第11話 あいつ、優しいのね

「レトロな旅館で最後の夜だっていうのに、出前ピザなんてイマイチよね。まあ今日は亜蘭あらんが働いたから、希望きいてやるけど」

 美蘭みらんは不満そうに宅配ピザのチラシで襟元を扇ぎ、それが気になるらしくて、黒猫の豆炭まめたんがさかんに前足でパンチを入れる。

「おっと、やる気ね」と、美蘭はチラシを丸めて豆炭をじゃらし始め、花奈子かなこはテーブルに頬杖をついてその様子を見ていた。

 今日もお父さんは夜の授業だし、幸江ゆきえママは病院。だからここで美蘭たちと一緒に夕ご飯を食べて帰っても大丈夫なのが嬉しい。

 美蘭が操るチラシに釣り上げられるように、ぴょんぴょん跳ねる豆炭を見ていると、迷子だったパフを連れて帰った時の、おばさんと娘さんの様子を思い出す。歓声をあげたかと思うと、まあまあ痩せちゃって、と心配して、次の瞬間には、もう駄目かもって諦めかけてたの、と泣き出したり、本当に大騒ぎだったのだ。

 当のパフはというと、何食わぬ顔で水を飲み、羊のクッションの上で昼寝を始めたんだから、猫って本当に気ままな生き物だ。

「ねえ、亜蘭はどうやってパフの居場所が判ったの?」

「さあね、どういう仕組みなのか私にもよく判んないわ。とにかく、身に着けてたものとかをさわると、どこにいるか感じとれるらしいのよね」

「一種の超能力ってこと?」

「さあね。人間とはろくに通じ合えないくせに、動物とは相性がいいみたいよ。でもさ、欲を言うなら、ちゃんと自分で戻ってきてほしいのよね。ああやって見つけた時点で、猫に同調してフリーズしちゃうから、こっちは糸をたぐって探さなきゃいけないんだもの」

「同調、って?」

「うーん、猫の気持ちになってるのかな。とにかく、もうずっと小さい頃からああなのよ。いつの間にかいなくなって、私が探しに行くと、犬とか猫とか抱いて、焼却炉の裏とか、変なとこでぽかーんとしてるのよね。寄宿学校にいた頃は、神隠しの亜蘭って呼ばれてたし」

 そこまで美蘭が言った時、ついに豆炭は彼女が手にしていたチラシを奪い取るのに成功した。前足でがっちりと抑え込み、白い牙をたてて噛みついたかと思うと、首をはげしく左右に振って引きちぎってしまう。

「寄宿学校って、美蘭は寮のある高校に通ってるの?」

「いや、それは小学校時代の話。いくら亜蘭がとぼけた奴でも、さすがに今はそこまでフラフラしてないから」

「えっ?でも小学校って家から通うもんじゃない?」

「世の中には色々と変わった学校ってあるのよ。お金はあるけど子供の面倒みたくないって親にはぴったりよね。表向きは、自立心と協調性を育む理想的な教育環境、なんて言って」

「それって外国の学校?」

 花子の頭の中には、アニメで見たイギリスかどこかの寄宿学校が浮かんでいたけれど、美蘭は「神奈川よ。東京からそんなに遠くない」と言いながら、豆炭がひきちぎったチラシをゴミ箱に放り込んだ。

「中学までその寄宿学校にいて、高校は同じ系列の学校に移ったの。都内だし、寮はもううんざりだからマンション住まい」

「もしかして、亜蘭と二人?」

「そう。うちの親って、子供と一緒にいられない人なの。母親は独りで気ままにしてるし、父親には会ったことないけど、他の人と結婚して、平和に暮らしてる」

 全く予想もしていなかった答えが返ってきたので、花奈子は何とか話を整理しようと、必死で頭を回転させていた。それを手助けするかのように、美蘭は話を続ける。

「つまりね、私達の両親は結婚してないの。問題はほとんど母親ね。とにかく何もかも面倒くさいっていう、うちの一族の代表選手みたいな性格で、しかも自分しか大切じゃない。まあそんないかれた性格なのに、父親はほんの出来心で彼女とつきあってしまったのね。で、あっという間にご懐妊。その時、母親は高校生で父親は大学生よ。幸か不幸か、母親は中絶するのも面倒くさくて、そのまま私と亜蘭が生まれてしまったわけ」

