六十日目(後):すべての元凶は代償を払い……

「リネット様の破滅は、最終段階に達しました」

 アガレスは、飄々とした声音でわたしに宣告する。

「肉体的な苦痛。精神的な恥辱。この五十日で王女はそれらを存分に体験し、しかも今後もそこから抜け出す見込みは皆無に等しい」

 たぶんアガレスが言うからには、そうなのだろう。

 よしんば仮に『リネット』の身体と生活を取り戻せたとしても――

「もし万々が一、元に戻ることができたとしても、この苦痛と恥辱は魂にまで焼きつき、王女は決してまっとうな幸福など得ることができない。そうお思いになりませんか、オクタヴィア様?」

 突如アガレスが背後に呼びかけると、闇の奥からポートスパンの伯爵令嬢が姿を見せた。深い眠りにでも陥っていたところだったのか、夢の中でもネグリジェを着ていて、だらしなく着崩している。

 オクタヴィアは、急の出現に戸惑うわたしを一瞥して言った。高慢がすべての美点を台無しにする、古い家柄の愚かな貴族にありがちの醜さには、一層磨きがかかっていた。

「まだこの女、夢の中では人間の姿じゃないの。実際はどんな浅ましい化け物になっているのか、はっきり見せて欲しいわね」

「かしこまりました」

 オクタヴィアの要求に、アガレスは唯々諾々と従う。そしてわたしに指を向けた。

「アガレス、あなた、何を……」

「悪魔は夢の中では力が激減します。しかし何もできないわけじゃありません。夢魔なんて連中もいるわけですしね」

 そして変化の公爵は、わたしに一条の光を発射する。

 それに射抜かれたわたしは、夢の中なのに激しい熱に襲われた。光の当たった部分から身体全体へと、耐え難い熱さが広がっていく。

 目眩を感じ、立っていられなくなって、わたしは両手を下に突いてしまう。

 すると。

 人間であった――夢の中では人間のままでいられた――わたしの身体が、次第に変化し始めた。

 長く伸ばした髪の毛が抜け落ちていく。

 白く滑らかな腕が黒みを帯びた硬い皮膚へと変わりながら太く大きくなっていき、五本ある小さな指は鉄をも両断する長く凶悪な爪を備えた四本の指へと形を変えていく。

 顎の形が変わっていく。鼻を伴って前方へ長く伸びていく。その内側では歯が牙へと変化していく。

 首が、人ではありえない長さに伸びていく。

 全身が巨大化していき、最近の夢の中でわたしがずっと着ていたドレスは簡単に破れ、虚空の中に散り散りになってしまった。

 身体の中で内臓までも変わっていく。ドラゴンには炎を生み出す器官があるようで、呼吸器と入り混じるそれの影響により、吐く息は火山地帯のごとき腐臭を漂わせるようになっていく。

 髪のすべて抜け落ちた頭部には二本の角が、尻からは体長に匹敵する長さの尾が、圧倒的な存在感とともに生え揃う。まるでわたしに、今の自分が人でないと常に言い聞かせるためのように。

 熱さが全身から引いていった時、わたしは完全なブラックドラゴンに成り果てていた。

「これにてリネット王女は夢の中でもドラゴンの姿で生きていくこととなりました。いかがでしょう、オクタヴィア様?」

「この先一生? 本当に?」

 喜色満面に、オクタヴィアが確認する。

「これまでアガレスが言を違えたことがありますか? 契約が続く限り、アガレスは貴女様の忠実なしもべです」

 アガレスの言葉は真実だとわたしにはわかった。

 全身を――ここは夢なのだから、つまりはわたしの魂を――何かが縛りつけている。

 これが解かれない限り、わたしは今後人の姿をとることができそうにないと肌身に感じられてならなかった。

 身悶えする。声を上げようにも、軋むような声しか出せない。

 そんなわたしを見て、オクタヴィアはさらに笑みを深くした。

「あはははは! それが今の王女様? まあ怖い、何ておぞましいお姿かしら!」

 そう言いながらも、弾むような足取りでわたしの足元に近寄って来る。夢の中である限り自分がわたしに危害を加えられたりはしないとよく知っているのだろう。

「ご機嫌はいかが? 気位の高い高慢ちきで取り澄ましたお姫様! あの時はあたしに恥をかかせてさぞよいご気分だったことでしょうけど、こうなっちゃみじめなものよね! ざまあみなさい、邪悪なドラゴン!」

