第05話「討伐」

「こいつはひでぇな」


 そうとしかいいようのない無残に荒らされた家畜小屋の惨状だった。柵は巨人が踏み荒らしたかのように、あちこちに飛び散っており、数頭ほどしか収容できない平屋は完膚なきまでに破壊されていた。


 野天に転がった農耕馬や牛たちは、腸を引き裂かれ、血塗れになって倒れていた。頭部や脚は食い残されており、腹の部分だけがスプーンで抉ったようにそっくりなくなっている。


 目を見開いたまま絶命した馬の憐れっぽい姿に悲しみよりも怒りが込み上げてきた。顔を背けたくなるような凄まじい血臭が鼻先を横殴りにする。


 ミーシャを抱いていたハンナはその場に跪くと、うつむいたまま激しく呻いた。かろうじて吐き気をこらえているのだろうか。


 サッとハンナの腕から飛び降りたミーシャは血海をチラと横目で眺めると、顔を平手で覆っているハンナの頭をよしよしと撫でている。


 ミーシャは過去の記憶を失っているのだろうが、この幼さで残虐ともいえる光景を見て顔色ひとつ変えないのは、心に変調をきたしているのか、それとも見慣れ過ぎた光景でいちいち騒ぐこともない環境で生きてきたかのどちらかとしか取れない。


 俺自身は無論のこと後者であるが、いつどうなるかわからない世のなかとはいえ、ミーシャの身の上の悲惨さを思えば胸がしくりと痛まないでもなかった。


「昼飯を食い終えて、一服しようかなと思った矢先に、すげえ唸り声が聞こえてきて、へえ。オラもカカァも恐ろしくなってブルっちまってよう。ガキども抱えてジッとしてただ。そんでもってよう、しばらくたって、恐る恐る小屋まで様子を見に来たらこのありさまだべ」


 五十年配の農夫は日焼けした顔をくしゃくしゃに歪めて、悲しみと憤りともつかない、細く生気のないため息を、長く長く吐き出した。


 無理もない。農夫にとって、馬や牛は畑を耕すために必要な財産であり、ともに汗を流してきた家族なのだ。その苦衷は察して余りあった。


 第一、馬や牛は食うや食わずでかつかつの農民からすれば非常に高価なものである。死んだからといって、そうホイホイ買い替えられるほど手ごろな値段ではないのだ。


 農夫はそばに立っている貧相な身体つきの娘を見てさらに顔色を青黒くした。


「おとう……」


 娘の年頃は一三、四だろうか。父親に似ず、どこか線が細い感じだった。

 牛馬たちは田畑を耕すために、無理をして買った家畜なのだ。

 彼ら貧しい人間の考えることなど手に取るように分かる。

 おそらく、自分の娘がどの程度の値段で売れるのか心のなかで値踏みしているのだろう。


 大抵の農家は子だくさんで、七八人の子供がいる家も珍しくない。

 ユリーシャと同じくらいであろう娘はそばかすだらけの顔を親以上に真っ白にして、やがてこれから降りかかるであろう己の身の上を思い諦めきった顔つきをしていた。


「被害にあった家畜の保証金は軍で出す。だから、娘を売ることなんか考えるな」

「ほ、ホントだっぺかっ!」


 落ち込んでいた農夫はみるみるうちに顔を喜色で染め上げると、その場に両膝を突いてオイオイと泣き出し、俺の脚に取りすがってきた。


「感謝しますっ。ジラルドさまっ、感謝いたしますだっ」


 この男だって好き好んで自分の娘を売り払いたくはないだろう。娼婦に落ちれば、酷使され五年と命がもたないのは貧農であるならば誰でも知っている厳然たる事実だ。


「ほらっ、おまえたちもジラルドさまにお礼をいうだよっ」

「ジラルドさまっ。ありがとうごぜえやすっ」

「ああ、ジラルドさまっ。さすが将軍さまだべっ」


「礼はいい。それよりも、少し現場を調べる。チャーリーはハンナについててやってくれ。スタックは念のため周りを警戒しとけ。トマス、ついてこい」


 とはいうものの、家畜小屋はそれほど広いものではないので、見るべきものはそれほどなかった。


 午後の作業で使うよう外に出しておいた、牛一頭と馬一頭がまずはじめにやられ、返す刀でなかに残っていた牛がやられたという結果か。牛馬を出し入れする太い留め木が薙ぎ倒され、残っていた牛だったものも、外と同じように腹の部分がそっくりなくなっていた。


