二、伝令高歓


 高歓は頭が大きく、ほお骨が高かった。これだけなら異相に近いが、目に強い意志の光を持ち、玉かと見紛うほどに歯が白かったから、豪放な風格にあわせ爽快な知性を感じさせた。ただし少年のころは身に無一物、貧しさでは侯景に引けをとらなかった。

 ところが貧窮には目もくれず、この面貌に一目惚れしたのが、ろう小姐シャオチェだった。ほお骨は中国語でチゥァンと発音し、権と同音だ。颧は権に通じる。ほお骨の高い人は、将来かならず高い権力を手中にする。いわば高貴の相である。

「あなたこそ、まこと私の夫となるべきお人」

 男勝りで評判の活発な娘が、こうと一直線に思い込んだのだ。いいよる豪族の子弟らには目もくれず、貧乏書生だった高歓に入れ揚げた。

「きっと出世してくれる」

 懐朔鎮しか知らない娘にとっては、鎮将にでもなってくれれば最高の出世だ。そのていどの望みなら、年少から高い志を胸中にもつ高歓には、ほとんど負担にならない。

 高歓は婁小姐の愛情を素直に受け入れた。かの女は実家が多少の資産家だったから、親の眼を盗んではせっせと高歓に貢いだ。この経済援助で書を学び、武を磨いた高歓は約束に違わず、婁小姐を妻とし旧家を再興する。さらに、

「よき馬がほしい」

 侯景に探させ、むりをして一頭の良馬を手に入れた。合戦の場で敵将を捕えるために求めた駿馬―早足の馬だ。のちにこの駿馬が高歓に好運を運んできてくれる。

 十五歳になり城砦守護任務に就いた侯景らを、みずからの守備小隊に迎え入れて二年目、野生の狼を自認する侯景は容易に人になつこうとしなかったが、高歓と婁夫人にだけはおとなしくしたがっていた。高歓は色眼鏡を通さず、じぶんを応分に評価してくれた最初の人だ。侯景は肉親に近い感情で、実の兄のように高歓に接した。

大哥ターカー、兄貴と呼んでいいか」

「わしのいうことを聞くなら、呼んでいい」

 高歓は条件を出した。

「文字を学んで、書を読め」

 侯景の野生を矯めて、社会性をもたせようとしたのだ。教養の基本だが、漢化の発端でもある。行過ぎると文弱を招く。しかし武に勝る侯景には要らぬ心配だといえよう。

 ともあれ、実際に手にとって文字を教え、書物を口に出して読んでくれたのが婁夫人だったから、こちらにも頭が上がらない。

ねぇさん、姐さん」

 と、他人とはうってかわり、小羊のようになついたものだ。

 侯景ら若年者で構成する高歓の部隊は、「わっぱ軍団」と揶揄されていた。

「実力では負けん」

 と気張ってみせたところで、軍鎮でもっとも弱小な守備小隊には違いない。局地戦では多少の存在感を見せても、大軍相手の総力戦になれば、ひとたまりもない。いずれ大戦で先鋒に駆りだされ、木っ端微塵に打ち砕かれるのは、火を見るよりも明らかだ。

 ――このままでは、生き残る道はない。

 隊主の高歓は表向き素知らぬ風を装っていたが、内心ではたえず葛藤し、転機を狙っていた。一騎駆けで敵将を討ち取るため駿馬を求めたのは、その一環といえる。

 そんな折、函使かんしの職務が回ってきたのだ。

 函使つまり伝令は、都城洛陽と地元懐朔鎮との間を馬で駆け、公文書や大官の私信などを送達する、いわば郵便配達の役目だ。候補者はいくらもあったが、良馬の所有が決め手となって抜てきされた。身分こそ低いが首都の事情を知り、政府の要人と接触する機会が得られる。一も二もなく承知した。

 小隊を侯景にまかせ、高歓は伝令となって都へ奔った。

 もともと友人の多い高歓だったが、都や伝令の往復路にも交友関係を広げ、社会各層の人々とより広範に交わる機会を得た。

 これを支えたのが婁夫人だった。懐朔鎮しか知らなかった田舎娘が、高歓の活動範囲の拡大にしたがい、じぶんの見識も広げたのだ。

「友は一生の宝です。ご友人をないがしろにしてはなりません」

 交友には先立つものが必要だ。かの女は苦労をいとわず乏しい家計をやりくりし、実家に泣きついて夫の面子を立てた。当時育んだ交友のなかから生涯の友が生まれ、のちに高歓の覇業を支えることになる。

