七話 キチョウの姫君


 吉兆と称されるものが世の中には存在する。

 五色の彩雲や太陽の後光など、めでたいことの印としてこれらは珍重される。


 また逆に凶事の前触れとなる出来事も存在する。

 凶兆、鏡が割れる、異形の獣が現れるなど種類は多いが――その一つに黄の蝶というものがある。土田御前の先の言葉は濃の真の名前である帰蝶を不吉の前兆である黄蝶に重ね合わせたのだろう。


 明らかな濃への侮辱だった。


 今にも怒鳴りそうな衛門を、濃は肩をたたいて思いとどまらせた。

 仮にも同盟国の花嫁に対して、この仕打ち、そしてそれをいさめるものがいない現実――はっきりいって異常だ。だが、ここで大人しく引き下がるわけにはいかない。何故ならば濃は美濃の姫君なのだから。


「お義母様には伝わっていなかったのかしら、私この嫁入りの為に名を改めたのですが」

「あら、そうでしたの」


 よほど愉快でたまらないのか、土田御前が着物の裾で口元を隠す。

 濃は穏やかな微笑のまま義母を見やると、一呼吸の後、一歩彼女へと足を踏み出した。

 堂々たるその様に、予想外だったのか土田御前がひるんだ。


「……お気にさわったことでもあって?」

「私の今の名は濃でございます。今後、織田家では濃として振る舞う所存でございます」


 少し土にまみれ、薄汚れた白い着物でも濃の覇気は全く衰えることが無かった。ひるんだ土田御前にはかまわず、濃は着物を手に取り、広げた。


 豪奢な着物が風に揺れてはためく。黄蝶が宙を舞っているかのように、風に揺れる。


 誰も言葉を発するものはいなかった。魅入られたかのように濃に視線が集まる。

 濃はその視線を感じながら、何の躊躇もなく黄蝶を羽織った。


「禍福は糾える縄の如し、と申します。吉凶は裏表、この乱世いくらでも変わりようがございます」


 自身のまとう黄蝶を見せつけるように、濃は土田御前と信行を見た。彼らは愕然とした表情を浮かべていて、それを見て少し気持ちが落ち着いた。


「凶を吉に転じさせ、国を富ませるのが領主の役目でございます。そして、吉凶を制すことが出来なくば滅びるが乱世の定め――お義母様」


 ここで自分が呼ばれるとは思っていなかったのか、土田御前が明らかにひるんだ顔を浮かべた。


「どのようなご意図か分かりませんが、せっかくお義母様がくださったキチョウの姫君の名、有り難く頂戴いたしましょう。凶を吉と転じさせる織田家の手腕、楽しく拝見させていただきます」


 帰蝶の艶然とした笑顔はその場の言葉を封じ、しばし静寂が訪れた。

 誰も何も言わない、だが誰もが分かっていた。不敵な微笑を浮かべる濃と口元をわななかせる土田御前、その勝敗は歴然としていた。


 土田御前が何かを言うかと思ったが、その前に思いがけない笑い声がした。


「ふ……はは、はははは!」


 中年の頃合いだろうか、心底楽しそうな男の声だった。

 その声音に土田御前、信行はもちろん、濃ですら吸い寄せられるようにその人物を見た。


 目元がはっきりとした芯の強そうな男だった。身にまとう藍色の着物や、周囲の反応、そしてそれ以上に彼の持つ覇気で濃は彼が誰かを悟った。


「な、ち、父上!?」


 慌てているのか、信行の声は大層上ずっていた。

 その眼を白黒とさせた様は、先ほどから張り付くようにしてあった嘘くささを吹き飛ばし、彼をその年ごろの子供に見せ、濃は少し驚いた。


「……あなたは急用で明日まで帰ってこないと聞いておりましたが」


 純粋に驚く信行に対して、土田御前は思ったよりも落ち着いていた。落ち着いているからこそ、その低い声音に得も言われぬ不満が、はっきりと滲み出ていた。


「まあ、早く帰れる時もあろう。それに今日はそなたが来ると知っていたからな」


 男、織田信秀が濃へ目を向けた。見透かすようなその眼に、濃は一瞬逃げたくなったが、踏みとどまって見返した。


「なかなか面白かった、流石は道三殿の娘御だな」


 濃がどう答えるか思案している中、信秀が土田御前を見やりつつ言葉を続けた。


「家内がいささか出過ぎた真似をしたかもしれないが、悪くは思わないでほしい。これは根っから悪人ではないのだ」


 流石に当主に言われれば気まずいのか、土田御前が目をそらした。濃はそんな彼女を一瞥し、笑顔を浮かべた。


「存じております。それにこのように温かく迎えていただけたのですから、私から不満など出ようはずもありません」


 その場の緊張は以前よりも大分ほどけていた。どうやら家臣たちは土田御前の怒りを買いたくないがゆえに黙っていただけらしく、彼らなりにこの展開に不安を持っていたらしいと察した、


 ここいらが正念場だろうと判断した濃は、信秀を見た後、一同を目を合わせるようにして見やった。最後に土田御前と信行を見て、微笑を浮かべると、濃は一礼した。


「遅れながら、私、斎藤道三が娘、ただいま尾張に到着いたしました。今後、織田家の嫁として勤めを果たさせていただきたく――よろしくお願いいたします」


 顔をゆっくりと上げると、満足そうな、興味深そうな信秀の顔が見えた。


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