サワーがつないでくれたもの(3)

 打ち上げの場所は、いつもと同じく、安い居酒屋だった。

 幹事役の先輩の誘導で、私はおじさん上司の真向かいという緊張感あふれる席に座った。戦々恐々として乾杯する。


 一杯目が終わると、おじさん上司を含む幹部連中は、仕事絡みの話で勝手に盛り上がった。

 私はベテラン勢の話に耳を傾けながら、目立たないようほとんど口も挟まず、大人しく座っていた。


 酒の席で黙っていると、自然と飲むペースは上がる。隣の人が何か追加オーダーをしていたので、一緒に生絞りのグレープフルーツサワーを頼んだ。


 他にどんな飲み物が置いてあるのかと居酒屋のメニューにしばし目を通し、ふと顔を上げると、両脇の人たちと話し込んでいたはずのおじさん上司が、じっと私を見ていた。


 メニューを見たいのかと思い、それを渡そうとしたら、彼は面白そうな顔で、「絞るやつ頼んだの?」と聞いてきた。人と話しながらもこちらの動向を把握しているとは、さすが勤続二十年以上のキャリアを持つ管理職だ。

 私が「グレープフルーツサワーを注文した」と答えると、彼はますます面白そうな表情をした。


「そうだ。自分で絞るサワーの飲み方、知ってる?」


 安いサワーなんかに、何の作法があるというのか。果物を絞って、果汁をグラスの中に入れるだけではないか。


「こういうのはね、同席してる男に頼むもんなんだ。狙ってる男がいたら、そいつに向かってニコッとして『絞るの、やってくれる?』と言うのがいいんだぞお」


 一体どうしたんだ。今回は妙にが強いじゃないか。余計なお世話を通り越して、若干セクハラの域に足を突っ込みかけてはいないか。特に変わった様子は見えないが、おじさん上司め、飲み過ぎたのか。


「なんで人に頼まなきゃいけないんですか」


 私は彼の主張に猛然と反発した。

 自分で出来ることをなぜ他人に頼まなければならないのだ。それも殿方限定なんて、そんな必要が一体どこにあるというんだ。世の中そういう人種がいることは承知しているが、全く迷惑千万だ。奴らのおかげで女がみんな軽く見られるんだ。自ら己の立ち位置を貶めるような真似ができるか。こっちはただでさえ出来ることが少なくて悩んでいるというのに。


 アルコールが入った新人の演説を、おじさん上司は黙って聞いていた。そして、私が一息ついた時、のんびりと口を開いた。


「いやいや、そういうことじゃなくって。ただね、みんなで楽しく酒飲んでる時にさ、ものすごい形相で鼻の穴おっぴろげて『ふんぬうぅぅぅ~』って息吐きながらグリグリ絞るのって、どうかなあって思っただけ。人が飯食ってる前で『ふんぬうぅぅぅ~』ってやられたら、百年の恋もナントカだと思わない?」


 なるほど、彼の言うことも一理あるかもしれない。人様の前で、思いっきり鼻の穴を広げて「ふんぬうぅぅぅ~」は、男女関係なく、確かに見苦しい。

 要は、スマートに絞ればいいのだ。顔色一つ変えず、決して鼻の穴を広げず、あっさり絞って見せればいいのだろう。



 そんな話をしているうちに、サワーが入ったグラスと絞り器、そして、半分にカットされたグレープフルーツが運ばれて来た。


 私は、おじさん上司のほうをちらりと見てから、右手をグレープフルーツの上に載せた。黄色い果物が、やけに大きく感じた。

 普段はほとんど意識しないが、背の低い私は、手もかなり小さいほうだ。ピアノをやっていた子供時代は、オクターブ奏法が出来なくて苦労した。握力は、大人になっても、右手左手ともに二十に届かない程度である。


 体重をかけて絞ろうと腰を浮かして、妙な視線に気が付いた。


 おじさん上司が、テーブルを囲む全員が、会話を止めて、じっと私を見ている。私の顔を見ている。私の鼻を、鼻の穴を見ている……。



 私はグレープフルーツから手を離し、自分でも分かるくらい憮然とした顔で、「申し訳ないんですが、たぶんうまく絞れないので、お願いできますか」と言って、グレープフルーツの載った絞り器を、おじさん上司のほうに押しやった。


 彼は「うん」と子供のような返事をすると、五秒ほどかけてグリグリと絞り、果汁をサワーグラスに入れた。そして、不愉快そうに礼を言う私に、「いい判断だったね」と笑いかけた。


「苦手なことはさ、変に構えないで、得意そうな奴に頼んじゃいなよ」


 そう言う彼の表情は、勝ち誇ったようなそれとは全く違っていた。


「出来ることはどんどんやればいいし、難しいと思うことは、周囲を遠慮なく巻き込んで、手伝ってもらえばいいんだよ。そういうの、男とか女とか何も関係ないと思うんだよね」


 おじさん上司の隣で、彼より十歳ほど若い先輩が、うんうんと頷いていた。


「これから先長いんだしさ、毎日一人でギリギリ頑張ってたら、身が持たないよ。それに、他人を使って仕事を円滑にすすめる能力も、いずれ必要になってくるから。こっちとしても、一人で抱え込んでドタバタやられたら、正直、気が気じゃないよ。手に負えなさそうと思ったら早めに言ってくれるほうが、仕事を振るほうも気軽に振れるんだけどね」


 私、そんなにみっともなくドタバタしてたかなあ。鼻の穴広げて「ふんぬうぅぅぅ~」って感じだったかなあ。

 特に自覚はなかったが、職場に漂っていたように思えた「女ならではのアウェイ感」をどうにかしたくて、焦っていたところがあったかもしれない。手のかかる新人を温かく受け入れてくれた人たちのために早く一人前になりたくて、変に肩の力が入り過ぎていたかもしれない。


 ピント外れな私の努力を修正したくて、周囲の面々はずっと困っていたのだろうか。お節介なおじさん上司は、私をリラックスさせたくて、何かと構っていたのだろうか。

 もしそうだとしても、やはり彼のやり方は相当ピント外れだと思うけど。



 おじさん上司は、飲みかけの焼酎の湯割りを手にすると、乾杯しようという仕草をした。グラスを合わせ、サワーを一口飲むと、かなり苦みが強かった。

 おじさんめ、グリグリ絞り過ぎだ。


 思わず顔をしかめたら、ほんの少し涙がこぼれた。


 おじさん上司は、意地っ張りな新人の様子には気付かないフリをして、周囲に座る面々と、しきりに乾杯を繰り返していた。




 果汁百%のグレープフルーツジュースを飲むと、時々、お節介だったおじさん上司の憎めない顔が頭に浮かぶ。あの時の奇妙なトークは、今でも私の心を温かくしてくれる。

 本来は、グレープフルーツが思い出の象徴になるべきところなのだろう。しかし、おじさん上司がグリグリ絞って作ってくれたサワーは、本当に果汁百%のジュースのように渋くて苦かったのだ。




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