39 哲也の選択

 一時いっときの静寂があたりを包み込んだ。

 ポツッとレイラが言った。


「『一人ひとりの自由や価値観を尊重する社会の可能性を信じる』、か。懐かしい響きだな」


 哲也はレイラが何を言おうとしているのかわからなかった。どう言葉を返していいのかもわからなかった。

 レイラは続けた。


「私にもそういう時があった。自分の人生は自分で決めるんだと。何があろうと自分が責任を取るんだから自由にさせてほしいってね。でもそれが頭で考えるほど簡単じゃないってことはすぐに、そして何度も実感させらることになった」

「……」

「人ひとりの力はわずかだ。自分が正しいと信じた選択でさえ偶然や想定外の事態に翻弄される。良かれとしたことが容易に自分や他人を傷つける。かつての私がそうだったように」

「……」

「しかし人は集まれば力を得る。その力で偶然や想定外を克服することができる。だから私は政府に飛び込んだ。そして政府を動かす力を得ようとした。それが私自身の自由を最も生かせる道だと信じたからだ。そして今、私はその力を得ている」


 哲也は呆気にとられていた。まさかレイラからそんなセリフを聞かされるとは思ってもみなかった。

 そしてそこでほのめかされたレイラの過去。一体どんな経験が今のレイラを作り上げたのだろう。かつては哲也と同じように『一人ひとりの自由や価値観を尊重する社会の可能性』を信じていた彼女を一体何が変えてしまったのだろう。


 ふたりの間をしばし無言の時間が流れた。レイラは静かに言った。


「テツヤ、君は自分の人生を自分の選択の下で生きる。その選択の結果がたとえ不幸に繋がろうとも。そうだな」

「ああ」

「なら私がいまから君に選択の機会を与えよう。どちらの選択肢を選ぼうともその結果を受け入れる覚悟が本物かどうか、私に見せてほしい」


 哲也はレイラの言葉の意図が読めなかった。レイラの言う「選択」とは一体なんなのか。レイラ側に戻るかどうかの選択ならばすでに返答した。ではそれ以外か。この状況でほかにどんな選択があるというのか。

 レイラが静かに言った。それは哲也が少しも予期していなかったものだった。


「撃つんだ」

「えっ」

「だから私を撃つんだ、テツヤ。でもその引き金に掛けた指が少しでも動いたら私は容赦なくこの女を撃つ。私は君の弾をよけない。だから生き残るのはテツヤ、君だけだ」


 静かな、しかし頑とした決意を込めた口調でレイラは言った。彼女の銃口が再びミオを向く。哲也の動きが止まった。


「君が私を撃てば君だけが生き残る。そして私とこの女のともにいない世界を生きていくことになる。君が私を撃たなければ私が君を撃つ。君の人生はここで終わることになる。でも仕方がない。それが君の自由な選択の結果なのだから」


 哲也は自分の体が硬直するのを感じた。レイラから突きつけられた「選択」が頭の中をグルグルと回った。


「さあどうする。撃つのか、撃たないのか」


 レイラの口調はあくまで静かだ。その静かな口調に哲也は決断を迫られていた。


 レイラを撃てば間違いなくミオは殺される。かといって撃たなければレイラの手によって殺されるのは哲也になる。どちらの道を選ぼうともミオとは永久に別れることになる。“そんなのは嫌だ。絶対に嫌だ”、と哲也は思った。彼は極限的な状況の中で必死になって考えていた。何かないのか、この状況を切り抜ける何かが。


 “絶対にあるはずだ”、と哲也は思った。いや、信じたと言ったほうが真実に近かった。しかし状況は彼ひとりの力だけでは到底切り抜けられそうになかった。かといって助けが来る見込みはない。指定の二十分を経過して哲也からの連絡がなかった場合でもエリカは救援をよこさない。ただアジトの自爆スイッチを押すだけだ。こんな状況を打開できる“何か”などあるのだろうか。

 哲也は歯ぎしりした。自分ひとりというのはなんと無力なのだろう。


 ミオが叫んだ。


「テツヤ、撃って! そしてあなただけでも生き残って!」


 その叫びに哲也の心は決まった。

 彼はゆっくりと銃を下ろした。


「テツヤ……、なぜ……」

 ミオは絶句し、絶望に顔を覆った。


 哲也が叫んだ。


「レイラ、俺を殺せ。その代わりにミオを助けてやってくれないか」

「それが君の選択なんだな、テツヤ」

「そうだ。だから約束してくれ、ミオを助けるってことを」


 レイラがあきれたような表情を見せた。


「本当に、テツヤといい、この子といい、そしてエリカ司令も。私には自分を犠牲にしてまでも他人を救おうっていう人の気が知れない。でもわかった、この子は助けるとしよう。約束する。まずは銃を足元に置くんだ」


 哲也は素直にそれに従った。片膝をついた姿勢のまま、体の横に下ろしていた銃を持つ手をゆっくりと前方へと進めた。そして膝をついたのと反対の足の先に静かに銃を置いた。


「そう、そのままゆっくり立つんだ。手は頭の後ろで組んで。そしたら今度は足元の銃をこっちに蹴り出すんだ」


 もはや哲也はレイラの言葉のままだった。彼は足元の銃を蹴り出した。銃は床を滑り、ミオの座る椅子の脚のひとつに当たり、跳ね返ってレイラとミオのあいだくらいで止まった。

 床の上の銃にちらっと一瞥いちべつをくれたレイラは言った。


「いいだろう。これでいよいよ三度目の正直というわけだな。今度こそさよならだ。あの『でこぴん』の痛みを私は生涯忘れないだろう。誰もが私を恐れる中でただひとり私を恐れず怒ってくれたあの君の姿を私は生涯忘れないだろう。そして……」


 レイラは言葉を止めた。そして数秒の無言のあと続けた。これまでで一番静かな口調で。


「好きだった」


 レイラは哲也をまっすぐ見据えたまま、ゆっくりと銃を持つ腕を彼へと向けていった。そして彼女の銃が哲也の姿に重なるや、そのまま寸分たがわずピタリと静止した。

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