「じゃあ、お母さんは一人で美蘭たちを育てたの?」

「無理無理」と、美蘭は膝に抱き上げた豆炭の前足を使って、花奈子の言葉を打ち消した。

「でもね、うちの一族ってそういう、どうしようもない人の集まりだから、ちゃんとセーフティネットが機能してるのよ。簡単にいうと、よその家族に寄生してるの。お金持ちの一族よ。彼らは私達が生活するために必要なお金を全部出してくれる。その代わり、うちの一族は彼らのために色々と仕事をしてあげる。と言っても働くのはほんの一握りの、貧乏くじをひいた人だけで、あとは全員、面倒くさいって思いながらぶらぶらしてるの。だって死ぬのも面倒くさいから」

「でも、美蘭は面倒くさいなんて全然言わないじゃない」

「しょうがないんだもん、自分で貧乏くじひいちゃって…こらあ!」

 いきなり美蘭が叫んだので、びっくりした豆炭は彼女の膝から飛び降りた。花奈子が顔を上げると、夕立で濡れたから、先にお風呂に入っていた亜蘭が戻ってきたところだった。

「あんた、なんでそういう失礼な格好でうろつくのよ」

「着替え持ってくの、忘れた」と返事した亜蘭は、ジーンズの上は裸で、首にタオルをかけただけ。肩に届そうな髪も濡れたままだった。

「全くもう、淑女の前で」と美蘭の言う「淑女」に自分も含まれているのかと思うと、花奈子は何だかそっちの方が照れる気がして俯いた。それをごまかすように、傍にきた豆炭を抱き上げた時、階段の方から「美蘭ちゃーん、ピザ届いたわよ!」という女将さんの声が聞こえた。

 美蘭は「はぁい」と返事をして、財布を片手に部屋を飛び出して行った。その後になって花奈子は、亜蘭と二人きりで残されてしまったことに気づいた。何だか気まずい。でも、今から美蘭の後を追いかけていったら、やっぱり避けている、と思われてしまうかもしれない。とりあえず、うまい具合に自分に抱かれている豆炭に集中するふりをして、花奈子は美蘭が戻るのを待った。

 でも、ここの女将さんは美蘭のことが大好きみたいで、つかまると必ず長話になるらしい。「ここの旦那、結婚前から続いてる愛人がいるんだってよ。だから女将さん、下の子が就職したら離婚するんだって。慰謝料代わりにこの旅館もらうつもりらしいわ」なんて、どう考えても高校生相手にするような話じゃないけれど、美蘭が高校生らしくないんだから仕方ない。

「ごめん」

 ふいに、亜蘭から声をかけられて、花奈子は思わず顔を上げた。手を緩めた拍子に豆炭は逃げ出して、白いTシャツを着たばかりの彼の脛に尻尾を絡ませてすり抜けようとする。それを片手でつかまえて抱き上げると、亜蘭は腰をおろした。まだ首にかけているタオルに、豆炭は早速じゃれつこうとしたけれど、濡れた髪はどうも苦手らしくて、前足を出したりひっこめたりしている。

 わざわざ謝られてしまうと、花奈子も「別に、いいから」と言うしかない。それに安心したのか亜蘭は、「美蘭ってさ、裸アレルギーなんだよね」と言った。

「裸、アレルギー?」

「人が裸でいるのが嫌いなんだけど、それは自分の裸を見られたくない事の裏返し。小学校の頃から、ずっとそう。本気で暴れるんだよ。今は体育の時間なんか、茶道部の和室を占領して、勝手に更衣室にしてる。だから学校の女子は全員、美蘭の裸見たら殺されるって怯えてる」

「それは、どうして?」

「きっと、貧乳コンプレックスだよ。変なとこに自信ないんだ。誰もそんなの気にしてないのに」

 ふだん無口な亜蘭が、いきなり話し出したと思ったら、何だかどう返事していいかわからない内容で、花奈子は流れに沿って「だよね」と言うしかなかった。

「誰が貧乳コンプレックスだあ?」

 いきなり、開ききっていなかった襖を勢いよく足で蹴りながら、ピザの紙箱を抱えた美蘭が入って来て、「私はあんたと違って文明開化してるだけだよ!判ったらさっさと飲み物取って来な!」と吠えた。亜蘭は「あーあ」とうんざりした声を出して、一階の冷蔵庫に預けてある、ジンジャーエールとジャスミンティーを取りに行った。

