file4-X2 虎は狩りに赴く、猫は己の最善を尽くす

 午前九時。日向出版。

 この日、社長である日向から全社員に向けて本日の残業禁止が言い渡された。他社との商談も延期。理由は社に勤める人虎ウェアタイガーだけには出社前にもう周知されている。

 営業部第二課の社員である大島響介は、有給の申請を人虎ではない部長に朝一番で提出した。


「大島君、今日はノー残だよ? なぜわざわざこんな日に」


 部長の言は優しく、気遣いが見てとれた。

 ありがたいのだが、今日は一刻が惜しいのである。


「ここだけの話だけどね、社長から今日は定時も早くするようにと指示がきているんだ。悪いことは言わないから、別の日にした方がいい」

「お気遣いありがとうございます、部長。ですが、それとは別に今日は急な私用が入ってしまいまして」

「そうなのかい。ううん、午前中だけでも居ることは出来ないかな? それなら有給を取らなくてもなんとか上にかけ合って――」

「――その必要はないぞ、山添君、大島君」

「え? あ、き、木島専務!」


 助け舟を出してくれたのは、普段はここに来ることなど殆どない専務だった。

 社長の懐刀と名高い彼が、ぽんと響介の肩を叩いた。


「大島君は実家の大島紙業の緊急会議に呼ばれているんだ。社長の許可もある、今日は社用で構わない」

「そうですか! 良かったな大島君」

「ええ。部長もありがとうございました」


 二人にそれぞれ頭を下げて、響介は帰宅の準備を始めた。

 悪い意味でごねられた時に叩きつけるつもりだった辞表を内ポケットから出して鞄にしまう。家に帰ったら処分だ。


「そういえば専務。大島紙業ってもしかして」

「うん、うちの大株主のひとつだね。彼はそこの御曹司だよ」

「えっ」

「素性を隠してうちで研修を受けていたんだよ。このことは内密にね」


 上司たちのそんな会話を聞き流しながら。


***


 嶺二れいじが目を覚ましたとき、そこは薄暗い部屋だった。小窓から光が差しているから、日は上っているようだ。

 寝起きで曖昧な自分の記憶を手繰り寄せる。確か、フタバが赫真かくまの言葉に改めて反発したので、仕方なくアジトに戻ったのだったか。セキュリティの万全なマンションの一室だったはずなのに、鍵が開けられていたのだ。危険を察して警告を発したところで、左右から私服姿の男たちが湧き出るように現れて。