「隊長。こりゃあ、ひでぇ……。オラ、この年になるまでこんなこと見たことも聞いたこともねぇだ」


 のっぽのトマスは唇を震わせながら、壁一面にバケツで撒かれたような血の跡を見て撫で肩を激しく震わせていた。


 どう考えても人間の所業ではない。奇妙なほど短時間でこれほどの荒技をやってのけるのは、かなり高度な知能と粗暴さを兼ね備えた上、さらには村人が集まってくる前に退散するクレバーさを持っていなければ難しいだろう。


 しかし、俺がこの〈ティスタリア〉の村にやってきて七年ほどになるが、白昼から人家にすぐ近くの家畜が襲われたことは、片手で数える程度しかなかった。


 そのどれもが、集団で山野を疾駆するバグ・ハウンドという野犬の一種で、やつらが襲ったのは、豚やニワトリといった小動物だった。


 断じて、牛馬のような大型の家畜を、しかも白昼堂々と襲ったりするほどの度胸は持っていなかった。


 それに、大抵において被害がわかるのは朝になってからのような、ささやかなものだった。


「牛馬を一瞬で片づけるようなモンスターだ。かなり大型で動きは素早いと見て間違いないだろう。……お、見ろ」

「な、なんだべか、隊長」


 血潮と泥でぐちゃぐちゃになってわかりにくかったが、小屋の裏手に向かって巨大な物体が這いずっていく痕跡を発見した。


「怪物の正体は、蛇だな」

「へ、蛇だべか」


 恐れおののいているトマスの肩をポンと叩くと、俺は巨大ななにかが這いずったあとをゆっくりと追っていった。


 途中で草むらに折れて紛れたが、まだそれほど時間が経っていなかったので、あとを追うことは容易だった。


 はるか後方をトマスがおっかなびっくりでついてきている。俺は足首まで沈み込む沼地に近づいたところで追跡をやめ、目を白黒させているトマスの腹を軽くこづくと、お疲れさんと励ました。


「これから、どうするべか。や、やっぱし沼を見張るんで」

「そんなことはしねぇよ。トマス。今から俺がいう場所に牛を一頭くくりつけとけ。あれほどのお上品な食いっぷりだ。やっこさんのお食事は一度で終わるとは思えない。たぶん、日が落ちてからまたぞろディナーにやってくるだろう。それまでは、おめーらで代わりばんこに見張っとけ。俺は夕飯を食い終えたら交代に来るから」


 トマスは茫然としながら、まるで身体という身体から反応する力の一切を使い果たしたように、ただ牛馬を襲った怪物がいるらしき沼の黒々とした水をジッと見ていた。


 俺がいらだってケツをこれでもかと蹴飛ばすと、ひいっと女のような悲鳴を上げて素早く走り出した。


 やれやれ。こういった厄介ごとはとっとと片づけるに限る。今夜は夜明かしだな、と思うと久々に芯の入った荒事に望めそうだと無意識に腹の底からカッとした熱が湧き上がった。


「ジラルド、大変なことになったそうだが……」


 家に帰ると戸口にはミーシャを抱きかかえたユリーシャが不安そうな面持ちで立っていた。


 あれやこれやと手筈を整え、とりあえずモンスターが罠にかかった場合の勢子としての面子を村の若者たちから選び出している間に、日は暮れかかっていた。


「とーしゃー」


 とことこ近づくと狙いすましたかのようにミーシャが飛び出して俺の腕のなかに乗り移ってくる。ユリーシャと身長の差があるので、やや反動が大きいが元気なことはいいことだ。


