第十話 狂い始めた歯車

 青琥四年九月。繁栄を謳歌する西神陽帝国の帝都福岡。

「ひい、ふう、みい……」

 この国の皇帝である美奈が、算盤片手に何かの計算をしていた。

「すごいねー。黒字は増えていく一方じゃない」

「そりゃ、入ってくる一方で使い道はあんまりないんだもの」

 当時の西神陽帝国は世界一の勤労国家とまでいわれ、経済的に繁栄した。毎月収入額は増加していった。

 しかし黒字増大の原因は収入の増加よりも、むしろ支出の大幅なカットにあった。徹底した効率化で無駄がほとんどなかった。

「何かに使ったら? それだけお金あっても意味無いでしょう?」

 美奈の横に控えているのは、彼女の使用人である秋田あゆみである。ここのところ熱心に政治学や経済学を勉強したこともあって、大分国の政治のことがわかるようになってきた。

「いや、今後何が起こるかわからないし、簡単には使わないよ。それにね……」

 美奈はにんまりと笑った。

「お金が入ってすぐに使うのはバカがすることよ。こう、お金が着々と貯まっていくのが快感なんじゃない」

「ドケチ」

「商人はケチじゃないと務まらないよー」

 いやあんたは皇帝でしょ。あゆみは心の中で突っ込んだ。

 美奈は幼い頃からケチな性格だった。ずっと勉強ばかりしていたので、お金を使う機会がなかったことが大きな原因かもしれない。

 質素倹約を貫いて、蓄財に勤しむことは大いに結構なことだ。現に皇帝の美奈自身もそうしていて、人々の尊敬を集めたのだから。だが、それを国にまで持ち込むと、おかしな方向に行ってしまうこともある。


 この頃、帝国政府内には厄介な問題が起こっていた。

 美奈皇帝の片腕として政策を推し進めていた、大原誠三外務大臣に汚職疑惑が持ち上がっていたのである。捜査が進むに連れて彼らの汚職は明るみに出つつあった。

「このようなことになり申し訳ございません、陛下」

 大原外相は美奈がクーデターを起こしたときに民衆扇動のシナリオを作った功労者だった。その後も美奈政権における難しい外交問題を鮮やかに解決してきた。

「汚職は事実なんですね」

「はい」

 美奈は溜息をついてから、毅然とこう言い放った。

「人ですから誰でも過ちを犯します。今回の事件の罰として、罰金を支払うこと。いいですね? それとあなた方に今辞めてもらっては困ります。検察当局には操作の中止を命じます」

 大原とその横にいた東園宰相がともが驚いた顔をした。

「お言葉ですが陛下。既に私は逮捕寸前なのです。私は大臣を辞任するつも」

「現職大臣の逮捕には私の同意が必要ですよ。先程も言いましたけど、あなた方に今辞めてもらっては困りますので辞任は認めません。職務を全うすることで、責任を取ることですね」

 美奈は東園宰相に検察への捜査中止を命ずる指揮権の発動を命じた。

 大原をかばったというより、有能な大臣を失いたくないという美奈の意思が見て取れる対応だった。彼が退席した後、美奈は再び大きな溜息をついた。

「少々の汚職が何だって言うのよ。彼らの功績を考えれば、微々たるものじゃない。そんな僅かなミスで首を取ったと騒いでいたら、人材がいなくなるわよ」

 確かにそうなのかもしれない。

 しかし美奈は腰を上げたのが若干遅かった。既に大原外相の汚職がほぼ確定していた状況での指揮権発動には検察側に不満を募らせた。そして帝国議会の野党議員、さらには美奈が一番頼りにしていたといっても良い市民達にも、大原外相、東園内閣、そして美奈皇帝自身への不信感を生み出してしまった。

 結局世論に押される形で、指揮権発動を撤回、大原外相は解任され、そして逮捕された。

「何なのよ!」

 大臣を解任したその日の晩。珍しく美奈は荒れていた。

「辞めろ辞めろって、あいつらあの人達以上の仕事ができるっての。些細な一点を取り上げて、辞めろだの、私は強権を発動しただの……批判するしか能がない奴らじゃない!」

「あのさ、美奈。あえて言うけどさ、」

 こういう場面でもあゆみはひるまなかった。

「確かに損得を考えたらあなたのやったことは正しいわ。でもそれよりさ、自分が決めた法律を曲げるのはちょっといただけないんじゃない? 汚職は犯罪ですって決めたのはあんたなんだから」

「そうだけど……それでも例外はあってしかるべきじゃない。今回は国の運営にも大きな影響を及ぼすケース。古今東西、これくらいのことならあったわ」

 歴史家らしく、美奈はいろいろな過去の事例をあげだした。しかしそれをあゆみは途中で遮った。

「今それが通用しないなら、意味無いじゃない」

「意味無いって……まぁ、そうだけど……」

「まぁ指揮権自体がいわば法の例外を認めるルールですから、それを法律で認めている以上は使っても差し障り無いですがね。だから陛下がやったこと自体は問題は無いはずなんですが」

 榮太郎も淡々と状況を飲み込んで美奈に説明する。

「でしょ!」

「でも、タイミングがまずいです。あーいう切り札はね、ばれる前に使わないと、です。陛下が決断したタイミングではもう世間が騒ぎ始めて遅かったです。こうなればあの判断は逆効果なんですよ」