「全く、たまに口開けばロクなこと言わないんだから、腹の立つ。さあ花奈子、先に食べちゃおう」

 美蘭はいそいそと箱を開けて、シーフードピザを一切れ手にとると、勢いよくかぶりついた。

「亜蘭は待たないの?」と聞くと、「あいつの希望きいてピザなんだから、それで十分じゃない」と、気にしてもいない。

「まあ、私も別にピザを嫌いじゃないけどさ、最後にこう、花奈子のおばあちゃんちの冷や麦みたいなの、食べたかったんだよね」

「冷や麦?でも、ピザの方が全然高いよ?」

「値段の問題じゃないもの。花奈子には当たり前で判らないだろうけど、ああいう、ふつうの家でふつうに出てくるような食事って、一番おいしいんだから」

「寄宿学校とかじゃ、食べられないから?」

「まあね。茹でたてでさ、まだ氷の角が残ってて、刻んだ茗荷とか葱とか、海苔とか錦糸卵とか添えた、そんな風に誰かが自分のためだけに作ってくれたものなんて出ないもの。まあ、食べたいならお前が作れって話なんだけど」

「だったらまた食べに来ればいいよ。ばあちゃん美蘭のこと好きだから、きっと喜ぶよ。春巻もおいしいから、次に来るときは、冷や麦と両方食べるといいかも」

「ありがと」と美蘭は笑顔で返してくれたけれど、本当のところ、またこの街に来てくれるんだろうか。急に彼女との別れが近づいた気がした時、亜蘭が戻ってきた。

「グラスも借りて来るの、ようやく憶えたね」

 美蘭は彼の手からグラスを受け取るとテーブルに並べ、「花奈子どっち飲む?」と訊いた。「ジャスミンティー」と答えると、亜蘭が注いでくれる。「私もジャスミンね」と言って、美蘭はマルゲリータにかぶりつく。いつの間にか豆炭は彼女の膝に乗って、チーズを分けてもらえないかと首を伸ばしていた。

 亜蘭がシーフードピザを手にしてから、花奈子もようやくマルゲリータを齧る。溶けたチーズの香りと、バジルのきいたトマトソースが口の中に広がって、やっぱりこっちの方が冷や麦より上等じゃないかな、という気がしてくる。

「おおっと」

 三枚目、照り焼きチキンのピザを頬張りながら、美蘭が思い出したように唸った。

「そういえば私達、豆炭抱っこして、そのまま手づかみでピザ食べてるね。ちょっとヤバいかな?」

 その瞬間、花奈子は急に不安になった。幸江ママと一緒だったら絶対に手を洗ってから食べるのに、何だかおしゃべりに夢中で、添えられていたウェットタオルで手を拭くのさえ忘れていた。

 もしこれが原因で変な病気になったりしたら、拓夢たくむのお見舞いにも行けなくなってしまう。荷物運びも出来なくなって、幸江ママもすごく困るに違いない。そうしたら拓夢だって、また具合が悪くなってしまうかもしれない。

 色んな心配事が一気に押し寄せてきて、胸のあたりが重苦しくなり、手が震えてきた。それと同時に冷たい汗が首筋を流れてゆく。

「花奈子、どうしたの?」

 気がつくと、美蘭が顔を覗き込んでいる。

「大丈夫?顔色が悪いよ?」

 大丈夫、と答えたかったけれど、言葉を返すのも無理で、花奈子は大急ぎで部屋を飛び出すとお手洗いに駆け込んで、いま食べたものを何もかも吐いてしまった。


「だからさあ、このクソ暑いのにピザみたいな脂っこいもの、ふつう無理だから」

 美蘭は床の間に置いてあった団扇で花奈子に風を送りながら、また文句を言う。亜蘭は何度目かの「ごめん」を繰り返しながらも、残ったピザを完食してしまった。

 美蘭も相当食べたと思うけれど、やっぱり男の子は違うな、と感心しながら、花奈子は美蘭が敷いてくれた布団に横になっていた。

「少し顔色よくなってきたみたいね。お茶は飲んだけど、何かすっきりしたもの食べたくない?亜蘭の腹ごなしに、コンビニまで行かせるよ」

「ううん、いらない。ありがとう」

 さっき苦しくて滲んできた涙が、まだ少しだけ睫毛の辺りに濡れた感じを残している。今日は美蘭たちがこの街で過ごす最後の夜で、楽しく食事する筈だったのに、自分がそれを台無しにしてしまったのだ。さっき突然襲ってきた不安は、落ち着いて考えたらそんなに大した事じゃないと思える。そりゃ確かに、猫をさわった手でそのままピザを食べるのは、清潔とは言えないけれど、いきなり病気になるなんて、大げさすぎる。

