第13話 東京都人並区

「それでさ、どーん!ってすごい音がしたから見に行ったら、花奈子かなこがベッドから落ちてたんだよ」

 ひろしちゃんの言葉に、葛西かさいさんは声をたてて笑った。

「いつもと違う場所だから、寝ぼけちゃったのかな?でも可愛いわね」

 そんなのフォローになってません。

 言い返したいのを我慢して、花奈子は寛ちゃんに反撃する言葉を考えていた。朝から並んで「ザ・深海魚大博覧会」を見て、アンコウのぬいぐるみも買って、楽しくはあるんだけれど、葛西さんが当然みたいに一緒にいるのがやっぱり納得いかない。おまけにこうして、昨日の夜ベッドから落ちたことまでネタにされるなんて。そんな花奈子の気持ちも知らず、天ざるを食べている寛ちゃんは、大切にとってあった海老天にかぶりついた。

 遅めのお昼に入ったお蕎麦屋さんはけっこう賑わっていて、ひっきりなしに注文の声が飛び交っている。花奈子は、あの海老天、奪い取ってやればよかった、と思いながら割子蕎麦を食べ続ける。葛西さんは生湯葉のかけ蕎麦。「夏でも身体は冷やしちゃ駄目なのよ」、って、たしか幸江ママも言ってたなあ、と思い出す。

「なんか大人ぶってるけど、まだお子ちゃまなんだよね」と、寛ちゃんがまたさっきの話を続けるので、ついに花奈子も反撃を決意した。

「そんなこと言うけど、寛ちゃんなんか、おじさんなのにまだモモンガのぬいぐるみと寝てるんだよ」

 えーっ!信じられない!という葛西さんの反応を期待していたのに、彼女はぱっと笑顔になって、「そうそう、ヤマモトくんね!」と嬉しそうに言った。

「そう、だけど、どうして知ってるの?」

「あっ、葛西さん、引越し手伝ってくれたもんな!」

 寛ちゃんは半分かじった海老天をお箸にはさんだまま、早口で説明した。何か言いかけていた葛西さんは口をつぐみ、それから「うちの部署って、本当に色んな雑用あるものね」と言ってお茶を飲んだ。

「じゃあ、寛ちゃんのこと、お子ちゃまだと思ったでしょ?」

「え?うん、そうね」

「もう、その話はいいからさあ」と、残りの海老天を平らげた寛ちゃんが割り込んでくる。

「それはこっちの台詞だよ。何かっていうと人のこと子供扱いしてさ」

「はい殿、お手打ち覚悟でございます」

 そう言って深々と頭を下げられると、花奈子もさすがにそれ以上追及できない。でも昨日のことは夢なのか、そうでないのか。夢ならリアルすぎる、あの獣の前足の重さや、ひんやりとした身体、滑らかな肉球、そして三日月のように鋭い爪。名前はツゴモリ、確かにそう言ったけれど、どんな意味なんだろう。

「本当に、沢井さんって仕事モードとおうちモードが違うのね。会社でももっと、おうちモード全開でいけばいいのに」

「いや、俺はいつだってピシっとしてるよ。東京に来る前はさ、イケメンすぎて困るって、しょっちゅう近所から苦情がきてたもんな」

 アホくさ。もう相手にしない事にして、花奈子は黙ってお茶を飲んだ。寛ちゃんは東京に移って間がないから、まだ会社で猫をかぶってるに違いない。そのうちきっと、どれだけふざけた人間か知れ渡って、みんなに馬鹿にされるのだ。

 でも、葛西さんは寛ちゃんの下らない冗談にもいちいち大笑いで、そういえば三課のミウラさんがね、なんて会社の話ばっかりしている。それに比べて花奈子の心に浮かぶのは、拓夢の事だったりお兄ちゃんの事だったり、心配ごとだけなのだ。

 ともあれ、食事をすませ、今度はテレビでも紹介していたスイーツのお店に移動する。大きなショッピングビルの中にあって、色んなフレーバーのアイスやフルーツを好きなように組み合わせて、自分でオリジナルパフェを作れるのが最大のポイント。

 それだけじゃなく、お店の内装が童話に出てくる不思議の森みたいになっていて、椅子の背もたれに葉っぱが茂っていたり、天井から葡萄の房が垂れていたり、ペーパーナプキンのホルダーが赤い笠のキノコだったり、あちこちにリスやウサギといった小さな動物が隠れていたり、もう写真を撮りまくりたいような素晴らしさなのだ。

