第08話「暗雲」

 失敗が失敗でなくなる。ミスがミスでなくなる。思い悩んでいた苦しみが、さらなる巨大な悪意で、元々なかったように掻き消されてしまう。


 それこそ、針の先で打ったような黒点が、桶でぶち撒けられた墨の河で覆い隠されてしまうかのように。


 ロムレス国境警備騎士団は隊長が飲んだくれで屑なのを筆頭に、どう考えても兵員の質量ともに冗談としか思えない、指揮官を含めて五人の隊であるが、それなりに仕事はきちんと行っていた。


 結果論としかいいようがないが。


 国境線を仕切るように伸びた長城は、本来万余の兵を込めてはじめて機能する巨大なものであるが、ロムレスは隣国ユーロティアとの泰平に現実を直視するのを忘れ、事実として侵攻を許す結果となった。


 敵影、見たり。


 チャーリーの報告は、はじめ見間違いだとしか思えなかったが、離れた村の入会地で薪を集めていた村人の証言でそれらは補完されることとなった。


「嘘ですよね――? だ、だって、ロムレスとユーロティアは友好国っすよね?」


 長城のてっぺんに向けて、日頃ほとんど使わない階段を上る最中、ハンナは顔をこわばらせて、見間違いであったという願望がさも事実でなければ許さないといったふうに話しかけてきた。


「それは正しくはない。俺たちは、停戦中なだけだ」


 城壁へ躍り出るように飛び出すと、夕焼けをバックに無数の砂塵が高々と上がっているのが目に入り、自然、身体に激しい震えが起きた。


「あ、ああ……そ、そんなぁ……」


 ハンナをはじめとする、チャーリーもスタックもトマスも、眼下に迫っている一塊の軍勢を見て声も出ない様子だった。


 村人は、丘を覆うように無数の旗を見たといったが、目の前に迫る数は、せいぜい四、五百程度といったところか。


 だが、ハンナたちからすれば、村人全員合わせた数よりもはるかに多い兵が天より下ったかのように見えたのだろう。その驚きは、兵役を受けず地方で安穏とした暮らしをしていた素朴な村衆には無理もない悪夢であろう。


 パッと見て、兵員の数を正確に当てるのはかなり難しい。相当な軍歴のある将校ですら、数百を数千、及び万に達すると決めつけることもままあるのだ。


「ど、どうすれば。隊長、あたしたち、どうすればいいっすか」

「心配するな。いきなり戦闘にはならん――と思う」

「いいかげん過ぎるっすよお」


 大物見――俺は彼らを小規模な威力偵察隊と見た。


 たぶん、ユーロティアの軍勢は、この長城がもぬけの殻だとついぞ思いもしないのだろう。


 なので、城門から現れた騎兵に呑み込まれないよう、相当な距離を取っているのがわかった。


 魔力で強化した眼力だからわかる事実である。ハッキリいうと知りたくもなかったが。


 俺はうろたえまくっている部下たちを無視すると、城壁の際に並んでいる焚火台に目を走らせた。


 一応、万が一を思って薪を定期的に交換させてある。

 敵兵はたかだか数百でこの長城を攻めようとは思わないのか、距離を取ってジッとこちらの出方を窺っている。

 睨めっこをしている間に、日はとっぷりと暮れた。


「チャーリー。俺が単騎で出る。その間にありったけの旗をそこいらじゅうに掲げろ」

「え? そんなっ。隊長ひとりで出ていくなんて自殺行為だっぺ!」

「いいからとっととやれ。ほかにたいした手も思いつかないしな」


 ぐだぐだいってる時間も余裕もない。とっとと階段を駆け下りると、厩から散星号に跨って、しずしずと城門を出る。さすがに、ひとりで来るとは思っていなかったのか、敵陣に動揺が走った。ここいらは経験としかいいようがない。相手は、いまだこちらを探っている。


