第9話 ぬいぐるみに似ている

「ほら、動いちゃだめ」

 自分でも気づかないうちに肘が下がっていたみたいで、注意された花奈子かなこは慌ててポーズをとり直した。

「なんか、今度は上げ過ぎなんですけど」

「ていうか、向きが違うみたい」

 みんながあれこれ言ううちに、タイマーが鳴り出して、花奈子はほっと息をつくと空いている椅子に腰を下ろした。ふだんからどうも遊びがちで、夏休みも集まっているだけという感じの美術部だけれど、たまにはそれらしい活動中。交代で十分間ずつモデルを勤め、全身像をクロッキーという、いつになく真面目な課題だ。

「はい、じゃあ次は夕香ゆうかの番ね」と、部長の綾乃あやのがタイマーをセットすると、夕香は「ちょっと休憩しようよ。ずっと描いてるし、疲れちゃったよ」と言った。

「そうね。今で六人終わったから、十五分ほど休憩しよっか」

「ていうか、もう今日は終わりにしちゃおうよ。あと自由制作」

「私も夕香先輩に賛成」

 部員がたったの十四人で、女子ばっかりの美術部は、とにかく「自由制作」という名目でまったり過ごすのが大好きだ。おまけに今日は八人しか来ていない。

 花奈子もどちらかといえば夕香サイドだったけれど、それじゃ綾乃に悪い気もする。花奈子を含めた三年生五人の、誰も部長がやりたくなくて、仕方なく引き受けてくれているのに。

「でもはっきり言ってうちら、遊び過ぎだよ。同じ文化系でも吹奏楽部や合唱部なんか毎日午後まで練習してるのに、週二で午前だけって、何もできないじゃん」

 綾乃が反論しても夕香は譲らない。

「だってさあ、そういうキツイ練習したくないから、みんな美術部選んだんじゃないの?」

「だったら帰宅部の人と一緒じゃない。絵は描かないし、文化祭に何やるかだって全然決めてないし。去年は少なくとも、夏休み前にはテーマ決まってたのに」

 綾乃は苛立ちを露わにして、何だか険悪なムードになってきた。彼女は夕香のこと、あの子別に絵が好きじゃなくて、みんなで適当に遊びたいだけでしょ、って、醒めた目で見ていたりする。正直なところ、後輩をまとめたりするのは夕香の方がうまいのに、彼女はとにかく「責任」とか「代表」の絡む役割からは逃げ回るのだった。

 とにかく何とかしようと思って、花奈子は「じゃあ、とりあえず、文化祭のテーマだけでも、決めとく?」と提案した。しかし夕香はいきなり携帯を取り出すし、綾乃はぶっきらぼうに「誰か意見ある人」と言ったきり、クロッキー帳に何やら描き始めた。後輩たちはもちろん黙っている。

 あーあ。口に出してそう言いたい気分で、花奈子は自分のクロッキー帳を傍の机に置いた。

「おう、暑いのにご苦労ご苦労」

 すっかり煮詰まったところへ、そう言って入ってきたのは、顧問の田島たじま先生だった。ふだんから他の先生よりも適当な格好をしているけれど、夏休みなせいか、アロハシャツにジーンズで、それが不思議と五分刈の胡麻塩頭に合っていたりする。

「先生、来てたんだ」と、夕香が驚いた声をあげた。

「まあちょっと、職員会議って奴だな。先生なんかいてもいなくても変わらないのに、出席だけはしなくちゃならん」

 いつも通り、いい加減な事を言いながら、田島先生はみんなのところまで来ると、花奈子のクロッキー帳を手にしてぱらぱらとめくった。

「頑張ってるな。先生に構わず、続けてくれよ」

「ちょっと先生、勝手に見ちゃ駄目だよ!」

 クロッキー帳とは名ばかりで、花奈子のそれは落書き帳だった。友達の似顔絵とか漫画のキャラを真似してみたのだとか、人に見せられないようなものばっかり描いてある。慌てて取り返そうとする花奈子を尻目に、田島先生は「なるほど」とか言いながら、ページをめくっている。

山辺やまべさんはセイドウキに興味があるのか?」

「え?」一瞬、何の話か判らず、花奈子は思わず取り返すのも忘れて自分のクロッキー帳をのぞきこんだ。

「ほら、この模様、セイドウキじゃないのか」

 先生が指さしたのは、あの、もしかしたら新種じゃないかと思った、クロアゲハの模様を思い出して描いたものだった。電子部品の基盤に似ているような気もしたし、顕微鏡で拡大した細胞の写真にも似ていたし。

