氷下の天使



#1 天使を漁する者



◆1


 海の青は全てを飲み込むかのように暗く、冷たかった。ボートの上には数人の老若男女が身を寄せ合い、その時を待っている。

 男の合図で全員が海へと飛び込む……やはり、潜水服を着ていても恐ろしさはぬぐえない。海に入ってすぐ、大きな潮流を感じる。

 流れに逆らってはいけない。流れに身を任せるのだ。それを男は……ベルシルムは知っていた。彼は漁師として幾年も経験を積み、そしてそれを見物客……同時に海中に飛び込んだ老若男女に見せて暮らしている。


 彼だけではない。この地方は漁のショービジネスで観光資源を創出していた。

 ベルシルムは潜水服のあちこちに提げられた錘の力で、一気に海底へと落下していく。見物客はその様子を、ゆっくり沈みながら観察する。見物客とベルシルムには、ワイヤーとエアチューブが繋がっている。安全性は確保されている。この氷海……極北冠状荒地沿岸にはサメもいない。

 海底を見下ろすベルシルム。砂地の海底にはおびただしいほどのヒトデが群れている。こういった寒い海で繁栄できるのはヒトデくらいだ。

 しかし、ベルシルムはヒトデを漁するわけではない。彼は天使漁師。この氷海に眠る、天使を漁する者だ。

 見渡す限り、天使の死体が砂の海底に横たわっている。彼女たちはみな裸で、背中に翼をもっている。生前の姿そのままに、一つとして傷つくことなく、腐敗することなく、凍ったように横たわっている。

 皆死んでいる。一人として生きていてはいけない。


 かつて、先の超文明、灰積世を終焉に導いた降灰戦争。海神グレイソフィアは1万の天使の軍勢を率いてスムートハーピィの文明と戦い、致命的な反撃を受け沈黙した。

 配下の使徒は、みな魂を破壊されて氷海に沈んだ。神々の海軍は修復不能な損害を受けていまも壊滅状態である。

 グレイソフィアは使徒へのコントロール能力を失い、使徒の死体を回収することさえできなくなっている。そのため駆り出されたのが人間たちだ。

 漁師が氷海に潜行して、使徒の死体を回収し、グレイソフィアに捧げる。いつしかその仕事は天使漁と呼ばれるようになった。

 神へ天使を捧げることで、様々な見返りがある。美しい天使を見ようと、観光客も押し寄せる。まさに絶好のビジネスだ。

 寒村だったこの漁村も、ひとが押し寄せて観光地として賑わってきた。そんな街の変化にも、ベルシルムは流れに乗って生きてきた。

 ベルシルムは昔からそうだったわけではない。流れに逆らって、しがみついていた時期もあった。しかし5年がたち、彼の顔は幾分か引き締まった。


 彼は約束していた。いつか迎えに行くことを。そのためには、流れに乗っていくしかない。海底で天使の一人に狙いを定め、抱きかかえる。

 ワイヤーには電話線が通っており、合図を送って引き上げてもらう。天使を抱えたまま、船上に引き上げられる。観光客も、船の上に上がる。

 一人の若い娘が、金魚鉢のような潜水服のヘルメットを脱いだ。ベルシルムは彼女の顔を見て、時が止まったように感じた。流れが……止まったのだ。



◆2



 約束は心に開けられない鍵を作る。鍵が差し込まれるまで開かれることのない引き出しだ。思い出も、大事なものも、約束をした時のまま凍り付いて、流れ出すことは無い。ベルシルムにも約束があった。果たせなかった約束。いつか叶えると、約束した約束。