 俺はもごもごと呪文を唱えると、城壁に並んでいた焚火台の薪へと魔術でいっせいに火を放った。


 おお、と敵から驚きの声が上がるのがわかった。


 真っ暗な闇で、いちどきにこうも赤々と火がつけられれば、少なくともこの場所に、兵士は五人程度しかいないとは思わない。それが人間心理ってやつだ。


 すぐ背後の門の影からかさこそする小さな音が聞こえた。ちらりと目線を動かすと、ハンナがおっかなびっくり剣を手にしていつでも加勢に出られるよう待機していた。


 ぶるっているのにこういう健気なところは、本当にかわいらしい。すっと身体から余分な力が抜けた。


 散星号に跨ったままその場に留まっていると、白旗を掲げた敵の軍使が青毛の馬に乗って近づいてきた。


「貴公はロムレスの名のある騎士とお見受けする」


 訛りがきついがなんとか聞き取れた。兜からぴょこんとはみ出した奇妙な耳は亜人との混血なのだろうか。


 どちらにしても冷え切った瞳からはなにを考えているかは読み取れそうにない。まだ、だいぶ若い。二十代前半か、下手したら十代だろう。俺も、パッと見は年寄りもかなり若く見られるので問うたのだろう。


「砦を預かる東征安鎮将軍ジラルドだ」

「ジラルド……! その名は聞き及びがある。統一戦争で名を上げた英雄か」


「ユーロティア軍がなんの用件だ。おまえたちは我がロムレスの領土に踏み込んでいる。直ちに退去を願いたい。通じているか?」

「言葉は問題ない。我らは、貴国との盟約を破棄し、国是として進軍を開始した」


 彼らのいう国是とは、いうに及ばずこの大陸すべての領土を統一するという古来よりどの国もが露わにしている明白な方針だ。


 千余年の栄華を誇ったロムレス帝国が瓦解した際に、その忌み子として生まれたのが、当時、バラバラに分かれた各地を領していた五人の大貴族たちが作った独立国である。


 エトリア、リーグヒルデ、ユーロティア、ルミアスランサ、ワンガシーク。


 本土とされるロムレスを含めて、この五カ国は長い間血で血を洗う凄惨な内訌を大陸で繰り返してきた。


 大貴族たちも、みな少なからず王家の血を引いていたので混乱はさらに拍車をかけた。


 おまけに、本家ロムレスでも五十年近く王位継承争いのため、国土で戦火が絶えず「祖国統一戦争」と呼ばれた戦いに、当時王太子にして現ロムレス国王レオムルス・フォン・ロムレスが勝利の果実を手に入れてから、まだ七年と経っていなかったほどだ。


 不可侵条約を結んでいても、大陸統一を望んでいるユーロティアがいずれ牙を剥くと思っていた。

 が、このタイミングでかよ。


「我ら誇り高きユーロティア第三軍は、貴殿率いる軍が速やかに降参すれば兵たちの命まで取ろうとは思わない。返事は明日、軍使を遣わすゆえ、準備は今宵のうち終わらせておくようにと、カール・バティーン将軍からのお慈悲だ」


 カール・バティーンに第三軍だって!

 いわずと知れたユーロティアの名将と鬼神も恐れる精兵たちじゃないか。


 なまくらな兵と数なら、長城を捨て、上手く後方のエンペイロの街まで引き王都より援軍が到着するまで抗戦の目もあったが、相手が第三軍では話にならない。


 エンペイロよりさらに後方のレイジニアまで退けばあるいは……! 