「おうっ。まあ、大丈夫だろ。飯食ったら出かけるから」

「牛や馬が何頭かやられたと聞いたが。この村では、こういった被害は多々あるのか?」


「いや、ほとんど聞いたことはないな。野犬くらいはいるだろうが、ここまで堂々と村落に押し入られたのははじめてだろう」


 俺のことを気遣ってそういったのかと思ったが、ユリーシャはなぜか瞳を爛々と輝かせやや興奮した顔をぐいと寄せてきた。


 前々から思っていたのだが、彼女はこういった荒事や武張った話が嫌いではないらしい。というかかなり好きっぽい。女特有の好奇心だけかと思いきや、かなり詳細に知りたがるので少しだけ辟易しなくもない。


 ま、そんな俺の感情はちょっと時代遅れかなと思わないでもないが、婦女子を危険から遠ざけるのは男の本能であるのでしょうがない。


「ジラルド。うん、その、あれだ。もし人手が足らないのであるなら、遠慮なくいって――」

「連れてかないからな。ミーシャを寝かしつけてやってくれ」

「う――」


 ぶ厚いキッチンミトンで鍋を運んでいたユリーシャは眉をぐぐっと曲げて苦いものを飲み込んだような顔をする。


「おまえは女だ。俺の妻なんだ」

「はい」


「危険なことはさせたくないし、近づけたくない。わかるか。な」

「ん。そうだな。今の私はジラルドのお嫁さんなんだ。わかった。私は慎ましくも妻の本懐をまっとうするぞ」

「すねるなよ」

「すねてない」


 ユリーシャは鍋をテーブルの上の敷物に置くと、いじけた様子で跳ねた自分の巻き髪をミトンでいじり出した。


「でもジラルド。ひとつだけ教えてくれ。危険なことは、ないよ、な?」

「ああ。今日はほんのちょっとした様子見だ。なんてことない、すぐ帰ってくるから」

「うー。みーは、とーしゃといくー」


 膝の上でちっちゃなエプロンをつけておとなしくしていたミーシャが、頭上の犬耳をぴょこんと立てると途端に騒ぎ出した。


 どうやらこれから俺が出かけるのを、どこか遊びに行くのと勘違いしているみたいだった。年の割には脚が達者であるが、常識的に考えて連れて行けるはずがないだろ。


「ミーシャはユリーシャとお留守番だ。な」

「うー。やらー」


 ミーシャは素早い動きで俺の手のなかから逃げ出すと、たっと床の上に着地して涙目でこっちの顔を仰いでいる。


 ちっちゃなふわふわしっぽを股の間にくるりんと巻き込んでくひゅんくひゅんと甘えるような鳴き声で喉を鳴らす。もの凄く愛らしくてくじけそうになるが、我慢我慢。俺がそっぽを向いていると、今度はユリーシャに向かって飛びついてゆく。


「ミーシャ。お父さまはお仕事なのですよ。いいつけを聞かないとダメ」

「ううー。でもー」

「そんなことばかりいっていたらお父さま、ミーシャのこと嫌いになっちゃう、かも」

「ええっ。やら……そんなのやらっ……!」


 おおっ。スゲェ、トンボ返りだっ。


 ミーシャはいやいやをしてユリーシャの腕から飛び跳ねると、しっぽで上手にバランスをとって床に片足で着地する。


 てか、戦狼族ウェアウルフの身体能力半端ねェな! 人間の子とはまったく動きというか身体の作りが違うんか?


