ニェスの蛇の巣



――『ニェスの蛇の巣』#1



 長距離列車は灰土地域の殺風景な火山灰の荒野を過ぎ去り、大きな都市のターミナル駅へと到着した。目的地の帝都へ行くには、ここで別の長距離列車に乗り換える必要がある。

 メルヴィは大きな革張りのキャスター付き鞄を引っ張りながらホームへと降り立った。ここは大都市ニェスだ。


 目の前には雄大な鉱山都市が広がっていた。街の中心に横たわる小高い丘のような鉱山は、機械化された建築物ですべて覆われていた。

 あちこちから蒸気が噴き出し、巨大な重機が行き交う。メルヴィはこのような巨大都市を見たのは初めてだった。


「メルヴィ様、観光はお仕事の後ゆっくりしましょう。とりあえず今日は宿に入って休みませんか?」


 いつの間にか隣に長身の女が立っていた。べたつくようなくせっ毛の黒髪、たれ目で優しそうな目、ニヤニヤと気味悪く笑う口元、胸は……大きい。彼女はメルヴィの旅の共だ。


「分かってるよ、クシュス。わたしも丁度疲れが限界に来てたとこなの」


 彼女たちはある目的のために人類帝国の帝都を目指す旅人だ。彼女たちはこの大都市ニェスでスネークタン家から援助を受ける予定だったのだ。


 スネークタン家はこのニェスの広大な鉱山の採掘権を牛耳る巨大な存在だ。莫大な資産とその資産によって集められた強力な魔法物品を多数所有する。メルヴィの旅の共……クシュスはスネークタン家とコネクションを持っているらしい。


 しかしそう上手くことは運ばないことも列車の中で聞いていた。スネークタン家は陰謀のさなかにあったのだ。ニェスの資源採掘権の6割を握るスネークタン家の血は、いま絶えかねない状況にあるのだ。


 3年前に当主のメルクが事故死し、メルク夫人も相次いで亡くなってしまった。いまやその巨大な権益は一人息子のレニシェル・スネークタンの肩にかけられている。レニシェルはまだ17歳。しかも生まれたころから病弱であった。


 月に一度は昏倒してしまうことがあり、そのたびに医者の世話になっていたらしい。詳しく分からないのは、10年前から彼は公の場に姿を見せてはいないからだ。彼は要塞化された宮殿の奥に住んでいるとされ、信頼できる従者のみ入ることを許されている。


 スネークタン家には分家が3つあり、もし本家が絶えたときは資源採掘権をこの3家で分割することになっている。メルクやメルク夫人の死には不審な点が多い。大きな陰謀を感じずにはいられないが、証拠は何もなかった。


 メルヴィは機械化された街並みをクシュスと歩いた。セラミックプレートの石畳で舗装された地面に鞄のキャスターが転がる音が響く。メルヴィは長い旅の途中だった。彼女には使命がある。


 メルヴィはごく普通の娘だった。灰土地域では珍しい青髪の耳長族ではあったが、彼女の故郷では耳の長くとがった様子もごく普通のものだ。前髪は長く目を隠していたが、視線を嫌う魔法使いにはよくあることだ。


 魔法と言っても帝都の魔法使いのような天地を揺るがすほどの大魔法を使えるわけでもない。辺境の落第魔法使いのように腕や肩に打ち込んだシリンダーの力を借りねば魔法は使えないし、魔法の種類もその辺の魔法店で売っている市販のものだ。


 そんな片田舎の普通の娘だったメルヴィがなぜ大陸を縦断する大きな旅路へと出発したか、それには長い理由があった。最初の渡り鳥の一匹がなぜ住みかを離れ遠い地へと旅立ったか考えたことはあるだろうか。


 彼女の中にある理由もまた同じものであろう。突然変異的な本能が彼女を突き動かした。それは月へと辿りつく夢である。そのためには灰土地域の北西の果てにある人類帝国の首都へと行かなくてはならない。そこに協力者がいるのだ。


 その大きな夢の始まりについてはまた別な話で語ろう。いまやその旅は終わりに近づいていた。長距離鉄道で何日もかかるとはいえ、ニェスで列車を乗り換えればあとは寝台車でうたた寝をしているだけで帝都に着くのだ。


 しかしその費用も馬鹿にならない。長い旅路で路銀は尽きかけていた。メルヴィは隣を歩くクシュスを見上げる。クシュスはメルヴィの旅の同行者であり協力者だ。だがクシュスの資金提供も限界に近付きつつあった。大きな組織が背後にあるとクシュスは言う。


 だが、メルヴィの旅への支援はあまり予算を動かせないというのだ。クシュスの上司である……ミクロメガスという男。クシュスの話では帝国政府の高官らしいのだが、閑職にいるらしい。それで資金の工面が難しいというのだ。


 幸いこのニェスのスネークタン家は、そのミクロメガスと繋がりがあったらしい。それで今回資金援助を求めに来たというわけだ。しかしメルヴィはこの状況にとてつもない違和感を感じずにはいられなかった。


 なぜただの馬鹿げた夢を持っただけの小娘にそこまでしてくれるのだろうか。ここまでしてそのミクロメガスという男には何か見返りがあるのだろうか。しかし、好都合なことは甘んじて受けよう、そう彼女は思っていた。