 俺が激しく苦悶するのを押し殺しているのも知らず、ユーロティアの軍使はいいたいことだけいうと、馬首を返してとっとと丘の向こうへ戻っていった。


 数百の兵たちもひとかたまりになって闇に消えてゆく。

 心気を落ち着けあたりに気を放射状に広げると――思ったとおり、いた。


 いないはずがない。

 敵は、あたりに小豆をばら撒くように、偵察兵を置いていかないわけはない。


 少しでもこちらの異常――すなわち兵法の常道では考えられないように、城にまるきり兵が込められていないとわかれば、罠かどうかを考えるだろうが、それらを無視して我攻めを行わないとはいいきれない。


 気配の感じ取れた草むらへと散星号を走らすと、予想通り黒尽くめの偵察兵が夏の蚊柱のようにわっと湧き立った。


「逃がすか――よっ!」


 この期に及んで術を隠す必要性はない。

 俺は人差し指で宙に呪印を描くと、得意とする火属性――もっともこれしか使えないが――火炎槍フレイムジャベリンを発生させ、わらわらと四方に逃げ散る敵に向かって解き放った。


 ゴーゴーとオレンジ色の炎が敵兵の背に燃え移って、あっという間に火達磨になる。


 いかな凄腕の手練れといえど、死人でない限りは己から生体熱を取り払うことはできないし、俺はそれをたとえ氷の浮かぶ河のなかだとしても探り当てることができる。


 人間の肉と骨とが焼けて嫌な臭いがあたりに広がった。

 数は七つ。


 間を置かず消し炭になった元人間を無視し、まだ地の上で炎の暑さに悶え苦しみ呻いている男に近づく。この男は顔だけを狙ったので、五体は傷ひとつついていない。彼の頭の上に手をそっと置いて語りかける。


「ユーロティアの雑兵よ。おとなしく俺の質問に答えれば、治療もしてやるし命も助けてやる」


 火で炙られ顔が膨れた男はロクに動けない状況だというのに、強がってパンパンに腫れ上がった唇を奇妙に歪めて見せた。


 この状態で笑って見せるとはなかなか胆力のある男だが、戦場ではそのような強がりはまるで意味を持たないことと知れ。


「じゃあいいや。こっちで勝手に聞く」

「――!」


 男の真っ黒な顔が、たぶん驚きだろうが、強烈に引き攣った。


 そっと額の上に手を置き、指先に熱を込める。真っ赤に白熱した手のひらは、男の脳にずぶりと甲まで沈み込むと、冷静に記憶を直接探り出す。

 カール・バティーン将軍率いる第三軍。


 騎兵三万、それに本体の歩兵十七万。

 小荷駄隊三万とくれば、補給が異様に少ない。


 それにしても、全軍合わせて二十三万とくればなかなかの大軍勢だ。

 輜重隊の少なさを思えば、たぶん、長期間こちらとやる気はないように思えた。


 長城の守りが固ければ適当に示威行為を行って引き上げるだろうし、そうでなければ周辺の村々を荒らして、適度に略奪し帰っていく。


 その場合、三百人に満たない我が村〈ティスタリア〉が廃滅する運命は微塵も揺るがないだろう。


 せめてもの慈悲だ。魔力を込めて、男の脳をすべて焼き切ると立ち上がり、頭を無茶苦茶に掻きむしった。


「隊長、だいじょうぶ、ですか?」


 物陰からそろそろと近づくハンナの声が聞こえてきた。

 俺は激しい胃のムカつきを覚えながら、よろばうようにして城門へと無言で移動した。






「戦うですじゃ!」


 日頃から冷静な村長とは思えないほど、異常に熱の籠ったほとばしりを聞き、俺は目の前が白く明滅するのを覚え椅子から崩れ落ちそうになるのをなんとかこらえた。


 詰め所の指揮所には、村の有力者や戦力になりそうな若者を呼んだだけなのだが、いつしか周囲にはほとんどの村人が集まっていた。


「近くのエンペイロには五千の兵がおりますでの! それにこちらはジラルドさまがおる。勝利はもう目に見えたものですわ!」


 なにを――。

 なにをいっているんだ、こいつらは?


