第16話 どうして?

 目を開けた時、昨日と同じ光景が見えた。

 やわらかなシャボンの香り。


「どうして……?」


 昨夜は確実にピアスをして寝たはずだ。

 なのに。

 耳たぶに手をやると、やはり何もつけられていない。


「誰が……」


 起き上がって昨日と同じ部屋であることを確認し、昨日と同じ場所にピアスが置かれているのを見た。


「……私じゃない」


 ポケットチーフに並べられたピアス。昨日と違うのは、薬師のメダルがないだけ。


「私が眠ってから誰かが来たのね……」


 そして、勝手にピアスを抜いた。

 これでは……いつまでたってもテオに戻れない。

 私が眠りについた後、誰かがこの部屋に入ってピアスを抜き取っているんだ。これはもう、間違いない。

 ベッドから降りて、ピアスをつける。洗面所に行って確認すると、やはり栗色の髪の毛にエメラルドの瞳。


「どうしよう」


 今日も、ウィルの婚約者として連れまわされることになるんだろうか。

 部屋の入口を見ると、鍵ではなく閂(かんぬき)の跡がある。ということはこの扉には鍵穴がないんだ。

 閂に代わるものさえあれば、誰かの侵入は防げるように見えた。もちろん、ベランダ側の窓はすべて閉めるのが前提だけど。

 窓の外はすでに明るく、日が昇っているのがわかる。

 勝手に部屋を出るわけにはいかないだろう。着替えは昨夜風呂に入る際に脱いだものがあるはず、と探してはみたものの、脱衣所には残っていなかった。

 クロゼットを見れば、きれいにクリーニングされたテオの一張羅がぶら下がっていたけれど、当然今の私に着れるはずもなく。

 今日もまた、ウィルが来るまで身動きができない。

 ため息をついて、私はベッドに腰を下ろした。

 こうなってしまっては、枕の下に準備しておいたメモは無用だ。今日また改めて書かなければならない。

 そう思ってテオのノートを取り上げ、メモを抜き取った時、違和感があった。

 枕の下に置いておいたとはいえ、ノートに挟んでおいたもの。

 ……どうしてこんなにしわくちゃなのかしら。

 ううん、アイロンを当ててあるのだろう、細かいしわは目立たなくなっている。でも、何か所か深くしわが残っている。


 ――誰かが……読んだ?


 ぞくりと背筋が凍る。

 もし。

 万が一にでも誰かがこれを見たのだとしたら。

 私が眠ったあとにメイドか誰かがやって来て、枕の下のノートに気が付いて、これを見たのだとしたら。

 しかも、その人物がピアスを外したりしていたのだとしたら。


「逃げなきゃ……」


 一刻も早く。

 鞄を掴んでノートを突っ込む。薬師のメダルが入ってることを確認して、口を閉じる。テオの一張羅は鞄に入らない。今度また仕立てよう。……懐は痛むけど。

 ううん、そんなこと考えてる場合じゃない。

 誰に知られたのか。

 それによっては店も引き払わなきゃ。

 ……手痛いけど、仕方ない。これは、店を開くときにあの人と約束したことだもの。

 扉がノックされたのは、メモを破ろうとした時だった。

 ウィルは部屋に入って私を見たとたん、目を丸くして立ち尽くした。


「どうして……」

「……それは私が聞きたいところです」


 じとっと睨みつけると、ウィルは私の手にあるメモに視線を止めた。


「それ……」

「あなたには関係ありませんっ」


 はっと気が付いて体の後ろに隠したものの、すぐに囲うように手を伸ばしたウィルに腕を押さえられた。


「離してっ」

「……ティナ。いや……君は誰だ」


 至近距離で発せられた言葉に、目を見張る。


「……あなた、なの?」

「何のことだ。それより、君は誰。テオじゃないなら、アリス殿? にしては髪の色が違う。それに、テオ殿はどこへ行った」


 偽婚約者を演じていた昨日のほんのり甘い雰囲気なんか微塵も残っていない。

 冷たい瞳で、私を見下ろしてくる。

 どうすればいいの。

 このメモを見つかるかもしれない場所に残した私のミスだ。

 ウィルはどこまで知っているの? どこまで気が付いてるの?


「……読んだのね」


 どうにかして探らなきゃ。彼がどこまで知っているのか。他に知っている人はいるのか。

 私たちの秘密を、どこまで……正確に把握しているのか。


「その手紙を君が書いたのだとしたら、君はテオ殿ではない。……テオ殿の姉は、アリス殿のほかにいるのか?」


 とすると、私がアリスだと確信は持ててないのね。

 ここでピアスを抜いたのがウィルかどうか確認したりしたら、気づかれる可能性が高くなる。


「眠っている女性の部屋に忍び込むなんて……破廉恥です」

「忍び込んではいない。見舞っただけだ」

「だとしても……眠る私に触れたではありませんか」


 途端にウィルは目を見開いて一歩後ずさった。腕をつかむ手が外れる。


「まさか……っ」

「やっぱり……ひどいですっ」


 目を潤ませて後ろを向く。その隙にメモを小さく折りたたんで胸の中にしまい込む。さすがにこんなところにまで手を出したりしないはず、と祈りながら。


「ご、誤解だっ」


 その時、タイミングよく扉が叩かれてメイドさんがやってきた。ウィルが受け取っているのは私の着替えらしい。昨日何度も部屋にやってきたメイドさんは、ちらりと私の方を確認して頭を下げて出て行った。


「着替えが届いたのですね」

「あ、ああ」


 見たところ、昨日とは違って薄桃色のドレスだ。

 ウィルの手から着替えを奪い取ると、さっさと浴室へつながる扉を開けた。幸い、ここだけは内側から鍵がかけられる。


「覗かないでくださいませねっ」


 どこかぼうっとしたしまりのない顔のウィルにそう告げて扉を閉じ、鍵をかける。外から呼ぶ声が聞こえたものの、無視して着替えを始める。

 なんとか時間が稼げた。

 でも、ここからどうやって切り抜けよう。

 私がテオでないことは知られてしまった。

 今日も婚約者として連れまわすのだとしても、今日もまたピアスを抜かれてしまっては、テオに戻ることができず、いつまでもここに滞在することになる。

 それだけは絶対だめだ。

 子爵から見舞いまでもらってしまった。このままいれば子爵に会いに行かなければならなくなる。

 それだけは避けたい。

 湯あみをして着替えると、あのメモを再び胸元に隠す。

 どこか……誰からも手の届かない安眠できる場所を探さなければ。タンスの中でもいい。……いっそ、鍵のかかる浴室でも。

 そうなれば、あとはウィルをなんとかしてごまかして今日一日を乗り切るだけ。

 扉の鍵を開けて取っ手に手をかける。

 扉の向こうにいるウィルはどんな顔で待っているだろう。

 両手で頬をむにっとつまんでこわばりかけてる笑顔をほぐすと、扉を開けて微笑みを浮かべた。

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