「ねぇ、クシュス。貴女は私を援助してどうしたいの?」


 不意に問いを投げかけてみる。しかしクシュスはいつもニヤニヤと薄気味悪く笑い、同じように返すのだった。


「御意のままに。貴女様を帝都まで送る……それが私の役目」


 小一時間ほど歩いた頃、目的の街外れの宿に到着した。赤レンガの壁の木造3階建ての落ちついた宿だ。駅前の観光案内所で予約を取ってもらったのだ。このニェスは都会で観光需要も多く、街にはいくつも宿があった。


「メルヴィ様、ここはシャワー付きですのでゆっくり汗を流してお休みしましょう。列車で座りすぎて腰が痛くなってしまったことでしょう。相部屋ですみませんが、その分広いですよ」


 そう言ってクシュスは宿に入っていった。


 正直クシュスには助かっている。宿の手配や列車のチケットなど旅の煩わしいことはみな彼女がやってくれているのだ。以前はメルヴィがこの役目だった……そこまで考えてメルヴィは背筋が凍る思いをした。


 以前? 以前とはいつの話だ? クシュスに会うまで自分はどうやって旅をしていたのだ? そもそもいつからクシュスと旅をしているのだ? 心臓の鼓動が激しくなり額に脂汗が浮かぶ。嫌だ、考えるな。考えてはいけない……。


「メルヴィ様?」


 宿の中からクシュスの呼ぶ声がする。メルヴィは開きかけた記憶の扉を強引に閉じ、クシュスを追いかけた。大丈夫、クシュスがいるから。大丈夫……。いつもは気味悪くニヤニヤ笑っているようなクシュスの顔も、そのときは優しく微笑む慈母のように見えた。



――



 シャワーを浴びたメルヴィは軽い服装になりベッドに横になった。隣の床ではクシュスが床に道具を広げていつもの”儀式”の準備をしている。そう、その儀式は日課になっておりどんなに忙しくても週に一回は繰り返している。


 香炉に火が灯され、不思議な香りのするオイルを温める。銀の香炉からはすぐに紫の煙が立ち上った。


「メルヴィ、おいで」


 にこりと笑ってクシュスが手招く。


 メルヴィはふらふらと立ち上がり、クシュスの腕に抱かれた。クシュスは結跏趺坐で座り下着だけを身につけている。赤子のようにやさしくメルヴィを抱いたクシュスは彼女の耳元で短い呪文を繰り返す。まるで子守唄のようにゆっくりと、落ちついた口調で。


 メルヴィは目の前がぼやけて、精神が曖昧になっていくのを感じた。彼女はこの儀式のことについて深く考えるのが怖い。何故この儀式を繰り返すのか、何の意味があるのか、いつから繰り返しているのか。それを考えると酷く恐ろしくなって思考が暗転してしまうのだ。


 この儀式はとても魂が安らぐ。クシュスは苦手な女だったが、彼女の胸に抱かれて耳元で呪文を囁かれるとまるで自分が赤子になったように落ちつくのだ。クシュスの甘い香りが香の痺れるような香りと合わさって、日だまりにいるように眠くなる。


「大丈夫、心配や恐れはいりません。すべて上手く行きますよ、メルヴィ」


 メルヴィは、そのまま心地よい眠りの闇へ沈んでいった。



――



 クシュスは朝五時丁度に目を覚ますと、メルヴィを起こし会見の準備をした。準備と言っても何を話すか確認したり身だしなみを整えるくらいだが。メルヴィは黒いスキニーパンツに灰色のミニワンピースといういつものいでたちだ。


 クシュスはいつものように分厚い革マントの下は深紅のレオタードという戦闘魔術師の姿だ。アンバランスな二人は最低限の荷物だけを持って宿を発った。スネークタン家の宮殿前にはバス停があるのでバスに揺られて行くことにする。


 メルヴィはバスの窓から街並みを眺めていた。田舎娘のメルヴィには新鮮な光景だ。規格通りに整形されたセラミックプレートでできた街並み。セラミックは様々な形に自由に整形でき、安価で量産ができる。都市部で必ず見られる素材だ。


 ベージュ色の街並みは排ガスで汚れくすんでいる。メルヴィは旅が終わりに近づくのを感じてきた。もうすぐ帝都なのだ。帝都に行けば月への渡航手段が手に入る。帝都はどんな所なんだろうか。街には魔法使いが溢れ、機械仕掛けの工場が唸る灰土地域最大の都市……。


 バスがスネークタン家前のアナウンスを始めた。クシュスが壁についたボタンを押し降車の意思を伝える。やがてバスはゆっくりと巨大な宮殿の前に停車した。乗客がざわつく。そんなにここに停まるのが珍しいのだろうか。


 乗客の視線を感じながらメルヴィとクシュスはバスを降りた。錆びたバス停の後ろには、巨大な立方体の宮殿があった。生気を感じないこの真四角の建物には、暗い四角の穴がいくつも規則的に開いている。窓だろうか。それにしては小さく少ないが。


 行く途中で見た街並みとは明らかに違う異様さがそこにあった。セラミックとも違う不思議な白塗りの宮殿には汚れひとつついていないように見える。宮殿は5メートルほどもある有刺鉄線付きの壁に守られていた。まるで要塞だ。