 なまじ、一日かからない街に兵力があるからといって、明日の朝にユーロティアの軍勢は長城に到達しているんだぞ。


 まったくもって時間が足らないし、もし仮に俺の手に自由になる兵が五千ばかりあったとしても、長時間ここをもたせるのは不可能だ。


 国境線の南北に走る長城は、なるほど幾十万の敵兵も押し返すよう、一見盤石に見えるが、俺が知る限りでは十年以上ロクな補修を行っていない。これらは鼠と蝙蝠の巣だ。


 王都は長年のいくさによって国庫は疲弊しているし、不戦条約を結んでいる東よりも、まったく理屈の通じない西蛮の亜人たちのほうが恐ろしく映ってたのだろう。


「うんにゃ心配いらねえだ。おれたちにゃ、蛇退治の英雄さまがついておられっぺ」

「ユーロティアの田舎騎士なんぞ、勝負にもならねえべ」


「それに、おらたちが踏ん張ってりゃ、都からもどどっと援軍が来るに違いねえべ」


「それまでは、すぐそばにあるレイジニアの兵隊さんたちも駆けつけてくれるに決まっているべ」

「問題ない問題ない」


 確かに村人たちがいうように〈ティスタリア〉の周囲には同規模の人口を有する村が幾つかあり、それらをすべて掻き集めれば、七、八百。そして、後方にあるエンペイロには五千のレイジニアには五万の兵がいるが、誓っていえる。彼らは、長城及び村々を守るため一兵も出さないだろう。


 なにせ、固くてぶ厚い城郭都市に籠っていれば、数千の兵でも二十万の軍勢を王都の大軍が来るまで充分持ちこたえることができようが、なにもわざわざ外に出て城兵の命を危機に晒して、領民でない農民たちを守ったりしないのだ。


 現ロムレス王の基盤は、彼が若年の三十そこそこでもあることから未だ弱く、また王家の領地も飛び地であり、不幸にもこの国境線付近には、周囲の大貴族の庇護を受ける資格のない民が多数存在する。


 彼らは、そんなことを知る由もない。ただ無邪気に、近場のご立派な貴族が自分たちを守ってくれると信じて疑わないのだ。


 事実、そういった税収にかかわらずあらゆる弱き民を守ろうとする気概を持った本物の貴族というものもいないではないが、彼らはだいたいにおいて、力も身の上も平民たちと変わらない至極、弱々しい者たちだ。


 そしてこの周囲には、そういったご立派な殿さまはいない。それが重要だった。


 この会議は、もとより俺が村衆に今ある危機を説き伏せて、命だけでも守らせたいと思い開いたのだが、彼らは半ば自分の言葉に酔い、俺の話を聞こうとしていなかった。


 いや、ユーロティアの軍勢から受けるひしひしと伝わってくる脅威を微塵も感じないわけではない。


 村人の心底は、簡単に見透かすことができる。真実、彼らがこだわっているのは、代々受けついできた田畑や果樹林、そしてささやかな自分たちの財産。これらを捨てきれない欲心は容易にただひとつしかない己の命すら危機に晒すハメになる。


