第二十三話

「お願い、急いで!」

 ネミールは悲痛な声で叫ぶ。

 言われなくてもすでに急いでいる。しかし道が悪い上に、自分が乗っている馬だけではなく、アイリーンが乗る馬の手綱も持っているため、エインは尻に鞭をくれることができなかった。それでも一人で二頭操ったにしては速い速度だ。

 坂を上った向こうから、大勢の人間の叫び声が聞こえていた。それは間違いなく争いの怒号だった。声は途切れることなく山間にこだまする。

 ネミールは手が白くなるほど鞍を握り締め、泣きそうな顔で声が聞こえる方向を見ていた。この先にどんな光景があるのか、母親はどうなっているのか。ネミールは不安のあまり叫びだしてしまいそうだった。

 衝撃で落ちそうになる体をなんとか支え、上り坂が終わるとその先には広い雪景色が見えた。隆起した大小の丘がいくつも見え、それは全て雪をかぶっている。そんな白一色の中で盛大に雪煙を上げている場所をネミールは発見した。

 それは戦場だった。武器を持ち、鎧を着た男達が殺しあう。振るう剣は体を切り裂き、噴出した血が雪を赤く染める。その雪はだれかが踏み潰し色は消え、また誰かが倒れ伏して徐々に赤く血で染めた。

 何百人もの悲鳴が聞こえ続ける。ずっと聞こえていた叫び声の正体をその目で見たネミールは、その上体から力が抜けて鞍からすべり落ちそうになった。その体をエインが支えた。

「しっかりして。今からお母さんのところへ行くんでしょ」

 その言葉にネミールの目が見開かれる。

 こんな所で倒れるわけにはいかなかった。何としてでもネルゴットの元へ行かなければならない。

「それで、どこにきみのお母さんがいるのかな?」

 下り坂となった道を駆け下りながら、エインは目を細めて遠くを見る。

 戦場はまだ遠く、詳細な状況は見えない。またエインは騎士などほとんど見た事が無いため、その違いが分からなかった。どれがエル地方領騎士団とイヴュル帝国の騎士なのか判別できない。

 ただし彼の仇であるノゴ地方領騎士団だけは別だった。その紋章旗を掲げた集団は、すでに戦場となっている場所へ駆けつけようとしているところだった。エインたちの前方を走っている。距離は離れていた。いま下っている山の斜面をすでに下りている。追い付くのは無理そうだった。

「あっ!」

 ネミールが叫んだ。戦場に突然巨大な炎の鳥が出現している。ネルゴットの魔法だ。

「あれが、魔法……」

 遠くからでも分かる大きさと威容に、エインでさえ声をのんだ。

 その鳥が一声鳴くと、巨大な火炎弾を発射した。それまで聞こえていた叫び声をかき消すほどの巨大な轟音とともに、火柱があがる。人の体が吹き飛ぶ姿を、エインは初めて見ることになった。

「すごい……」

 もう一度火炎弾が発射された。爆発が再び起こり、目に見えて人の集団の中に穴が空いた。そこへ炎の鳥を先頭に騎兵が突撃する。槍の穂先のような二等辺三角形の陣形で突き刺さった。そのまま人の集団を切り裂いて進むかと思われたが、その半ばで突撃は停止する。

「止まった」

「お母様!」

 あの炎の鳥のもとにネルゴットがいると確信しているネミールは、悲鳴をあげた。このまま人の群れに押しつぶされてしまうように見えたからだ。

 その時、騎兵達を追いかけて走っていた歩兵達が到着して、勇ましい声とともに襲い掛かった。彼らは三つの集団に別れ、中央が騎兵達の後ろ、そしてその左右に一つずつ。

「右側は……傭兵達のようですね……」

 走る馬から落ちないように必死にしがみついていたアイリーンは、多少息を乱しながらそう言った。

 中央とその左翼はエル地方領の紋章旗を掲げていた。しかし右翼は紋章旗を掲げていないのが見てわかる。

「敵は、前に人を壁にして配置。その後ろに騎士達を隠しているようですね」

 まだ山の斜面を下りきっておらず、高い場所から戦場を見ることができた。ネルゴット達が突き刺さった人の集団の向こうに、紋章旗を掲げた集団が並んでいた。そこに描かれているのは、間違いなくイヴェル帝国の紋章だった。

 ボラス王国では、国の紋章旗を掲げることができるのは王が率いる騎士団か、その親衛隊のみとされている。なので地方領の騎士団はその領の紋章旗を掲げる。しかしイヴェル帝国では、帝国紋章旗を必ず掲げなけらばならなかった。いついかなる時も帝国の主である現皇帝への忠誠を怠らぬため、そういう事になっている。

「多い……」

 エインは初めて見る人数の光景に、思わず声を漏らした。

 彼が普段接しているのは、人数が百人にも満たないような村だ。初めて領主城のある町へ行った時も人の多さに驚いたが、これはそんなものの比ではなかった。全体で見れば町にはここにいる人数と同じぐらいの人間が生活しているのかもしれないが、それが一箇所に集まることなどない。

「たしかに多いですね……」

 アイリーンはそうつぶやいたが、エインと同じ様に人の多さに驚いたわけではなかった。彼女が言ったのは、エル地方領騎士団と、イヴェル帝国軍の規模の違いだった。

 見る限りではイヴェル帝国が前に押し出した壁の人間だけで、エル地方領騎士団の二倍はある。さらにその後ろに控えた騎士たちも、騎士団とほぼ同数のように見えた。つまりイヴェル帝国の戦力は三倍の数なのだ。