 ベルシルムは信じていた。自分自身が、約束を果たすことを。決して裏切ることは無いと、自分に言い聞かせて、いつか果たすべき約束を思う。

 彼女はどうだろうか。約束を交わした相手。今となっては、彼女に裏切られてもいいとさえ思う。

 時が再び動き出す。ベルシルムはゆらゆらと揺れる船上にいた。観光客の娘が訝し気に彼を見ている。手にした潜水ヘルメットを持つ手がどうしていいか分からないようだ。


「あ、すみません。知り合いによく似ていたもので……ヘルメットはもう片付けましょう」


 そう言って受け取る。

 港に帰る船。観光客は皆満足げだ。5年前より明るくなった漁港が船を迎える。観光産業に力を入れた漁村は、観光客の誘致や観光施設の建設を次々と進めている。街の外観は目まぐるしく変わり、流れる観光客の姿も滞る所を知らない。

 ベルシルムは船から降りる客を静かに見送った。

 未来に向かって前進していく港。ベルシルムは自問した。


(俺は変われているだろうか。5年の歳月は短すぎた。俺は成長できただろうか)


 彼のやっていたことといえば、ひたむきに、しがみつくように漁を続けたことくらいだ。港の変貌をどこか遠くの出来事のように感じる。


「この辺においしい店ありますか?」


 不意に話しかけられて、ベルシルムは顔をあげる。さっきの観光客の娘だ。照れて笑いながら、近くの酒屋を紹介してやった。

 今度こそ一人だ。ベルシルムは船を背に、灯台の立つ崖の上の岬へと歩いて行った。

 岬の先端に立つと、遠くまで氷山の海が見渡せる。だが、彼は海の景色に興味は無い。陸側の、うっそうと茂るタイガの森をぼんやりと見ていた。

 街の開発が進み、海岸近くまであった森は年々その大きさを減らしていく。そのさらに向こうに、約束の場所があった。

 針葉樹の濃緑が、ぽっかりと口を開けた場所。近くに沢があり、水と光の溢れる場所。そこは、ベルシルムが子供のころ見つけた、とっておきの場所だった。

 どんな観光客も知らない、興味も示さない。ただ、彼女は違っていた。いつか行きたいと言ってくれたのだ。


(俺は待つ。いつまでも待つ。約束を果たすために……)


 しかし、視界に彼女は映らない。諦めて岬から下ると、酒瓶片手にフラフラ歩いている二人組の観光客が目に映った。

 思わず笑顔がこぼれる。全く、5年前と変わっていない奴らだと。

 手を振って彼らを呼ぶ。名前も覚えている。背の高い方がフィル。低い方がレッドだ。5年前と変わらないお揃いのトレンチコート。この観光客は……5年前彼女と約束を交わした時の、大事な立会人だった。



◆3



 5年前のことである。半分休業状態だった若きベルシルムの元に、観光を希望する変わった二人組がやってきた。彼らは揃いのトレンチコートで、背の高い方がフィル、低い方がレッドと名乗った。

 ベルシルムは不思議だった。自分より安く、上手な天使漁を見せる者などいくらでも紹介できた。

 当時の港町は寂れていた。観光業を始めたばかりで、街の名前を知る者も少ない。他の街が成功した天使漁の観光化の噂を聞いて、役場がようやく動き出した。そんな頃だった。つまりは、この街ですら選ぶ必要もない。

 そしてベルシルムは、天使漁をサボってばかりだった。

 それを正直にレッドに伝えたところ、帰ってきたのは意外な答えだった。


「俺たちはプロの観光客さ。テンプレ通りにメインストリートを歩くだけなんて、毎年のようにやっているし、時には冒険だってしたくなる」


 フィルも同調した。


「君は天使漁に積極的じゃないようだね」


 天気がいいのに、ベルシルムの背中に冷や汗が流れる。網の補修をする、彼の手が止まった。砂浜に打ち上げられた壊れた漁船。この二人組の観光客は、わざわざ浜辺で副業の魚獲りの準備で暇をつぶしている彼を探しに来た。