「おとーしゃっ。やらーっ!」

「とっ、ととっ」


 ミーシャは床の上をぽいんっ、と跳躍し首っ玉にかじりついてきた。俺はミルクの匂いがするやわらかいものを抱きしめながら頭のうしろをぽんぽんと軽くさする。


「きりゃいになっちゃ……やらぁ」

「いい子にしてたら嫌いにならないから、ちゃんとお留守番してるんだぞ」

「う。みー、いいこにしてる……」


 子供は体温が熱い。俺はふかふかした謎の多い生き物を抱きかかえながら、ユリーシャの給仕で夕食をとりはじめる。


「隊長――ッ! また、またっ、やられやしたっ!」


 チャーリーが汗みずくで駆け込んで一声叫び、うつ伏せに倒れ込んだのは、景気づけに一杯呷った直後だった。


 これでもかとイラつかされたせいで、勢いよくカップを床に叩きつけ走り出した。


 背後からミーシャの泣き声が聞こえ、自分のせいだとわかっていながらも舌打ちを止められなかった。


 まったく、なんていう厄日だッ。

 現場は思った以上に散々だった。


「隊長、へびっ……! へびっ! あたし見ましたっ!」


 脚でもくじいたのかびっこを引いたハンナが口をぱくぱくさせながら寄ってくる。


 村はずれにある楡の木の下に囮として繋いであった牛は、まだあたたかな臓腑から湯気を立てながら横倒しになって絶命している。その周囲には、腰を抜かしたように棒や鍬を持ってしゃがみ込んでいる村の男たちが悲鳴を上げながら、ある一点を指差していた。


 おい、あっち逃げたのかよ。


 村の男たちは俺の姿を見ると口々にジラルドさまと呪文のようにそればかり唱えて、なにがどのようにあったのか要領を得ない。


 ハンナはハンナで日頃あれほど大言を吐いているくせに、実際化け物を目にした途端完全に腰が抜けていた。かわいいやつめ。


 俺は転がってあたりを血の海にしている牛のそばによると、今しがた食われたばかりの腹を手にしたランタンを近づけとっくりと見た。昼間、家畜小屋で見た骸とは違って、かじった口がかなり小さい。さもありなん。これだけの人数のなか堂々と襲ったのだ。怪物がどれほどのものでも悠長に食事を楽しんでいる暇はなかったのだろう。


 短刀を取り出すと、素早く牛の肉をひと抱えほど切り取って油紙に包み、背嚢に詰めた。


「た、隊長。三ツ首のどでかい蛇でやんした」


 ショック症状からいち早く立ち直ったトマスがぐっしょりと汗で濡れた額を、かがり火に浮き上がらせながら自分の見たことを早口で伝えようとする。


「落ち着け。もうその野郎は退散したんだろう。怪我人はいないようだな」

「へぇ。村の衆は、がさがさって音がした途端蜘蛛の子散らすように逃げちまったんで」


「だ、だってしかたないっすよ! こーんなにでっかい、しかも首がみっつもある蛇なんですよっ! 隊長がのんきに夕飯なんて食べてるからいけないんじゃないですかあっ!」


「ハンナ、落ち着け。その蛇は額に黒点みたいな星の模様がなかったか?」


「あ、そういわれると、ううっ。そういえばそんな模様があったような、なかったような……あ! もしかして、隊長、どっか隠れて見てたとかっ。ずるいですひきょうものですあたしけいべつしますっ!」


「だから俺は家で飯食ってたっていってるだろうが。たぶん、おまえたちが見たのはクロボシオロチといって、生息地はこの村よりずっと北方だ。昔、軍で作戦中に輜重隊やら馬匹をよく襲われたことがあるから覚えてたんだ」


「本当ですかぁ? 実はぶるって草むらから飛び出せなかったんしょ。怒らないからいってみてくださいよぅ」

「おまえいいかげんしないと殴るからな」


「あたっ。殴ってからいわないでくださいよっ。ううっ、あたし名誉の負傷だってしてるのにィ……!」

「ハンナ。おまえ日頃男女同権を謳っておいて、いざってなるとかよわい女ぶるのはいささか恥ずかしくはないのかい?」


「は! そんなことこれっぽっちもいってないでしょーがっ! いいですよっ。もお、みんなさがらせてくださいっ。かくなる上はあたしひとりでも沼地まで追いかけてって蛇野郎を生け捕ってやるっすよ!」


「アホか。そんなことさせられるわけないだろう。チャーリー、トマス。ハンナを村長の家まで護送しろ。それと、村じゅうにカギをしっかりかけて、なんかあったらデカい音を出すように触れ回れ。クロボシオロチは人が密集する村落まで入ってこない。ああ見えてかなり頭がいいからな」