 花奈子はラズベリーアイスとチョコアイスにイチゴを組み合わせ、カスタードクリームをかけてワッフルをのせたパフェ。寛ちゃんは黒ゴマのアイスとビターチョコのアイスにコーヒーゼリーをのせて、更にチョコクリームを絞った「暗黒パフェ」というのを開発した。葛西さんはアイスじゃなくて、注文してから焼いてくれる桃のタルトと紅茶。それはそれで十分においしそうだった。

「このビルに何軒か面白そうな雑貨屋とかあるからさ、ちょっと覗いてみようか」

 店を出る前に、寛ちゃんは携帯で検索して提案した。

「それから動物園に移動して、夜間開園だね?」と確認すると、「その通り」と返事がある。

 夜の動物園ってどんな感じだろう。何だか楽しみにしながら、「これちょっと預かってて」と、アンコウのぬいぐるみが入った袋を寛ちゃんに押しつけ、トイレに行っておくことにした。葛西さんもいつの間にか姿を消してるから、きっと目的地は一緒だろう。

 このビルのトイレはやっぱり、花奈子の地元のショッピングモールなんかと格が違う感じで、並ぶ必要がないほどたくさんの個室があって、明るくて清潔で文句なしというレベルだった。よく、洗面所で化粧直しをする人の順番待ちで手を洗えない、なんて事があるけれど、ここにはパウダールームという、三面鏡とちょっとした荷物を置けるカウンターの並んだ小部屋があって、みんなそこでお化粧を直したり、髪を整えたりしている。

 花奈子もちょっと背伸びした気分でそこに入ると、髪に手櫛を入れ、リップクリームを塗り直してみた。また少し日焼けしたような気がして、面倒くさくてもちゃんと帽子は被らなきゃ、と自分に言い聞かせる。そこへ、聞き覚えのある声が耳に入ってきた。

「でさ、朝から深海魚だよ。なんだかねえ、って感じでしょ?」

 葛西さんだ。

「夜はまた動物園だって。私ああいうとこ苦手なのよ、なんか臭いじゃない。あそこで夕食なんて話になったら最低かも。トイレで食事、みたいなもんだし。でもしょうがないよね。姪っ子命って感じだし。そう、亡くなったお姉さんの子供。せっかく合わせて休みとっといたのに、悪い、その日は姪っ子くるから、でしょ?そう、家に泊めてるの。中学生なんだから、ビジネスホテルに一人で泊まれるよね。まあ本当にしょうがないんだけど。また今度ゆっくり話きいてよ」

 声はトイレの壁に反響しながらどんど近づいてきた。花奈子は咄嗟にどこか隠れる場所はないかと周囲を見回したけれど、パウダールームにそんな空間はなくて、振り向いた時にはちょうど葛西さんが携帯を片手に入ってくるところだった。

 一瞬、彼女は表情をこわばらせた。でも、花奈子の方がひきつった顔をしていたかもしれない。

「あら」彼女は素早く笑顔を浮かべると、「綺麗になった?身だしなみ、大事よね」と声をかけてきた。花奈子は「先に行ってます」とだけ小さな声で言うと、逃げるようにして飛び出した。

 どうして逃げるんだろう。決まりが悪いのは葛西さんのはずなのに。でもその場から消えてしまいたいのは自分の方だった。葛西さんは寛ちゃんと、この週末にどこかへ遊びに行こうとしていたのだ。なのに花奈子が来ることになって、計画を台無しにされて怒っている。葛西さんのこと、勝手についてくる人だと思っていたけれど、花奈子の方が突然やって来た迷惑な姪っ子だったのだ。


「動物園、とりやめにしてもいい?」

 雑貨屋さんを幾つか回って、さあそろそろ移動しようかという時になって、花奈子はようやくそう切り出した。

「え?なんで?夜間開園、あんなに楽しみにしてたのに」

 寛ちゃんは言ってる意味が判らない、という口調だ。

「なんか、あちこち行ってくたびれたみたい」

「何、気分悪いとか?そういや顔色悪いかな」

 寛ちゃんは慌てた様子で、花奈子の顔を覗き込む。そうして心配させるのも嫌だけど、このまま葛西さんも一緒に、苦手な動物園に連れていくのはもっと嫌だった。

「別に病気とかじゃないよ。ただ、動物園はもういいの」

「そう?まあ、少し予定詰め過ぎたかな」と、寛ちゃんは花奈子の頭を軽くたたき、葛西さんに「ちょっと帰って休憩するよ。ごめんな」と言った。

「私は全然かまわないわよ。まだ買い物とかあるから。花奈子ちゃん、人が多すぎて疲れちゃったのかな」

 葛西さんの声はすごく優しくて、さっき電話していたのと同じ人だとはとても思えなかった。もしかして、他の誰かがしゃべっているのを、自分が勝手に葛西さんだと思い込んだだけなのかも。だったらどんなにいいだろう。