「やっぱり私はアイス食べたい、っていうか、爽やかなところで氷レモンがいいな。頼むわ」と、美蘭はお財布から千円出して亜蘭に渡した。彼は何も言わずに立ち上がると、そのまま出ていく。

 それから美蘭はしばらくお茶なんか飲んでいたけれど、「そうそう、忘れちゃいけない」と言い、ショルダーバッグをがさこそやって、白い封筒を取り出した。

「今日のあいつの稼ぎ、幾らだと思う?」

「え?あの、迷子のパフを見つけたの?」

 何だかもう何日か前のような気がする、今日の午後の出来事。

「なんと十五万円。もう少しふっかけても出してくれたと思うんだけど、欲張っちゃ駄目よね。で、少ないけど、これが花奈子の分。包まずに失礼」

 そう言って、美蘭は封筒から一万円札をぴっと抜くと三つ折りにして、花奈子のリュッのポケットに差し入れた。

「なんで?駄目だよそんなの!私、何もしてないもん」

 慌てて起き上がると、花奈子はそのお札を返そうとした。しかし美蘭はそれをかわすように立ち上がり、「キャリーケース運んでくれたじゃない。じゃ、ちょっと宿代を払ってくるね」と言い残して出ていった。

 一万円なんて冗談じゃない。美蘭が受け取ってくれないなら、このまま彼女のバッグに戻して、こっそり帰ってしまおうか。幸江ママから預かった荷物はかさばるけど、ここからなら歩いて帰れるし、夜道といってもそんなに寂しいわけでもない。あれこれ考えて、やっぱりそうしようと決心した時、こちらを見上げて座っている豆炭と目が合った。

「ねえ、私の代わりに、美蘭に謝っておいてくれる?」

 お願いしてみると、ニャ、と短い返事があった。美蘭は無理でも、亜蘭には伝言してくれるかもしれないと思いながら、花奈子は大急ぎでさっきの一万円札を美蘭のショルダーに突っ込んだ。豆炭はきょとんとした感じで花奈子を見守っていたけれど、いきなり耳をぴんと立て、窓の方を向いた。

 不思議に思って豆炭の視線の先を追ってみると、ふいに目の前を黒いものが横切る。

「あれ?蝶々?」

 部屋の明かりに誘われたのか、窓から黒い蝶が迷い込み、ひらひらと宙を舞っている。どこかにとまりそうに見えて、また舞い上がるという動きを繰り返しながら、それでも少しずつ、下の方に降りてくる。けれど、喜んでそれに飛びついてもよさそうな豆炭はじっと固まっている。そしてようやく蝶が畳の上に羽根を休めた途端、何か熱いものでも踏んだように全身をびくっと震わせると、部屋の隅っこに後ずさりして行った。

「どうしたの?」

 怯えたような感じの豆炭を目で追いかけ、それからまた黒い蝶に視線を移した時、花奈子は小さな悲鳴をあげていた。

 蝶が、蝶であったものが溶けて流れ出している。黒い影が、水が溢れるようにこちらへ押し寄せてくる。最初は平らだったその影は、やがて盛り上がり、何かの形をとろうという意志を伴って動き始める。

 この感じをいつか夢で見たことがある。だとしたらこれは夢で、本当の私は今この部屋で眠っていて、傍では美蘭が優しく風を送ってくれているはずだ。

 夢!夢なら目を覚まさなくては!

 けれど黒い影はそんな花奈子を嘲笑うように、はっきりとした形に収斂していった。その表面に、夜の数だけある様々な深さの闇で描いたような、幾何学模様を絶えず浮かべながら、いつしか四本の太い足で立ち上がり、長い尻尾で空気を薙ぎ払い、大きな獣の姿をとった。

「しばらくだな」

 茫然と座り込んでいる花奈子を見下ろして、獣はそう言った。部屋の半分を占めるほどに思える真っ黒な身体の中で、レモンイエローに光る一対の眸と、白い牙に縁取られた青紫の口が一際目をひく。

「お前は私を夢の世界の住人だと決めつけたいらしいが、それは無理というものだ」

 でも、やっぱり夢だと思いたい。花奈子が思わずぎゅっと目を閉じたその時、誰かが勢いよく襖を開け放った。

「ようやく来たね」

 思わずまた見開いた花奈子の瞳に映ったのは、美蘭だ。見たこともない筈の大きな獣を前にして、彼女は全く怯む様子もなく、声にはむしろ楽しそうな響きがあった。

「お前に用はない」

 獣は低くそう告げると、まるで日に当たった雪だるまのように輪郭を失い始めた。

「逃げる気?亜蘭、影踏め!」

 美蘭がそう叫んだのと、亜蘭が窓からよじ上ってきたのはほぼ同時だった。彼もまた、怖がるそぶりも見せずに飛び込んでくると、裸足で獣の影を踏みつけた。彼が放り出したコンビニの袋は、カサカサと音をたてて畳を転がる。

