十二話 遭遇

 逃げるようにして那古屋城に帰ったころには、時刻は夕暮れの少し前とちょうどよい時間帯になっていた。

 城下町での出来事は結果的に丸く収まったとはいえ、なにやら何まで納得がいかない気持ちだった。だが、掘り起こして痛い目にもあいたくないので、帰蝶はこのことは誰にも言わず、比較的静かに帰還しようと心に決めた。


 いつもよりも警戒しながら、裏口や人がほとんど通らない道を、人目をはばかるように静かに早足で進む。


「……殿のこと」


 かすかに人のような声が聞こえて、帰蝶は急ぐ足を止めた。

 見れば目指す先に数人の男たちがいて、うち一人の見覚えがある姿に帰蝶は怪訝に思い眉をひそめた。

 明らかに高貴と分かる若武者とそのおつきのものが数人、彼らが対峙しているのは一人の商人、奇妙な取り合わせである。

 おそらく商人のなりをしているものは忍びなのだろうと察したが、こんなところで何の話をしているのか。


 なにやらきな臭い、と帰蝶はすっと目を細めて考えた。今まで誤魔化して帰ることで占められていた頭の中身が、美濃の姫君として鮮明になっていくのが自分でも分かった。

 自分は濃だ、ならば敵の懐にいる身として得られる情報は正確に多く得ておきたい。濃は足音を立てないように、そっと近づいた。


「母上はその気になった。もとより、あれがすべての原因だ、しかるように進めばどうとでもなる」

「左様で」


 見覚えのある高貴そうな若武者は織田信行、彼の言う母上とは初対面から独特だったあの土田御前のことだろう。

 話の聞きはじめではあるが、嫌な予感を濃はますます感じ、よりよく聞こうと近づきもう一歩足を踏み出した。


「それで例の件だが」

「お待ちを」


 その瞬間、帰蝶はえもいわれぬ殺気を感じた。

 商人の男が姿が見えないにしても、気配でこちらを視ていることがよく分かった。市女傘の布も、着物も動きにくくて衣擦れの音がしやすく密偵にはまったく向いてはいない、たててしまった音に気がつかれたのだろう。


「そこのもの、なにものだ」


 咎めるように信行の付き人がこちらに声を投げかけ、不審者の気配を確かめようと向かってくる。

 だがその速さはまだ若いからか手際がけっしてよくなく、まともな忍びなら十分逃げられる、と濃は確信した。まあ、濃は逃げるつもりなど少しもなかったのだが。


「失礼いたしました、私、お濃のお方にお仕えしております、鷺と申しますが」


 影にたたずんでいた姿が、怪しいものではなくただの侍女だったことは予想をしていなかったのか、付き人の男たちはあっけにとられたように濃を見ている。


「義姉上の侍女か」

「これは信行様、お初にお目通りいたします――なにやら重要なお話をなされていた御様子、お邪魔しては悪いと立ち去ろうと思っていたのですが、間に合わなかったようで、申し訳のうございます」


 深く一例をすると信行は不審げではあったが、ことを荒立てるわけにはいかないとは思ったらしい。

 目線で付き人や商人を下がらせると、濃に疑いのまなざしを向けた。


「何ゆえ、このようなところを通って」

「姫様はまだ美濃から嫁がれてわずかでございますので、あまり目立ちたくないと。お方様との仲も良好とはいえませんから」


 土田御前と濃姫との仲を思えば、このような不審な説明であっても納得はできなくない。

 信行の顔はあからさまに不愉快そうだったが、問い詰める姿勢がないことから、これは不信感ではなく元々の嫌悪感からだろうと濃は判断した。


「美濃の作法は表の歩き方もないのか」

「田舎ものゆえ、尾張の作法は未だ分かりかねまして。何せ、嫁いでこられる姫の名前よりほかに大事なものが多いようで、いやはや勉強中の身でございます」


 分かりやすい皮肉をしおらしく受け取る身ではないので、暗に土田御前のキチョウの姫の件についてほのめかすと、信行は押し黙った。まだまだそこらへんは青いものがあるらしい。


「信行様、申し訳ないのですが、私姫様に言いつけられた用がございますので――失礼させていただきたく」

「ああ、義姉上はご病気だとか。早々に美濃に帰られるようなことがないといいが」

「ご心配ありがたく受け取っておきまする、では」


 信行の皮肉をあっさりと受け流すと、濃は立ち上がり――気がついた。


「病気?」


 口の中でつぶやいた言葉はほかの誰にも聞こえるわけではないが、濃は嫌な予感を感じ取った。

 確かに濃姫は今病に倒れている最中である、だが何ゆえそれを信行が知っているのか。当主の息子といえども、濃の隔離されている状況や普段のかかわりを思えば知っているのはいささか不自然だ。


「そうだ、鷺といったか、母上が後で見舞いに参るといっていた。足りぬ侍女でなおかつ田舎者の小娘が相手では十分にはできぬかも知れぬがな。おぬしも無駄ごとなどせず帰ったほうが」

「見舞いですって!?」


 姫君の侍女はもちろん、姫君自身でもないような声が出た。

 あのいろいろ分かりやすいとはいえ、悪意満々の土田御前が見舞いなど予想だにしない事態だった。

 日ごろの関わりからして、彼女を含め城の者ぐらいならば、一日ぐらい濃が病になったところで誰も気が付かないと思っていたが、どうも思ったようにはことは運んでいないらしい。

 思い通りにいかなくて、良い結果につながるということは多々ある。胸の内でぼんやりと漂っていた嫌な予感が、明確な形で濃の胸を襲った。


「ご忠告痛み入りますわ、では失礼いたします!」


 濃は手短に話を切り上げると、足早にというよりも、全力で信行と一行の前を走っていった。

 不思議なことに彼女はすさまじい速さでありながらも、姿勢は完璧な作法通りでありその姿は異様で奇妙この上なかった。

 通常の濃ならばこのような失態を犯さなかったかもしれないが、先ほどまで帰蝶であったはずみか、予想外の事態に焦ってしまったからか、濃が自身の行動の異様さに気が付くことはなかった。


 一方信行の方はというと彼は信じがたい気持ちで一国の姫君では勿論、一介の田舎育ちの侍女でもありえないその姿を見送った。

 先ほどまで作法どおりの完璧でしたたかな侍女としてやりあっていたからこそ、狐に化かされて幻を見せられているような気分だった。


「……義姉上はずいぶん変わったものを手元においているのだな」


 かろうじて搾り出された言葉は、信行にしては嫌味のないまっすぐなものだった。

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