「はぁ。んで、隊長はどうするんだべか」


 チャーリーが青髭の浮いた顎をざりざりこすりながら問うてくる。俺は、転がっている穂先のない槍を片足で蹴って直立させ、はっしと掴んだ。


「無論、夜釣りだ」


 俺は手早く指示を出し終えると、単騎、昼間確かめておいた沼地へと向かった。


 クロボシオロチは結構な体格を誇るモンスターだが、そんな蛇の一匹や二匹でおちおち怖がるほど神経は繊細にできていなかった。


 昼に続いて夕飯もたっぷり腹に納めたことだ。

 よもや、今夜じゅうにも一度姿を見せるかといえば、その可能性は限りなく低いだろう。


 蛇系のモンスターは、ロムレス全土に跋扈するゴブリンなどの低劣な頭脳を持たない亜人種に比べればずっと聡い。縄張りを荒らされた人間たちが防備を固めていると可能性を考慮しないはずもない。やつらは狩りをするとき、敵の反撃の兆しが見えるや否や、ジッと息を凝らしてひと月やふた月身を潜めることなど造作もない。


 釣りには十中八九気づいていただろうが、それでいて再び姿を現わしたのは、らしくないといえばらしくないかもしれない。


 ざくざくと濡れた土を踏んで、隘路をゆく。

 不意につま先に引っかかるものを感じしゃがんだ。

 あった。確かに蛇が這いずったあとだ。


 ランタンを近づけてから、段々になったわずかな窪みを確かめて、明かりを消した。


 念のため。これからデカブツを釣り上げようってんだから、なるべく気配を悟られたくない。


 長年の野営暮らしで、これほど月明かりがあれば充分に夜目は利く。

 生臭いような沼独特の澱んだ水の香を嗅ぎつつ慎重に進んだ。

 蛇はたとえ目が見えなくても「勘」でこちらを探ることができる。

 迫るべき戦闘のためできるだけ身軽でいたい。男の人生とはそんなものだ。


 折れ槍の先に糸をつけて充分な余裕を取って伸ばした。糸の先端に釣り針をくくりつけ、先ほどの生肉をぶっ刺した。ぬるぬるした油で皮手が汚れる。こいつはぶ厚いので少々のことでは染みないのがお気に入りだ。


「さて――はじめますか」


 誰にいうとでもなくつぶやく。俺の背丈の倍はある槍を後方に振って、素早く投げた。


 びゅん、と。釣り針の先端に括りつけられた肉は、はるか彼方に飛んでちゃぽんと落ちる。


 で、しばし待つ。


 どちらかといえば待つ作業は得意ではないので、やつが、あるいはやつらがとっととエサに食いついてくれることを期待する。

 変化は素早かった。


「おお。せっかちさんだな」


 針の先端まで神経を張り巡らせておいたので、それが接近してきたことはすぐに実感できた。


 泥のなかに指を突っ込んで、狙っていた獲物の開いた牙の先端が触れるか触れないか程度の感覚だ。


 生肉はひとつだけなので取られるわけにはいかない。

 エサが足りないと文句をいうパーティーに場違いな田舎者の真骨頂。それが飢えたモンスターたちだと思えば間違いない。ぐっと槍の柄に力を込め引っ張ると、軍用に誂えた特別製の丈夫な糸が、粘った泥の海を静かに楚々とした動きで渡った。


ぐぼんと、豪快な音を立てて、狙っていたそれは現れた。


「なんと……団体さんいらっしゃいませってか」


 牛馬を襲っていたクロボシオロチ。デカいのちゅうくらいの小さいのと、計三匹が揃い踏みだ。


 デッカイのは二階屋くらい、一番小さいのは俺の背丈とあまり変わらない。ちゅうくらいのやつは、デッカイのと小さいのの中間といったところか。まんまだな。どちらにしろ、蛇どもの身体の幾らかは沼に潜ったままなので、実測はできないしするつもりもない。


 わかっていたことだが、どいつもこいつも頭がみっつに分かれていて、それぞれ独立した目の動きでこちらの挙動を探っていた。距離はかなりあるので、いきなり食いつかれるということもないだろうが、さすがに気分のいいものではなかった。