「先生、セイドウキって何?」夕香がいつの間にか立ち上がって、先生の肩越しに覗き込んでいた。

「中国の遺跡とかからいっぱい出てくる、青銅でできた壺とかでしょ?」と、綾乃が冷静に言う。田島先生は「そうそう、しばしお待ちを」と、美術室の隣にある準備室の鍵を開けた。その隙に花奈子は急いでクロッキー帳を回収する。

「これが世間一般に言う、青銅器という奴だ」

 先生がそう言って皆の前に広げたのは、週刊誌の倍ほどもある大きくて分厚い本だった。「ただし、青銅器とは言うけれど、色が青緑なのは錆びているからで、元々は金ピカだったんだ。色んな形のものがあって、それぞれに決まった名前がついている」

 本には確かに、三本足の壺みたいなものや、蓋つきのマグカップみたいなもの、洗面器の両側に取っ手をつけたみたいなものと、様々な器の写真が載っている。そしてどの器の表面にも、歪んだ長方形を組み合わせた迷路のような、幾何学模様が刻み込まれている。その模様は確かに、かなり大雑把ではあるけれど、あの奇妙なクロアゲハの羽に浮かんだ模様に似ていた。

「これって、何に使ってたの?」と、夕香が質問する。

「神様に祈ったりする儀式に使われていたらしい。他にも、動物をかたどったものもあるんだよ」先生がページを何枚かめくると、綾乃が「鳥だ」と呟いた。

「そう。これはミミズクかな。他にも牛だったり、馬だったり。これは虎だ」

 先生が指さしたのは確かに、虎のような形をした青銅器の写真だった。でもその身体にあるのは縞模様ではなく、他の動物たちや器と同じような、入り組んだ幾何学模様だった。

 これもしかして、虎じゃなくて別の動物じゃないだろうか。

 何故だか花奈子はそう思った。こんな模様のあるネコ科の、別の猛獣かもしれない。全身が真っ黒で、とても大きくて…

「山辺さんは青銅器を知らずに、あの模様を描いてたのか?」

 いきなり田島先生に訊かれて、花奈子は我に返った。

「たぶん、偶然」と、ぼんやり返事すると、田島先生は「もしかすると、こういう模様は人類が普遍的に心に抱いてるものかも知れないな」と言った。

「南米の古代文明にマヤ文明というのがある。そのマヤ文明の遺跡にある石の彫刻や何かに施された装飾は、どことなくこの青銅器と似通ったところがあるんだ。距離的には地球のちょうど反対側で、別々に栄えた文明なのに。で、ここからは先生の推測だけれど」

「あー判った!宇宙人でしょ?宇宙人が地球に残していった暗号なんだ。世界のあちこちに散らばってるっていう」と、夕香が声を上げると、綾乃は冷めた調子で「んなわけないよ」と突っ込んだ。

「まあ、それはそれで面白い説だけどな。先生が思ったのは、人が自然界の目に見えない大きな力を形に残そうとすると、共通してこういう表現になるんじゃないかって事だ。台風とか水の流れとか、渦を巻く自然現象というのは多いだろう?」

「鳴門の渦潮とか?」と綾乃が言うと、夕香が「ラーメンに入ってる奴?」とふざける。夕香、黙っといた方がいいのに、とはらはらしながらも、花奈子は視線を青銅の虎から逸らすことができずにいた。

 何だろう、この変な感じ。それは、すごくはっきりした夢をみていたと判っているのに、どんな内容だったかは思い出せないのに似ていた。

「だからまあ、その考えでいくと、山辺さんが自然発生的にこういう模様を描いたことも説明がつくわけだ」

 そう先生が言った時、タイマーがけたたましく鳴り出した。

「休憩十五分でセットしたんだった」と、綾乃が慌てて止める。田島先生は「おう、邪魔したな。続きやってくれ」と言って本を閉じた。しかし夕香は「もうやめやめ。文化祭のテーマは次までに考えてくるのでいいでしょ」と、立ち上がる。綾乃はそれをちらりと見て「いいんじゃない?」とだけ答えた。


 夕香に続いて後輩たちも帰ってしまい、田島先生も消火器の点検当番とかで出て行って、美術室には帰りそびれた花奈子と綾乃の二人だけになった。

「私たちも、行こっか」と、遠慮がちに声をかけると、綾乃は黙って立ち上がる。もう字も読み取れないほど古くなった木札のついた鍵で戸締りをして、職員室に返しに行く。そしてまだ練習を続けている、合唱部の歌声を背中に校舎を後にした。