 時間はかかるけど、乗り換えなしで帰れるから、という理由で、寛ちゃんは花奈子を連れてバスに乗った。一番後ろの席に並んで腰かけて、窓から外を眺める。どれだけ走っても、東京のバスは田んぼや河原に出ることはなく、ずっと街の中だった。

「しばらく昼寝すれば?着いたら起こすからさ」

 寛ちゃんは花奈子の代わりに、アンコウのぬいぐるみが入った袋を抱えたままでそう言った。

「眠くなったら寝るよ」

「なんか、ごめんね。花奈子の意見とかあんまり聞かないで予定たてちゃってさ。過密スケジュールだったかな」

「そんなことないよ。ただちょっとくたびれただけ」

 目を閉じて、無理やり眠ってみようとする。でもやっぱり、さっきの葛西さんの言葉が耳から離れなかった。花奈子はまた目を開けると、俯いたままで寛ちゃんに「私、どっかよそに泊まる」と言った。

「え?何で?もしかして、葛西さんにベッドから落ちた話をしたの、そんなに怒ってる?」

「そうじゃなくて、もう中学生なんだから、一人でホテルかどこかに泊まる。婆ちゃんにお小遣いもらったから、お金は大丈夫」

「小遣いって、そりゃ宿泊費じゃないよ。何?風呂に脱衣室ないから嫌だとか?実はベッドが臭かったとか、ゴキブリ出たとか、言いにくいこと?」

 言いにくいって、自分で言ってんじゃん、とつい苦笑いしながらも、花奈子は「そういうんじゃないよ」と打ち消した。

「とにかくもう、あんまり花奈子のことあれこれ考えないで」

 口から出た言葉は、百パーセント自分の気持ちを表現できていなかった。でも、それ以上どう言えばいいのかもよく判らない。寛ちゃんはしばらく黙っていたけれど、「花奈子のこと考えるのは俺の勝手だろ。いちいち人の思想まで取り締まるって、KGB《カーゲーベー》じゃあるまいし」と不満そうに言った。

「何?その、カゲベエって」

「カーゲーベー!ソビエト連邦の秘密警察」

「そんな昔の話知らないもん」

「世界史で習ってるって」

「中学じゃ習わない!」

 なんで話が世界史にすり替わってるのか、よく判らないけれど、いつの間にかよそに泊まるという話が消えてしまっている。仕方ない、もう一度言うか、と思っていると、寛ちゃんが「なんか自分でも、ちょっと強引かな、とは思ったんだよね」と呟いた。

「花奈子のお母さんが東京で大学に通ってた時にさ、四回生の夏休みに、これが最後だから遊びにおいでって言われたんだ。俺まだ小学生だったけど、一人で新幹線に乗って、お母さんに東京駅まで迎えに来てもらって、下宿に泊まって、あちこち遊びに行って、すごく楽しかったんだよね。だから花奈子も遊びに来ればいいや、なんて安易に考えたんだけど。まあそれは俺の一方的な押しつけだったな」

「ううん、私だってすごく楽しいよ。ただ…」

 でもやっぱり、葛西さんの事を言うわけにはいかない。まるで告げ口するようなものだから。

「ちょっとくたびれただけ」

 ふりだしに戻った気分で、花奈子は窓の外を見た。さっきから何だかバスがのろのろと運転していると思ったら、反対側の車道を大勢の人が歩いている。頭の上に何か書いた大きな紙を掲げたり、三、四人で横断幕を広げたり。先頭の人がハンドマイクで何か叫ぶと、それに応えるように言葉を繰り返し、拳を振り上げるのだった。

「この暑いのに、大変だな」

 寛ちゃんも花奈子の肩ごしに外の様子を見ている。確かに、わざわざ真夏の昼下がりにこんなキツイことしなくてもいいのに、一体何を呼びかけているんだろう。そう思いながら、紙に書かれた「NO非正規!」「女性の貧困を見過ごすな!」といった言葉を眺めていたけれど、その中に一際、はっきりと目に飛び込んでくる文字があった。

 東京都人並区

 あれは、お兄ちゃんの部屋にあったメモに書かれていた言葉だ。慌てて目で追ったけれど、ちょうど人の波は終わりにさしかかっていて、花奈子たちの乗ったバスはいきなりスピードを上げ始めた。

