第5話「目的地」

 矢崎の話を聞いた英治はその日、すべての授業の間、うわの空だった。


 午後の授業が終わると、彼はまっすぐ家に帰った。帰り道でも、何も考えることができない。ぼんやりした意識の中、得体の知れない恍惚だけが奇妙なまでにはっきりと感じられ、彼は気づかないうちに勃起していた。


 帰宅して寝間着に着替え、自分の部屋のベッドに寝転んだあとも、それはまったく収まる気配がない。英治は少し不安になった。

 ふと、矢崎の顔が頭に浮かんだ。その途端、潮が引くように興奮が冷めていき、かわりに今度は、切迫した不快さが押し寄せてきた。


 仲間の戦果に感心している場合ではない。次は、あとは、自分だけなのだ。

 俺はどうやって、矢崎たちの度肝を抜いてやればいい? 


 そう自問した直後、今朝学校で聞かされた矢崎の話が思い出された。鳥肌が立ち、全身が震えた。武者震いだ。顔には自然と、笑みが浮かんでいた。

 俺は、矢崎よりも、矢崎がしたことよりも、圧倒的な何かをやってやる。


 その晩、英治は眠ることができなかった。目を閉じるたび、まぶたの内側に、朝の矢崎の姿が浮かんだ。同時に彼の声まで聞こえてきて、英治は自分の体内にどうしようもない疼きを覚えてしまう。


 彼は眠ることを諦めた。そして、起きているあいだ中、友人を超える「何か」を考え続けた。


 そしてそのアイデアに思い至ったのは、三日後の、明け方だった。四月の遅くに吹き荒れる、猛烈な風に部屋の窓が悲鳴をあげていた。

 



 その朝英治は、頭が痛いと母親に訴えて学校を休んだ。

 朝の忙しい時間帯にもかかわらず、母親は昨夜の残りのご飯でおかゆを作り、寝床へ持ってきてくれた。

 英治がそれを食べきった頃、支度を終えた母親がもう一度部屋にやって来て、よく寝てなさいよ、とだけ言って出ていった。母親は隣駅の総合病院に勤めている。パートの仕事は夕方までかかり、帰りがけに街道沿いのスーパーで夕飯の食材を買ってくるだろうから、帰宅は六時を少し過ぎるだろう。


 バタンと音がして玄関の戸が閉められるのと同時に、英治はベッドから飛び起きた。学校の制服ではなく私服に着替える。休日しか使わないデイパックをつかみ、台所に向かう。


 台所で「道具」を確認し、手近にあった布巾でくるんでデイパックに詰める。居間に行き、テレビ台の引き出しから、かつては父親が、この頃では母親が、何かの折に使っている小型のビデオカメラを、英治は取り出した。電源を入れて電池の残量を確かめてから、これもデイパックに入れ、玄関に向かった。

 

 スニーカーに足を突っ込んで立ち上がり、雨具のしまわれている靴棚のいちばん端の戸を開け、脇のフックに掛けられた雨ガッパをつかみ出す。それを乱暴に丸め、デイパックに押し込み、玄関をあとにした。

 

 

 朝だというのに、まるで夜空だった。低く垂れ込めた雲は濃紺に近い陰鬱な色をして、どこまでもどこまでも続いている。英治はしばらく、その異様な空から目が離せなかった。

 自宅のアパート前を延びる狭い道路を、いつもとは反対の方向に進む。通勤、通学の時間帯だが、行き交う人の影は少なかった。それでも数人の通行人とすれ違ったものの、誰もがうつむいてスマホを見つめているために、いちいち顔をあげて英治に目を向ける人もいなかった。

 

 道路を途中で右に曲がり、しばらくして今度は左へ曲がる。やがてどの方角へ進んでいるのかわからなくなってきた頃、目の前の道がそのまま橋に変わった。どぶ川じみた濁った流れが下をよぎるその橋を渡ったすぐたもとに、古ぼけた、大きな廃工場があった。

 

 目的地だった。

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