酔迷人(よまいびと)

弦巻耀

第1話 バーの街にデビュー

バーの街にデビュー


 バーのカウンター席にひとり、カクテルを飲む女がいる。美しい色を湛えるグラスを静かに見つめる大きな瞳は物憂げに揺れるばかりで、艶のある唇からはただひとつの言葉すら紡がれはしない。マホガニー系の色合いに統一された小さな店の中で、女は、ペンダントライトが降りこぼすほのかな灯りと、バーテンダーが振るシェイカーの小気味よい音に、ゆったりと身をゆだねる……。



 ……というシチュエーションが似合う大人になるのが夢だった。


 こう書くと、子供の頃から外見も中身も大人びて、早々に化粧に凝り出し、流行りのファションに身を包んで、週末はいつも都会の街を散々に遊び歩いていた、という人間を想像されるかもしれない。


 しかし、現実は残酷なほどに真逆だった。アイラインを引けば道化顔、マキシ丈を着れば床掃除状態、という童顔おチビが己のリアル。時期が来ればいずれ色香も漂い出すとのんきにタカをくくっていたが、ティーンズを卒業しても、一向にその気配は現れてこなかった。


 私が全く適性のない世界に憧れた原因は、おそらく、多感な十代後半に、美女が登場するスパイ映画と「大人向け」アニメを見すぎたことにある。

 セクシーな女性キャラに厚かましくも自分を重ね、脳内で、デキる殿方と渡り合いシックなバーでお洒落を気取る……。


 家人の誰かが私の前に手鏡を置いて妄想を止めてくれれば良かったのだが、不幸にして両親は、私の冴えない地味な容姿を嘆き悲しむばかりで、私の頭の中が胡散臭いバーの店内になっていることになど、全く気付かなかったようである。



 実際、リアルの人生は子供の頃から地味だった。実家は副都心と呼ばれる街のひとつまで急行電車で四十分ほどという場所だったが、なぜか渋谷とも原宿とも無縁のまま、中学、高校と過ごしてしまった。


 それでも高三の時分には、「大学生活はやっぱり都会でカッコ良く!」という野望を抱いていた。

 しかし、ふたを開けて見れば、受験結果は一勝四敗一不戦敗。選択の余地もなく、実家と同程度に緑豊かな「非都会エリア」に立地する大学に進学することになってしまった。


 大学生になったからには、バーでも山でも海外でも一人で自由に行けばよい、と思われることだろう。しかし、妄想しか抱いたことのない分野に何のきっかけもなく飛び込むのは、実際のところ大変に難しい。

 何の趣味もなく定年を迎えた男が、突然趣味に没頭しようにもどうしたらいいか分からない、と狼狽するのと、おそらく同じようなところである。


 バーデビューに備えて、まずは昼間の都会で遊ぼう、と思ったが、何しろ勝手が分からない。取りあえず、周囲の人間がよく話題にする渋谷や原宿に行けばいいのか。しかし、行って何をするんだろう。


 まずは服見る? ファッションなんて面倒くさ。

 喫茶店でお茶? 近所のチェーン店で十分。

 雑貨屋めぐり? 百均のほうが楽しいよ。

 お洒落に食事? ファミレスのほうが気楽で安い。



 冷静に考えてみれば、都会の休日に私の興味を引くものは全くなかった。私はバーに憧れているのであって、人込みにもまれて買い物をしたり、行列を作って人気のスイーツを食べることには、何の楽しみも覚えない。往復の時間と電車賃がかかることを考慮すれば、都会遊びなど確実にマイナスだ。


 せめて、都会で遊ぶのが好きな友人でもいれば、その子につられて都会の街を知るきっかけもあったのだろう。

 しかし「類友」とはよく言ったもので、私の友人たちの大半は地味な生活を好む素朴派だった。休日は、人の多い都会の街をうろうろするより、家で漫画を読むかアニメを見るか、もしくはそういったものを購入するための資金作りに勤しむのが吉、という価値観の持ち主ばかりだった。


 ややオタクの香りが漂うことは、敢えて否定しない。こういう連中に囲まれて過ごすのは、決して居心地の悪いものではなかった。



 私には妄想バーが関の山だ。生まれてこの方、白馬の王子様を夢見たことなど全くもってなかったが、私をバーに連れて行ってくれる素敵な王子様でも現れないかなあ。



 妄想に明け暮れて過ごした日々の代償は、就職活動をしようかという段になって、いきなり顕著に表れた。


 まず、都会初心者は地下鉄を乗りこなせない。四路線が乗り入れている駅の構造がどうなっているかなんて考えたこともないのだから、現地に行って初めて、地下鉄を乗り換えるのに何百メートルも歩かされる場合があることに気付く。

 ようやく目的の駅に着けば、今度は恐ろしい数の出口が待ち構えている。選択を間違えて、大通りを挟み反対側の出口から地上に出てしまった時には、もはや自分がどちらを向いて途方に暮れているのかすら分からない。


 今なら携帯端末に地図を表示してそれを頼りに目的地を目指すこともできるが、当時はそんな文明の利器はなかった。

 仕方なく訪問先の会社に電話をすると、先方は親切に道順を教えてくれる。ところが、「右手に〇〇ビルが見えますか?」と言われても、ランドマークなのであろうその「〇〇ビル」が分からない。


 こんな調子じゃ、夜の街の小さなバーを気取った顔で訪れるなんて、とてもじゃないが不可能だ。いやいや、バーの前に、就職先が見つかるかどうか。


 他人が何をしようと我が道を行くのが美しい、と固く信じて生きてきたが、やはり、人並みのことは一通り経験しておくのが望ましいということなのだろう。やってみてから面白いか否かを判断しても、大して時間の無駄にはならない。脳内妄想に興じていた時間の、そのたった一割でも、幅広い人生経験のために費やしていたならば、もう少し違う展開があっただろうに。

 と、そんなことを就活に入ってから悟っても、あまりにも遅すぎる。



 未だに信じられないのだが、そんな困った人間を、なんと雇ってくれるところがあった。有り得ないほどに有難い奇跡、と小躍りして喜んだ。


 卒業間近になって示された私の勤務地は、それまでの人生で一度も足を踏み入れたことのない「都心」と呼ばれる大都会のひとつだった。

 しかも、オフィス街というよりは、どちらかと言えば「繁華街」として有名なエリア。四車線の大きな通りに沿って、高そうなレストラン、高そうな喫茶店、高そうなクラブ、そして、高そうなバーがたくさん並ぶ。


 まさに、何という、何という運命。


 私は、わくわくしながら、社会人デビューの日を迎えた。新たな未来を前に顔を引き締める同期たちの横で、私は、必ずこの街のバーにデビューしてやる、と一人決意を新たにした。


 働き始めた初日に最も印象に残った出来事といえば、定時の五時に帰してもらった私が職場の最寄り駅まで歩いて来た時、地下鉄の階段を上がって来た「きらびやかな」お姉さんたちを間近に目撃したことだ。彼女たちは、光沢のある派手なスーツを着た兄さんが出口近くに立っているのを見ると、夕方にも関わらず、「お早うございまあす」と挨拶していた。

 バーとは違うが、都会の夜の世界を匂わせるその艶っぽいやり取りに、思わずクラリときてしまった。アルコール抜きで酔っぱらった気分を経験したのは、この時が初めてである。




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