「しっかり踏んでろ!」

 腰を低く落とすと、美蘭は右手を背中の方に回した。いつの間にか獣は再びはっきりとした形をとり、牙をむき出して雷鳴のように低く唸りながら彼女を睨んだ。

 早く逃げて、と思いながら花奈子は美蘭を見つめていた。彼女はじっと獣を見据えたままで何か白く光るものを手にすると、口笛のように鋭い息を吐いて畳の上、亜蘭の足のすぐそばに突き立てた。

 それは、刀だった。といっても侍が腰にさげているような長いものではない。いつか時代劇で見た、お姫様が身を護るために持っている懐剣のような、短くて細い刀。それでも、畳の上にまっすぐ立っている銀の刃は、その冷たい光だけで切れ味の鋭さを十分に物語っていた。

 気がつくと、獣はさっきまで唸っていたのが嘘のように静かになって、ただ美蘭と睨み合っている。

「お前と取引したいの」

 肩で息をしながら、美蘭はそう言った。

「お前たちの考えなど、とうに知っている」

 そう答える獣の声は、とても落ち着いていた。

「だったら話が早いじゃない。どうかしら」

「お前たちは、大きすぎる獲物を狙っている」

「そうかもね。でもこうするしかないの」

「私を呼んだのはこの娘だ。知っているだろう」そう言って、獣は光る眼で花奈子の方を見た。途端にびくりと、身体が震えるのを抑えられない。

「そう。私達、出遅れちゃったの。だから取引したいって言ってるのよ」

「無駄だ。やいばも満足に操れない小娘が、偉そうな口をたたくものではない」

 その時、花奈子の目の前の畳にぽたり、と赤いものが落ちた。見上げると、美蘭の指先から血が滴っている。彼女は「ちょっと慌てちゃったみたいね」と笑ってみせた。

 獣が「その手を出せ」と言うと、彼女は素直に腕を伸ばした。左の親指のつけ根あたりが切れているらしくて、血はどんどん溢れてくる。その傷口を、獣は瑠璃色の舌で何度か舐めると、「その刃を収めろ。私に用があるなら、まずはこの娘に問え。全てはそれからだ」と言った。

 美蘭は「わかった」と軽く頷くと、畳に深々と刺さっていた短刀を抜いた。その途端、獣は息を吹き返したように長い尻尾をしならせて伸び上がると、亜蘭に向かって「小僧、借りたものを返す覚悟はあるか?」と尋ねた。

 もちろんその奇妙な質問に即答できる亜蘭ではなくて、ぽかんとしている彼の目の前で身を躍らせると、獣は部屋の隅の小さな暗闇に、吸い込まれるように飛び込んで消えた。


「暑い。汗かいちゃった」

 美蘭は背中に隠していたらしい、黒い鞘に短刀を収めると、テーブルに置いた。よく見ると、とても細い木の皮が編み込むように巻かれていて、その隙間から下地の紅色が菱形にのぞいている。まるで持ち主の美蘭をそのまま写したような美しい鞘だ。彼女はそれから、亜蘭が畳に落としたままだったコンビニの袋を拾い、氷レモンを二つ取り出した。

「食べなよ」と花奈子に一つ差し出し、もう一つを自分でおいしそうに食べ始める。さっきはいらないと言ったけれど、花奈子の喉はからからで、素直に受け取って口に含むと、レモンの冷たい酸っぱさが心地よく舌の上を滑っていった。亜蘭はもう一つ残っていたソーダ味のかき氷を食べ始め、三人はしばらく、シャリシャリと氷の音だけさせていた。

「あれちょっと、ヤバいよね」

 亜蘭が思い出したように、美蘭の短刀が畳にあけた深い穴と、点々と残る血の痕を指さす。

「まあ弁償はするけどさ。きょうだい喧嘩、って事にしとくか」と、美蘭は平然としている。そして花奈子に「あいつ、優しいのね」と微笑みかけた。その左手の、さっき傷ついていた場所には、うっすら赤い痕が残っているだけだった。










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