 それでいてなぜここまで強気なのか。理由は幾つもある。なければ作り出す、自分の脳内に描き出し都合のいいように設えるのが人間というものだ。


 ジラルドがいる。目の前にははるか昔に作られたご立派な城がある。まわりには強そうな兵を持つ貴族たちもいる。


 ――だから自分たちは大丈夫に決まっている。


 願望がいつしか現実に置き換わり、彼らは目に見えない守護者に抱きかかえられている気分になっているだけなのだ。


「ジラルド。本気でこの城に籠ってやり合うのなら、私も覚悟を決める」


 ミーシャを抱えながら、一歩下がっていたユリーシャが顔を引き締めながら耳打ちして来た。


 腹は決まっていたはずなのに、彼女のことを思えば脚が竦みそうになる。

 逃げろと、もうひとりの自分がささやきかける。


 確かにこれほど絶望的な状況ならば逃げることは恥ではない。そうだ。村人がなまじやる気になっているのは、すべて俺のせいなのだ。

 ならば、責任を取らなくては。


「ジラルドさまはどのようにお考えで――」

「一戦まじえるなんて、本当愚かな平民たちの考えそうなことだな」


 村長が白髭のなかで口を開いて真っ赤な舌を見せ、目を見開いたのがわかった。

 意気軒昂にいくさだと声を上げていた村人たちが、大きくざわついた。


「それでは、ジラルドさまは降伏せよ、と?」

「そもそもおまえたちは、なんで俺がこの村を守るとでも思ったんだ」

「どういう、ことっすか……!」


 よし、いいぞ。ハンナが食いついてきた。

 すでに村の人々はわけが分からないといったように、一段高い壇上に昇った俺をこわごわ見つめてきた。


「わからないのか? 俺はずっとこのときを待っていたんだよ。祖国のために青春を費やして、命を賭けて戦って来た俺が、王都のクソどものせいでこんな僻地に追いやられ。ロクな手当てももらえず、俺なんかよりまったく役に立たなかった同輩どもを重用している事実に、毎日毎日腸が煮えくり返ってたまらなかった。おまえらは、俺のこと酔いどれジラルドなんて馬鹿にしくさっていやがるが、考えてみもみろ。こんな、田畑しかねぇド僻地に流さりゃ誰だって……! 俺みたいになるに決まってるっ。違うか?」


 村人たちの顔に怒りの色が徐々に濃く浮かび上がっているのが手に取るように分かった。


 彼らは素朴で人を疑うことを知らない善良な人々であったが、その分郷土愛は抜群に強い。


 誰かを怒らせるなど至極簡単なことだ。その者が愛しているものを手酷く罵ってやるだけのこと。


 人は自分が一番に思っているものを口汚く貶されれば、もの凄く簡単に度を失う。


「頭のカラッポなミミズみたいに土んなかを這いずるしか能のねぇ土民どもも、土臭いそれこそ手を出す気にもなれねぇ田舎娘たちもうんざりなんだよっ! 俺は、ユーロティアの軍を率先して導き、俺の価値をわからなかった、いいやまったくわかろうとしなかった王都のクソどもが溜まってる城を片っ端から叩き潰して、俺が誰であったかを思い出させてやる……ッ! 祖国統一戦争で一番血を流したのは誰だ? 王宮で大理石の床やふかふかした大臣の椅子をあたためている口先だけの肉塊なわけがない! 俺だっ。俺たちだっ! ガキの頃からすべてを血と肉と炎と剣と馬に捧げてきた俺たち軍人なんだっ! こんな村なんざ景気づけに残らず焼き払ってやるっ。クソみてぇにそびえてる城もなにもかも目障りなんだっ。なんもかもうんざりなんだよ、俺はァ!」


 はじめは演技のつもりだったが、吐けば吐くほどこの七年で溜まりに溜まった鬱憤が全身を激して、気づけばその場の全員を睨みつけるように怨嗟の声をほとばしらせていた。


 身体じゅうが燃えるように熱い。額から汗がどくどくと湧いて、全身の毛が逆立ったようになっていた。


 机の上に置いてあった酒瓶を一気に煽った。

 火のように熱い酒精が胃の腑を落ちて、ぐるんぐるんと燃え立たせる。

 一番前に座っていた、恰幅のいい青年は俺と目が合うと忌まわしいものを見たかのように目を逸らした。


「そ――んな、嘘でしょう? 隊長? だって、隊長はロムレスの高名な軍人さんで……この街を守るために、今日までいっしょに頑張って……」


「ハンナ。おめぇを隊に入れたのはただの暇つぶしだ。そのうちかわいがってやろうかと思っていたんだが。このままじゃ、どうせ乱入して来た兵たちの慰みものになるだけだ。今なら、まだ時間があるから、軽く――どうだ?」


