第6話 ▲▲

 今日もぼくは、×××のいる原っぱに来ていた。

 母親が家からいなくなる度に、大急ぎでサンダルを履いて玄関から出る。期待で胸がいっぱいで、住宅街の道路も自然と早足になった。狭い路地を抜けて、突き当たりのカーブミラーを左に曲がると、酒屋の屋根から、樹木の頭部がはみ出しているのが見える。到着すると、背の高い柳のような木の根本で、背の低いショートカットの女の子、×××が手を振って迎えてくれるのがうれしかった。


 彼女は、ぼくよりもいくつか年下に見えた。でも、ちょっと生意気な言葉遣いや、楽しい遊びを教えてくれるから、あまり年齢の差は感じなかった。それに、外見が普通の子とは違っていたから、ますます何才なのかわからなかった。

 銀髪のショートカットに、グレーの瞳、そして膝小僧が見えるぐらいの丈の、ポンチョみたいな服。×××はどこか、ミステリアスな存在だった。ぼくは、彼女について知らないことばかりだったけれど、それでも一つだけ、理解していたことがあった。それは、×××が空き地に生えた柳のような木のことを、とても大切にしている、ということだった。

 彼女の話では、その頭を曲げて地面に垂らしている不気味な木は、柳ではなくて桜の一種、しだれ桜とのことだった。ぼくは、こんな木からあの綺麗なピンクの花が咲くのかと、びっくりした。でももしかすると、自室に入り込んだ花びらは、この桜のものだったのかもしれない。そう思ったけれど、記憶にある中では、一度も咲いたのを見たことはなかった。


 ぼくと×××は、はじめは短い草の上に仰向けになって、二人でただ空を眺めているだけだった。そのまま他愛もないことを喋ったり、雲の形がなにに見えるかなと言い合ったり、目を閉じて風の通りすぎる音に耳を澄ませたり、小さな手を触れ合ってくすくすと笑ったり。

 それが一週間ぐらい続いてからだろうか。だんだんと、体を動かす遊びをするようになっていった。原っぱの中をかけっこしたり、鬼ごっこをしたり、影踏みをしたり。ぼくは、運動が嫌いだった。長い療養生活のせいで手足に筋肉はないし、体力もない。今日のだるまさんが転んだも、途中から貧血で頭がくらくらした。


 コウスケはよわっちそうだからな。


 すぐに息切れするぼくを見ながら、×××は笑っていた。

 この時のぼくには、どうして無理に走らされるのかわからなかったけれど、たぶん彼女は、ぼくの体が弱いのを知っていたんだと思う。家の中に閉じ籠もって、ベッドに寝てばかりの毎日だったから、そんなぼくを元気づけるために、あえて外で体を動かすように誘ったんだろう。

 考え過ぎかもしれない。×××は子供だから、思いつきだけで深い意図はなかったのかもしれない。けれども、この空き地での運動のおかげで、ぼくは無自覚のうちにとても救われていた。細くなった腕と足も、肌が生白かったのも、ここ数日間の運動で少し元に戻ったし、体や心が鍛えられたような気がする。そしてなによりも、今現在の会社で夜遅くまで働くことができるのは、×××との日々のおかげだと感じていた。

 太陽に大きな雲がかかり、だるまさんが転んだが終わると、草原に二人揃って座り込んだ。夕方の涼しい空気が、籠もった熱を冷ましていくようだ。

 そろそろ帰らないと。ぼくはそんな意味の言葉を伝えると、彼女はこくんと頷いた。×××は、家に帰らないのだろうか。そう訊ねると彼女は、答えづらそうに視線をそらした。


 わたしは、▲▲だから。


 言っている意味が、よくわからなかった。もう一度聞き返すと、×××はよりいっそう困ったような表情になった。


 ▲▲だから、家はここなの。この原っぱが家で、ここからは出られないの。


 ぼくは首を傾げた。▲▲とはなんだろう。二文字だったのは覚えていたけど、これがひらがな、カタカナ、漢字どれだったのかは思い出せなかった。でも彼女にはなにか、すごく特別な事情があるということは理解できた。

 ×××はいつもこの場所にいる。ぼくは部屋の窓から観察していたけど、早朝から夜になるまでずっと、家に帰っている様子もなかった。不思議だったけど、彼女の言葉は本当なのかもしれない。本当に、ここから出られないのかもしれない。子供心に、そう納得していた。

 ぼくはいつものように彼女に手を振りながら、空き地を後にした。×××も、ぼくがカーブミラーの角を曲がるまで、ぼくの姿が見えなくなるぎりぎりまで、空き地の端っこから背伸びをして手を振り返してくれていた。


