第15話


「昨夜、そんなことがあったなんて……」


 事の顛末を聞いた久我小夜子(くがさよこ)は兄の部屋の畳に両手を突いて謝罪した。

「本当にごめんなさい。どうか許してください。兄は血の気が多すぎるんです」

「いやあ、すまなかった。この通りだ」

 傍らで一緒に頭を下げる兄。

「でも、悪い人じゃないんです。どうか、それだけはわかってください。兄さんは私のこと、心配し過ぎて――それで、いつもこんな調子。失敗をやらかすんです」

「わかっています。さあ、どうぞ、頭を上げてください。こちらも、悪かったんだ」

「悪いのは興梠(こおろぎ)さんだけだよね? 何をしたかは知らないけど、あんなに小夜子さんを怒らせてさ。でも、僕は殴られ損だ!」

「だ、だから、君は黙っていたまえ、フシギ君!」

「それにしても――〝僕たち〟ではなくて〝そちら〟が兄妹(きょうだい)だったなんて……!」

 探偵の制御も何処吹く風、思ったことを全て口に出す助手だった。

「全然気づかなかった! 苗字も違うし」

「興梠さんには、昨日、お話しましたよね? 私、孤児院育ちだって。私と兄は教会の前に捨てられていて、その教会の運営する孤児院で育ったんです。でも」

 妹の言葉を兄が引き継いだ。

「俺は跡継ぎを望む家に貰われたんだよ。俺が10、小夜は5つだった。それで苗字が違うのさ。尤も――こんな性格なんで、上手く行かず、結局、養子先も飛び出しちまったが……」

「でも、どんな時も、何処にいても、兄さんは私のこと思ってくれました。中学を卒業したら孤児院からは出る決まりなんですが、その際引き取って、資金を出してダンススクールに通わせてくれたのも兄さんなんです」

「たった二人っきりの兄妹なんだから面倒見るのは当然のことさ。それよりー」

 照れたように頭を掻きながら、赤松は話題を変えた。

「あんたの話が本当なら、心配だな? 朔耶(さくや)は一体何処へ行っちまったんだろう?」

 思い出したのか、ビクリと小夜子は体を震わせた。

「朔耶さん……」

「馬鹿、大丈夫だよ! こちらの優秀な探偵さんがすぐに見つけてくださるさ! おまえは落ち着いて待ってりゃいい! 良かったじゃないか!」

 努めて 明るい声で兄は妹に言った。

「逆の見方をすれば、おまえは捨てられたわけじゃなかったってことだ! ほらな? 俺の言ったとおりだろ? あの朔耶がおまえのこと見捨てて実家なんかに戻るはずはないんだから!」

「兄さん……」

「コイツ、もうずっとメソメソしててよ、そりゃもう見てられなかったんだよ。俺も気が気じゃなかった。このままじゃ、どんなロクでもねえ男に靡(なび)いてしまうとも限らなくてさ」

 ロクでもない男がここにいる――

「あれ? 顔色が悪いな、探偵さん? 傷が傷みますか? いや、ほんとに申し訳なかった!」

「いえ、お気遣いなく……」

 そっちの傷じゃない。奥歯を噛み締める探偵。

 幸いそれには気づかなかったと見え、赤松は凄みのあるスカーフェイスで微笑んだ。

「そうだ! せっかくだから、すき焼き、一緒に食べて行ってください! 探偵さんも、そっちのぼうやも!」




「色々な意味で……本当にごめんなさい」

「いや、こちらこそ」


 港湾労働者管理会社世話係の赤松朝雄(あかまつあさお)の部屋ですき焼きを振舞われた探偵と助手。

 自分のアパートまで戻ると言う小夜子を送って一緒に夜道を歩いている。

 兄、朝雄のアパートは小夜子のアパートからほんの10分ほどの距離だった。

 なるほど、これなら連夜、妹を心配して見張っていられるわけだ。

 興梠と志儀(しぎ)が初めて〈ダンシング・バー・ミュール〉を訪れ、送って行ったその夜も、実は朝雄は小夜子のアパートのドアの前で彼女の帰りを待っていたのだ、と小夜子は明かした。だから、その時、赤松朝雄は雨田兄弟(探偵と助手)のことを知ったのである。