 腰につけたスキットルの中身を素早く呷った。

 うし。腹のなかがいい感じでカッカと燃え立った。

 気分が、もう、本当に久々に高揚してくる。


 まず最初に突っかかってきたのは一番小さめの蛇だった。やつは泥を掻き分けながら真っ直ぐ進むと、くわっと巨大な口を開いて攻撃を加えてきた。


「いいぜ。遊んでやるよ……ッ」


 腰の長剣を引き抜くと、身をかがめて斜めにカチ上げた。軍用の量産品だ。数打ちの剣はお世辞にも名品とはいえないが一定の強度は保証つきだ。日頃の手入れは欠かしていない。俺は魔術師で剣の腕はたいしたことないが、この程度の害獣を狩るのには充分だ。


 月光に照らされて白く輝いた刃は、まず最初に伸びてきた首を綺麗さっぱり刈り取ると、青黒い血潮を噴き出させた。霧のように黒と青が混じって拡散する。


 ごとり、と。鈍い音がして蛇の頭が転がった。だがクロボシオロチの首は一匹につきみっつある。


 残りはまるで戦意を削られることなく左右から、押し潰すように襲いかかってきた。飛び退いてかわすと急停止できなかったのだろう。ふたつの頭が中空でごちんとぶつかって動きが止まった。


「るおおッ!」


 深く踏み込んで斬撃を放った。蛇の顔面はスパッと綺麗に割れると、その身体がぐらぐらっと崩れて横倒しになった。それを狙っていたかのように、躯を飛び越えるようにしてちゅうくらいのやつが襲って来た。


 控えにやられるほどなまっちゃいない。そのくらいはお見通しだ。


 俺は華麗にバックステップを決めると、自ら仰向けに倒れて長剣を真上に突き上げた。


 肉を穿つ鈍い音が鳴って青黒い雨が顔面をしたたかに叩いた。左右から鞭のしなるような音が激しく動いた。


 素早く転がって距離を取ると腰に差していた短剣をためらいなく投じた。刃は空を切って飛ぶと蛇の目玉に見事突き立った。耳を抑えたくなるような音が尾のほうから響いて来る。蛇に発声器官はない。尾がこすれ合って癇に障る音を立てるのだ。


 蛇は一気呵成に攻め寄せることなく、まだ残っているふたつの頭部を月明かりの下でゆらゆら揺らしながらこちらをじっくりと窺っている。大将格の一番デカいやつは泰然と一番うしろに控えながらピクリとも動かずに沼に佇立していた。


 たかが畜生のくせに小生意気な野郎だ。やるか――と思う。さいわいにもここには村人の目がない。対外的には、俺はただの飲んだくれで、怠慢が故にこの地に飛ばされたと思われている。


 いいや。この七年間の努力でそう演じてきたのだ。魔術を使えばまばたきもせずに消し飛ばすことは可能だが、まだ王都にいるあの野郎に、俺が健在だと知らせるわけにはいかない。


 この村の生活はなんだかんだいって居心地のいいものになりつつある。家に残してきたユリーシャとミーシャのことを思った。もう、ミーシャを人手に渡すことはこれっぽっちも考えていない。俺は文字通り飲兵衛で、偏屈で、妙なところで真面目ぶって融通の利かない煮ても焼いても食えない廃棄品だった。