 絶対に、知っている。彼の秘密を。


「場所を変えよう」


 ベルシルムは網を畳み、近くの漁師小屋へと二人を案内した。彼の漁師小屋は板張りで蔦が這っていて、近づきがたい。

 中に入ると、いくつもの天使の骨格が飾ってあった。神に捧げた後残る遺物だ。何の役にも立たないが、飾り物にすると高く売れる。


「美しいだろう?」


 何度も見たことあるだろうに、フィルとレッドはまるで初めて見たように感嘆している。ベルシルムは一見関係ない雑談を続ける。


「実際には化け物だ。死霊だよ。負け戦の果てに、みんな死んで、怒りと苦しみの妄執の塊になった。静かに死んでいるだけありがたい」


「けれども……」


 ベルシルムは、不良漁師らしからぬ純粋な目で語る。


「彼らには……彼女らには、確かに心がある。狂っていく感情の中にも、それを覆いつくし打ち砕く美しい心がある。俺はそれを見つけたんだ」


 何故だろうか、この観光客たちには隠し事などできない。

 この観光客たちは、まるで美しいものを見せてくれとばかりに輝いた眼でこちらを覗いてくる。だから、自然とこちらも美しいものを隠さずに自慢したくなってしまうのだ。


「朝飯は食った? まだなら、新鮮な魚介の鍋を作るよ。サービスだ。笑顔で見るな……ただ、気に入っただけだよ」


 漁師小屋の囲炉裏が燃える。ベルシルムが魚鍋を作ってやると、フィルとレッドは子犬のように群がって魚鍋を食べた。それを見るベルシルムも上機嫌になる。


「俺は天使の心を見つけた。悪意と怒りの中でも美しく輝く心だ。期待していい。正直……俺も潮時だと思っていたよ」


 流れは水を動かす。潮流はとどまることなく、全てを変えていく。ベルシルムもまた、流れに流されなくてはいけない岐路に立たされていた。

 その背中を、それとなく押したのは、この二人の観光客だった。



#2 氷下の約束



◆1



 ベルシルム、フィル、そしてレッドは埃まみれの潜水服を引っ張り出し、船で沖へと漕ぎ出した。漁師ごとに漁できるポイントは決まっており、その持ち場は毎年ローテーションされる。

 ポイントに到着し、ポンプを作動させて3人は潜水を開始した。

 3人は電話線で船と繋がっており、会話をすることができる。


「分かっているとは思うけど……流れに身を任せるんだ」

「レクチャーを受けるのも、観光の醍醐味さ」


 フィルもレッドも慣れたものだ。


「その辺でワイヤーを固定してくれ。船に誰もいないから、安全のためにね」


 ベルシルムは一人、深くへと潜行していく。砂地の海底に広がるのは、無数のヒトデの群れ。そして、無言で横たわる天使の死体だ。

 深い青に彩られ、まるで前衛的なサイレント映画のように3人を感動させる。ベルシルムは、何度見ても美しいと思う。


「可愛い女は好きか?」


 ベルシルムの問い。レッドは明らかにテンションが上がる。


「好きっすよ! いやーもう、本当、それさえあれば何もいらないね!」

「俺もだ」


 海底に降り立ったベルシルムは、一人の天使の横に跪く。顔に積もった砂を払ってやる。

 ゆっくり天使を抱き上げて、ワイヤーを巻き戻す。上層で待機しているフィルとレッドの元に、彼女を紹介しに行く。


「かわいいな」「かわいいだろう」


 フィルは静かに言うが、声は嬉しそうだ。すると……死んでいるはずの天使がはにかんだのだ!


「生きている!」


 レッドは悲鳴に近い声をあげる。グレイソフィアの使徒が生きていると分かったら大発見だ。けれども、ベルシルムは首を横に振る。


「心臓は鼓動していない。彼女は死霊だ」

「はじめまして」


 天使が喋った! その声が脳内に響く。

 死霊は妄執によって心が狂っていくはずである。彼女は平然としている。つまりは、破壊衝動に代わる執着を持っているということだ。その説明も、天使はしてくれた。


「怒りの心を別な渇望に変えたのは、川からくる素敵な匂い……森の香りです。見たことないけれど、花の香りなのです」


 ベルシルムは天使を抱きかかえ、海中にワイヤーで吊られながら言う。


「もうすぐ漁区が変わる。君をこれ以上隠し続けることはできない。いつか、森の中の遺跡に連れていってあげるって約束したね。その遺跡には、たくさん花が咲いていてさ、きっと君の感じた香りはそれだよ」