 幼い言葉を稚拙に連ねてわたしを罵る。どうやらあの一件は、本当に彼女にとって屈辱的だったらしい。

 言いたいことはあるが、口を開いても竜の鳴き声では単にオクタヴィアを喜ばせるだけだ。そう認識したわたしは、じっとその場に佇んだ。

「ねえアガレス、こいつが何を考えているかがわかんないとつまんないわ」

「では元に戻しましょうか?」

「なんでそんなことすんのよ! 姿も声もそのままで、ただ思っていることはこちらに伝わるようにしなさいよ!」

「かしこまりました」

 その瞬間、わたしの中で何かが外に開くような感覚があった。泳いだ後に耳に入っていた水が抜けていく時のような感触。

 ――……アガレス。

「聞こえておりますよ、リネット様」

「こんな奴に様をつける必要なんかないってば! ……でも、ほんとにアガレスは何でもできるのね」

 わたしはオクタヴィアを見下ろした。

 ――ポートスパンのオクタヴィア。

「な、何よ」

 ――わたしを逆恨みするのは構いません。このような姿に身をやつしたことも、わたし一人の問題であれば、まだ耐えられます。

「はん、何殊勝なこと言っちゃってんのよ。どうせ建前のくせに」

 いかにもその通り、建前だ。こんな目に遭わされて耐えられるわけがない。でも、建前を押し通すべき場面というものはある。

 ――ですが、あなたの私怨がエルスバーグの罪なき民を多く死に至らしめた。そのことについては、今、どのようにお考えか。

「そんなの、あたしのせいじゃないわよ。アガレスがまどろっこしいことしたのが悪いんじゃない」

 ――今、と問うている。すでに事は起こり、結果が生じた。それに対してあなたはいかように考えるのか。

 重ねて訊ねると、オクタヴィアはそっぽを向いた。

「別に知らないわよ。よその国の兵隊なんかが何人死んだって、あたしにはこれっぽっちも関係ない話だもの」

 それが問いに対する答えなら、わたしはこう言うしかなかった。

 ――……わたしは、あなたを許しません。決して。

 ただの言葉。今のわたしに何ができるわけでもない。けれど、どうしても言わねばならなかった。

「許さなければどうだっての? 何かできるものならしてみなさいよ!」

 貴族の家に生まれた下賤な娘は、わたしを挑発するように手をひらひらと振った。

「ところでオクタヴィア様。明日の成り行きですが……」

 アガレスが、娘に耳打ちした。

「あはははっ! それいいわね! こいつってば、今よりまだ酷いことになるんだ!」

 手を打って、わたしを指差し、これ見よがしに笑う。

 わたしはただそれを見つめる。その程度の言葉で動じたくないという気持ちが強かったが、これ以上どう状況が悪くなるのか見当がつかないせいでもあった。

「気に入っていただけましたか?」

「そうね、大満足!」

 かりそめの主従による会話が続く。

「わたくしからはこれ以上するべきことが思いつかないのですが、オクタヴィア様には何か案がございますか?」

「何よそれ。考えて手を打つのがあんたの仕事でしょ」

「ですから、これまでわたくしは色々考えて様々に手を打ってきたわけです。リネット王女をここからさらに虐げる方法は、当面思いつきません。オクタヴィア様には何か考えつくことはございませんか?」