 バス停の前には大きな鉄の門があった。門番が二人直立不動で立っている。魔法の鎧で全身を覆い表情は窺い知れない。


「こんにちは。ここで降りるひとは珍しいのですか?」


 メルヴィは門番に何気なく話題を振る。


「要件を」


 機械的に門番は返事をする。愛想のなさにメルヴィは少し気後れしてしまったが、クシュスは書類を手渡す。


「今日会見をしたい者です。この前連絡したメルヴィとクシュスです。ミクロメガス様の――」


「それはおかしい」


 門番はクシュスの言葉を遮った。


「その二人は10分前に到着し会見に臨んでいる所だ。もしや偽物では……」


「あら、偽物は先に来た方かもしれませんよ。わざわざ後から来る偽物がありましょうか?」


「ここで待っておれ」


 門番が壁に設置された電話機の蓋を開ける。


「それでは遅すぎますよ」


 一瞬にしてクシュスとメルヴィの姿が消えた。透明になったのだ! クシュスはメルヴィを抱き、ジャンプして壁を飛び越える。


 メルヴィは驚いてしまったが、クシュスの意をくんで声は出さなかった。押し通ろうというのだ。クシュスは綺麗に着地し、透明化を解く。透明化しなければ対空装置でハチの巣になっていただろう。メルヴィを抱きかかえたまま、驚異的な速さで宮殿の中に侵入する。


 扉の向こうで門番のわめく声が聞こえたが、やがて遠くなり聞こえなくなる。メルヴィは心配になった。こんな強引な方法で……いくら危ない状況だからと言っても後の交渉に影響は無いか心配になったのだ。不安そうにクシュスを見上げると、彼女はウィンクで応えた。


 宮殿の中は殺風景な白塗りの通路が続いていた。いくつも脇道があったが、迷うことなくクシュスは駆ける。魔法使いの使う建築物探知の魔法を使っているのだろう。そして一つの扉の前で止まり、メルヴィを下ろす。


「杞憂でしたね」


 クシュスは振り返ってそう言った。そして扉をゆっくりと開ける。そこは小さな応接間で、樫の木の大きなテーブルがあった。そこに……席についたまま伏している二人分の死体があった。二人とも女性で、背格好がメルヴィやクシュスと似ていた。


 二人分のティーカップが机の上に転がり紅茶を散らしていた。クシュスは小さな声を漏らす。


「毒……ですね」


「そうですよ」


 不意に入口から誰かの声がかかる。二人が振り返ると、そこには一人のメイドが立っていた。


「メルヴィ様と……クシュス様ですね。わたしはニギミニア」


 そう言って彼女はお辞儀をした。青いシャツのメイド衣装を着ており、黒髪は肩まで伸ばしている。彼女の黒い瞳は冷たく濁っていた。彼女は宮殿の主、レニシェルの側近だという。


「情報が漏れていたのでしょうか……? 無礼をしたのをお詫びします」


 そう言ってクシュスはより深く頭を下げた。それを見て慌ててメルヴィも頭を下げる。しかし、本当に暗殺者だと気づいていたのだろうかとメルヴィは不審に思う。


「あの……まさか私たちが先に来たら、あの毒の紅茶を飲んでいたのは……」


 メルヴィは思わずそれを口にしてしまう。あの門番といいニギミニアといい、この宮殿には生気というものが感じられない。


 本当に彼らを信用できるのか、資金援助の代わりに何か厄介なことにならないか……メルヴィはそこが心配だった。ニギミニアは口だけで笑みを作り、濁った目のままその問いに答えた。


「本物だったとしても構わないことです。ミクロメガス様の使者が毒ごときで死ぬわけありませんもの」


 ミクロメガス……帝都にいるという、クシュスの上司。一度電影機で顔を見て会話したことがある。


 メルヴィはこのミクロメガスを何よりも信用できなかった。何もかもが奇妙な男。彼は……メルヴィの夢を何故か知っていたのだ。メルヴィが誰にも明かさなかった夢を。



――『ニェスの蛇の巣』#2



 死体は後からやってきた3人の従者に持っていかれ、零れた紅茶もニギミニアが綺麗に拭いてしまった。そして新しい紅茶を若い娘のメイドが持ってくる。


「どうぞ」


 ニギミニアがそう言って着席を促す。


 どうやらこのまま会見を始めるらしい。さっきまで死体が横たわっていた席にメルヴィは居心地が悪そうに座る。クシュスはそんなこと微塵も気にかけていない様子だった。メルヴィは目の前の紅茶をじっと見下ろした。


「毒は入っていませんよ」


 ニギミニアは愛想笑いもせず言った。メルヴィはそれでもとても飲む気になれず、クシュスに目配せをした。クシュスは笑って本題を切りだす。


「今日は私たちの旅の資金を援助していただきたいと参ったのです」


「それについてはレニシェル様からの同意を得ています」


 席についたニギミニアは無感情に言った。それを聞いてメルヴィの顔がほころぶ。


「ただ、条件があります。レニシェル様の状況については御存じですね?」


 メルヴィは硬い顔になる。そう、白昼堂々侵入者が現れるほどの……恐らくは暗殺者だろう。レニシェルは狙われているのだ。会見になっても姿を見せないほどの用心ぶりだ。彼の要求は大体想像がついた。