 水害で泥だらけになったグランドは、半分だけきれいにならされて野球部が練習をしている。残り半分は相変わらずだ。花奈子と綾乃はそれを横目で見ながら校門へと歩いた。

「意味ないよね、こんなの」

 足元にある小さな石を蹴って、綾乃が呟いた。

「え?」

「みんな夏休みに部活なんてしたくないのに、無理して集まって、イライラしてる」

「夕香のこと気にしてるの?」

「だってあんな事言われたら、何しに集まってるのよって、こっちがききたくなるよ」

 確かに綾乃が怒るのも無理はない。でも、夕香はそう言いながら「家にいても面白い事なーんもないし」って、普段の部活でもなかなか帰ろうとしないのだ。

「たぶんさ、集まってみんなとしゃべりたいけど、絵は描きたくないんじゃない?」

「は!面倒くさい人。ねえ、花奈子はこの後の予定は?今日、塾だっけ」

「塾、の筈なんだけど。予定なくなっちゃった」

「どういう事?」

 それは花奈子自身にとっても「どういう事?」という感じの、意外な展開だった。

 あの、最高に嫌な事が塾で起こった次の夜、テレビのニュースを見ていたお父さんが「おい、これ、花奈子の行ってる教室だよな」と言った。顔を上げると、画面には塾の建物が映っている。

「このビルが手抜き工事で、震度四ぐらいの地震でも倒壊する怖れがあるって言ってるぞ。塾から何か聞いたか?」

 もちろん花奈子は首を振るしかなかったけれど、しばらくして一通のファックスが流れてきた。それは塾から送信されたもので、花奈子の通う教室の入っているビルの耐震性に問題があること、原因は手抜き工事によるもので、明日から一切このビルでの授業は行わないことを伝えていた。そして、この後の授業は他の教室に振替えで行うか、授業料を全て返金するか、希望を回答してほしいと書かれていた。

 花奈子はもちろん、返金希望だった。もうあの塾になんか二度と行きたくないし、それは別の教室でも変わらない。そして幸運なことに、振替えできる教室は遠くて、通うのに不便だった。

 

「なんか、言われてみれば壁にひびなんか入って、どことなくボロっちいビルではあったんだけど」と、花奈子はもう既に記憶から薄れ始めている、塾の様子を思い出していた。それと同時に、美蘭のまっすぐな瞳と「全てうまく行くから」という言葉がよみがえったけれど、次の瞬間には綾乃の声で現実に引き戻されていた。

「でもそんなんでさあ、受験心配じゃないの?」

「まあ、そりゃ心配だけど」

 正直、塾に行かずにすむという事だけで浮かれた気分だったのに、実際はそう楽じゃない。夕べは幸江ゆきえママも遅くに帰ってきて、受験勉強をどうするかという話になったのだ。もちろん私立の高校に行く余裕なんてないから、絶対に公立に合格しなくてはいけないんだけれど、花奈子の成績はかなり微妙だった。

「花奈子ちゃんは、塾より家庭教師の方が合ってるんじゃないかしら」というのが幸江ママの意見だった。ママ本人も大学受験まで家庭教師だったらしいけれど、それは彼女が一人っ子で、塚本つかもとのおじいちゃんが大企業に勤めていたからできた事だろう。

 花奈子は時々、幸江ママはお父さんと結婚して幸せなんだろうか、と思う時がある。お父さんは年が一回りほど上だし、お兄ちゃんと花奈子という子供がいて、お金持ちというわけでもない。確かに優しくて、色んな事を知っているけれど、見た目は普通だし、頭のてっぺんが年々薄くなってきている感じもする。

 一方の幸江ママは、女子では一番偏差値の高い聖桜女学院から東京の大学に進んで、卒業してからは旅行会社で営業をしていた。海外旅行だっていっぱいしたらしい。なのに何故か、修学旅行の仕事がきっかけでお父さんと知り合って、結婚することになったのだ。

 幸江ママの独身時代のアルバムは、眩しいような写真があふれている。雑誌にそのまま載っていてもおかしくないような、完璧なファッションとメイク。同じように着飾った女友達と、素敵なレストランや、ドラマの舞台になりそうなホテルのバーにすんなりと溶け込んでいる。かと思えば石畳の美しいヨーロッパの街並みを歩いてみたり、日本とは比べようもない大自然を背景に、笑顔を弾けさせていたり。