「はぁ……」

 美奈の顔から活力が失われていく。

「陛下。あなたは優しすぎるんです。優しいから人に慕われる。自分を慕ってくれる人を切り捨てられないんですよ、あなたは」

「でも……でも! こんなの酷いじゃない! どうしてこんなことに……」

「とりあえず落ち付けや、美奈」

 いつもなら心地よい夜想曲の奏でも、この日の美奈にとっては心を掻き乱すものでしかなかった。

「この国のために、この国の人達のためにと思ってやったのにさぁ……どうして文句言われなきゃいけないのよ……」

 涙をこらえながら小さな声で、美奈はぽつりと呟いた。


 大原の汚職事件で政権への支持率は下がったものの、まだまだ美奈には先へ進んでいくだけの気力があった。しかし美奈の改革への気概を大きく潰す事件が青琥五年四月に起きた。

 帝国大学の教授で、当時の政治学会の第一人者ともいえた池原昌広教授が美奈皇帝と東園内閣が進める六大改革への反対論文を発表したのだ。以下、その内容を簡単に紹介しておこう。


 親愛なる神陽帝国国民に告ぐ。

 この度政府が推し進めている六大改革は、今まで百年以上培われてきた神陽帝国の伝統を壊しかねないものである。

 美奈皇帝並びに東園宰相は改革の名の下に、伝統ある社会秩序を葬り去ろうとしている。美奈皇帝は極度に前皇帝を嫌い、その頃の社会を野蛮なものとして切り捨てようとしている。これらの時代を生きてきた人間を時代遅れの者として否定しようとする。

 この国には百年以上も前、素晴らしき理想があった。しかし理想だけでは現実社会に根付かず、百年かけて現実がその理想を修正してきた。その現実は理想から見ればわかりにくく、非論理的で、耳が痛いものだったかもしれない。美奈皇帝はそれらの現実を否定して、飾りだけの理想の時代へ戻ろうとしているのだ。その最たるものが、現実の声を聞いていない、形だけは立派な改革構想だ。

 帝国国民よ。理想だけを追い求めて「上からの改革」に賛同してはいけない。真の独立を、真の主権を守らなければいけない。


 このような言論を皇帝に対しても許されているあたり、この国の言論の自由がいかに守られているかを伺える。

 が、当の皇帝自身は、この男を逮捕したりすることはしないとはうえ、相当な敵意を向けていた。

「なんなのよ、こいつは。現実を見てないとかプロパガンダもいいところだわ! 現実を見てないのはあんたら古臭いおっさんの方じゃない!」

 なんとしてもこの改革を成功させてみせる。美奈皇帝は高らかに宣言した。


 これは後の時代の学者の評価だが、元をたどればこの論争はとある学派対立に由来するとのことらしい。だが池原論文をきっかけにして、学界や帝国議会では改革派と守旧派の激しい応酬が続いた。そこに美奈皇帝と東園政権への賛成派と反対派、つまり与党会派と野党会派が与する構図となり、議会では感情的な中傷が飛び交う自体にまで陥っていた。

 このことはそれほどまでに美奈政権、つまり美奈皇帝と東園宰相の求心力が低下していたことを意味する。


「……今日もこんな感じで」

「これ以上やっても泥仕合よ」

 東園の報告を聞いて、美奈は決断した。

「もうすぐ元老院選挙もあるし、これ以上ごたごたやるのはマイナスよ。現在両院共に与党が過半数を取ってるから」

「まさか強行採決ですか」

「……仕方ない」

 今の議会の混乱振りではまともに議論が再開することを望むのも難しかった。

「陛下がおっしゃるのであれば」

「いいのね?」

 順風満帆だったはずなのにいつから歯車が狂い始めたのか。今はもう進むも地獄、止まっても地獄。どうせどうにもならないなら、せめて今できることを無理矢理にでもやってしまおう。

 皇帝と宰相は一蓮托生だった。

「おそらく陛下が思い通りにできるのはこれが最後になりますよ」

「私もその覚悟だわ」

 ごめんなさい、と皇帝は今までの間自分のために尽くした宰相に頭を下げた。

「陛下」

 東園は神妙な顔をしている。

「もしかして……あの子のために、ですか?」

 こくり、と美奈はうなずいた。

「あの人が関わった仕事を無駄にはしたくないの……」

「申し訳ないのは……私の方です」

「いいの。あなたが気にすることじゃない」

 ぎゅっと、美奈は手を握り締めた。

「私は……これくらいしかしてあげられること、ないから」


 美奈皇帝や東園内閣は現実を見ていないという池原の主張は必ずしも的外れなわけではなかった。

 実際、前年末に起こった金融恐慌による不景気や、都市と地方の格差拡大という目の前の問題に対し、政権の対応が後手後手になってしまったことは否定できない。いくら理想の高い改革を掲げてそれに向かって突き進んでも、市民の生活に密着した問題に無策であれば自然と支持は離れていった。

「我が国にはこれまでの改革によって十分な余剰金があります。今こそ不況から立ち直るために、公共事業を起こして貧しい人のために仕事を与え、低所得者には一時的にでも金銭援助をすべきです。財政出動について陛下はどうお考えなのですか?」

「どうしてあくせく働いた人のお金を回さなくちゃいけないのよ。国が何かをしてあげるんじゃなくて、まずは自分達で何とかしないと。そういう意識が貯金もせずに今頃になって金くれと言っている連中とか田舎には足りないんじゃないかしらね?」

 この時期の帝国議会での美奈皇帝の発言の一つがこれなのであるが、財政改革という理想を追い求めるばかり目の前の不況対策に何ら手を打たなかったこの政権の負の部分を象徴している。

 そして大改革をめぐる議会の空転でさらに市民は政権に幻滅することとなった。


 青琥五年七月。上院である元老院選挙で与党は大敗し、東園内閣は退陣することになる。

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