「レニシェル様は、自らの敵を全て抹殺することを条件になさいました。ミクロメガス様の使いならば造作もないことですね?」


 メルヴィは顔が真っ青になった。暗殺者を雇うような奴らと殺し合いをせねばいけないなんて……。


 クシュスは戸惑うメルヴィの手を机の下で握って、その要求に答えた。


「その程度容易いことです。さあ契約を」


 ニギミニアは無表情のまま、書類をクシュスに渡した。クシュスは文面に目を通し、サインをする。


 3人は立ちあがって握手をし応接間を後にした。応接間を出る際、ニギミニアが小さく声を漏らす。


「どうか、レニシェル様を救ってください……」


 メルヴィは立ち止り、振り返った。


 ニギミニアの表情は、苦悩と心配でいまにも涙を浮かべそうだった。メルヴィは、そのとき初めて彼女の感情を垣間見た気がした。


 門番は相変わらず直立不動で、メルヴィの詫びの言葉にも意を介さないようだった。バス停でバスを待つ間、メルヴィはクシュスに語りかける。


「ねぇ、本当に戦うつもりなの?」


「言ったでしょう、容易いことだと。メルヴィ様は宿屋で休んでるだけで全てが終わりますよ」


 メルヴィはぞっとした。そのときのクシュスの笑みは、いつものニヤニヤした感じではなく獲物を前にした野獣のような笑みだった。


 この底知れない戦闘魔術師のことをメルヴィは恐れた。だが、信じるしかない。自分は宿屋のベッドで硬くなって震えているだけで全てが終わるのだ。メルヴィはクシュスを見上げて言った。


「ねぇクシュス、このままバスで街の観光に行かない?」


 クシュスは不思議な顔をするが、すぐにいつものニヤニヤ笑いになる。


「ええ、いいですよ。どういう風の吹き回しでしょうか」


「今までずっと列車だったからね、たくさん見ておきたいんだ。この街を見る目が変わる前に」


「いいですよ。この街はどこか懐かしいです。帝都に似ているからでしょうか」


「クシュスは帝都育ちなの?」


「ええ。これでも私は箱入り娘でお嬢様学校に通っていたんですよ」


「意外だなぁ。もっと修羅場をくぐってるんだと思ってた」


 二人は笑い合った。たわいもない会話も、観光の約束も、これから起こる殺戮を忘れたいかのような、脆い柱の上で揺れているものに過ぎなかったが。やがてバスが来た。運転手は宮殿前のバス停に人が待っていることに驚いているようだった。


 二人はバスに乗って市場へと向かうことにした。バスに乗ると、乗客が声をかけてくる。

「お嬢さん方、レニシェル様の宮殿から生きて帰るとは大したもんだ」


 メルヴィは驚いて言った。


「そんな日常的に死人が出るのですか?」


 話しかけてきたのはステッキを持った黒いスーツの紳士だった。


「レニシェル様は疑心暗鬼になられておる。自分に近づくあらゆる人間が暗殺者に見えるようだ……というのも噂でしかないがね。本当に何年もレニシェル様を見ていないんだ。もう亡くなっているという噂まである」


「もっとも我々からレニシェル様へ何か言うことも無いんだ。レニシェル様はその富の力を民のために使っている。公共事業や苦しい企業に無償で投資してくれたのは何度あったか知らんよ」


 紳士はバスの窓から街並みを見つめた。


 この街をここまで育ててくれたのはスネークタン家だという。街の人たちはみなレニシェルを心配している。だからこそ、そっとしておいてあげているのだ。


「見てごらん、あの学校も、あの病院もスネークタン家の支援があったんだ」


 そう言って紳士は遠い目をした。


 そのレニシェルがくだらないお家騒動で苦しい立場にあるのを気に病んでいるのは街のひとも同じだろう。バスは通りを横切り市場へと到着した。メルヴィ達は紳士に別れを告げバスを降りる。


 市場の中でも観光客用に特産品を売るコーナーに二人は足を運んだ。


「あ、ニェス紅茶だ! 噂に聞くけど初めて見た……!」


「ニェスティーですか。好きですよ。酸味が丁度よくて」


「飲んだことあるんですか!? お嬢様だなぁ……」


 二人は一旦仕事を忘れ、観光に没頭した。土産物は荷物になるため飲食物を食べ歩きした程度だったが、二人は街を楽しんだ。夕暮れになり、街は夕日を受け橙色に輝きだす。公園で遊具に腰をおろしアイスを食べる二人。


「ねぇクシュス。ミクロメガスはどうして私の夢を知っていたの?」


 不意にメルヴィはかねてからの疑問をクシュスにぶつける。クシュスは相変わらずニヤニヤ笑っていたが、少し間をおいて返事をした。


「……ミクロメガス様はあなたと同じ夢を持っていらっしゃいます」


「えっ」


「メルヴィ様の夢はあなた自身の意思で生まれたものではありません。それは世界の鍵なのです。世界があなたとミクロメガス様に同じ夢を与えたのです」


「それはどういう……」


「詳しいことはわたしはミクロメガス様から聞いてはいませんが、帝都に辿りついたとき、きっと教えてくれるでしょう。それより……」


 クシュスはアイスを一口で食べきり。険しい表情になった。


「メルヴィ様、アイスを食べてしまった方がいいでしょう。誰かが私たちを探しています。探査の魔法の力を感じます」


 どきっとしたメルヴィはアイスを急いで食べる。


「多分危険は無いはずですけどね。こんなあからさまな探査は魔法の下手な三下か、こちらに探していることを知らせようとしているか……恐らく……」

 公園に駆けこむ影が現れた。夕暮れでもはっきり分かる、黒髪に青いシャツのメイド……。


「ニギミニアさん?」


 青い顔で駆けこんできたのは昼間会見したレニシェルの側近、ニギミニアだった。息を切らし、二人の前で立ち止まる。


「お願いです……力を貸してください」


 ニギミニアはやがて状況を語りだした。今日の午後、宮殿の魔法装置が恐ろしい呪いを感知したというのだ。不安になってレニシェルに続く直通電話を使ったが応答が無いという。