 涙目になったハンナが頬を打とうと手のひらをスイングさせるが、途中で腕を掴まえると、あえて嫌みに見えるようニヤニヤしつつ顎を掴んで口を吸ってやった。


 がりっと唇を噛み切られ、鉄錆に似た臭いが口中に走った。


「さいってい――!」


 ハンナは顔を押さえなが部屋を飛び出てゆく。残された村人たちは小さくざわめきながらも、どこかすがるように俺を仰ぎいつまで経ってもそこから去ろうとしなかった。


「ははは。隊長さん。ちょっと冗談がきついですよ。もう、茶番はやめて、そろそろ建設的な話をしようじゃありませんか」


「なに――」


 へらへらととりつくろうように前に出てきたのは旅商人のハリーだった。

 この男、思っていた以上に難物だ。


 彼は口調ではやわらかさを保っているが、瞳はどこか冷たい湖底のように揺らぐことなく、俺の心底を見極めるような静けさをたたえていた。


 ここでハリーに乗ってしまえば、村人たちはまたぞろ余計な希望を残して妙なやる気を見せるかもしれない。


 それではいかんせん避難が間に合わない。今すぐ、着の身着のまま村を捨てひた走っても、堅牢な一番近い城郭都市であるエンペイロに駆け込むのは間に合うかどうかだ。


 村人のなかには脚萎えの年寄りや病人、それに子供だっている。

 俺は倫理を捨て、感情を心のなかに消し去り、お人よしのハリーに心のなかで詫びた。


「なにがいいたいんだ、おまえは。そもそも、テメェ、この村には関係ねーだろが」

「関係なくなんてないですよ。俺の親父は代々このあたりの村々と取引していたし……」


 ハリーは俺の隣に立っているユリーシャをちらと眺め、彼女も不安そうな瞳でそれに応えた。


 これからのことを考えれば、ユリーシャには頼りになる男が必要だ。こんなぽっと出の男に……と思えば別の意味で腹が煮えそうな思いで反吐が喉元まで競り上がりそうになるが、必死でこらえた。


「あ? なにが取り引きだ。だいたい、テメーは最初から怪しかったんだよ。おい。本当は、王都が寄越した犬じゃねぇのか? あ?」


 いいじゃないか。なかなか悪役が板についているぞ、俺。

 素早く腰にくくってあったボトルを口元に持っていき、琥珀色の酒精をだくだくと喉に落とし込む。ぼたぼたと酒がこぼれて、いい感じに顔色があったまってきやがった。


 村衆の目が侮蔑的な色で統一されていく。村の浮沈をかけた会議に酔っぱらいながら出ることもさながら、積み上げてきたものを壊すということは実に簡単だな、と自分でやっておいて思った。


「ちょっと、待ってくださいよ」

「ジラルド。彼は関係ないだろう。もう少し冷静になれ」


 ユリーシャがかばうようにハリーの前に出た。

 嫉妬と怒りと虚しさで目の前がチカチカする。

 ここだ。ともうひとりの自分が告げる。


 信頼を壊すのは実に簡単だ。自分の一番大嫌いな人間を演じればいい。

 ここからの俺は最悪だった。


 それこそ、絵図を書いていた自分自身ですら殴り殺したくなるような没義道っぷりとはこのことをいうのではないだろうか。


 ユリーシャを蹴りつけて、ほとんどいいがかりてきにハリーへと殴りかかった。いくら彼が若く、強靭な身体を持っていようと、長らく戦場でオークやティターンなどの化け物染みた亜人や巨人族とステゴロでやりあっていたこと思えば、酔っていても赤子の手をひねるようなものだった。


 ただの力自慢と、戦場で身に着けた格闘術の差はどうにも埋めがたい。ユリーシャがなんどもやめてくれと叫んだのを無視して、最後は本当に演技ではなくハリーを殴り殺しそうになった。


