第2話ガトーショコラ(前編)

「どうぞ」

「あ……ああ」


 椅子を引かれ、席に着く。

 よく見れば、この店に椅子は1脚しかない。テーブルも一つだ。


 ……本当にこの店は商売する気があるのか?


「それでは、ただいまお持ちいたしますね」

 そう言って、少女は店の奥に引っ込む。


 一人ぽつりと、椅子に取り残される俺。

 途端にしんと静まる店内。

 時計だけが時を刻む。

 コチコチと。


「……んだよ。まじで人の気配しねーじゃん。ほんとに一人でやってんだな……」

 

 なし崩し的に座ってはみたものの、この店、大丈夫なんだろうな?

 メニューがねえって……何出されるかわかったもんじゃねえじゃん。なんかとんでもない出されたら?

 いや、でも、金はいらねえって言ってたしな。

 いやいや、そんな口約束、どこまで信じられるよ。ていうか無料とかありえなくね?


 そんな風に警戒しながら、しかしやることもなく店内を見やる。

 よく磨かれた、光沢のある飴色の木製机。

 棚に飾られた銀食器も、壁にかけられた絵画も、見るからに年代物であることを感じさせるものばかりだ。

 

(こんな店、縁がねえよ。普通なら、茶の一杯も飲めなさそうな店構えじゃねえか)

 でも、なんだろうな。

 なぜか、高級店のような敷居の高さはなくて――

 ……不思議と、居心地がいい。

 

 琥珀の中に閉じ込められた化石のような。

 つまらない日常から切り離されたような、そんな不思議な空間だった。


「お待たせしました」


 はっと我に返る。

 店内を眺めているうちに、いつの間にか時間が経っていたみたいだ。


 ことり、と目の前に皿が置かれる。


「う、わ……」

 それを見るなり、思わず声をもらしてしまった。

 鮮やかな濃紅の曲線に彩られた、滑らかな白い皿。

 その中心に、切り分けられたケーキが、乗っている。

 暗褐色のその表面には一筋、流れ星のように粉糖がふりかけられ、断面はしっとりと艶のあるチョコレート色を見せている。

 見るだけで食欲をそそられる一皿に、ごくりと唾を飲み込む。


「ガトーショコラでございます」

「これ……食べていいのか?」

「もちろんです。お客様のための一品ですから」


 チョコレートは好物だ。

 嬉々としてフォークを手に取り、三角形の先端に差し込む。

 ずっしりと重たい手ごたえを感じた。


 切り分けたケーキを口に入れる。


「!? なんだこれ、美味っ!」

 

 思わず歓声をあげる。


 どっしりとした生地は、生チョコのように濃密。噛みしめるとねっとりと舌に絡みつき、はじけるようにチョコレートの香りが、がつんと鼻に抜ける。

 やわらかな苦味、力強いカカオ感、濃厚なコク、ほのかに香る洋酒の隠し味。

 それらが渾然一体となって口の中を満たしてくる。


(やべえって、これ。こんなケーキ、食べたことねえ)

 

 慌てて二口目を食べる。

 別にケーキは逃げはしないけど、この美味しさに手を止めるのは無理だった。


 長く味わいたくて、小さめに切り分けて食べる。

 三口目。四口目。

 ああ、美味い。なんてこった。たった一切れのケーキに、感動している。

 チョコレートは媚薬としての効果もあるなんていうけど、今の俺は完全に目の前の食べ物に魅了されていた。

 

 五口目を食べたところで気付く。


 最初に食べたとき、ケーキはやや冷やされていた。

 それにより、ずしりと濃厚なチョコ感を堪能したものだが、しかし今。ケーキは皿の上で室温に戻っていた。


 それにより、するりと吸い込まれるようにフォークが沈む。

(温度が上がって、柔らかくなってんだ……)


 口に入れる。

 そのかたまりは舌でつぶれて、またたく間に口の中でとろけだした。

(うわあ……、さっきより、香りがすげえ!) 

 しっかりとした形を保っていた先ほどは、味覚を刺激された。

 だが、するすると咥内をすべり落ちていく今は、華やかで香り高く深い、カカオのアロマに全身が浸るようだった。


「ガトーショコラって、こんなにうまいもんだったのかよ……」


 六口目、七口目も無心で食べ続ける。

 気がつけば、皿は綺麗に空になっていた。

(終わっちまった……)

 ほう、とため息をつく。

 

 量としては、男子高校生の腹を満たすほど多くはない。

 でも、量ではなく、そのクオリティによって、俺の腹は――というより気分は――文句なく満たされていた。


「お気に召していただけましたか?」

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