「どうして電話を使うの?直接会って状況を見てくれば……」


 メルヴィは疑問をぶつけるが、ニギミニアは首を横に振るばかりだ。


「宮殿でレニシェル様の秘密を明かしましょう。とりあえず来てください……お願いします!」


 メルヴィとクシュスは頷きあい、ニギミニアと共に公園の外に停めてある彼女の車へ乗り込んだ。


 3人は宮殿へと到着し、ニギミニアの書斎へと足を運んだ。そこはたくさんの本棚が並べてあり、薄暗く本の匂いがした。ニギミニアは手際よく本棚を移動させ、3個の鍵を使って秘密通路を開いたのだ!


 ニギミニアは秘密通路の地下へと続く闇を見ながら言った。


「レニシェル様はこの闇の深奥、迷宮の奥深くにお医者様と二人で隠れ住んでおります。もう10年もこの奥に住んでおられるのです。お父様のメルク様が一人息子のレニシェル様を守るためにこの迷宮を作られました」


「恐ろしい迷宮です。過去3度にわたって不覚にも暗殺者の侵入を許してしまいましたが、玄室に辿りつくことはかないませんでした」


 信用できる者はミクロメガスの使者である二人しかいないとニギミニアはいう。いや、いたとしてもこの迷宮を突破できるものはいないだろうと。


 迷宮の設計者の記憶は魔法で破壊されているほどの徹底ぶりだ


「私も初めてです。だが行かねばなりません。この迷宮……『ニェスの蛇の巣』に」



――『ニェスの蛇の巣』#3



「この宮殿の下に迷宮があったなんて……どのくらいの大きさなの?」


「わかりません。建築物探知の魔法が無効化されるのです」


 ニギミニアはポケットから小さな羅針盤を取り出し明かりの灯るカンテラを掲げた。


「さぁ、行きましょう」


 3人は闇に包まれた迷宮を進んだ。途中何度も分かれ道があったが、ニギミニアは迷うことなく羅針盤を見ながら進む。


「私から決して離れないように。この羅針盤なくしては生きてこの迷宮から脱出することすら不可能です」


「この羅針盤は盗難防止用に生きている私の手の上でしか正しい方向を指し示しません。できれば私のことを……」


 そのとき突然クシュスがニギミニアの肩を掴んで足止めさせる。その目の前を鋭い槍が横切った。


「安心してください。こういう罠くらいなら大丈夫」


 クシュスはそうニヤニヤした顔で言った。


「はは……私は戦闘訓練は受けていますがこういうダンジョンに潜ったことはなくて……」


 そして俯いて言った。


「こんな形で迷宮に潜るなんて思ってもいませんでした」


 以前暗殺者が潜っていったときには死体も回収していないという。そのときは生きた心地がしなかったが、電話で会話するレニシェルに異常は無く安心していたのだ。


「レニシェル様は朝と夕の定時連絡には欠かさず応えてくれました。迷宮の奥の暮らしは退屈でしょうから、その日あった様々な出来事を話しました。レニシェル様も嬉しそうにそれを……おや?」


 前方に閉ざされた扉があった。


 2枚の扉はぴっちりと閉じられ、取っ手やハンドルなどは見当たらなかった。押してみても何の反応もない。


「ニギミニアさん、これ……」


 メルヴィが指さす。


 通路の壁面に窪みが一つあり、黒いボタンがあったのだ。


「押せばいいのでしょうか?」


 ニギミニアは手を伸ばすが、クシュスがそれを押しとどめる。そしてニヤニヤと笑った。彼女はマントのポケットから万年筆を取り出す。


 そしてその万年筆でボタンを押した。すると……ボタンの中央から針が飛び出てきたのだ!


「やはり……恐らく致死性の毒針でしょう。さ、先に進みましょう」


 ニギミニアはぽかんとドアが開かれるのを見るしかなかった。


「流石はミクロメガス様の使者です……以前は何をやっていたのですか?」


 ニギミニアは若干興奮してクシュスに話しかけるが、彼女はニヤニヤと笑うだけだった。メルヴィは少し笑って言う。


「何でも帝都のお嬢様学校で箱入り娘してたらしいですよ」


「流石……帝都……!」


 ニギミニアは何故か納得して羅針盤を握りしめた。その後は分かれ道はあったものの、特に罠など無く進むことができた。正しい道を歩けば罠は少ないという。それはいつかレニシェル自身がこの迷宮から出ていくときのためでもあった。


「ねぇ、この迷宮で呪いを遮断することは出来なかったの?」


 長い道中のなかで、メルヴィはふと疑問を投げかけた。


「もちろん大抵の呪術は反射するよう作られています。しかし呪術は病気と薬の関係に似ているものです」


「ある呪術に効くのはこの機構、という風にそれぞれ細分化しているのです。完全にあらゆる呪術を防ぐ方法は存在しません。まともな方法で手に入る呪術なら対処できるのですが……」