 村の若者たちも、俺を止めようと四方から飛びついてきたが、これらを丸めるなど俺にとっては紙切れをくしゃくしゃにするのと同じなんだ。


 最後には、村人も呆れ果てたのか、酔い潰れてひっくり返った俺を無視し、指揮所を出て行った。


 たぶん、村長はみなをまとめ、日付が変わる前に村を出ていくだろうと思う。


 いや、ルカーシュ村長はなかなかに聡いから途中で気づいていただろう。

 ネタバラシをしなかったのは、彼なりの気遣いか。


 途中、ユリーシャが悲しそうな顔で倒れたハリーに肩を貸し、部屋を出て行ったのを見て胸が潰れそうなほど強烈な喪失感が襲って来た。


「け、どいつもこいつもとっとと行っちまえよ」


 仰向けになったまま空になった酒瓶を顔の前で左右に振った。

 酒もない。人もいない。なにもない。

 ハンナもチャーリーもスタックもトマスも出て行った。


 今日の詰め所は、いつになく冷え冷えとして、俺は大きなくしゃみをひとつした。






 そのまま床に転がったままうだうだした。ユリーシャが戻ってくるかな? と虚しい考えを頭のなかに巡らせつつ、ゆっくり身を起こした。


「なーんて馬鹿いってる場合じゃないな」


 残された時間は少ない。懐中時計を取り出して時刻を見つめると、もうそれなりにいい時間が経っていた。


 ハリーの野郎とユリーシャのことを考えないように考えないようにするたび、胸のなかに黒い焔は燃え立ってゴーゴーと腸から下腹部まで焼き尽くしていく。


 なぜ人間はこれほど醜い心情にこうまで悩まされなくてはならないのか。理解に苦しむ。


 俺はどこにでもいるつまらない人間だ。年少の頃の功を誇って退くことを知らず、ついにはここまで身を持ち崩してしまった。ユリーシャの心が俺から離れてしまったのも自業自得というものだろう。


 こうしている間にも、ふたりは夫である俺の目を盗んで互いに慰め合っているのだろうか。


 なまじ食い損ねただけあって、ユリーシャの若く張りのある肌や、白くもちもちした肉の弾力は悩まし気に脳裏をうろちょろとして身悶えするような怖気と熱を下っ腹に滲ませる。


 詰め所を出て道を歩くと、あちこちで無数の松明が走るのが目につく。


 故郷を捨てるという決心は早々につけられるものではないが、頼みの綱が実はそとっつらだけで、中身ががらんどうだと知れば、それぞれ己の才覚で道筋を決めねばならない。


 恨むならば俺を――いいや、やっぱり悪いのは国だな、国。政治が悪いんだよ政治が。


「だが、罪はこの俺にもある」


 このジラルドのなかにも、ユーロティアはどうせ攻めてなど来ないはずと高を括っていた卑怯者の虫がいる。


 真にこの村や、周辺の領民のことを思えば、それこそ自分の身や栄達など顧みず、うざったいくらいに兵力増強の陳情を中央に上げなければならなかった。


 そうしなかったのはやはり、俺のなかにまだどこかで許されて、いつしか王都へ戻れるなどという甘っちょろい部分が残っていたのだろう。


 村人たちは、狭い道で行き合っても、もはやあいさつのひとつもしなかった。見限られるというのは慣れていたつもりだが、こうもあからさまだとショックよりもむしろ新鮮だ。


 俺は長い間村のど真んなかに放っておかれた、老人たちが椅子代わりにしている丸太ん棒のでっかいやつに腰かけると、鞘から剣を引き抜いて刃のこぼれ具合をわざと時間をかけて確かめた。


 大軍相手に剣など意味がない――とは思いたくない。


「真正面からやり合うなんて最後の最後だ。いろいろ試させてもらうぜ」


 白く輝く切っ先の親指の腹を乗せた。ぷつりと皮がやぶけ、小さな血の盛り上がりができる。


 無心に、指からあふれる朱の色をジッと見つめてた。傍から見れば放心しているように思えただろうが、脳内にある思索がパズルのピースのように次々とかっちりハマり、作戦はほぼ決まった。


 たぶん、これしかないだろう。


 もういいかなと思って家に戻った。

 だが、ことごとく俺の予想を裏切ってくれる女だぜ。


 ハリーと手に手を取って避難したことになっているユリーシャは戸口の前に立って、いつものように俺を出迎えてくれた。

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