二十話 噂
乱世において、情報は生死の境目となる重要なものだ。何を出し惜しみ、どう揺さぶりをかけるかで、そのものの命は決まってくる。
だからこそ濃は噂への好奇心を出しすぎないように、かといって情報を逃さないようにあいまいに微笑んで見せた。
「そうですね、私は新参者ですから未だ知らぬことも多いですが、いろいろとご家族に関して興味深い話はあるみたいだとは」
濃は暗に信長の振る舞いや信行との確執や家督争いの噂を知っていることをにおわせたが、信長からは予想外の方向での答えが返ってきた。
「お前に関しての噂は?」
「私、ですか」
濃はまだ尾張に嫁いで来て日が浅い。だが全面的に喜んで迎えられたわけでもないし、土田御前や信行など反信長派の人間にとっての心証を考えれば、短期間でもあっても根も葉もない噂を言いふらされていてもおかしくはない。
信長なりに忠告しに来たのだろうかと、濃は眉をひそめて問い返した。
「何か、嫌な噂があるのですが?」
「あるといえばある、ないといえばない」
「はい?」
謎かけのような言葉に首をかしげる濃に対して信長は仏頂面だった、歯に物が詰まってはいるがなかなか取り切れない不快感、そんな嫌そうな顔で彼は言った。
「美濃から正妻を迎えたのに、俺の振る舞いは改まらないし、渡ることもない――だから、俺とお前は夫婦仲がうまくいっていないらしい」
「それは……」
正直なところそれに関しては、根も葉もある噂といっていいかもしれない。
予想外の噂に濃は返す言葉を失い、破りがたい沈黙がその場を支配した。
あまりにも明らかであることを指摘されると、詭弁を弄するのは難しいことなのである。
この沈黙を破ったのは、傍らに控えていた近衛だった。
「なるほど、ですから土田御前は姫様を双六に誘ったのですね」
「お鷺!」
あっさりとこちらの情報を明かした近衛をとっさに衛門がたしなめる。が、出てしまったものは出てしまったもので信長の目が興味深げに細められた。
「双六だと? お前が?」
「ええ、私がお義母様と、ご存知ありませんでしたか?」
正直なところ信長が知っているかどうかは分からなかったが、あの贈り物合戦はさすがに噂になってもおかしくないし、噂になるようにふるまっている節すらあった。案の定、信長はすぐ合点がいったらしい。
「やたら愛想よく振舞っているみたいだと思ったがなるほどな、不仲の嫁を取り込もうというわけか、分かりやすいが良い手だな」
「他人事のようですね」
政略結婚とはいえ自分の正妻についての話であるし、残念ながら可能性としては十分にあり得る話である。
だが、信長にはその濃の態度が予想外だったのか、驚いたように彼女を見やった。
「いや、だってお前はあちらにはつかないだろう?」
「それは、大した自信がおありで。案外分かりませんよ?」
にっこりと濃は美濃の姫君らしく嫣然と笑ってみせた。
全く心配しない信長の態度が腹立たしかったからでもあるのだが、信長はまったく気にする様子がなく、逆にニヤリと人が悪い笑みをうかべた。
「そんな分かりやすい利益がほしいなら、尾張にお前は嫁いでいないだろう。お前はそんなに安い女じゃない」
返す言葉が思いつかなかった。
思いがけない甘言にうろたえてしまったのか、ひょうひょうとしつつも底の知れない瞳に見透かされた気がして極まりが悪くなったのか、とにかく訳の分からない焦燥感にとっさに濃は目をそらした。
面白そうな顔でそんな濃を見てくる信長には、また腹立たしい気持ちを覚えた。
「信長公、姫様をあまりいじめないでくださいませ。まだ姫様は病み上がりなのでございますよ」
「俺は褒めたつもりだったんだがな」
二人の間に割って入ったのは、厳しい顔つきの衛門だった。あえて口調を激しくすることで濃に助け舟を出そうというつもりなのだろう。
「衛門、信長公も悪気が合ったことではないのですし、私は全く気にしていませんから。体調も以前よりは格段に持ち直しています」
衛門という会話の糸口が見つかったからか、濃はまた美濃の姫君として堂々と振る舞えた。こういう場の流れに一石を投じることこそが、衛門の優秀なところであるといえる。