 ニギミニアは通路の奥を見つめながら言う。


「正確な座標すら分からない中で効果を発揮するというと、種絶の呪いが考えられるでしょうか……これは大変珍しい呪いで、まさか手に入れているとは思いませんでした。この呪いは自分の血縁のものに対して威力を発揮します」


「どこへ隠れていても、血の繋がりを辿って襲いかかるのです。目標に到達すると、近くにいるひとも影響を受けます。レニシェル様の近くにはお医者様がいるのですが、彼も恐らく……最悪みな死んでしまいます」


「おそらくレニシェル様の親戚の誰かが使ったのでしょう。忌々しい……ですけれど、レニシェル様さえ生きていれば呪術返しのチャンスもあります。血縁を辿って返ってくるので、どこへ逃げようが死ぬのは向こうです」


 ニギミニアは珍しく言葉に怒気を混じらせた。


 呪術というものは諸刃の剣である。術返しという儀式を行えば、その呪術の効果をそっくりそのまま返すことが可能だ。もしレニシェルが生きていればその身体に纏わりついた術を打ち消し跳ね返すことができるのだ。それがレ二シェルのもとへ向かう理由でもある。


「レニシェル様には幾重もの魔法耐性処置が施されています。返事が無くとも、息はまだある可能性があります。はやく適切な治療を……」


「ニギミニアさん」


 クシュスが突然声をかける。


「これはどうしようもない。御武運を」


 次の瞬間、メルヴィとクシュスは奇妙な浮遊感を覚えた。そして瞬く間に視界が暗転する……。


「え、どういう……」


 ニギミニアが振り返ったとき、そこにメルヴィとクシュスの姿は無かった。


 メルヴィは悲鳴を上げながら超空間の中を飛ばされていた。ジェット気流のように概念シルフの群れが光の筋となって飛び交っていく。


「ここ、こ、ここは!? 誰かー!」


 声を上げても返事は返ってはこなかった。


「どうなっちゃうんだろう……」


 とにかくメルヴィは魔力の奔流の中手足をばたつかせてみる。すると、彼女は奔流の中を並走する一つの幻影に気付く。それは人間の形をしていた。口をぱくぱくとさせて何かを言っているようだ。


 幻影はやがて一人の青年の姿に焦点を結んだ。時折ノイズの走るその姿は、帝国式魔法使いのような黒い詰襟だ。頭にいくつもの眼球が張りついたターバンのようなもの……教導院の制帽を被っている。その姿にメルヴィは見覚えがあった。


「ミクロメガス!」


 以前電影機で見た姿のまま、その人の良さそうな青年は遠くから聞こえるような声を発した。


「やぁ、君はいまテレポートで吹っ飛ばされてる最中なんだ」


「テレポートなら何回もしたことあるけど、こんな……」


「今日は特別に感覚を数千倍にしているだけさ。超空間なら帝都からも電影機や電話無しで話せるからね、いい機会だよ」


「そんなの……いま忙しいの! 大変なことが起こって……」


 ミクロメガスの幻影はにやりと笑って言った。


「わかってる。僕は君のことを何よりも知っているよ。この罠は最後の門だ。羅針盤を持たぬものをはじく最後の砦さ。だが、君は玄室に辿りつけないわけじゃない」


 そう言ってミクロメガスはこちらに手を伸ばす。


「手を掴め。君に力をやろう。チャンスはもうすぐ終わりだ。早くしろ!」


「そんなこと言ったって……」


 メルヴィは魔力の奔流の中を必死に泳ごうとする。だが、なかなか彼には近づけない。もう少しで指先が触れそうな距離なのに……。


「手を伸ばせ! 力はいつだって手を伸ばせば掴めるんだ。君ならできるさ、ほら、いち、に、さん!」


 掛け声に合わせて思いっきり手を伸ばす! すると何か暖かいものに手が包まれた感触があった。それと同時に視界が変わる!


 メルヴィは目を開けた。辺りは完全な闇に思えるが、魔力を感じ取れば見えないことは無い。魔法使いの術の一つとして目を使わず周りを感知するというものがある。メルヴィも魔法使いのはしくれなのでうっすらと分かるくらいにはなっている。


 帝都の魔法使いは常に目隠ししたまま一日を過ごすという者もいるとか……。通路は左右に伸びていたが、メルヴィは左を選択して進み始めた。これは完全なカンであったが、左の方から僅かな空気の振動を感じ取ったのだ。さっきから感覚が異常に鋭く冴えわたっている。


 ミクロメガスから与えられた力だろうか? 左手が……さっき何かに触れた方の手が暖かい。まるで恋人と手を握り合ったようなむずかゆい、暖かい感覚だ。そこまで考えて、気まずそうにその考えを打ち消した。ミクロメガスが恋人だなんて……そんなことはありえない。


 そんなことより一刻も早くこの迷宮を脱出せねば。玄室かはてまた出口か。羅針盤を持つニギミニアはいまいない。頼りになるクシュスも、いない。闇の中を這いずりまわっているうちに、メルヴィはだんだん心細くなってきた。どれくらい進んだだろうか? かなり歩いたように思える。


 メルヴィの呼吸はだんだん荒くなってきた。辛い、苦しい感覚が彼女を襲う。以前もこういうことがあった気がする。自分は一人生き残って目的も分からず彷徨っていた記憶。みんないなくなってしまった。そう、あのときに……。記憶の底に封印したあのときに。彼女は身震いをした。