 花奈子は何故だか、たとえ自分が写真の中の幸江ママぐらいの年齢になっても、こんなにきらきらした世界には馴染めないだろうという、確信のようなものがあった。

 とはいえ、女の人は結婚したら落ち着くものよ、という幸江ママの言葉を信じるなら、彼女は昔の生活に未練はなさそうだった。でも時々、幸江ママがとても疲れて見えるのは、拓夢たくむの病気だけが理由じゃないような気がするのだ。


「私は絶対に樟英館の美術コースに入りたいから、花奈子ほど気持ちの余裕ないんだ」

 綾乃は溜息まじりにそう言って、鞄を肩にかけ直した。

「今日もこの後、デッサンと色彩構成の教室だよ」

「そうなの?別に習わなくてもいい位に上手じゃない」

 お世辞抜きで、綾乃は本当に絵がうまい。それも部長にふさわしい理由ではあるんだけれど、鉛筆のデッサンはまるで本物みたいだし、ポスターのデザインなんかでも、花奈子には絶対思いつかないような色を上手に組み合わせる。もうこれ以上どこかで勉強しなくても、ちゃんと入試に合格しそうに思えた。

「何言ってんだか。私より上手な子なんていっぱいいるんだよ。教室に行くたびに、へこんで帰ってくるんだから」

「でも、絶対に美術コースなんだ」

「そう。どうせ美大狙いなら、高校から始めた方が有利だもん」

「すごいね。ちゃんと先の事まで考えて努力してて」

「だって美術以外にやりたい事がないんだもん。会社員なんてありえないしね」

 なんとなく、このまま高校に進学して、大学に入って、どこかの会社でOLするのかな、と思っている花奈子には、同い年の綾乃がとても大人びて見えた。

 綾乃が美術部の活動に真剣なのは、ちゃんと理由があるのだ。ただ何となく集まって絵を描いている自分が急に恥ずかしくなって、花奈子は「次の部活はちゃんとやろうね」と言って綾乃と別れた。

 とはいえ、急に空いた時間をいきなり自習に使うほど勉強好きな花奈子ではない。まだ美蘭たちはあの旅館に泊まっているけれど、調べものとかで、今日は出かけている。

 頭上を覆う空はきりりと澄み渡り、日差しは強くても、乾いた風が気持ちよく襟元を吹きぬけてゆく。

「よし、絶好のチャンスだ」


「本日は陰干しなり」とコメントをつけて、座敷に並べたぬいぐるみ達の写真をひろしちゃんに送信すると、花奈子はようやく茶の間に戻って、ばあちゃんの作ってくれた炒飯を食べ始めた。

「別にぬいぐるみは逃げないんだから、先にごはんを食べればいいのに」

 一足先に食べ始めていたばあちゃんは、呆れた声でそう言うと、花奈子のグラスに冷たい麦茶を注いでくれた。

「だって干す時間は長い方がいいじゃない」

 振り向くと、外の明るさとの対比で余計に暗く見える座敷に、大小合わせて三十以上のぬいぐるみが並んでいる。一番大きいのはシャチで、それからナマズにオオサンショウウオ。アリクイにワニにウリ坊。最近入ったダイオウグソクムシも一緒に、縁側から入ってくる午後の風に吹かれている。後でちょっと、オオサンショウウオを枕にして昼寝してやろうと思いながら、花奈子は炒飯を口に運んだ。

 焦げた醤油が香ばしく、刻んだしば漬けが小気味のいい音で歯に当たる。小さな頃からずっと食べてきた、ばあちゃんの定番。

「本当にもう、やりたい事はすぐにとっかからないと気が済まないんだから。花奈子はお母さん譲りだね」

「そうなの?」

「中学から帰ってくるなり鞄放り出して、制服も着替えないで、そこの座敷に寝転がって、友達に借りた本を読んでるの」

 そう言われると、なんだかそこの座敷にまだ中学生のお母さんが寝転がっているような気がする。少なくとも、ばあちゃんの目にはそれが見えているのだろう。

 お母さんの子供の頃のアルバムはこの家にあるから、花奈子は何度も見た事があった。自分と似ていると言われると、そんな気もしてくる、どこか負けん気の強そうな表情の女の子。傍には笑いたくなるほど頼りない、寛ちゃんがいつもくっついている。