濃は冷静になったような気がする頭で、これからの手について考えた。
信長と自分は仮にも夫婦だ、深夜の訪れは男女の関係にもなることは全く不思議なことではない。
向こうにその気があるのかは正直判断しがたいが、あまり引きとどめ続けてその展開になる心の準備はまだ濃になかった。
それに何よりもこれ以上ここで探り合って痛いのはこちらの腹の方だ、向こうは痛いはずの事も全く気にしていないのだから。
「全くか」
「はい?」
濃が考えていたことと重なったため、若干上ずった声が出た。
が、信長は自己解釈で納得したらしく、濃たちに考えを明かすことなく、おもむろに立ち上がった。
「信長公?」
「帰る。伝えることは伝えたし、俺のやりたいことはやれた」
「帰られるのですか」
唐突な行動はある意味願ったりかなったりの事だったのだが、突然すぎたために思わず濃は確認してしまう。
これではまるで引き留めているようだと思ったら、信長の方もそう思ったらしく驚いたような顔で濃を見ていた。
その反応に焦った濃は、矢継ぎ早に言葉をつづけ誤魔化した。
「いえ、帰られるのならば帰った方がよいと私は思います。その病をうつすかもしれませんし、まだ私も美濃の家族に文を描くなどすることはありますし、信長公もお忙しいでしょうから」
「病に倒れたにしては元気そうだが?」
「病は元気になったように見える時こそ、うつりやすいのでございます」
断じて残られては困ると思い、濃は有無を言わせない圧力を持った完ぺきな笑顔を浮かべて信長を見た。
信長も信長でそこの読み切れない、だがどことなく面白そうな顔で濃を見ており、内心冷や汗がでた。
と、その瞬間建物の軋む音と同時が信長の後方でした。
小さくも耳に残る音を立てたのは衛門で、彼女は何食わぬ顔で信長の後ろの襖を開けていた。
「信長公、帰られるのでございましょう? 本日は姫様を気遣ってくださり誠にありがとうございます。私は一介のしがない侍女でしかございませんが、姫様をいたわってくださるお気持ちは本当に心よりうれしく思います」
そう言って美しく一礼する衛門は殊勝な言葉と、追い出そうとする強引な行動が全く合っていない。
その場の呆然とした視線にも涼しい顔の彼女に続いて、近衛も追い打ちをかけた。
「私からもお礼を申し上げます。姫様はこう見えて寂しがりやでございますから、このように気にかけてくださる所作誠に嬉しく感極まる気持ちでございます。是非、御身を大事に気を付けてお帰りくださいませ」
近衛の一例も礼儀作法の教えにしたいくらいに完ぺきで、顔は相変わらずの無表情とはいえ、それでも真摯に伝わるその演技は圧巻のものであった。
腹黒さを感じさせないが有無を言わせぬ圧倒的な笑顔、一見そうは見えなくても的確に完膚なきまでに逃げ道をつぶす行動力、彼女たちもまた美濃の女なのだと濃はそう思った。
信長は何も言わなかった。彼は濃をちらりと見、衛門と近衛を見ると、行きと同じように悠々とその場を後にして部屋を出た。
「……おやすみなさいませ」
やっとのことで濃がそう送り出すと、信長は背を向けたまま言った。
「ひとつ言い忘れていたことがある」
三人の女の視線が信長に集中する。ひょいと何でもないように振り返った信長は何でもないようにこう言った。
「俺はくのいちは飼っていない」
「……はい?」
いかに信長の突拍子のない発言には慣れつつあるとはいっても、突拍子がないものに驚かないことはできなかった。どんな意図か読めずに疑問を顔に浮かべた濃に、信長は悪戯めいた顔を向けるとすぐに背を向けた。
「そういうことだ、じゃあな、帰る」
形としては濃たちが信長を追い出すようなものだったはずなのだが、これしきの事で左右されないのが織田信長という男なのだろう。疑問を残された濃はいつものように釈然としない、引き留めたくなる気持ちで彼を見送った。
月はいびつな形なれど、精一杯に夜空を照らしていた。
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