 そうだ、自分はひとりでは何もできないのだ。脂汗が浮かび心拍数が上がる。メルヴィは闇の感情が膨れ上がるのを感じた。自分はただの小娘にしか思えない。月に行くという夢もなぜ叶えられると思ったのだろう? 自分には大きすぎて叶えられないものなのに……。


 メルヴィは歩くのをやめ、膝を抱いて座り込んでしまった。今にも涙が出そうだった。誰かの助けが欲しい。力が欲しい。しかし自分には何があるだろうか? クシュスのように強く才能があるわけでもない、ただの小娘。自分はどうして誰かから力を得ることができようか……。


 そのとき、左手が熱で疼くのをメルヴィは感じた。メルヴィの思考が冷たい闇に覆われそうになるたび、左手がさらに熱を帯びるのだ。メルヴィは左手を抱きしめ、一滴だけ涙を流すと再び歩きだした。


 やがて、道なりに進むと大きな広間に出たようだった。真ん中まで進んだところで背後で突然扉が閉まる! そして天井にいくつも火が灯った。メルヴィは眩しそうに目を細める。広場にはひとつの大きなミノタウロスの石像があった。


 そして、その石像はゆっくりと動き出した。



――『ニェスの蛇の巣』#4



 ニギミニアはとうとう玄室へと辿りついた。途中メルヴィとクシュスが消えたのが気になるが、辺りを捜索しても見つからなかったので先を急いだのだ。玄室の扉は路地裏にあるような木製の小さな扉で、弱弱しく門灯が光っていた。


 ノックしてみたが反応は無い。意を決し中に入ってみることにする。鍵は開いていた。そこにはやはり民家のような小さな部屋があり、床に医者らしき老人が倒れていた。彼はすでに死んでいた。部屋は荒らされた跡は無く、彼女が最初の来客に思えた。


 部屋には奥へと続く扉が一つあった。奥から微かに機械音と、何故か森のような匂いがする。この部屋にレニシェルはいないようだった。奥にいるのだろうか? 扉を開けてみると、そこにはやはり森があった。


 森……いや、玄室という名にそぐわない巨大な植物園がそこにあったのだ。天井はガラス張りで、いくつか消えているものの照明が眩しく植物を照らしている。地面はレンガが敷き詰めてあったが、苔生して絨毯のようになっていた。南国の植物が所狭しと生えている。


 いくつかの植物はニギミニアの身長より高く、視界を遮っていた。緑をかき分け進んでいくと、小さな広場があった。そこに……安楽椅子に座っている、彼がいた。レニシェルだ。ニギミニアはこのとき10年ぶりに彼の顔を見た。


 レニシェルは長い黒髪に簡単な黒い服を着ている。彼は寝ているようだ。苦悶の表情は時折歪んでいた。……生きている! ニギミニアはうっすらと涙を浮かべ、彼の傍に立った。そして優しく彼の名をつぶやいた。


「その声はニギミニア……どこにいるんだ、ここは暗くて寒いよ……」


 彼は幻影に苛まれているようだった。ニギミニアはやさしく彼の頬に触れた。すぐさま術返しの処置を始める。


「うう……眩しい。そうか、使者が来たんだね」


 レニシェルはゆっくりと目を開けた。いまだ呪いの影響下にあるが、意識を取り戻したようだ。


「ニギミニア……なのか? 随分……大人になったね」


「レニシェル様、いま助けてあげます。本当はミクロメガス様の力を借りたかったのだけれど、このニギミニア、命に代えてもこの恐ろしい術を破壊します」


「君では無理だ」


 レニシェルは目を閉じ、弱弱しくつぶやく。


「安楽椅子の下に杖があるだろう、それはミクロメガスの物だ。彼の使者ならばその杖を使いこなせるだろう」


 ニギミニアは安楽椅子の下を見る。するとそこには一本の杖が隠されていた。エメラルド色をした不思議な金属で出来ている。


 その杖を手に取った瞬間、持ち手が急激に熱せられる!


「あっ」


 ニギミニアは思わず杖を手放してしまった。杖は苔生した床の上を転がっていく。


「はは、君ではだめだよ……」


「これは……ミクロメガス様の置きみやげですね」


 はっとしてニギミニアは杖の転がった方を見る。するとそこには……クシュスが立っていた。クシュスは杖を拾おうともせずそこに立っている。


「そうさ、君は彼の使者だね」


「クシュスさん……いつの間に!」


 レニシェルは以前ミクロメガスが訪ねてきたときの話をした。ニギミニアも知らないことであったが、彼はこの玄室に現れたらしい。そして魔除けとしてあの杖を置いていったというのだ。


「ミクロメガス様は昔から色々と根回しをするのが好きなんですよ。いつか役に立つと計算して、様々な魔法物品を各地にばらまいています」


 クシュスはそう言う。


「はやく、レニシェル様を助けてください、クシュスさん!」


 ニギミニアは焦るが、クシュスは相変わらずニヤニヤ笑うばかりだ。


「これはミクロメガス様の力無くしては使うことができません。ミクロメガス様は先程力を使ってしまったようなので、その力が届くのを待ちましょう」


「何を悠長な!」


「大丈夫ですよ。力は手を伸ばせば届くのですから。ねぇ、メルヴィ」


 その瞬間、玄室の壁が粉砕される! 植物園に転がり込んでくるのは……ミノタウロスの石像の首だ。そして大きく空いた穴からよたよたと歩いてくるのはメルヴィそのひとだった。