 高歓は伝令の役を、三十歳になるまでの六年間、地道に務めた。

 洛陽・懐朔間、南北に七百キロ以上ある。日本でいえば東京から岡山の手前あたりまでの距離に相当する。途中、黄河が二度大きく向きをかえるから街道に沿って測れば実際の距離はさらに増える。往復するだけでゆうに半月は要する。よほどの体力と精神力、そして駿馬がなければ続けられるものではない。これを高歓はやってのけた。


 はじめて都へ入ったときの驚きと屈辱を、高歓は生涯忘れることができない。

 都までの長旅は、かつてない経験だったから、馬で奔る時間の配分が見当つかなかった。とにかく懐朔鎮を出立していらい、毎朝早くから、勢い込んで奔りづめに奔った。

 夏、真っ盛りの季節だった。日中はきつい。行きつけるところまで行って、あとは休みながら行っても遅くはなかろうと楽観視して、強行軍で来た。

 最後に裏目に出た。洛陽を目前にして、さすがの良馬が長旅の騎乗に耐えられず、いまにも倒れんばかりに喘ぎだしたから、やむをえず馬を下りた。あまり休みもとらず、急がせた報いであろう。かけがえのない大事な一頭だ。みずからの身体に鞭打ち、外した鞍を担ぎ、馬の轡をとって首都の城門をくぐった。

「遠路のお越しとみえる。おや、北鎮からか。これはご苦労なことだ。わしも平城の出だからよく分かるが、都人は気が短いから、じゅうぶんお気をつけられい」

 門番が高歓の鑑札を改めて、声をかけてくれた。なにに気をつけろといわれているのか分からなかったが、あいまいに返事し、高歓は鎮の屯所の場所を訊ねた。


 都城洛陽は呆れるほど大きく、目眩めまいするほど多くの人でごったがえしていた。

 城内だけで十余万戸の民を擁する大都会だ。一戸五人として五十万人を越える。

 大通りは整然と条坊が区画され、立派な門構えの府邸の塀がびっしりと並んでいる。両側の街路樹が通りを覆い、盛夏に涼を運んでくれる。ひときわ目立つのが仏閣と多重層の寺塔だ。金銀紅紫紺碧で派手に化粧された高楼の伽藍は、これでもかといわんばかりに天に突き出し、豪華さを誇示している。後代に詠まれた南朝の四百八十寺は人口に膾炙し著名だが、北朝においても洛陽に五百余寺建立され、都城の内外をあわせると北魏末年までに千三百六十七寺あったという。当時の洛陽は寺でひしめいていた、という表現はけっして誇張ではない。

 ゆく手の途中に市場街があり、世界中の物産を商うさまざまな店舗がところ狭しと軒を連ね、洛陽の国際性とその繁栄振りを示していた。この時代、西域を通じ、ひっきりなしに西方人が訪れている。北魏に魅せられそのまま定住する異国人も多く、その数は常時一万戸を越えたといわれる。雑踏のなか高らかに音曲が鳴り響き、胡風の歌舞や奇術・軽業などの雑技が路上で行なわれ、ゆく人の足をひきとめたから、道は人で溢れかえった。

 条坊は三百余もあったが升の目で仕切られており、はじめての人にも分かりやすい。

高歓は、迷うことなく鎮の屯所にたどりついたものの、人も馬も疲労困憊していた。案内されるまま食事もとらず、寝入ってしまった。夜陰、ふと眼が覚めると、馬小屋で藁にくるまって寝ているのに気付いた。のどが渇いていた。水を飲もうと背戸に出て、井戸を探した。屯所の窓越しに人の声がした。夕方、門口で案内を請うた用人と女房らしい。灯りが漏れている。

 ――さすが都はぜいたくなものだ。油を灯すだけの余裕がある。

 北鎮では日の出とともに起き、日没とともに一日は終る。妙なところに感心した。

「きょう着いた伝令はよほど疲れたと見えて、飯も食わずに寝てしまったけど、いいのかい。馬小屋になんか寝せて」

「北人は馬とおなじに扱えというのが、都のしきたりだ。はじめにきちんと教えておかないと、のちのち本人のためにならない。あすは朝から麻祥ましょうさまにお目見えするから、水を使わせて、旅の垢と汗の臭いを落としてから連れてゆく」

