだ言いたいことがあって、言葉が勝手に口から滑り落ちてしまう。


「ねえ、フリッツ、私のことを愛していたら、口づけをしてほしいの」


 もちろんフリッツには聞こえていないことが分かっているから、ただの自己満足なのだが、サリアは妙に心が軽くなった。


 さて、この騒動の間に、時計の針は十二時を指している。

 朝食を食べ損ねて、昼食も遅くなりそうだが、準備はしておこうと、サリアは台所へと向かう。

 しかし、台所に置いてある野菜がなくなって斬ることに気付いたサリアは、方向転換して、野菜などを保管している、少し暗くて風通しもいいフリッツの部屋へと下りていった。


 縄梯子が軋む音が止んだ時、サリアのベッドで気を失っているはずのフリッツは、被っていた布団を上げてまた赤くなっている顔を覆った。



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