 だが、幸か不幸か。父が運んできた厄介者は、俺のなかでそう簡単に捨てきれない大切なものに変わりつつあるようだった。ならば、術は秘匿しておきたい。


 万が一にも伝説の“火神”が健在だと上層部に知られたら、俺は眠っている、それこそ目の前のものなんかよりもはるかに凶悪な大蛇の尾を踏んでしまうことになる。


 この蛇野郎を殺せば村人は必ず遺体を回収に来るだろう。そのとき気づかれるのはまずいし、それに、まだ村のなかにはあいつが撒いた「根」が残っているかもしれない。


 念のため、予備の小刀を残しておいてよかった。ダガーよりも長いがソードよりも短いそれは綺麗に使うにはコツがいる。


「毎朝ランニングして正解だったな……」


 意外と息が切れない。おいおい。昔を考えれば数分格闘しただけで息を弾ませるなんて死活問題だったんだが、最近のていたらくを見れば向上の凄さは自分でも別人のようだ。


 思考していたのは数秒だっただろうか。

 ――その刹那が勝負の潮合だった。


「マジかよっ!」


 半死半生の同胞を薙ぎ倒すようにして、一番のデカブツが突如として動き出したのだ。


 反応できない。巨体に似合わない俊敏な動きに、瞬間棒立ちになった。

 やられるとは思わないが、躊躇が最後の瞬間まで思考を支配し、指一本上手く動かせなかった。


「どけっ、ジラルド――!」


 ぴん、と透き通った高い声が後方から鋭くほとばしった。

 振り向く暇もない。ごお、と。風が頬のすぐ横を駆け抜けて、髪が煽られてばさばさと視界を覆った。


 次の瞬間、デカブツの正面の首に深々と槍が突き刺さっているのを見、ポカンと口を開いて痴呆のようにその場へ縫い止められてしまった。


「ぜっ、せいッ!」


 それは純白なエプロンをたなびかせ、雲間から差し込むわずかな月明かりに踊るユリーシャの姿だった。


 彼女はしゃらんと馬鹿みたいに長いロングソードを引き抜くと、地を蹴って飛翔した。


 投擲された槍を半ばまで埋没させて絶息した正面の首を無視し、ユリーシャは右に左に動くと長身を生かした斬撃を次々に見舞った。


 ぱあんっと。軽やかな音が流れて蛇の首が闇夜に踊り、それらはまたたきの間に泥の海へと吸い込まれていった。


 まったくもって手慣れた動きだった。ユリーシャは、最後に押し潰されて息も絶え絶えだった、ちゅうっくらいのやつにトドメを刺すと、長剣を片手にずんずんと歩み寄ってきた。


「ジラルドっ。危険ことはしないといっていたではないかっ。なぜこのように単独行動を取ったのだっ!」


 かなりむっと来た。


「フォローもなにもないっ。かような目の利かぬ場所で……! 幾ら腕自慢とはいえ傲慢すぎるッ」


 俺も気は長いほうではない。それよりもなによりもユリーシャがこんな危険な場所にただひとりで乗り込んできたことや、前後をぐちぐち思いやってカッコ悪いところを見せた悔恨や憤りや恥ずかしさがいっしょくたになって喉元まで競り上がりいわずにはいられなかった。


「るせえっ。男の仕事に口出しすんじゃねえッ!」


 ユリーシャは背が高い。怒鳴りつけているというのに、見上げる格好では甚だ締まりが悪いじゃねえか。


 背が低いのと今回の件はなんの関係もないが、俺のなかにあってずぶずぶと煮えたぎっていたいろんなコンプレックスが火を噴きはじめていた。


 だっと地を蹴った。ユリーシャが怯えた表情をしかけたのに気づいたが止まれない。

 俺はしなくてもいいのに、生まれてはじめて女を殴りつけた。


 ぱちっと軽い音が鳴ってから尻もちを突いたのはユリーシャではなく俺。


 おまけに途中で加減してしまったので、子供でも痛がらないような甘っちょろい一撃だった。


 濡れた土が軍袴を通してひんやりとケツに伝わってくる。

 時間が凍ったようだった。

 互いに言葉もなくその場で彫像のように固まった。

 泣くかな、と思ったら彼女はくっと唇を噛み締めてなんとかこらえていた。


 ――その表情。


 ズクリ、と頭の奥が歪んだように鋭く痛む。

 この顔。泣き出すのを無理やり我慢している少女。


 確かどこかで、見た記憶がある。

 ユリーシャは頬を押さえると、くるりときびすを返し元来た道を駆けていった。


 素晴らしく長い脚は若鹿のように敏捷であっという間に闇のなかに溶けてゆく。


 みるみるうちに後悔が全身を浸していく。

 怯えが強かったのは、俺か、それとも目の前のユリーシャか。


「ちょっ、待った――! んぶっ?」


 立ち上がって追いかけようとしたが、脚がもつれてその場にすっころび顔を強く打った。


 口中で噛んだ泥は俺の腸のように廃れて苦々しい味だった。


 そして、泥のような重たい日々が再びはじまり、俺は地獄の底に自分自身を叩き落したくてたまらなくなった。



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