 北鎮の民が北人といわれて都人から蔑視されているという話は聞いていたが、じぶんは最下級ながら隊主であり伝令だ。いやしくも官員ではないか。三十年前の誇り高き戦士に戻せとはいわないまでも、あまりな仕打ちではないか。

 立ち聞きしたわけではないが、ふたりの話を耳にし、高歓は納得いかない思いがした。

 翌朝、屯所の用人に連れられ麻祥という担当官に挨拶した。よくよく聞けば、じぶんとさほどかわらぬ下級官吏にすぎない。

「はじめてにしては遠路よう駆けられたものじゃ。重要なお役目であるから、こころして務めるように。都は懐朔鎮のような北の田舎とちがい、雅やかなたたずまいに満ちている。礼を失して鎮の名を汚さぬよう、帰国の日取りが決まるまで、あまり出歩かぬことだ」

 公文書など書信を受け取ったあと、もったいぶって、のたもうたものだ。

 数日おいて、麻祥から小規模な夜宴に招かれた。新任者の紹介を兼ねている。

 政府要件通達のあと出席者の簡単な紹介があり、宴に移った。

 麻祥がみなに聞こえるように高歓を呼んだ。あとで知ったが、ためになす儀式だった。

「高歓に肉を使わす。精をつけて、帰路の励みにいたせ」

 肉は格別の馳走である。恭しく押しいただき、坐って食べようとした。

 いきなり麻祥の手から鞭が飛び、高歓を打とうとした。

「慮外ものめが、北人の分際で、坐して食うとはなにごとか。北人らしく立って食え」

 一瞬、身をかわし、かろうじて鞭を逃れたが、高歓には理由が分からない。

 用人が駆け寄り、無理やり高歓をその場に立たせ、耳元でささやいた。

「北人は都の官人のまえでは、立って食事するのが礼儀だ」

 高歓は屈辱でからだが小刻みに震えた。

 都で北鎮の民がどう見られているか、改めてその現実を知らされたのだ。

 用人にうながされ、立ったまま肉を口に押し込み、かろうじてその場は収めた。

 たまたまその場に居合わせたのが、爾朱栄じしゅえいである。


 爾朱栄は契胡けいこ族の若き部族長だ。山西太原北方の北秀容一帯に大牧場をもっている。自前の騎馬軍団をしたがえ、ときに官軍として北に胡族を逐い、南に郡鎮の謀叛を鎮圧する。爾朱氏四千の鉄騎の向かうところ、戦って負けることを知らなかった。のちに北鎮の乱を鎮圧することになる。官職も将軍位から六州都督まで、戦のたびに立身し、ついには北魏の大丞相となり、帝位を狙う。そのため乱魏の梟雄の異名をとるが、このころはまだ洛陽に遊学中だ。旺盛な野心に似ず、色白で涼やかな美貌の持主だった。


 帰路の途次、爾朱栄の牧場に招かれた高歓は、都で受けた屈辱をこう述懐している。

「いかに時代がかわったとはいえ、北人同士、いや鮮卑人同士でこの差別はないだろう。われらはいまもむかしも、北魏の国境を守るため、その盾となって、北の辺鄙な地に籠って警護してきた。誇り高き戦士として選ばれた名誉を重んじ、北魏の領土を保全する崇高な使命を達成するため、何代にもわたり一身を犠牲にして戦ってきたのだが、その報いがこれではあまりに情けない。漢化政策の導入で北魏が国力を増強し、経済振興と文化向上を目指すのは、まだしも許せる。しかし、洛陽に遷ったものが上流の貴族となって栄華を謳歌する一方で、平城や北鎮に残ったものが下流の貴族や卑賎な軍人として見下され、あるいは鎮将の隷属物や奴隷として賎民と同一視されて虐げられるのは、とうてい納得いかない。この風潮の誤りを朝廷が認め、改めるなら善しとしよう。朝廷が誤りと認めず、改める意志がないならそれまでだ。われら取り残された辺境の民や、虐げられたものたちは北鎮を棄て、別の生きる道を求めるまでだ」

