第4話 ×××

 それからぼくは、いつも窓の外を見ていた。


 といっても、面白そうなものはなにもない。二階から眺める街並みは、引っ越してきたばかりのぼくには馴染みがなかったし、下の道路から聞こえてくる小学生たちのにぎやかな音は、教室で倒れた時のみんなの笑い声を思い出させて、ぞっと寒気がする。それならカーテンを閉めきって、いつものように薄暗い部屋の中で、生白い壁と黒い染みを相手にしている方がいくらかマシだと思った。

 ぼくは視線の先を少し遠く、家から離れた空き地へと向けた。嫌な気分を我慢して見続けているのは、それが理由だった。


 あの桜の花びらが舞い込んだ日に、外で微笑んでいた一人の子供。あれからぼくはずっと、その子のことが気になっていた。これまでは窓に背を向けて、ぼんやりと黒い染みを目で追っていただけだったのに、自然とベッドから上半身を起こして、その子の姿を探すようになっていた。

 そして今日も見つけた。いつもと同じ場所に。他の住宅に囲まれた空き地の中央で、柳のような樹木に背中を預けて、顔を空に向けて座り込んでいた。

 観察をしてわかったのは、その子は時間や日にちが変わっても、ずっと原っぱにいるということだった。明るい時間帯なら、草原に座り込んでいるのが毎日確認できたし、暗くなるとよくわからなかったけど、それでも家まで歩いて帰っているような様子はなかった。だからあそこまで行けば、必ず会えるはずだった。


 ぼくは壁に掛かった時計の針を確認した。午後三時。もうそろそろだ。

 マットレスから腰を浮かせて、窓枠にさらに身を乗り出して真下を見た。そこには予想通り、家の玄関口から母が出かけて行くところだった。母はいつもこの時間に、駅前の商店街まで買い物に行く。戻ってくるまでは、大体二時間だろう。その間がチャンスだった。

 そっと、部屋の扉を少しだけ開ける。隙間から廊下の様子を覗った。誰もいないのを確認してから、体を外に滑り込ませた。猫足立ちで、細長い通路を進む。家の中の空気が、張り詰めているようだった。緊張で、動悸が速くなっているのがわかる。


 両親にばれたら、ひどいお仕置きをされるだろうな――それは悪いことをしたときに決まって父親にやられた、大人になった今でも震えてしまうような強烈でトラウマになるような折檻だった。けれども、いけないことをしている、怒られるかもしれないというスリルは、冒険心と子供心を大いに刺激するものだった。

 廊下の突き当たりを曲がると、滑り止めを敷いた階段があった。手すりを掴んで、慎重に降りていく。一階の床に着地したときには、ぎしりと大きな軋む音がして思わず心臓が跳ね上がった。無人のはずだけど、もう一度周囲を見回す。耳を澄ませて、大丈夫だと気持ちを落ち着かせてから、ゆっくりと足を動かした。

 玄関には、お気に入りのスニーカーが置いてあった。ぼくはそれを履かずに、靴箱の引き戸を開けた。奥からあまり使われていないサンダルを取り出して並べる。もしいつも履いているスニーカーで表に出たら、土の汚れが付いてばれてしまうかもしれない。それと母が先に帰ってきた場合に、玄関にこの靴がなかったら、すぐにぼくが家にいないことがわかるだろう。でもこの誰も使っていないサンダルなら、その可能性は低くなるはずだ。


 ぼくは、玄関のドアハンドルを掴んだ。ゆっくりと、外に向けて押し開ける。頭上から差し込む、真っ白な日射し。こうして外に出るのは、実に二週間ぶりのことだった。

 家の入口まで出てから振り向いて、さっきまでいた自分の部屋を見返した。なんだか嬉しくて、誰かに自慢をしたくなる気持ちだった。でも、作戦はこれで終わりじゃない。むしろ、ここからが本番だ。

 急ぎ足で、迷路のような住宅街の中を進んでいく。空き地までの道のりは、二階から見下ろしていたときに覚えていた。広い通りから細い脇道に入る。この先のカーブミラーがある突き当たりを左に曲がったら、右側に狸の置物が目印の酒屋がある。その隣に、あるはずだ。


