9 首締め事件

 机に向かいながら哲也は肘をついてじっと目を閉じていた。彼は怒濤のような今日一日の出来事を振り返っていた。

 いやそのつもりだったのは確かなのだが、彼が考えているのはいつの間にかレイラのことになってしまうのだ。


「まったく何を考えているんだ、俺は」

 哲也は雑念を振り払おうとするかのように頭を左右に振った。

「あの人は俺のサポートのためにいるだけなんだ。大体この前初めて会ったばかりじゃないか」


 でも彼には予感があった。レイラにはアヤやミクとは違う何かがある、と。


「『良い予感』か」

 哲也はつぶやいた。

「当たった試しはないんだけどな」


 彼はここ数日にあったことをもう一度思い返した。まったく彼の人生の中でこの数日ほど驚かされた日々はなかった。自動運転車、美しい街並み、人が好きなことをして暮らせる社会、脳をコントロールするチップ、そしてレイラ。

 思い返すたびに頭を左右に振ることを繰り返していたが、突然彼は思い出したように椅子から立ち上がった。


「風呂に行かなくっちゃ。このまま寝るわけにもいかないしな」


 部屋を出た哲也は風呂に向かう前にレイラの部屋のほうをのぞいてみる。ドアの下のスリットから室内の光が漏れているのが見える。


「部屋にいるのか」

 哲也はつぶやいた。

「何してるんだろ」


 脱衣所のドアの前で手を伸ばして照明用スイッチ板にタッチする。タッチするたびに脱衣所内の照明の入切を強制的に切り替えるものだ。レイラの話によるとチップのない哲也のためにわざわざ取りつけたものだという。

 哲也はタッチする前に脱衣所内の照明が消えているかを確認しなかった。そんなことは今の彼にとってはどうでもいいことだった。彼の頭の中はずっとレイラのことで一杯だったからだ。


 あの常に冷静で落ち着いた様子。無条件で頼っていいと思わせるあの絶大な信頼感。それはとても彼と三才しか違わないとは思われないものだった。仕事に就いていることがその一因なのだろうかとも考えた。だとするとよほどその職場は厳しいところなのだろう。彼女に仕事について尋ねることは固く禁じられているが、少なくとも一般の民間企業に勤めているとは思われない。彼のような存在のサポートに就いていることからして公的なところに所属していると考えて間違いないだろう。


 そしてあの話し方からして間違いなく部下がいる。あれは普段から人に命令する立場の人間のものだ。かといって彼のイメージする“中間管理職”のそれとも違っていた。かなり上の立場にあるように感じられた。彼女の歳でそんな地位にあることはこの時代では珍しくないのだろうか。いや、彼女と同年代のアヤとミクはあんなしゃべり方はしない。彼女が特別なのだ。


「やっぱりレイラさんは凄い人なんだ。あんな人の眼中に俺みたいな人間が入るなんてありえないよな」


 そんなことを考えながら哲也は脱衣所のドアを開けた。

「!」

 その瞬間哲也の目に、彼が微塵も予期していなかったものが飛び込んできた。彼は体のあらゆるパーツが硬直するのを感じた。


 そこに見えたのは真っ暗な室内に白く浮かび上がる若い女性の肢体だった。横を向いていてバスタオルを背中から回し、両手で左右の端を持ち、今から前を合わせようかという姿だった。すらりとした身体の線にすらりとした長い金髪。レイラに間違いなかった。


 悲鳴はなかった。レイラの目がギラッと光る。その躰が目にも留まらぬ速さで哲也へ向けて飛び出す。主のいなくなったバスタオルがその場で宙を舞う。

 レイラは瞬時に哲也の背後へと回った。哲也の頬を風が撫でたはずだが、彼にはそれを感じるだけの時間も余裕もなかった。

 レイラはその腕で哲也の首を強烈に締め上げた。前回のヘッドロックとは比べものにならない力だった。


「く、苦しい……。ギブ、ギブです」


 偶然にも手が首の近くにあったことから哲也は一気に締め上げられることだけは防ぐことができた。彼は降参の意を伝えようとレイラの腕をタップした。しかし彼女の力はますます強まるばかり。


「な、なぜ。タップしているのに……」


 哲也はひたすらタップを続けた。なぜ腕を緩めてくれないのか、彼にはまるでわからない。

 レイラの白い腕が抵抗する哲也の首に食い込んでいく。彼の意識が遠のいていく。まさに死を覚悟したそのとき、唐突に彼は解放された。


「テツヤ君、大丈夫か」


 彼の目の焦点が回復したとき、そこには心配そうに見つめるレイラの顔があった。


「ははは、大丈夫……、かな」

「すまない。てっきり“やつら”かと思ってしまったから」

「『やつら』ってなんですか」

「決まってるじゃないか。レジ……」


 不意にレイラは言葉を飲み込んだ。


「レジ?」

「そうじゃない。あれ、あれだ。そう、“チカン”だ」

「でも『やつら』って言いましたよ」

「そうなんだ、最近集団で出没するんだ」

「そうなんですか」

「そう。知り合いにも入られたのがいるから、私のところに現れたら殺してやろうって思っていたところなんだ」

「殺すだなんて、そんな物騒な」

「それぐらい怒ってたってことだ。で、思わず思いっきり絞めてしまった。すまなかった」

「でもタップしたのに」

「相手はチカンだぞ。タップしたからって手を緩めてたら、あっという間に逆襲を食らう」

「わかりました。でもレイラさん、ひとつ言ってもいいですか」

「なにかね」

「まずはタオルを巻いてもらえませんか。目のやり場に困るんで」


 この後哲也がどんな目に遭ったのか、それは彼にとって地獄だったのかはたまた“天国”だったのか。それについては彼の名誉のために触れないでおくことにしよう。

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