「おいおい、約束を守ってあげなくちゃダメだぜ」


 レッドは二人の仲の良さに思わずにやける。


「分かっているけれど、遺跡に行くには街を横切らないといけない。もう少し待っていてほしいんだ。もうすぐ魚の群れがやってきて、皆準備に忙しくなる。その時を……」


 天使は少し寂しそうな顔をしてベルシルムに告げる。


「20分だけでいいのです。時間をください。船で待っていて……考える時間が欲しいのです」


 そのことをフィルとレッドにも告げて、ベルシルムは一度天使を海底に戻す。天使は、その時もいつもと変わらない様子に見えた。



◆2



 ベルシルムの船は波に揺られ、座っていても落ち着かない。約束の20分が永遠のように感じる。不安が募る。


「どうして20分も待たなくてはいけないんだろう」

「約束したってことは、約束を守る君を信じているってことだぜ」


 レッドは言う。

 約束の20分が過ぎ、海底に降り立った時、そこに彼女の姿は無かった。痕跡さえ残さず、消えていた。


「そんな……信じていたのに」

「行き先はどこだろう」


 フィルは遠くの海を見渡すが、視界は深いブルーに沈んで分からなかった。

 海底に見当たらない以上、海中にいる必要もない。再び船上に戻り、ベルシルムは頭を抱えた。


「裏切られたのか……? 俺は。あんな姿で……天使がそこら辺を歩いて、大ごとにならないはずがない。彼女は死霊なんだ。人目についたら、大変なことに……」

「落ち着いて、行き先を考えよう。20分なら追いつけるかもしれない。心当たりはあるか?」


 レッドは静かな声でベルシルムに問いかける。ベルシルムもようやく落ち着いたところだ。


「森の奥の遺跡……花の香る場所だ。そこしか心当たりはない。いつか行こうって……」


 ベルシルムは頭を抱えて後悔する。


「約束を信じていたんだ」


 フィルはベルシルムの手を取って勇気づける。


「森に行くには街を横切る必要があるって言っていたね。急ごう。街は大騒ぎになっているかもしれない」


 急いで船を港に向ける。やはり、港町は大騒ぎになっていた。

 土産物屋や食堂などが急いで戸締りを始めている。街角には人だかりが出て、噂話の情報交換。自警団があちこちを走り回り、非常事態を告げる半鐘は鳴り続けていた。


「使徒だ!」

「使徒の死霊を見た!」

「殺される……」

「暴走しているんだ」

「自警団は何をやっている!」


 ベルシルムは港で騒いでいる漁師仲間に話を聞く。


「使徒はどこに?」

「川沿いに、森へ向かったらしい……自警団が精神交霊団に討伐隊の要請を出している。時間がかかるって言っていた……」

「グレイソフィア様は滅びたんだ。もう止められない……」


 漁師たちの悲痛な叫び。

 森から海にそそぐ川があることは、ベルシルムも知っている。その源流に、約束の遺跡があることも。

 死霊は凶悪な存在だ。むき出しの刃物といってもいい。ベルシルムは後悔した。いままで刃物を撫でるような、ギリギリのバランスの上で成り立っていた関係なのだ。

 ベルシルムは無言で川沿いの道に走っていった。漁師たちの制止も聞かずに。フィルとレッドも続く。


「約束を果たさなくては……」


 気づかなかった。約束はいくつもある。その中で、一番大切な約束を忘れていたのだ。死霊は自分の居場所から離れるほど狂っていく。

 神に死体を捧げる仕事上、死霊のことはよく分かっている。彼女をあの場所から動かしたくなくて、綺麗な魂のまま手のひらの上に置いておくことに囚われて、彼女を裏切っていたことを後悔した。