 明日も明後日も、また行きたいな。

 ぼくは満ち足りた気持ちで、家の玄関扉を開けた。すると足下には、出るときにはなかったはずの母の靴が、きちんと揃えられていた。さっと、血の気が引くのを感じた。

 慎重にサンダルを脱いで、靴箱の奥に押し込む。まだ、大丈夫だ。ぼくがいつも履いているスニーカーは、玄関に置かれたままだ。だから外出していたことは、まだばれていないはずだ。

 足音を忍ばせて、階段を一段一段上りはじめる。大丈夫、まだ大丈夫だと、口から飛び出そうなほど高鳴っている心臓を落ち着かせるように、何度も繰り返し呟く。もう少しで、二階の廊下だった。


 コウスケ、ちょっと来なさい。


 背後から、絶望的な声が聞こえた。思わず、顔が強ばる。深いため息をついて、諦めたように段差を降りた。電気が付いている一階のリビングに入る。L字型の黒いソファや、大きな液晶テレビ、カウンターキッチンがある広い室内には、想像していたとおり、母が腕を組んで立っていた。


 今まで、どこに行ってたの。


 眉を吊り上げて苛立たしい表情に、どきりとした。いつもはぼくの体調をしつこいほど気にして、ストレスをあたえないようにと顔色ばかり窺っているはずの母親が、このときは嫌に怖く感じた。


 ちょっとさんぽしてただけだよ。


 そっぽを向いてそのようなことを言うと母は、うそおっしゃいと、ぴしゃりと切り捨てた。思わず、体が縮こまる。

 普段にこにこしている母が怒ると、すごい迫力だった。口うるさく責め立ててくるわけではなく、じっとぼくの顔を見つめて、喋り出すのをただ黙って待っている。たぶん母親は、ぼくをずっと小さい頃から育ててきたから、嘘をつくときの癖や表情、そしてどうすれば我慢できなくなって白状するか、すべてを理解しているのだろう。

 ぼくは口を閉ざしたまま、俯いていた。話すわけにはいかなかった。もし空き地に通っていることを喋ったら、ぼくは外出できなくなるだろう。そしたらまた、自室での鳥籠のような生活に逆戻りだ。それだけは絶対に嫌だった。ぐっと、唇を噛む。

 すると母は、しょうがない、という様子で息を吐くと、両手を腰にあてた。そしてぼくを落ち着かせるように、諭すような口調で囁いた。


 コウスケ、わたしはなにも叱ろうと思っているわけじゃないの。実は前から、あなたが外に出て行っているのは知っていたよ。本当はすぐに注意しようと思ったんだけれど、でも帰ってきた時のコウスケの顔が、なんだか自分の部屋にいるときと違って、晴々として、元気になっていたから。だから、見て見ないふりをしていたの。


 この時の母の言葉は、印象的で、はっきりと思い出すことができた。一字一句全て同じではないかもしれないけれど、その程度の間違いは些細なことだ。

 ぼくは、目をぱちくりとさせていた。まさか作戦がばれていたなんて、考えてもいなかったから。母は一歩近づくとしゃがみこんで、ぼくと目線を合わせた。


 コウスケには悪いことをしたと思っているよ。お父さんの都合で引っ越しをして、お友達もいない場所に転校して、病気が悪くなったんだよね? わたしも住んでいるうちに慣れるかな、と思っていたけれど、お父さんに無理を言ってでも止めるべきだったんだよね。だからわたしには、コウスケを責める権利はないよ。コウスケが笑顔になってくれるなら、それをやめさせるようなことなんてしない。でもね、心配なんだよ。


 そう言ってから、母はぼくの頭を撫でてくれた。温かいような、柔らかいような。まるで手のひらに、全身が包まれているように感じた。母はさらに慈しむように、言葉を押し出す。


 コウスケが一人で出て行くのが、不安でしょうがないんだよ。あなたは同じ学年の他の子よりもしっかりしているのは知っているけど、それでもなにがあるかわからないから怖いんだ。だからね、教えて。外出するななんて言わないから。今のままでいていいから。せめて、あなたがどこでなにをしているのか教えて。ね?


 ぼくは、唇を噛んだままだった。それは、心の奥底からこみ上げてくる感情が、目元から溢れそうだったから。耐えるために、力を籠めていた。

 転校をしてから、ぼくはずっと一人だと思っていた。近所の友達もみんないなくなって。そして残ったのは、ぼくの話も聞かないで引っ越しを決めた自分勝手な父と、それになに一つ文句も言わずにただ従っているだけの意思のない母。周りには、敵しかいないと思っていた。

 でも違った。ぼくには味方がいた。すぐ近くに、ぼくの身を案じ続けてくれていた人がいた。母はずっと、ぼくを見守ってくれていたんだ。




 第7話 境界線 へ続く...

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