 そしてついに、到着した。眺めているだけだった場所に。一面に生えた短い草が風に揺らいでいて、その中に埋もれるように小さな子供が仰向けに寝転んでいた。

 さっきは木の根元に座り込んでいたはずなのに、と思いながら原っぱに足を踏み入れる。草を踏む柔らかな音と感触。でもその子は、まるで気にしていないように、もしくは気付いていないような自然さで、身動ぎもせずにその体勢のままだった。本当は話しかけてもらえると期待していたけど、仕方がない。ちょっとビクビクしながら、声を掛けた。


 なにをしているの。


 ずいぶんと昔のことだから、正確にこう喋ったかは覚えていない。でもたぶん、こういうニュアンスの言葉を使ったと思う。だから、昔話を進めるのに問題はないだろう。

 このときのぼくには、気になったんだ。自分のことを無視して、座っているときも寝ているときもずっと上ばかり見ているこの子が、なにをしているのかが。それは自分よりも大事なのかという嫉妬心からか、それとも単純な好奇心からか。その子はやっぱり表情も目線も変えないまま、ぽつりと呟いた。


 そらを見てる。


 それだけ言うと、また口を閉じてしまった。ぼくは困ったようにその子を見下ろした。空なんかを見て、なにが楽しいのだろうと思った。でもそのことを言おうとしたけれど、その子の瞳があまりに微動だにしないから、少し怖くなってしまった。

 せっかくここまで脱走してきたのに、話してくれないなんて――ぼくはやりきれない気持ちになって、体の疲れもあってか、その場にしゃがみ込んだ。もうどうでもいいやと思いながら、そのまま体を倒して、背中で雑草を押し潰す。


 ぼくの目の前には、青空があった。

 高くて、広くて、大きくて。透き通るほどにきれいな、青色だった。大空のキャンパスには、白くてふわふわの雲がちぎれたように浮かんでいて、それは飛び交うカモメたちのようで、もしくはドーナッツ、宇宙飛行士のように見えた。真ん中にいる巨大な太陽からは、きらきらと眩い日射しが地面に降り注ぎ、ぼくの肌を温めようとしているように感じた。

 ぼくは、ぽかんと口を開けて眺めていた。視界一杯に広がる青空に。心の底からなにかが沸々とする気持ちを感じながら、圧倒されたように息を止めていた。それは自分の部屋からは決して見られない、時間の流れを忘れてしまうほどの景色だった。

 ちょんちょん、と腕になにかが当たる感触がする。ゆっくりと顔を横に向けると、そこにはさっきの子供が――短い髪の女の子が、いつの間に近づいていたのだろう。隣に並んで、指先でぼくの腕をつついていた。


 ね。すごいでしょ。


 女の子はいたずらをした時のような、にやにやとした笑いを浮かべていた。その子の額には細長い緑色の草が、いくつも貼りついているように見えた。ぼくは感動を抑えるように、でも隠しきれないぐらい大きく頭を上下に振った。

 それからは、そのまま二人で原っぱに並んで寝そべって、時間といっしょに色と模様を変えていく空をずっと眺めていた。青みがだんだん薄くなっていって、オレンジ色がじわじわ濃くなっていく。カモメの大群も赤く染まり、黒いカラスが合間をすり抜けるように飛んでいく。どこか遠くから学校のチャイムの鐘と、スピーカーから流れる雑音混じりの音楽、カーカーと鳴き声が聞こえはじめて、ゆっくりと体を起こした。


 もう時間だから帰らなくちゃ。


 そのようなことを言うと、女の子は少し悲しそうな顔をした。ぼくが立ち上がると、女の子もパッと飛び起きて、表情を変えて笑顔になった。


 また来てくれる?


 ぼくは頷いた。そしてまだ、自己紹介もしていないことに気が付いた。赤々とした草原に囲まれて、頭を焦がした柳のような木の下で、女の子と向かい合う。

 高井戸浩輔。そう伝えると、女の子も教えてくれた。

 ずいぶんと変わった名前だったと思う。夕暮れの空と草原に溶けこみながら、ちょっと照れたように、その子は囁いた。


 わたしの名前は、×××。




 第5話 郷愁 へ続く...

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