第五幕 長期休暇には旅をしよう(後)
二十、海岸
朝っぱらから大きなあくびをかみ殺した。すでに部屋にはポーラさんの姿はなく、窓からは日の光が差し込んでいる。
「ソラ、もしかして寝不足?」
「ああ、いや大したことはないんだ」
実を言うとリルが頻繁に寝返りを打つせいでよく眠れなかったのだけど。眠ろうとしたその瞬間にごそごそ動かれたんじゃろくに眠れやしない。
「そういや昨日はごたごたしてて聞かなかったけど、魔法が使いにくいってのはどうなった? 昨日魔法の練習してたときは――」
「うーんやっぱりちょっと違和感残ったかな。馬車が泥にはまってるみたいな感じ」
相変わらずリルの例えは理解しがたい。
「場所によって変わることなんてあるのか?」
「魔力の分布は大きく見ればほぼ一様だって聞いてるし、場所が変わっても何も違いはないと思うんだけどね」
「ならリルが体調でも崩してるとか?」
「いや全然」
だったら理由は皆目見当がつかない。それ以上話が続かなくて、俺もリルも黙ってしまった。
しばらくそうやって静かにしていたが、やがて俺の言葉が沈黙を破った。
「……今日は何をしようか?」
「んじゃあさ、海! 見に行こうよ!」
リルがそれに元気よく答えて、俺たちはようやっと動き出した。
厨房には人がいるようだったが、「跳ねる蛙亭」は朝は営業していないようなのでそこらへんで何か買って食べながら海に向かうことになった。
さすがは商人の街である。朝でも通りには価格交渉の声や馬車の音、人々の織り成す喧騒が満ちていた。しかしそれは不快なものではなく、どこか落ち着きを与えるようなざわめきだ。
俺たちは通りを、海の方へ向かって歩き出した。途中、大きなパンを買ってそれをふたりで交互にちぎりっては口に運んだ。ラトラでもパンは普通に手に入ったので俺は安心した。よく考えなくてもラトラで手に入らないものの方が少ないのはわかりきってるけど。
ラトラを出て東に進むと、港街ポルトがある。かなり近い位置にあるこのふたつの街の間は、行き交う商人が途絶えない。俺たちがのんびりと歩いている横を、何台もの馬車が追い越したりすれ違ったりした。
向こうから吹いてきた風に、俺の鼻はかいだことのない臭いを感じた。というかなんか生臭い。これが「潮の香り」ってやつなのだろうか。
軽い上り坂が下りに変わると、急に視界が開けた。その向こうにはポルトの街並みや、桟橋に泊められた船が見える。そしてさらに向こうには、群青色の水面が広がっていた。
「うぉお、海だ……」
海から吹きつける風は湿っていて暖かく、遥か彼方まで続く海面は陽光を反射して小鳥のさえずりのように輝いている。
「ねぇソラ、あれ全部水なの?」
「そりゃそうなんだろ、海なんだから」
そうは答えたものの、実際のところは自分でもあまり現実味がなかった。何しろ河より多くの水があるところを見たのは初めてなのだ。
ポルトの港、岸に横付けされたたくさんの商船を横目に、俺たちは静かな入り江に足を踏み入れた。俺たちの他に人はおらず、波は穏やかだった。
リルはためらいもなく靴を脱ぎ捨て、海に向かって駆け出していく。
「あ、おいちょっと待てよ!」
急いで俺も荷物を置き、靴を脱いでリルを追いかける。波打ち際に着いたとき、ちょうど波がやって来て俺の足を濡らした。水は冷たくて、ひんやりとした感覚が広がった。
水遊びの季節には少し遅いがまだまだ気温は高い。俺はリルに近寄ろうと一歩踏み出して、盛大にすっころんだ。服に引っ掛かったのか何なのか全くわからなかったが、とにかく俺はほぼ顔面から水に浸かることになった。
「ソラ、大丈夫?」
心配したリルが引っ張り起こしてくれて、俺は立ち上がった。
「いや大して痛くはなかったんだけど、想像してたより何倍かしょっぱいな」
海水には塩気があるというのは聞いていたがこれほどとは思わなかった。
「そんなに!? どれどれ……、ほんとだ。しかも苦い」
リルは少し舐めてみて思いっ切り顔をしかめた。その表情が妙に面白くて俺は笑ってしまった。
「こんなに塩辛いんじゃ飲み水にはならないな。飲んだら余計に喉が渇くだろう」
「水はたくさんあるのに一滴も飲めないって不条理だね! 僕だったら耐えられないよ!」
至極真面目な顔をしてリルが言い放った。確かにいちいち河から水を運んでくるとかしてるなら面倒そうだな、とは思うけど。
「確か水道ってのが整備されてるらしいぞ。河から水を引いてあるんだ」
「へぇ、だったら水には困らないのか」
飲み水を手に入れる知恵に、リルはいささか感心したようだった。
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