第十五話

 音が響き、それに反応してアイリーンは目を覚ました。彼女はネミールが寝ているベッドにもたれかかるようにして眠っていた。

「お嬢様!」

 ばっとネミールの顔を覗き込む。眠る前に見た顔とは違い、呼吸は落ち着いていて顔色も良い。エインの丸薬が効いたのかもしれなかった。

 アイリーンはほっと胸を撫で下ろす。肩から何かが落ちた。それは一枚の毛布だった。

「これは……誰かがかけてくれたようですね」

 一瞬エインかと思ったが、首を振って否定する。あの少年はネミールをこんな目にあわせた張本人だ。他人の体調を気遣うような人間ではないはずだ。

「起きた」

 背後から聞こえた声にアイリーンは振り向く。そこにはエインが立っていた。アイリーンの目を覚ました音は、彼が扉を開けたときの音だったようだ。

「食事ができたから。こっちで食べよう」

 アイリーンはネミールのそばにいたかったので断ろうと思ったが、体は正直だった。小さく腹から音がした。エインに聞かれていないかと羞恥で顔を赤くさせたが、聞こえているのかいないのか少年は全く表情を変えなかった。

「……いただきます」

 後ろ髪を引かれながら、アイリーンはネミールの頭をひと撫ですると部屋を出て行った。

「あの小さい子は大丈夫かえ?」

 老婆がアイリーンに心配そうに声をかけた。

「はい。もう大丈夫です」

「そうかい、そうかい」

 皺だらけの顔をさらに皺を多くして老婆は笑顔を見せた。

 部屋の大きさはエインの家より少し小さい。暖炉も小さいが十分部屋は暖かかった。家具は少なく、おそらく老婆の一人暮らしなのだろう。

「こんなものしかないけど、温まるんじゃよ」

 テーブルには鍋が置かれ、湯気をたてていた。中身は最近栽培されるようになった白長芋が多く入ったスープだ。エインの家で出されたものと違うのは肉が入っていないことだった。そんな質素なものでも温かい食べ物はありがたい。

「ありがとうございます」

 エインはすでに椅子へ座っていて、黙々と食事をしていた。アイリーンも席に着く。

「しっかしあんな小さい子に旅をさせるだなんて、どこの商人の娘さんか知らなあけど、ずいぶん厳しい父親じゃ」

 アイリーンが眠っている間にエインは昨日の村で言った嘘の説明をしていた。この老婆もその嘘をあっさりと信じた。田舎の人間は純粋なのだ。

 温かいスープが胃に入ってくると、全身がじんわりと温かくなる。精神が高揚していたおかげで寒さも疲労もあまりかんじていなかったが、やはり体は正直だ。もう少し村に到着するのが遅れていれば、アイリーンもネミールと同じく寝込んでいたかもしれない。

 風が吹いて家が鳴る。

「風が強くなってきたのう。吹雪にならなきゃいいけんど」

 不安そうに老婆は家の外へと目を向けた。

 それはアイリーンも同感だった。もし明日も吹雪が続けば移動できない。ネルゴットへとたどり着くのがまた遅れる。しかしネミールの体調を考えると、この村で一日ぐらいは休養していったほうがいいかもしれない。

「吹雪にはならないよ」

 エインが確信ある言葉で言った。

「少なくとも二日か三日ぐらいは吹雪にならないと思う。多少雪は降るかもしれないけど」

「エインがそう言うならあんしんじゃあ。じいちゃんに鍛えられとるからのう」

 ふえふえと空気が抜けるような笑い声を老婆は出した。

「おばあ様はその少年、エインとお知り合いなんでしょうか?」

「おばあ様だなんてよしておくれ。ババアでいいよ」

 顔をくしゃくしゃにして笑う。

「エインと会ったのはもう何年前かねえ? 急にじいさんとばあさんが、こんな小さい子を連れて来たから驚いたもんさ。見たこと無い顔だったんで聞いてみれば、こっちへ越してきたんじゃと」

 アイリーンが疑問の視線を向けると、エインは食事の手を止めないまま自分の祖父母について語りだす。

 その老人二人は十数年前にふらりとこの場所へやってきて、あの山の中に家を自分達で建てて住み着いた。辺境の地域は大らかな場所で、悪く言えば大雑把ところがある。勝手にやってきて家を建てようが、そこが誰かの土地でなければ問題ない。

