初めてのバーは危険な香り(5)


 それ以来、クソ男からお誘いがかかることはなかった。仕事面で仕返しされるかもしれないと警戒したが、以後、彼はすっかり大人しくなり、結局、何の対策も講じる必要はなかった。

 淡々と仕事に勤しむ彼を見て、少々やり過ぎたかとほんのわずかだけ罪悪感を覚えたが、職場環境の改善に貢献したのだと思うことにした。


 しかし、私の認識は甘かった。


 彼は大人しくなったのではなく、次のターゲットを探してなりをひそめていたのである。

 酒豪二人の連携プレーに懲りたのか、彼は「手あたり次第」の方針を転換し、ターゲットの志向や性格、もしかしたら人間関係まで、じっくり観察してから行動に移すことにしたらしい。



 私が彼のバーで散々飲んでから一年半ほど経った時のことだ。

 仕事中、事務所の倉庫に何がしかの備品を取りに行った私は、中で資料整理をしていたらしい事務員のBさんと出くわした。彼女は私とは別の部署に所属していたが、顔を合わせれば雑談するくらいの付き合いはあった。


 Bさんは、倉庫の中に他の人間がいないことを確認すると、突然クソ男の名前をあげ、「〇〇さん、あの人のこと、好きだったりしないですよね?」と私に聞いてきた。


 冗談じゃねえ、あんなクソ男を好きになるわけねーだろ。おっと、あまりにびっくりして言葉遣いが荒々しくなってしまった。

 冗談ではございません。あのようなお方に何の興味もございません。


 しかし、なぜそんなことを聞くのだろう。私のヘラヘラ顔は、クソ男に色目を使っているようにでも見えるのだろうか。考えただけでチキン肌だ。


 だが、声をひそめたBさんの話は、寒気がするどころの内容ではなかった。


「彼に、ご飯食べに行こうって言われて……」


 おう、ついに奴は行動開始か。それで、一人で行くのは嫌だから一緒に来てくれって話だね。喜んでご依頼受けますよ。先輩A女史から受けた恩は、せめて第三者に返さなければ。


「取りあえず行ったんですけど……」


 なんだ、もう過去の話か。


 私は危うく「大丈夫だった?」と聞きそうになるのを、ぐっとこらえた。


「それから、休みの日とかに、一緒に出かけて……」


 ええっ、そういう展開になりましたか。



 Bさんは生真面目なタイプで、やはり、相手の言いなりになりやすそうな感じの人だった。いかにも都会慣れしていなさそうな地味な風貌は私にそっくりで、嫌なものはイヤと言い切れないところも似ている。

 違うのは、いけすかない男を「クソ男」と断じる私よりずっと優しく大らかな性格であることと、アルコールがほとんど飲めないという点だった。


 自分で言うのも何だが、相対的に考えれば、Bさんのほうが私なんぞよりよほど「いい女」だ。それに、男性視点から見れば、私より格段に扱いやすいのは間違いない。

 あのクソ男、ちゃんと調査しないで即物志向に走るから、酒豪を釣り上げて返り討ちに合うんだ。まあ、なんだかんだ言いつつ、結局、奴には不釣り合いなほどの「上物」をゲットできて良かったじゃないの。


 取りあえず、心の中で祝福してやった。



 クソ男が釣り上げた「上物」には、しかし、付き合って数年以上になる恋人がいた。すでに結婚を真剣に考えている段階だと、以前にBさん本人から聞いたことがあったのだ。

 そんな究極の「リア充」女性に、彼は大胆にも攻勢をかけ、あろうことか勝利した。奴にそんな一発逆転の必殺技があったとは、驚愕の一言に尽きる。私には見えない魅力が、奴に隠されていたというのか。


 人の価値観は様々だ。私なら「クソ」の範疇に分類する男も、Bさんにとっては、現役の彼氏以上に「理想の殿方」として堂々一位にランクインしたのだろう。

 他人の価値観が自分とそれと異なるからといって、問われもしないのに物申すのは、不遜の極みというものだ。Bさんの彼氏さんには気の毒だが、出会う順番が逆だったら良かったのに、と言うしかない。Bさんがクソ男とゴールインしたら、喜んでご祝儀をお送りしよう。