 重ねてアガレスが問いかける。

「んー、別にないわ」

「そうですか。何か思いついていただければ、それの実現に向けて努力いたしますが?」

 もう一度問われしばらくは考え込んでいたが、結局大したことを思いつかなかったのか、首を横に振る。

「しつこいわねー、もういいわよこれで」

「はあ。もういい、ですか」

 わたしと話す時と違ってそれまで無表情に振る舞っていたアガレスが、初めてオクタヴィアに向けて笑みを浮かべた。

 ひどく邪悪な笑みに見えた。

「それはすなわち契約の完了ということでよろしいですね?」

「さっきからうるさいわよ! そろそろこのつまんない場所から元のベッドに戻しなさいってば!」

 幼児のように手足をばたつかせる娘を、アガレスは冷ややかに見つめた。

「契約完了。ゆえに今後、わたくしは貴女に従ういわれはございません。そしてわたくしは、貴女に代償を要求いたします」

「……代償?」

「貴女が作動させた杖には注意書きがついていたはずなんですがね。まあ、貴女バカですし、ろくに読まずにでたらめに動かしたみたいですから、気づいてなかったとしても不思議はないんですが」

「アガレス! 何よその失敬な口の利き方は!」

「言ったでやんしょ? 契約は終わったって。正直この六十日間、苦痛で苦痛でたまりませんでしたよ、貴女みたいなバカ娘の醜い願いを叶えるために東奔西走するのはね」

 すっかりわたしの知るいつもの調子を取り戻したアガレスは、肩をすくめるとオクタヴィアを見下して言った。

「で、あなたが知らずに契約まで済ませた『代償』なんですがね。貴女の魂そのものですよ。ちゃっちゃと渡していただきます」

「……え?」

「え、じゃないですよ。魂。心。悪魔がそれを要求するなんて、砂漠で喉の渇いた人間が水を求めるのと同じくらいありふれた話だと思いますがねえ」

「あ、ちょ、ちょっと、待ちなさいよ」

「待ちません。貴女の願いは叶った。リネット王女はこれ以上はなかなかないってくらい完全に破滅した。貴女自身が契約完了を否定しなかった。なら、こちらはこちらで最後の清算を済ませても、何ら問題はないでしょう?」

「だ、だって、あたし、そんなの知らなくて――」

 わたしもすでに知っていたし、たとえ聞かされていなくても推測は容易だった話なのだが、オクタヴィアには本当に寝耳に水だったらしい。

「無知は罪ですよ。人生の最後にいい教訓を得ましたね、お嬢さん」

 アガレスは、掌をオクタヴィアに突き出す。

 するとそこへ引かれるように、娘の身体から光る玉が飛び出して、掌の中に収まった。

 ――死んだのですか?

「正確にはまだですね。魂がしばらく抜けてても肉体は動いてるものです。リネット様の魂をそちらに宛がってしまえばちょうどいいのかもしれませんが、わたくしの立場上それはできないので悪しからず」

 ――それは、わたしからもごめんこうむります。

 人間の、それも同年代でそれなりに身分の高い、少女の身体。今のドラゴンの身体に比べればもちろん魅力的だが、それでも我慢できることとできないことはある。

「まあ、そう言うだろうと思ってました。かと言って腐らせるのももったいないので、適当に見繕っておくとしましょうかね」

 ――当人の魂はどうするのです?

 平然と悪魔とそんな会話ができる自分が不思議だ。やはりわたしは魔物として生きるうちに、すでに人の道を踏み外しているのかもしれない。

「そうですね。食べ応えがあるなら別の身体に移植したりしてじっくり感情をしゃぶり尽くすところなんですが、あいにくこの娘は虫みたいなものですからちっとも美味じゃない。まあ、色々試してみますので、そのうち相応しいところへ落ち着くんじゃないかと思いますよ」

 光る玉を無造作に弄びながらアガレスは言った。

「ところで王女様」

 ――何ですか?

「明日、貴女様に何が起きるか教えて差し上げましょう」

 そう切り出すと、アガレスはわたしに待ち受ける事態について話し始めた。



「では、さらばです」

 わたしとの会話を終えると、アガレスは闇の中に消え失せた。

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