 炒飯を食べ終えて一息つくと、花奈子は座敷に並んでいるぬいぐるみを全部ひっくり返した。日差しには注意して、全身が風に当たるように置き直す。そうすると何となくだけれど、みんな喜んでいるように見えてくるのだ。

 無理な話だとは思うけれど、こういうぬいぐるみを作ったりする仕事ができればいいのに。まだ誰も作ったことがないような、三葉虫とか深海魚とか、キモカワのリアルな奴を売り出すのだ。でも、やっぱりそんなの夢物語で、現実には普通に会社で働いたりするんだろうか。

 進路についてしっかり考えている綾乃の話を聞いたせいか、花奈子は何だか妙に将来の事が気にかかるのだった。やりたい事を早く見つけなさい、なんて先生達もよく言うけれど、仕事以前に何の勉強をしたいかもよく判らなかったりする。

 そんな自分は何だか中味がふわふわで、ぬいぐるみに似ている。そう思いながらオオサンショウウオを抱き上げた時、傍に置いていた携帯が鳴った。

「ちゃんと約束守ってくれてるな」

「寛ちゃん、メール見たんだ」

「そっちは天気いいんだな。東京は曇ってて蒸し暑いよ」

「今お昼休みなの?」

「午前中の打ち合わせが長引いたから、遅めの昼休み。俺は夏野菜カレーだったけど、そっちは?」

「しば漬け炒飯」と答えると、「夏の定番だな」と笑い声が返ってくる。

「ばあちゃんがさ、お盆はいつ帰ってくるのかな、って言ってたよ」

「ああ、それなんだけど」と、しばらく間があって、寛ちゃんは「今年のお盆は帰らないよ。まだこっち来たばっかりだし」と言った。

 その途端、花奈子は胸の中がひんやりとしたように感じて「でも、夏休みはあるんでしょう?去年は一週間ぐらい休みだったじゃない」と反論していた。

「うん。仕事は休みになるけど、ちょっと自腹で東北を回ることにしたんだ」

「でも、東北には出張で行くようになるからって、東京に転勤したんでしょう?なんでお休みの時にわざわざ行くの?」

「うん、何ていうか、仕事は抜きにして行っておきたいって思ってるんだ。だからさ、そう怒るなよ」

「別に怒ってなんかないよ」

 自分がわがままだと咎められたような気がして、花奈子は不服だった。

「だったら、花奈子も一緒に来ない?五日ぐらいかけて、福島から北上するつもりだけど」

「行かない。受験生だもん」

「そっか。そうだよな。失礼失礼」

 塾に行かずにすんで喜んでいる自分が、どうして受験生だからって東北に行かないのか、はっきり言っておかしいのは判っているんだけれど、そこは無視しておきたかった。

「まあ東北は無理としてもさ、夏休みの間に東京に遊びにこない?三日ぐらいなら大丈夫だろ?うち、狭いけど2DKだから、花奈子が泊まる場所はあるし」

「東京?どこ遊びに行っていいか判らないもん」

「そこは俺が案内するよ。大体わかるから、花奈子の行きたいところぐらい」

 ぐらい、と言われたのが何だか子供あつかいされた感じで気に食わない。でもやっぱり東京となると、行ってみたいという気持ちがわいてくるのだ。その時、花奈子の脳裏に忘れかけていた言葉が浮かんだ。

「あのさ、東京に人並区ってある?」

「は?ひとなみく?」

「そう。人間の人、並ぶの並みに、区役所の区」

 それはこの間、お兄ちゃんの部屋で見つけたメモに書かれていた言葉の一つだ。

 東京都人並区。

「それを言うなら杉並区だろ。でも、あれば面白いかもなあ。人並区か。まあとにかく、考えといて。俺からもお父さんに話はしとくから」

 どうやら昼休みの終わりが近づいているようで、寛ちゃんは慌ただしくそれだけ言うと、「じゃあ、ぬいぐるみ、よろしくな」と電話を切ってしまった。

 台所からはばあちゃんが洗い物をする音が聞こえるだけで、家の中が余計にしんとしたように感じる。どこかの軒下の風鈴が澄んだ音色で鳴り、それに答えるように犬が吠えた。

 もう一度サンショウウオを抱えて、ひんやりとした座敷に寝転がると、目の高さにぬいぐるみたちが並んでいる。ワニ、サイ、クラゲ、そしてアルマジロの上には、黒いアゲハがゆったりと羽を休めていた。



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