 しかし、当のBさんは、クソ男とのゴールインを心待ちにしてはいなかった。なぜなら、長い付き合いの彼氏を裏切るつもりは毛頭なかったからである。


 クソ男が最初にBさんにアプローチしてきた時、彼女は自分に彼氏がいることを伝えたのだという。しかし、クソ男は引き下がらず、「食事くらい……」としつこく誘い続けた。

 優しいBさんは断り切れずに、クソ男と二人で食事に行った。一回だけのつもりが、その後も誘われるままになんとなく数を重ね、やがてプライベートの付き合いが始まり……。


 彼女は、彼氏以外の男を好きになったことに当惑している、と言って泣いた。


 誰だって、ほんの僅かの気の迷いくらいあるだろう。恋人が他の男と二人で休日を過ごすなど、彼氏さんからしたら言語道断な話には違いないが、幸い、その彼氏さんは別の会社に勤めているという。

 秘密の休日を後悔するなら、速攻クソ男と縁を切り、きれいさっぱり忘れてしまえ。


 そういう趣旨のことを優しく伝える言葉はないもんかなあ、と考えていたら、Bさんの口から衝撃的な言葉が飛び出した。


「彼は、『もしデキても構わない』って……」


 ちょ、ちょっと待て。「デキても」って何だ。何がデキるんだ。そういう会話、いつどこでするんだ? 

 の話かの話かは知らないが、メンタル的には前者の場合でも大問題だ。そこまで意識してしまったら、ウォッカのストレートを一気飲みしたって、きれいさっぱり忘れるのは難しいだろうから。


 その後間もなく、私は他部署へ異動したため、当の二人がどうなったかは分からない。あれから相当に長い年月が過ぎ去ってしまったが、Bさんが幸せに過ごしていることを祈るばかりである。



 生真面目で聡明なタイプだったBさんの言動は、話を聞いたその時は、さっぱり信じられなかった。

 女性側に彼氏がいるのを承知でしつこく誘う男など、人様のものを奪い取ることに快感を覚える正真正銘の「クソ」ではないのか。何をどう間違ったら、そんなクソ男に好意を覚えるのだろう。奴の言いなりになるほどに。


 ただ、クソ男に連れられて初めてバーに行った時のことを思い出すと、彼女が奴の思いどおりに誘導された心情は、全く理解できないわけでもなかった。


 心を舞い上がらせる都会の夜。溢れる光が、喧噪が、街に不慣れな者を圧倒する。ひとつ脇道に入れば、突如として現れる暗く静かな空間が、方向感覚さえも麻痺させる。頼りになるのは、己を言葉巧みに誘い出し、導いてゆく男だけだ。

 その彼に勧められるまま、バーのカウンター席に座り、甘いカクテルを口にする。しっとりとした音楽が、周囲のすべてを艶めかせる。特に意識する存在でもなかったはずの男が、ふと見ると、なぜか洗練された大人の姿に映る。


 彼は決して急がない。ただ、女の心が揺らぐのを、じっと待っている。小さな揺らぎが、本物の好意にすり替わってしまうのを、虎視眈々と、待っている……。



 クソ男がアルコールに弱いBさんをあのバーに連れて行ったのかは分からないが、何らかの手段で己を幻想的に見せることに成功したのだろう。

 

 Bさんが「クソ男を好きか」と私に尋ねてきたところから推測すれば、奴はおそらく、己に好意を寄せ始めた彼女に、以前に私と飲んだことがあるなどと、わざと言ったのかもしれない。

 返り討ちに合った顛末は伏せ、都合のいい部分だけに適当な脚色を加えて。

 私の話をダシに、彼女の嫉妬心と焦燥感を煽り、冷静な判断ができないほどに、追い詰めていったのかもしれない。


 クソ男は、自分を演出することを知っている。恋心を抱き始めた女性の心をコントロールする術にも長けている。正真正銘の悪いオトコだ。


 もし、クソ男が私を誘ってきた時に先輩A女史が通りかからなかったら、彼女に同行を頼むという発想は、おそらく出てこなかった。一人で奴の誘いを受け、都会の街に惑わされ、バーの雰囲気に飲みこまれ、そして、奴のペースにのせられていたかもしれない。たとえその日は無事に帰れたとしても、すでに彼に興味を抱いてしまっていれば、その時点で敗北だ。

 A女史がいなかったら、クソ男に翻弄されていたのは、私だったかもしれないのだ。



 物事の明暗は、時として「運」などという不確定な要素だけで決定してしまうものなのだろう。それは何と不条理な、と声を大にしてみても、誰にもどうすることもできない。

 人生初のバー体験は、人の世の無情の真理を、容赦なく教えてくれた。




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