 青い顔で戦場を見ているネミールを、アイリーンは心配そうに見つめる。ネルゴットが負けるなどは思っていないが、それでもこの戦力差は不安だ。

「地面が緩やかになった、速度を上げるよ」

 山の斜面を下りきった。そこからは騎士達が戦っている場所へと緩やかな下り坂となっている。しかし隆起した地面がいくつもの大小ある丘をつくり、まっすぐ一直線に進むのはできないこともないが、なかなか難しい。丘の間をすり抜けるように駆ける。

「……ねえ、近づくのはいいけど、どうやってお母さんのところへ行くの?」

 エインの問いかけに、そんなことを考えてもいなかったネミールは虚を突かれた。思わずエインの顔を見るが、彼は不思議そうにするだけだ。

「ど、どうしようアイリーン! お母様に会うにはどうすればいいの?」

「落ち着いてください、お嬢様。それなのですが……この戦いが終わるまで待ちませんか」

「そんな! せっかくここまで来たのに」

「しかし、すでに戦闘は始まっています。あの中に入っていったとして、私達はどうすることもできません。ネルゴット様を信じて待ちましょう」

 ネミールがここまで来たのは、この戦いで死んでしまうかもしれないネルゴットに会うためだ。しかし、すでに戦いは始まってしまった。それでも彼女は諦めきれない。

「でも……」

 その時だ、ひときわ大きな叫びがあがった。それはエインたちの前方から聞こえた。そして見えた光景に、ネミールとアイリーンは言葉を失う。

 人の姿が見えてくる距離まで近づいていたので、血しぶきがあがり雪を染めるのが確認できた。ノゴ地方領騎士団が、エル地方領騎士団へと襲いかかっていた。

「そんな……馬鹿な……」

「え……」

 茫然自失から立ち直ったのはアイリーンが早かった。

「そういうことですか……! だから村も!」

「どういうこと」

 村という言葉に、エインは真剣な目をしリーンへ向けた。

「おそらく、今回のことはノゴ地方領とイヴェル帝国で示し合わせたことだったのです。なぜかは知りませんが、彼らはネルゴット様たち騎士を……いえ、エル地方領を滅ぼす気なのかも知れません。だから、あの村人達を殺しても問題ないと……しかしそれだと他の村が襲われていないことに説明が……」

「それより、これじゃあお母様が! どうしよう! ねえ、どうしよう!」

 涙目で混乱した様子で叫ぶネミール。どうすることもできず苦悩するアイリーン。

 さらに動きがあった。騎士団の右側にいた集団、傭兵達までもがネルゴット達へと襲いかかってきたのだ。エミールとアイリーンの二人は絶望で顔を青くした。ただでさえ戦力が少ないのに、援軍かと思われた者たちに襲われ、さらに傭兵達にまで裏切られる。こんな状況ではいくらネルゴットでも無事でいられるはずがない。

 想像もできない出来事の連続に二人は何も考えることができなかった。ただ暴力と血が撒き散らされる饗宴を目に映すだけだ。

 爆発音が響いた。そのおかげでネミールは我に返る。

「お母様!」

 すでに騎士団の左翼の陣形は崩れてしまっていた。戦力の差が三倍もあり、後方からの奇襲となると持ちこたえるのは不可能に近い。傭兵達に襲い掛かられた騎士たちも、まだ混乱から立ち直れておらず、多数の死傷者を出してしまっている。それでも炎の鳥はまだ存在し、敵へと向かって前へ進んでいた。

 ネミールの両手が震えるほど強く鞍を掴む。

「お母様を……お母様を助けたい! 死んでほしくない! なのに……どうして、私にはこんな魔法しか使えないのっ!」

 ネミールの眼前に炎の体を持つ小鳥が出現した。ネミールはそれをじっと見つめ、小鳥もそれに目を合わせる。ネミールは悔しげに顔を伏せた。

「どうして……どうして……私の魔法は……」

 あふれ出した涙が落ち、握り締められた両手を濡らす。声にならない嗚咽が漏れる。

 そんなネミールに言葉をかけることもできず、ただ辛そうに見守ることしかできないアイリーン。しかしエインだけは違っていた。彼はじっと小鳥を見ていた。

「あっちの鳥はたしかに大きいけど。本当にコレしかないの?」

 不思議そうにエインは言った。ネミールは涙で酷い顔で振り向いた。

「例えば馬とか狼とか。熊も強そうだよね」

「あなたは何を言っているのですか! お嬢様を馬鹿にしているのですか! お嬢様はその小鳥しか出せないと言っていたでしょう!」

 アイリーンが怒声をあげるが、エインは気にしない。

「小さいけど、これでも十分強いと思うよ。小さくても火だから顔に当てて目を焼けば視界を奪えるし、当たらなくても隙はできるし。服を燃やすだけでも十分強力な攻撃になるよ。あとは、指を火傷させれば武器も握れなくなる」

「で、でも……それだけじゃたくさんの人を倒せないから……」

「一人ずつ減らしていくのも有効な作戦だよ。どうしても一度で大勢を攻撃したいんだったら……そうだなあ、数を増やしてみたら」

「数を……増やす……」

 ネミールはその言葉に、瞬きを忘れてエインの顔を見る。そんな彼女にいつもと同じ、無表情ではないが感情を感じさせない顔でエインは言う。

「やったことないんだったら、やってみようよ。やってみなくちゃ分からないからね」

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