 そして、自分は――


「お目覚めかな、羽計はばり嶺二くん」


 鈍く痛む頭を押さえていると、部屋の外から声がかけられた。

 そちらを見れば、見覚えのない老人が二人ほど連れて、目の前に立っていた。会った覚えはないものの、どこかで見たことはあるような。

 よく見ればドアと自分のベッドとの間には透明な仕切りがあった。自分は監禁されているようだ。


「頭は痛いけどね」

「すまないね、互いに怪我などないように麻酔を使うよう指示していたのだよ。頭以外に大過はないかね?」

「今のところは。それで、俺を監禁してどうしようと言うんです? 佐田さだ衆円しゅえん会長」

「その前に、聞かせて欲しいのだが。信頼していた仲間に見捨てられた気分はどうか、とね」


 こちらの問いかけに驚く様子もなく、問い返してくる老人。

 既に腹の探り合いは始まっている。

 精一杯の去勢を笑みに乗せて、告げる。


「何のことです? 俺は部屋に戻った時に、閉めていたはずのカギが開いていたので顧客を避難させただけですよ」

「ほう? 彼らとは仲間ではないと」

「仕事を依頼されたという意味では仲間かもしれませんが、あくまで顧客ですよ。金払いがあるうちはね」

「なるほど」


 表に姿を現していない嶺二が、ジャッカロープの一員であったことを示す証拠はない。

 そのように言っても、彼らに事実関係を判断する手段はないのだ。

 正念場だと判断する。赫真は動くと約束した。ならばそれまで生き延びれば良いのだ。


「君はデータを見たね?」

「ああ、あのリストですか。いくつか会社名が出ていましたけど、それが何か?」

「何のリストであるかは知らない?」

「ええ。頼まれたので開封はしましたが、中身については特に。深くは踏み入らないのがこういう仕事のルールですからね」

「ほうほう、成程。度胸もあるな。市間、こういう人材が我が社には足りないと思わんかね?」

「御意」


 佐田は上機嫌で隣の護衛に声をかける。



 嶺二はその言葉に戦慄した。

 平静を装って口を開く。


人獣ウェアビースト……ですか?」

「ふむ? ああ、気づかないのも無理はない。君はどうやら体毛の少ない種類の猫であるようだからね。幸運だよ。どうやら他の人獣の因子は強くなかったようだ」


 人猫ウェアキャットであることも知られている。この時点で初めて、嶺二は自分の体に何らかの重大な異常が発生していることを理解した。

 佐田は変わらず笑顔のままだ。

 その目が、人を見る類のものではないことに気づく。


「おや、前脚の方には変化がないじゃないか。市間、投薬の量が足りなかったのではないかね?」

「申し訳ありません、会長。ジャッカロープの一員である場合は尋問の必要があると存じまして」

「そうかそうか。ならば仕方ない」


 周囲を見回す。鏡のような、顔を映すものの類は置かれていない。


「気になるかね?」

「ええ、そりゃあ。体毛がどうとか猫とか前脚とか言われれば」

「それはそうだ。市間、鏡を用意してあげなさい」

「はい。羽計さん、こちらを」


 どうやらこういうことは彼らにとって初めてではないらしい。何とも手際よく取り出された手鏡を、恐る恐る手に取る。

 そこに映っていたのは、黄土色の短い毛並み。本来の場所から随分上にある、先端の尖った耳。白い部分がなくなり、ほとんど黄色の虹彩が占めている目。


「う、うわああああああああっ!?」


 正直、赫真で見慣れているのでそこまで新鮮な驚きはないのだが。

 嶺二はあまり疑われないように、わざとらしく悲鳴を上げてみせるのだった。


***


 響介が支度を終えてエレベータホールに向かうと、ちょうど上階に向かうところだった木島と鉢合わせた。


「お疲れ様です、大島さん」

「これから姉御のところに?」

「ええ、新筆頭の晴れ舞台ですからね。社長も張り切ってますよ」


 平社員である響介は、専務である木島と比べれば年齢も立場も大きく下だ。

 しかし、今この場においてはむしろ木島の方が響介に下の立場であるような態度を取っていた。

 それは、彼が会社の大株主の御曹司だから、というわけではなかった。


「赫真がこんなに早く決断するなんてね。弟分の為と言うのがあいつらしいけど。っと、あいつなんて言ったら駄目なんだった」

「大丈夫ではないですか? 筆頭と下積み時代から苦楽を共にした大島十六席であれば」


 今この場では、虎群会議こぐんかいぎの席次こそが立場を決めていた。木島は席次を持っておらず、響介は実家の席次とは別に個人で席次を持っている。

 エレベータが止まる。上行きだ。


「それでは、ご武運をお祈り申し上げます」

「さんきゅ」


 木島が乗ったエレベータが上がっていく。響介がスマートフォンを開くと、三件ほどメールが届いていた。


「おっと、青壱せいいちさんも気が早いな。いざとなったら強権を振るえる社長とヒラのフットワークを一緒にしないでくれよっと」


 メールに返信をしたところで、ちょうど下へのエレベータが止まる。


「うし、行きますか」


 響介は乗り込むとネクタイを解した。

 ここを出た後の彼は『日向出版の営業部の若きエース』ではなく、『虎群会議屈指の武闘派である第十六席』だ。

 人当たりの良いと評判の笑顔ではなく、敵対する者に恐怖と絶望を与えるような笑みを浮かべて。

 敵は佐田財閥。人獣を食い物にする組織だというから遠慮は要らず、また相手にとって不足はない。

 虎の本能を迸らせながら、響介は虎群会議の本部に向かった。

 筆頭になったばかりで勝手の分からないだろう古馴染みの友人を手伝うために。

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