第二話 自由な理想郷、不自由な現実

 中国大陸の東に浮かぶ島々、日本列島。この島では中華文明とは違った国家が太古から築かれていたが、ヨーロッパで近代化がほぼ完了し世界へ乗り出そうとしていた時期に王朝交代が起こり、以降は神陽帝国と呼ばれるようになった。なんとも初代皇帝となった人物が決戦の前に赤い太陽がまさに出でんとする情景を目撃し、勝利を確信したかららしい。それ以前からも神陽帝国を含む歴代の日本国家では太陽が尊ばれてきていた。

 第二次大戦前夜から戦後しばらくの間はこの国にも不況の嵐と内乱が押し寄せ混乱していたが、第八代皇帝に即位した称烈帝博喜が圧倒的な軍事力とカリスマをもってこれを平定し、ここ十年は見かけの上では平穏な時期が到来していた。

 そんな時代からこの物語は始まるのだ。


 首都大阪の近郊にある古の旧都である奈良という町に平城女学院という中高一貫の進学校があった。この学校が博喜皇帝の長女、美奈内親王が即位までの六年間通っていた学び舎である。放課後のクラブ活動が盛んなのはこの手の学校にはよくあることだが、グラウンドで大会に向けて必死に汗を流す運動部員達が居る一方で、使われていないある空き教室でひっそりと行われていた同好会も存在していた。

 「歴史政治法律文化研究会」――このネーミングセンスのない怪しげな同好会も立派な課外活動の一つであった。歴史に埋もれていきそうなこんな小団体が今なお存在を伝えられる理由はただ一点。