「勝てるとは思わなかった。力が沸いてきて、自分じゃないみたいに動けた。気付いたら……倒していた」


 催眠状態のようなぼんやりとした声でメルヴィはつぶやいた。ニギミニアは思わずメルヴィに抱きつく。


「ああ……ニギミニアさん。ここは……みんないたんだ。よかった……」


 涙を浮かべるメルヴィ。ニギミニアはレニシェルを助けてほしいとメルヴィに訴える。メルヴィはふらふらと杖に歩み寄った。


 杖を拾うと、杖は発熱することなく緑に輝きだした。クシュスはそっとメルヴィに近寄ると、耳のそばで小さく呪文をつぶやく。メルヴィの瞳孔が開き、青いオーラが彼女の足元に渦巻いた。


 そしてレニシェルの胸に手を置くと、杖を掲げた。エメラルド色の光と青いオーラが渦巻き、玄室は光に包まれた。そして……呪いを打ち砕いたのだった。



――『ニェスの蛇の巣』 エピローグ



 結局その杖は呪いの反射で全ての力を失い赤く錆びた屑鉄棒になってしまった。その杖を貰う予定らしかったのだが、これも予定のうちかもしれないとクシュスは笑うばかりだった。今回レニシェルの命を救ったことで特別に資金援助を受けてもらうことになる。


 ニェスの駅のホームには帝都に向かう様々なひとで混雑していた。もちろんチケットは高額なのだが、ニェスは裕福な街なのだ。旅人はみな高級なスーツや腕時計を身につけているが、そこに場違いな女二人がいた。


 一人は黒いスキニーパンツに灰色のミニワンピースの小娘。もうひとりは赤いレオタードに大仰なマントを着た長身の女。メルヴィとクシュスである。彼女たちは帝都行きの列車を待っていた。


 列車の到着にはまだ時間がある。朝早く、気温はまだ冷たい。コーヒー売りの娘が近くを通りかかったのでクシュスは40ペンスを支払い二人分のコーヒーを買った。


「メルヴィ様、コーヒーを飲んで少し温まりましょう」


 メルヴィは笑顔でコーヒーを受け取り、香ばしい香りを味わいながらニェスの街を見つめていた。結局呪いが反射したせいか、スネークタン家の3つの分家のうち2つが突然謎の死で断絶した。


 生き残った分家も偶然の一致だとしらを切り、証拠もなかったのでこの件はうやむやになってしまったが、因果応報と言うべきだろう。この後レニシェル達はどうするのだろうか。それを聞かないまま滞在期間は過ぎてしまった。


 ふと駅のホームが騒がしくなった。視線をそちらにめぐらすと、黒いスーツのボディーガード数人が乗客を捌いて歩いてくる。中心にいるのはよく見知った人物だった。


「レニシェルさん……」


 そこにいたのはスーツとシルクハットで紳士の格好をしたレニシェルと簡単なドレスを身に纏ったニギミニアだったのだ。ニギミニアは両手に大きな旅行カバンを持っている。どこかに行くのだろうか。


「あっ、メルヴィさんにクシュスさん!」


 ニギミニアは明るい声でこちらに呼びかけた。表情は晴れ渡っていて、まるで大きな重荷から解放されたようだった。メルヴィ達は少し話をすることにする。


 話を聞くと、なんとあの事件の後採掘権をニェス政府に全部売ってしまったらしい。大量のニェス市債が刷られたが、それも数年で完済できるだろう。それほどまでの収入源なのだ。今まで半分公営のような扱いだったが、正式にニェス政府の物になったのだ。


「思い切ったことをしましたね」


「元々僕には重すぎる力さ。これからは辺境に行って農地でも買って暮らすよ」


「あなたたちならきっとうまくいきますよ」


「ああ。ありがとう」


 彼らはミス市に行くらしい。それは帝都とは反対側の方向だ。先にミス市行きの列車がホームに入ってくる。別れを告げ、彼らはボディーガードを引き連れ行ってしまった。


「結果的にめでたしめでたし、かな」


 ホームで小さくつぶやく。


 レニシェル達を乗せた列車はやがて発車した。窓から手を振るひとの姿が見える。ニギミニアだ。


「さよならー!」


「さよなら。元気で!」


 ニギミニアは今までにない笑顔で手を振ったのだった。


 入れ違いで、今度はメルヴィ達の乗る列車がホームに進入してくる。


「わたしたちも行きましょう」


 クシュスはそう言って地面に置いておいた荷物をまとめる。


「力を持っていても……手放しちゃうんだね」


 メルヴィはまたつぶやく。レニシェル達の去ったほうを見ながら。


「力は必死に守るものではありませんよ。いらなければ、捨てるだけです」


 クシュスはにやりと笑った。


「欲しくなったときはまた最初から頑張ればいいのですよ。力はいつだって、手を伸ばして手に入れるものなのですから」


 そう言ってクシュスは列車に乗り込んだ。メルヴィはしばらく列車の去った方を見ていたが、やがてふっと笑い、列車の扉をくぐったのだった。



――『ニェスの蛇の巣』 (了)


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