 すでに潮流は動き出した。時間は無い。まもなく彼女は……妄執で狂い始めるのだ。



◆3



 海へと注ぐ川は幅も狭く、流れも穏やかだった。川岸にはうっすらと雪が積もり、空を切り取る高い針葉樹がそびえている。

 森の空気は透き通っていて、川のせせらぎだけが響いていた。苔のふかふかした冷たい森。土の晒された小道が川岸に沿って伸びている。

 意外にもはやく、彼女は見つかった。川辺に身を預けて、打ち上げられたようになっている。背中の翼は濡れ、いくつも羽が落ちていた。裸のまま、死んだように動かない。


「ごめん、君の約束の場所に、連れていけなくて」


 ベルシルムは彼女の隣に跪く。膝が泥で濡れた。

 沈黙。先に口を開いたのは、彼女の方だった。


「ごめん、もう帰るよ」

「どこへ」


 ベルシルムは、静かに彼女を抱き上げる。彼女は疲れた顔で空を見上げている。


「帰るよ。ここじゃないどこかへ」

「それは、行くっていうんだ」


 力のない天使を抱き、ベルシルムは遺跡へ向かって歩いていく。まるで引きずるように、ゆっくりだった。目的の遺跡は影も見えない。

 太陽は南中に差し掛かり、雪解け水で世界は輝いているのに、二人の間には氷山の氷のような冷たさがあった。フィルとレッドも手伝う。

 天使は苦悶の表情で身をよじり、抵抗する。


「やめろ……やめろ!」


 力のない手でぽかぽかとベルシルムを殴る。


「時間が無いんだよ……もう、わたしは終わりだ。心を失ってしまう。心を失ったら、綺麗なものも、美しいものも、感じなくなってしまう」


 死霊となった天使の身体は鉛のように重く、一歩踏み込むごとにさらに重くなる。死んだ場所から離れるほど、それは強くなるのだ。もちろん妄執も、怒りも、苦しみも。


「心を失う所を……みっともない姿を見られたくないの。きっと、わたしは怒りで我を忘れて、全てを傷つけてしまう」


 とうとうベルシルムの歩みが止まり、膝をつく。静かに苔の地面に天使の身体を安置した。彼女はふっと笑った。ベルシルムは後悔を隠さずに言う。


「約束してくれ。いつか、君を遺跡へ、花の咲く場所へ連れて行くから。それまで、待っていてくれ」

「待つよ」


 人間は自分の命を神に捧げることで、使徒へと昇華することができる。その逆で、使徒の魂を神に返せば、人間に転生できる……こともある。

 全盛期のグレイソフィアだったら、確実に人間に転生できただろう。いま、女神は滅び、運よく転生できても赤子や老婆になるかもしれない。

 ベルシルムは天使を捧げるための道具を腰のベルトから取り出し、地面に並べる。いつも船上で繰り返した作業も、今回ばかりは身が張り裂けそうに辛い。


「きっと人間になれるよ」

「ええ、わたし待っているから」


 最後に短い言葉を交わして、目を閉じる天使。

 その姿は、木漏れ日と苔に溶けるように消えていき、せせらぎに流されて消えてしまった……それが、5年前の出来事だった。



#3 天使の眠る場所



◆1



「おーっ、名前何だっけ……天使漁のお兄さん! 久しぶりだなぁ」


 フィルとレッドは変わらない。酒瓶を手にして、千鳥足で街外れを歩いていた。ベルシルムは自分を顧みて、俺も変わらないな、と思った。


「俺は覚えてるぞ。背の高い方がフィルで、低い方がレッドだ」

「背が低いゆーな!」

「ハハッ、ごめんよ」


 フィルは遠くの街の賑わいを見て言う。


「賑やかになったね……この辺も」

「ああ、すっかり変わっちまった。あんたら、また観光かい?」

「もちろん、僕たちはプロの観光客さ」


 ベルシルムは笑った。


「同じ場所を何回も観光するのかよ」

「そうさ。一度観光しても、次来たときにはがらりと変わっていて、違う景色を見せる。現に、この街はかなり変わったじゃないか」

「はは、それもそうだ。違いない」

「それに、今回は前回見れなかったものが見たいんだ」


 街は流れていく。時の流れは、あらゆるものを変えていく。


(俺は流れに乗れているだろうか)