「みんな来た?」

 この部活の創設者にして唯一の部長が後の皇帝だったから、ただそれだけである。

「みんなってたった三人だけなのに」

「まぁまぁ。三人寄らば文殊の知恵って言うし~」

 美奈が気まぐれで作ったこの部活は、入学した頃から美奈の親友だった塚口永子と岡本菜々が加わり――巻き込まれ、ともいう――、三人で細々と活動していた。

「で、今日は何すんの? 本読んでるだけなら今日は帰りたいんだけどさ」

 相手が皇帝の娘でもぶっきらぼうな口調で喋る気の強い永子。

「そうね、ここのところネタ切れ気味だしね~」

 お嬢様らしくほわ~んとした空気を漂わせる菜々。

 二人とも学生時代の美奈にとっては貴重な存在だった。

「いや、今回は凄いわよ。たぶんうちの部活が始まって以来最大のビッグプロジェクト」

「大とビッグがかぶってるぞ」

「それくらい凄いってことなのよ! あのね今度実力テストあるじゃない? それで歴史の園田がなんか問題作るの面倒らしいから私達に委託してきたのよ!」

「まじですか」

「私、この学校のフリーダムさ好きだけど時々心配になるわ」

 お嬢様学校なのに自由が溢れていたのがこの平城女学院。「学問を身につけたい」といって中学受験をした美奈がこの学校を選んだのもこの自由さが理由だった。

「私はものすごーく大好きよ」

「まぁ美奈ちゃんはいろいろ大変だから」

 うちも大概だけど、さすがに皇帝家はもっと大変だよねと菜々が同情してくれた。

「で、私達が問題作るのかよ」

「えぇ。じゃ分担決めましょ。まずは大問一は永子で中国史」

「あのさ、私に問題作らせたら三国志のマニアックな問題ばっかりになるけどいいのか?」

「構わないって言ってたわ」

「構わないんだ……」

 そう言いつつも永子の顔はにやけてくる。

「でもやるからにはやるぜ。メジャーどころは出さねぇ。そうだな……公孫氏は絶対いるな」

 なんだかんだ彼女がこの部活に居るのも、彼女自身が相当な歴史オタクだからである。知識は偏っているが。

「永子が妄想モードに入ったところで、じゃ、次。第二問は菜々で日本史」

「二人のことを考えると私は簡単めの問題の方が良いでしょうね~」

 そう言いながら菜々は鞄の中から一冊の本を取り出した。

「『私は誰でしょう?』一問一答、小倉百人一首から厳選三十問、うんこれ行こう!」

「あの……国語じゃなくて歴史の試験よ?」

「わかってるわかってる。例えば『私は清少納言の父です』とか『私は「子子子子子子子子子子子子」が読めました』とか、そんなんでいいでしょ?」

「それのどこが簡単な問題だ」

 永子が突っ込むが菜々は聞いちゃいない。

「あ、でも西行も入れたいなぁ~、ファンとして」

「仕方ないわね。第三問の私が高校生でも解けるレベルの問題を作りましょう」

 もちろんそんなわけはない。

「一番信用ならん奴がよく言うわ」

「やっぱ美奈ちゃんは西洋史担当?」

「もちろん。半分はユスティニアヌス関係の問題、もう半分はナポレオン関係の問題。これならみんな解けるはず」

 どうやら既に問題を作っていたらしく美奈はメモ用紙を机の上に置いた。

「なんだこれ、ニカの乱の皇后テオドラの名言はなにか、って何だよこの問題」

「アウステルリッツの三帝会戦において、ナポレオンが取った芸術的作戦を書きなさい~?」

『わかるかーっ!』

「え、これ確か授業でもやって」

「それはお前の脳内だけの話だ」

「美奈ちゃん、いつも本ばっかり読んでるもんね~」

 こんな感じでいつもふざけあっていたこの部活であったが、美奈にとっては居心地の良い、貴重な空間だった。

 永子も菜々も、そしてこの平城女学院も、美奈を皇帝の娘としてではなく、歴史好きな少し変わった少女として彼女を有りのままに受け入れてくれていたから――。


「いやぁ、今日なんかもうくたくたでさ。罰として五十周は参ったよ」

「体力だけは自信あると思ってたのに、それでへこたれていたら情けないわね」

「無理、あれは無理」

 学校から美奈が帰ってきたとき、玄関あたりで少年と少女がなにやら談笑していた。

「あ、殿下。お帰りなさいませ」

 ぺこりとお辞儀をしたのは、彼女の使用人である秋田あゆみ。じゃぁ、と言い残して少年は館内へ姿を消した。

「ご夕食は七時からの予定となっております」

 あゆみを使用人にしてからもう数年は経つ。二人きりの場面では友人同士も同然だったが、人前では従者として振舞っている。

「あの子……確か、小さい頃あなたと遊んでた子?」

「はい。先の大蔵大臣、綿谷様のご子息の修司君です。確か綿谷家は皇室と血がつながっていると」

「大分遠いらしいけどね」

 自室に着くなり、あゆみが部屋にいる状態で美奈は部屋の鍵をかけた。これは二人だけで話があるという意味。

「最近のお父様は少し気が立っているわ」

 はぁ、と美奈は溜息。

「疑心暗鬼になってる」

「無理もないわよ。不穏な空気が流れているからね」

「……例の暴動はまだ続いてるの?」

「かなりまずいことになっているみたい」

「……そう」

 博喜皇帝を端的に一言で表すなら「中興の独裁者」といったところであろうか。

 若い頃から皇族ながら軍隊で活躍していた彼は、兄帝の崩御を受け即位すると、圧倒的な軍事力を以て内憂外患を制圧し、帝国に平和をもたらした。国民の間では当初は絶大な支持を誇ったが、次第に独裁者としての性格が出ることになる。あまりの強権的手法に反発していた帝国議会を武力で閉鎖し、一般市民に対しては言論統制や厳罰化によって反対意見を押さえ込んだ。

 博喜皇帝について後世の歴史家は、絶対君主制を良しとした相当な保守的な人物として捉えることになる。

「今までのツケよ」

 それでは長女の美奈は父のことをどう思っていたか。部屋で二百年も前のヨーロッパの市民革命の物語に共感し、学舎では自由の空気を吸い込んでいた彼女にとって、父親の強権的な独裁政治は相容れるものではなかった。

「ある意味天然記念物よ、うちの国は。二十世紀にもなってこんな独裁国家が存在するなんて、後世の歴史家にとっては良い研究材料でしょうね」

「…………」

 美奈の父親への「文句」に対しては、あゆみはいつも何も返すことができなかった。心の中では美奈に共感していても、美奈の考えに同意すること、つまりは現在の皇帝に異を唱えることは、死を意味するものだから。

「あぁ、ごめん。あなたにこんなこと言ってもどうしようもないわね。下がっていいわよ」

「はい」

 閉塞感の漂う現実の世界より、躍動感のある本の中の世界の方がよほど面白い。そんなことを思いながら、美奈は歴史書に手を伸ばそうとした。


 翌朝。宮殿は朝早くから騒がしく、その煽りを受けて朝が得意ではない美奈も早く目が覚めてしまった。部屋を出てみると、多くの人間がばたばたと行き来している。その中には軍人も居た。

「何の騒ぎなの?」

 一人の軍人に声をかけたが、彼は答えることなく過ぎ去っていってしまった。

「あぁ、起きておられましたか美奈様」

 丁度そのとき、初老の男が彼女の元へやってきた。山崎龍一という名の帝国宰相だ。美奈からすれば、博喜の言いなりになって働いているだけの人間なのだが、イエスマンだからこそ宰相にまでなれたのかしら、とも思っていた。

「これだけ騒がしかったら起きるわよ。いったい何の騒ぎ?」

「昨晩遅くから未明にかけて『掃討作戦』を実施しまして、現在その処理に追われているところです」

「『掃討作戦』……?」

「天神橋一体にここ数日デモ隊が居座っていましたよね。あれをです」

 ――デモ隊を掃討。

「ちょっと……」

 美奈の顔から血の気が薄れていく。

「ご心配なく。あなたに残虐な光景はお見せしませんよ。それと、今あなたが外を出歩くのは大変危険です。今日は学校を一日お休みください。では、失礼」

 何の感情も表さずに、山崎は事実を語って去っていった。


 称烈十七年六月。神陽帝国の首都・大阪の天神橋にて、数日前から滞留していた民主化を求める一般市民に対し、政府が「掃討作戦」を実施。後に「天神橋事件」と呼ばれた大量虐殺事件である。

 こんな国際化と情報化の進んだ現代にこんな事件を起こしてしまって、一体この国はどうなってしまうのか――もうすぐ十七歳になる少女にこの事件の記憶は、父へのさらなる嫌悪感と共に深く根付いたのであった。

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