 辺境というのはもともと荒れた土地を開墾していった場所でもあるので、自分達で土地を広げていくことは推奨される気風があった。

 老いた男女はすでに二人とも髪の毛は全て白髪で、顔に刻まれた皺からかなりの高齢に見えた。しかし背筋は伸びていて、杖も無く自由に歩ける足腰を持っていた。それどころかたった二人で家を建ててしまうほどだ。その事での村の人々の驚きようは大変なものだった。

 村に来た時、老人の腕には幼い赤子が抱かれていた。生後間も無い小さいからだ。それは亡くなった息子夫婦の忘れ形見だと二人は説明した。老女はすでに子供が産める様な年齢ではない。だがそんな幼い赤子を連れて、こんな寒さ厳しい場所に引っ越してくるのはおかしいだろう。訳ありだとは思ったが、村の人々はとくに気にしなかった。辺境の人々はみんな大らかなのだ。

「……それに、辺境のこのあたりはどんどん人が少なくなってる。だから若い子供が増えることは嬉しかったんだって、そう聞いたよ」

「そうじゃそうじゃ。ここらもどんどん人が減っとるからの」

 老婆がうんうんと大きく頷いた。

「家ができるまで、じいちゃんもばあちゃんも僕も村の家でお世話になってた。だからそのころから村はみんな家族みたいなものだった。家ができてからも変わらなかったよ。それで、僕を一番可愛がってくれたのが、トスーヤとロファの二人だったんだ……」

 そこでエインの口は閉じられ、歯を軋ませる音が響く。両手は固く握り締められ、肩も大きく震えていた。

 その様子にアイリーンは目を細め、老婆は不思議そうにする。

 閉じたまぶたの裏に、無残に殺されたトスーヤとロファ、そして小さな赤子の姿が浮かぶ。血にまみれ手足を投げ出したトスーヤ。腕に子供を抱いたまま死んでいるロファ。触ると温かくて柔らかかった子供の頬は冷たくなっていた。彼らはもうエインに話しかけない、笑いかけない。

 思わずエインの目に涙が浮かぶ。彼らは、村の人々は、祖父母を亡くしたエインにとって、唯一の家族だった。それを全て失った。奪われた。怒りが心を支配する。

 エインの異様な雰囲気に老婆は困惑し、アイリーンは目をさらに細めた。その時、小さく扉が開く音がした。振り向くと、ネミールが扉を開けた状態でこちらを見ていた。

「お嬢様! 寝ていなくてはいけません!」

 すぐ反応したのはアイリーンだ。飛ぶように駆け寄ると、その額に自分の額を触れさせた。

「熱は下がったようですね。でも安心はできません。早くベッドに入って寝てください!」

「もう大丈夫だよ。まだちょっと体が熱い気がするけど。それにしっかり寝たからぜんぜん眠くないし。あと、お腹すいちゃった」

 そう笑いながらネミールは手で腹をおさえた。それを見た老婆は笑い声をあげる。

「ふえふえ。腹がへるのは元気な証拠じゃて。こっちに来て食べ。温まるぞえ」

「うん」

 ネミールはアイリーンの横をすり抜けると、椅子に座る。何か言おうとしたが、しぶしぶといった様子で席へ戻った。

 エインの雰囲気は元に戻った。多少沈んだ感じはしているが特に問題は無いように見える。

「おいしい! 今日はずっと何も食べてなかったんだ」

「そりゃあ大変だったね。たんとお食べ」

 老婆は器にスープを鍋から注ぎ、ネミールは笑顔で礼を言う。

 元気になったネミールの姿を見てアイリーンは安心して、不安そうな顔からいつもの顔に戻る。どころか性的な欲望を光らせた目でネミールを見ていた。

「病み上がりのネミール様も美しい! 考えてみればこれまでお嬢様が病気になることはありませんでした。この姿は貴重ですよ! しっかり目に焼き付けておかなければ!」

 アイリーンは脳内にある体調を崩してエインの背中に縛られて運ばれていた姿を思い出す。それを思い浮かべて悦に浸る姿は、どう見ても変態だった。

 ネミールは鍋を空にするまで食べた。体調が回復したのは本当のようだ。

「ふー。お腹いっぱい」

「ふえふえ。そりゃあよかった」

「お嬢様、そんな格好ははしたないですよ。ああでも、そんな風にお腹パンパンになって苦しそうにしているお嬢様も愛らしい! まさに無垢な少女!」

 老婆が食後のお茶をいれてくれる。お茶と言ってもきちんと茶葉を乾燥させたものではなく、このあたりに生える食用の野草を使ったものだったが、それでもおいしく感じられた。

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