 水が見えないように、時も見えない。ただ、大きな流れだけを全身に感じる。しばらく間を置いて、ベルシルムは答えた。


「だろうと思ったよ。俺は、お前らが来るのを待っていた」


 3人は街へ向かって歩いていく。特に行き先を話し合ったわけではない。ただ、力強い流れがそこにはあった。


「お前らがいないと、何も動かない気がするよ」


 ベルシルムは通りの屋台で、フィルとレッドのためにつまみを買ってやる。タレをつけて炙ったイカだ。


「彼女は来ていると思う?」


 イカを齧りながら、ベルシルムはフィルに聞いた。フィルもイカを齧りながら歩く。


「来ていたとしたら、最初になんて言いますか?」


 質問に質問で返すフィル。3人は街を抜けて、森の小道、川沿いの道に入る。ベルシルムは少し思案した。

 話したいことはたくさんある。伝えたいこともたくさんある。でも、それはこれからいくらでも話すことができる。

 最初に話す言葉としてふさわしいもの……ベルシルムは、5年の歳月を思う。答えが出る。


「俺はあの時20分待った。そして、5年も待ったんだ」

「だから、『そんなに待ってなかったよ』……そう言うつもりだよ」

「それは、いい言葉です」


 フィルは笑ってくれた。5年前のあの日と同じように、川辺の小道には雪がうっすらと積もって汚れもない。雪の間から覗いた苔は、エメラルドグリーンの輝き。


「今日は、再会にはいい日だね」


 レッドはそう言ってくれた。長い長い、しがみつく日々が終わる。この二人はどういう人間なのだろうか。ベルシルムは不思議に思う。

 氷山のように固く凍り付いたベルシルムの心をいとも簡単に揺り動かしてしまった。

 二人はきっと大きな渦なのだ。すべての滞った何かを打破して、全て巻き込んで、何もかも変えていく渦……ベルシルムは心の中で、そんな思いを抱き、川辺の小道を歩いた。


◆2



 海へと注ぐ川は相変わらず穏やかで、綺麗なせせらぎだった。川岸にはうっすらと雪が積もり、高い針葉樹は静かに両岸に佇む。

 森の空気は澄んでいて、美しい苔のエメラルドグリーンが輝いていた。以前と変わらない、気持ちのよい小道。

 酒を飲みながら、3人は森の小道を進んだ。盃もないのでラッパ飲みだ。レッドの提げた袋からつまみがどんどん出てくる。


「悪いね、分けてもらっちゃって」

「待ちすぎたんだ。酒の勢いの流れに乗ってもいいさ」


 レッドは串焼肉を食いながら言う。


「互いに待ってちゃ進まないときもある……流れが来たら、一気に乗らなくちゃな、もったいないぜ」

「ハハ、違いない」


 ベルシルムもそのことを考えていた。二人は、互いに待っていたのだ。5年前、先に時を進めたのは彼女の方だ。

 フィルは水を掻くような手の動きをして言う。


「潜るのは得意だよね、心の中へと潜っていくんです。自分にしがみつくのではなく、相手にするりと入っていくんです」

「それは、教えられなくったって、俺の得意分野だぜ」


 もうすぐ彼女が倒れていた場所だ。5年前の絶望は無い。


「俺は潜るのが得意だ。なんでこんな簡単なことに気付かなかったんだろう。すべて潜っていけばいいんだ。何もかも、潜るようにこなしていけば……いつものようにやれば、それで構わなかったんだ」


 ベルシルムは変わることが必要だと思っていた。それに固執していた。


「海だってそうだ。海の水は変わらない。でも、流れていくことで全てが動いていく。俺は俺のまま、流れていけばいいんだ。街が変わっても、俺は俺のまま、潜っていけばいいんだ」