「私、ここで降りる!」

 花奈子は大急ぎで降車ボタンを押すと立ち上がった。背中から寛ちゃんの「どうしたの!」という声が追いかけてくるのを聞きながら、ちょうど停まったバスを飛び降り、もと来た方へと駆け出した。けれど歩道はけっこう混んでいて、歩いている人や自転車をよけていると、そう簡単に前へ進めない。おまけにバスは思ったより遠くまで走っていて、さっきの人たちを見たはずの場所に戻った頃には、もう誰もいなかった。

 風の音に混じって、ハンドマイクから流れる声が聞こえてくるけれど、どっちの方に行ったのか判らない。右?左?少し走ってみて、やっぱり違うと迷っていると、ようやく寛ちゃんが追いついてきた。

「ちょっと!一体どうしたんだよ!」

 アンコウのぬいぐるみが入った袋を抱えて走ってきたせいか、息を切らせて汗だくだ。でもそれは花奈子も同じで、今頃になって思い出したように汗が流れ出す。

「あの人たち、お兄ちゃんのこと、何か知ってるかもしれない」


「全くなあ、そういう事はもっと早く言ってもらわないと」

 寛ちゃんは文句を言いながら、マウスを動かし続けている。

「だから電話で言ったじゃない。そしたら、東京にあるのは杉並区だって、それでおしまいだったもん」

「でも、花奈子は孝之たかゆきのこと、何も言わなかっただろ?だから、冗談か何かだと思ってたよ」

「それはそうだけど」

 次に来たバスに乗って、寛ちゃんの家まで戻って、汗だくだったので二人ともシャワーを浴びて、ようやくパソコンで「東京都人並区」という言葉を検索開始だ。そして傍には、当然という顔をして豆炭まめたんが上り込んでいる。二人が帰ってくるのを待っていたように、ベランダに現れたのだ。

「まあ要するに、NPOって奴だな。若者を中心とした非正規雇用者の待遇改善とか、ホームレスの支援とかをしている団体みたいだ」

「ヒセイキコヨウって何?」

「何ていうか、アルバイトとかパートとか、契約社員とかの人だよな。正規雇用の人、つまり正社員ってのは、いったん働いて下さいって言われたら、定年になるまで働くのが約束だけれど、そうじゃない人は働き続ける気があっても、短い期間しか雇ってもらえない。そうしたら、また新しい仕事を見つけないといけない。給料だって少ないし、ボーナスが出なかったり、病気になったらすぐに辞めさせられたり、仕事が減ったら週に二日でいいとか、もう来なくていいと言われたり、待遇も良くないっていうか、立場が弱いんだ」

「でもたくさん働かなくていいから、楽じゃない?」

「そりゃ、学生とか、家の用事が忙しい人だったら、その方が都合のいい場合もあるけどさ、たくさん働いていっぱいお給料がほしい人なら、同じところで長く働いて、ちゃんと法律で色々な権利が守られている方がいいんだよ」

 言われてみればそうかな、と思いながら、花奈子はパソコンの画面を覗き込む。膝には買ったばかりのアンコウのぬいぐるみがのっているけれど、隙を見せると豆炭がチョウチンのひらひらに飛びついてくるので、油断できない。

「俺もさあ、孝之の大学とか、下宿の近所とか、あたってはみたんだけどね」

「え?探しに行ったの?」

「手がかりなしだったけど。まあ、大学に行かなくなったのが始まりだから、こっそり舞い戻るって事はないだろうけど、一応」

「なんで教えてくれなかったの?」

「別に、俺の勝手でやってる事だもの」

 目はパソコンの画面を追いかけたままで、寛ちゃんはそう答えた。お兄ちゃんが出て行った事について、ばあちゃんほどあれこれ言わずにいたけれど、やっぱり気にかけていたんだ。

「しかしこうなると、やっぱり東京に来てるのかなあ。なんだかんだ言っても、選ばなければ仕事の口は色々あるし、身体さえ健康なら、とりあえず食っていける」

「そうなの?」

「ん」と、我に返ったような顔つきで花奈子の方をちらりと見てから、寛ちゃんは「それは大人の場合」と付け加えた。

「そりゃ、お兄ちゃんはもう二十歳過ぎてるけど。でも、こんな風に黙って家出してるのはよくないよ。引越しの相談もできないし」

「ああ、病院の近くに移るって話?花奈子は賛成してるの?」

「うん。拓夢たくむのためには、いいと思うよ」

「花奈子は何でも拓夢が最優先だな」

「だって、うちじゃ拓夢が一番小さいんだもん」

「そうだな。いいお姉さん持って、拓夢は幸せだ」

 それはどうだろう、と花奈子は思った。自分がいる事なんて、拓夢にとっての幸せとは何の関係もないかもしれない。それよりも早く病気が治って、また幼稚園に通えるようになって、友達と遊んだり、外を走ったり、本物のパトカーやブルドーザーを見に行けることの方がずっと嬉しいんじゃないだろうか。