「ほんとに、お節介なんだから、兄さん」

「いや、いいお兄さんですよ。心の底から貴女のことを案じておられる」

 探偵の言葉に小夜子は頬を染めて頷いた。

「はい! 私も、そう思います!」

 潮の香りがする。

 ちょうど彼等が歩いているその辺り、〈メリケン波止場〉と呼ばれている一帯は夜景が美しいことでも知られていた。

 腹ごなしだろうか? 志儀はその燦ざめく光に向かって傘を竹刀代わりに素振りをし始めた。

「チェストー!」

 小夜子も足を止めた。

 正式にはここは第1突堤。

 明治末から大正に掛けて第4突堤までが建設されている。来年には第2期の修築工事が始まって、第5、第6の突堤が竣工予定だ。水平線を飲み込もうと背を伸ばす竜の如き力強いシルエットは美しい未来を人々に予感させる。

 この街は、そしてこの国は、益々発展して行くだろう。

 大陸で野火のように燃え広がっている戦争の炎より、宝石のように煌く外国船の灯りがこの街の住人には親しかった。移築された信号塔が万国旗を閃かせている。

 そんな夜景を小夜子は暫く黙って眺めていた。それから唐突に探偵を振り返った。

「嘘はつけないわね? 兄さんのせいでばれちゃった!」

 後ろで両手を組んで踊り子は笑った。

「お聞きになったでしょ? 『ずっとメソメソ泣いてた』だなんて。あ―あ、折角、貴方の前で強がったのが台無しよ」

「ああ、そのことか」

 思い出して興梠も笑う。

「『天空で別れる丹頂のようにきっぱりと別れてみせる』と言ったのに。あれ、嘘です。私、未練いっぱいで、恨んで、醜く泣いて過ごしていました」

「いや、ちっとも醜くはないですよ」

「チェスト――! チェスト――――!」

 少年の気合の篭った掛け声を聞きながら小夜子は深呼吸をした。

「こうなったら洗い晒らい白状してしまいます。あのね、実は――もう一つ、前回、探偵さんと向かい合った際、話さなかったことがあるんです」

「え?」

「朔耶さんが帰って来なくなってから、私、何の連絡もせず、ただ待っていただけだって、言ったでしょ? アレ、嘘よ」

 ステップを踏むように体を揺らして娘は打ち明けた。

「実は私、何度か、朔耶さんの実家へ行ったんです」

「!」

「泣いて縋って、取り戻そうとか、そこまでは考えてなかったけれど、ただもう一回、一目だけでも、姿を見たいと思って……」

 長い睫毛伏せる。

「未練でしょ?」

 いや、恋に未練は付き物です。僕だって――

 探偵は胸で響く言葉を封印した。

 言ってはいけない言葉がこの世にあることを賢明な探偵は知っていた。賢明だと言う事は悲しいことだな?

 職務上の顔で訊ねる。

「それで、どうでした? 会えたんですか?」

 小夜子は首を振った。

「いいえ。何度行っても、姿を見ることは出来なかったわ。でも、1回だけ」

 そこで、小夜子は言い澱んだ。

「1回だけ……」

「1回だけ、何です?」

 探偵は慎重に問い返した。

「だめよ、笑われてしまう。きっと、あれは気の迷い、私の未練が産んだ幻だわ」

「笑いませんよ。教えてください。たとえどんな些細なことでも、朔耶さんの居場所を見つけ出す貴重な材料に成り得るんだ。僕ら探偵にとっては」

「本当?」

 ああ! なんて可愛らしく笑うのだろう、この人は! 

 探偵は思い出した。かつて愛したその女(ひと)が、恋する男の事を語る時、どんな表情をしたかを。

 自分がどんなに心を尽くして愛しても見せてくれなかった部分。押し開けなかった心の領域……

「じゃ、言います。私、朔耶さんのお邸で、門扉の前に立って、中を窺っていた時、聞いたんです」

 小夜子はすぐに言い直した。

「いえ、聞いた気がしたんです」

「何を?」

「朔耶さんの声を」



   会おうな?





★本編中の第5、第6突堤は、悲しきかな戦争で工事を中段、第7、第8を加えて完全完成を見るのは戦後1956年のことです

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