第1章 哲也とレイラ

1 目覚め

 その部屋は壁から天井、そして床にいたるまですべてが白かった。窓のようなものはなく、人工の照明だけがその中を照らしている。その光は部屋一杯に満ち、まるで影のない世界であるかのよう。


 部屋の中には部屋に劣らず白いベッドが置かれており、ひとりの若い男が横たわっている。年格好は十代なかば。意識はない。その体からは何本ものコードが伸びており監視装置のようなものに繋がっている。まわりでは多数の看護師が忙しく動き回り、ひとりが装置の示す男の状態に目をやった。


 そのとき装置の表示に変化が現れた。看護師は若い男の顔を見、男が目を覚ましたことを見て取った。


「先生、早く来てください。ID1923055038004の患者さんの意識が戻りました」


 意識を取り戻した若い男は看護師のその声をぼんやりと聞いていた。男は自分がどこにいるのか理解できなかった。しかしやがてまわりの様子や「先生」「患者さん」という単語から、男は自分がどこかの病院の治療室にいるのだろうと思った。“ずいぶんきれいな病院だな”とも思った。


 “あれは夢だったのか”、とその若い男は思った。どうやら幸いにも自分は死んだわけではなく単に意識不明だっただけのようだが、そうするとどこまでが現実でどこからが夢だったのだろう。

 白衣を着た医師が治療室に入ってきた。医師はペンライトのようなものを手に取ると、男の両目を片方ずつ照らしてのぞき込んだ。


「気分はどうかね」

 医師は男の表情から目を離さずに尋ねた。


「はあ、悪くはないです」

「どこか痛いところは」

「すこし頭がぼおっとしますが、どこも痛みはありません」

「そうか。では自分の名前が言えるかな」

「竹本哲也。字は植物の竹に書物の本と書いて竹本。てつは哲学の哲になりの也です」

 それを聞いた医師は意外そうな顔をしたが、すぐに元の表情に戻った。

「年齢を聞いてもいいかな」

「十六才です」

「そうか。じゃあテツヤ君、君は意識を失う前にどういったことが起こったのか覚えているかね」

「あんまり。なんか大きな黒い穴のようなところに落ちたような気はしているのですが、どこまでが現実でどこからが夢だったのかが自分でもよくわからないので」

「穴?」


 医師が戸惑ったような声を出した。すかさずそばにいた看護師に問いかける。


「彼が発見された現場に穴がいていたという事実は?」

「ありませんね」


 看護師の答えを聞いた医師の表情が心なしか曇ったように哲也には見えた。医師は看護師とともに哲也のそばから離れ、ふたりで何やら相談を始めた。その声の一部がわずかに哲也にも聞こえる。


「患者にはチップはないのだね」

「はい。何度も全身を調べましたが確認できませんでした。信号も検出されていません」

「うーん。十六才でチップがないとなると、ひょっとすると彼は……」


 そこから先の言葉は哲也には聞き取れなかった。

 どうやら何か問題が発生したらしかった。哲也は医師の発した「チップ」という単語が気になった。治療費の支払いに関係することだろうか。保険証を携帯していなかったのがまずかったのだろうか。

 それに「信号も検出されていません」とは何か。まさか心電図や脳波がないのか。自分は本当は幽霊だとでもいうのか。“我思う、故に我あり”って言葉があるけど“我思ってるのに我なし”なのか。ああ何が何だかさっぱりわからない。


 いつの間にか医師のそばには数人の人間が集まっていた。やがてその相談が終わったらしかった。医師は彼のそばへ戻ってくると、もったいぶるように咳払いをした。


「我々は医療関係者だ。患者がどんな人間であろうとも、その命を救うのが仕事だ。ここで知った内容を我々がほかに渡すことはしない。だから安心して正直に答えてほしい。何があったかもう少し詳しく教えてくれないかね」

「わかりました。自分はいつものように自転車に乗って高校に行くところだったんです」

「コウコウ? 君は十六才だろう。後期校などとっくに卒業してるんじゃないのかね」

「後期校? なんですかそれは。俺が言ったのは高等学校のことで……」

「高等学校だと! その名称は百五十年ほど前に使われなくなったはず。義務教育後の教育機関の意味だとしても、そんなものが廃止されてもう二十年にもなるかというのに!」


 医師は驚きの声をあげた。しかしもっと驚いたのは哲也だった。後期校? 高校という名称は百五十年ほど前に使われなくなった? 義務教育後の教育機関が廃止されてもう二十年にもなる? 彼は医師が何を言っているのかさっぱりわからなかった。


 医師は顔をピクピク引きつらせたままでその場をぐるぐる回り始めていた。


「信じられない。それではこの患者は百五十年以上前から意識を失ったままだったのか。意識を失ったときに十六才だったとするともう百六十を超えていることになる。にもかかわらず容姿は十六才のままじゃないか」


 医師は頭を抱えたままぐるぐる回るスピードをさらに上げていく。


「しかしだとすると患者にチップがないことも説明できる。彼は我々が恐れているような存在ではないわけだ。しかしこの肉体の若さはどうだ。冷凍冬眠にでも入っていたとしか考えられないが、関連するあらゆる施設にそのような記録はない」


 ブツブツつぶやきながら回っていた医師だったが、突然足を止めると顔を上げて虚空こくうを見つめだした。

 その様子を見ていた哲也の中に新たな疑念がわき起こってきた。さっきの一連のわけのわからない言葉もそうだが、今の医師の言葉はまるで冷凍冬眠が実用化されでもしているかのようじゃないか。


“まさか……、嘘だろ……”


 哲也はいきなり上体を起こした。そしてまわりの様子を見回した。虚空を見つめたまま考え込む医師の手は空中を動いていた。それはまるでそこに何か機器があってそれを操作しているかのような動きだった。看護師がチェックしている機器からはホログラムのように表示内容が投影されていた。そして新たに運び込まれてきた患者の乗った移送車ストレッチャーには車輪はなく宙に浮かんでいた……。


「すみません」

 哲也が呼びかけるがまわりの人たちは気づかない。


「すみません!」

 今度は強めの口調で言ってみる。看護師のひとりが気づいてくれた。


「なに」

「あのう、すみませんが、今はいつなんでしょうか」

「うん? 五月二五日よ。それがどうかしたの」

「いや、俺が知りたいのは今が何年なのかってことで」


 そのとき看護師から発せられた答えは、彼の想像を絶するものだった。


「2216年よ。それがどうかしたの」

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