「あ!」

 ふいに引っ張られる感じがしたと思ったら、豆炭がアンコウの尻尾に飛びついてガジガジと齧っている。

「こら駄目!買ったばっかなのに!」

 慌てて引き離しても、まだ前足でパンチを繰り返す。寛ちゃんは「ちゃんとしまっとかないと」と呆れ顔だ。

「わかったよ」と、しぶしぶ立ち上がり、寝室に置いていたキャリーバッグにアンコウを避難させる。その間も、豆炭は足元を縫うようについてくるのだった。

「ねえ、私達が出かけてる間、どこにいたの?」

「ニャ」

「まさかずっと後つけてたりしないよね」

「ニャ」

 全くもう。ふと顔を上げると、昨日の夜あの獣、ツゴモリが現れた姿見が目に入る。一瞬びくっとして、でもそこには自分と豆炭しか映っていないことに何だか落胆して、またリビングに戻る。寛ちゃんはすごく真剣な顔つきでパソコンに見入っていた。

「何か判った?」

「うーん」と唸って、寛ちゃんは首をぐるぐると回すと「この東京都人並区、ちょと怪しげな感じだな」と呟いてから立ち上がった。

「何が怪しいの?」と、花奈子が画面を覗き込もうとするのを遮るように、腕を伸ばしてパソコンを閉じる。そしてキッチンに姿を消してしまった。

 開けたい気持ちは山々だけれど、人のパソコンで勝手にそんな事をしてはいけないので、花奈子は仕方なく寛ちゃんが戻ってくるのを待った。ここで豆炭が代わりにやらかしてくれればいいんだけれど、関係ない、といった顔つきですましている。

「大事な時に役立たずなんだから」

「ニャ」

「ニャ、じゃニャイよ!ほら!」

 抱き上げて、後ろから前足をつかまえて、パソコンを開けさせてみるんだけれど、爪すら出そうとしない。それでも何とか、丸っこい足の先を隙間にねじ込もうとしていると、「こらあ」という声が降ってきた。

「猫の手借りるのは反則だぞ。はい」と、寛ちゃんは麦茶の入ったグラスをテーブルに置く。自分はもう片方の手に持ったグラスから飲みながら、腰を下ろすと「とにかく、この事はもうちょっと俺が調べとくから。弁護士やってる友達に、こっち方面に詳しい奴がいるんだ」と言った。

「それより、今からこの、東京都人並区の事務所みたいなところに行っちゃ駄目なの?」

「たぶん門前払いだと思う。今時は個人情報保護だの何だのうるさいし」

「でも、私が一人で行けば大丈夫かもしれないよ。子供なら怪しまれないじゃない」

「いつもは子供扱いするなって言うくせに、都合のいい時だけ子供かあ?」

「そういう意味の子供じゃないよ」

「子供に意味もへったくれもあるか。あとは大人の問題」

 そう言って一方的に話を終わらせると、寛ちゃんは「晩ごはん、どうする?」と尋ねた。テレビの脇に置いてある時計を見ると、もう六時を回っている。

「なーんか、葛西さんがさ、帰り道で近くまで来てるから一緒にどう?なんて言ってきてるけど」 

 寛ちゃんは片手で携帯に触れながら、グラスの麦茶を飲み干した。

「スーパーで何か買って行って、私が作りましょうか?簡単なものしかできないけど、だって。簡単なものって、何だろうな」

「カレーとかじゃない?」と答えながら、花奈子は胸の奥がぎゅっとねじれるような感じをなだめていた。この調子なら寛ちゃんは、じゃあ、お任せします、なんて返事をするに違いない。確かに、そうすれば葛西さんも嫌いな動物園に行かずに済むし、花奈子も後ろめたさを感じずに済む。そのはずなんだけれど、ちゃんと葛西さんの顔を見て話をする自信がなかった。

「私、晩ごはんは友達と食べてくる」

「は?」

「だから、寛ちゃんは葛西さんとごはん食べればいいじゃない」

「いや、だって、友達なんて東京にいないだろ」

「いるよ。美蘭みらん。高校生の、フィアット好きな」

「でも昨日、連絡しないって言ってなかった?」

「大丈夫。今から行って来る。もしかして遅くなるか、泊まってくるかも」

 それだけ言うと、花奈子は傍においていたショルダーバッグをつかみ、マンションを飛び出していた。

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