「背中を押す必要もなく、君は進んでいくね」


 フィルは笑って、貝の甘露煮を食べる。

 以前、天使が倒れていた場所。見覚えのあるその場所には、花が咲き乱れていた。固まって、まるで誰かがうずくまっているようにも見える。


「や、彼女は先に行っているようだぜ」


 レッドが指さす。足跡の形に花が咲き、それは森の奥へと続いていた。


「あいつも進んでいるんだ。待ってるばかりじゃないんだ」


 その事実は、ベルシルムを勇気づけた。誰もが進んでいる。それはベルシルムを置き去りにするものではない。共に隣を歩き、進んでいくスピードだ。


「追いかけようぜ、待たせちゃいけない」

「ああ、負けちゃいられないな」


 ベルシルムは力強く森へと分け入っていく。ここから先は獣道だ。森の遺跡は観光として有名な場所でもなく、何か採取できる場所でもない。誰も興味を持たない。ベルシルムと、彼女と、フィルとレッド以外は。

 深く、森へと潜っていくベルシルム。

 やがて、森の奥に日のあたる場所が現れた。そこだけ針葉樹の巨木が無く、石造りの遺跡が苔と蔦まみれで静かに横たわっていた。

 本当に静かだった。そして……微かに花の香りがしたのだった。



◆3



 ベルシルムは遺跡の中で天使を見つけた。死んだ天使ではない。生きて、呼吸している天使だ。かつて、彼女は死霊だった。

 今は違う。呼吸する胸が動き、頬には血が通う、生きている天使だ。そして、今まで見たどんな天使よりも美しい天使だった。


「ごめん、待った?」


 待っていないと言うはずだったのに、こちらから声をかけてしまったことに気付くベルシルム。彼女は目を開けて、ゆっくりと起き上がる。遺跡の天井の穴から差す光で、舞台のスポットライトを浴びたように輝いていた。天使ではないのに、人間なのに、神々しく映る。


「20分だけね」


 彼女はそう言ってくれた。花の匂いが舞う。彼女の周りを取り囲むように、白い花が咲いていた。

 そして彼女は、どの花よりも可憐に咲いていた。生まれ変わったのだ。彼女は、20分前に、人間として!

 ベルシルムは目を閉じて言った。


「ありがとう……みんなに、ありがとうを言いたい」


 約束は守られた。それは、彼一人ではなすことができなかっただろう。たくさんのひとの流れの中で、たどり着いた場所なのだ。


「ダメな男だよ。皆に助けられて、流れに乗っからなきゃ……女の子一人、迎えに行けないなんて」


 ベルシルムは照れて言うが、レッドが背中を強く叩く。


「何言ってんだよ。流れに乗るのだって、素人じゃできないぜ!」


 フィルも静かに付け加える。


「僕らはただの流れにすぎないさ。それ自体に意味は無いのです。僕らのやったことって、結局、観光して酒飲んで美味しいもの、食べてるだけじゃないですか」


 思い返せば、ベルシルムも不思議に思う。

 レッドは彼女の手を取り、ベルシルムの手に添えてやった。二人は照れて、なかなか視線を合わそうとしない。


「丁度いい場所だぜ、ここは。古代神秘帝国の礼拝堂だ。結婚式を挙げたりするところだぜ?」


 遺跡を見上げるレッド。天使の翼の形に、切り取られた天窓。


「人類帝国成立より前、古代エシエドール帝国の興る前に、存在した忘れられた文明さ。この遺跡も待っていたんだよ。森の中でひっそりと、流れが来るのを。さぁ、今日はいい日だ! 行こう、フィル」

「ああ」


 フィルとレッドは、二人を置いてどこかへと行こうとする。


「二人とも、どこへ……?」


 ベルシルムは不思議に思って聞いた。人間となった娘はそっと彼の隣に寄り添う。


「いや、これからの二人の邪魔をしちゃいけないと思ってね、俺らはただの観光客だし、それに……」

 レッドは笑顔で言う。


「俺たちは、この遺跡を観光に来たんだ。だから、隅々まで見て行かなくちゃ……それが、プロの観光客さ」



 氷下の天使(了)


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る