 高歓は本音を吐露した。爾朱栄には、それを受容するだけの大きさが感じられる。

「あの折、わしも同席していたが、鞭をかわした貴殿の素早い身のこなしには目を瞠らされた。武技においても当世一流と見た。それにしてもあの場でおのれを抑え、よう堪えられたものじゃ。志高きものは、おのれにたいしても厳しくあたるものだが、貴殿には、ほとほと感服つかまつった。朝廷については、わしは内部事情に通じておるからよく分かる。表面の華麗さにくらべ、内部は腐り果てている。いずれ遠からず自滅しよう。北魏の崩壊は目に見えておるが、さて、これにどう関り、どう対処するかは、おのが器量と研鑽の仕方しだいだ。どうじゃ、向後、都への伝令で往復する途次、わしがと

ころへも立ち寄ってくれぬか。貴殿とならば腹蔵なく、天下のことを語りあうことができ

る」

 このとき高歓二十三歳、爾朱栄は三つうえの二十六歳である。


 上洛のつど、高歓が仕込んでくる洛陽や通過する地方の最新情報は、聞くものの耳をそばだたせた。一番の熱心な聞き手は夫人で、二番目が侯景とその一党だった。豪族の段栄・蔡俊あるいは官職にある司馬子如や孫騰といった高歓の友人らは治所内で正規の報告を聞いているので同席の機会はあまりなかったが、軍鎮の若者らは伝令高歓の帰来を指折りかぞえて待ち焦がれ、高歓の時事講釈の集まりには競って参加し、熱心に耳を傾けた。かれらは軍鎮では得られない国内の新たな動きをむさぼるように吸収し、感情を高揚させた。


 伝令を務めはじめた二年目、高歓は都で羽林うりんの変に遭遇する。

 羽林とは虎賁こほんにならぶ近衛兵のことだが、拓跋鮮卑に代表される中下層北族(非漢族)で構成されている。その近衛兵千人が集団で決起し、漢人官僚を襲撃したのだ。

「数年まえ、ちょう仲瑀ちゅううという漢人官僚が密案を陛下(孝明帝)に奉った。張仲瑀は、征西将軍 ちょうの二男だ。奏上文は、官僚選抜制度を改変し、漢族を優先的に選抜し、北族の武人を排除しようというものだった。これを知った羽林と虎賁の近衛兵が憤り、洛陽城内で武器を執って起ちあがり、張彝一族の府邸を襲ったのだ。千人もの軍勢が集結し、松明を手に罵声を浴びせ投石した。やがて張彝を引きずり出し、殴る蹴るの乱暴狼藉を働いたうえ、邸内に火をかけた。長子は焼け死に、張彝と張仲瑀は重傷を負いながらもかろうじて逃れたが、張彝はまもなく絶命した」

 この変乱を、伝令の役目でたまたま滞在した洛陽で、高歓は目撃した。

 これだけの惨劇が国都で、しかも衆人環視のなかで行われたにもかかわらず、朝廷が下した処罰は、首謀者八名の斬首刑にとどまった。大赦を発令し、その他のものはお構いなしとしたのだ。

「わしはもと漢族とはいえ、いまは鮮卑化したいわば北族の立場だが、わしの目から見ても、洛陽遷都いらいの漢化政策は胡族を無視するもので、羽林の兵の憤りはよく分かる。しかし集団で不法な争乱を起こし、政府の要人を謀殺しておきながら首謀者の処刑だけで終るなど、朝廷のご沙汰は片手落ちだ。もはや国家の態をなしていないといっていい」

 高歓は一息ついて、聞くものたちの反応を確認した。都だと朝廷批判だといって非難される。さすがに軍鎮は、都から遠く、朝廷の存在感は薄い。非難するものはなく、みなは固唾をのんで、高歓の次のことばを待っている。

「朝廷は、胡漢両族の謀反を恐れている。国都でさえこんなありさまだから、辺境の北鎮に乱が起こっても兵をおくって鎮圧する力は、もはや朝廷にはないと断言していい。わが懐朔鎮は、みずからの手で守らなければならない」

 高歓の予測は、その翌年に現実のものとなる。


 酷暑が動乱の発端だった。北方の柔然が旱魃に見舞われ、新たに立った可汗の阿那瑰あなかいが南下、六鎮の防御柵を蹴破って北魏の領内に侵入した。旧都平城付近まで荒しまわったあげく、数千の民と数十万の牛馬そして備蓄してあった穀物を掠奪して、北へ引揚げたのだ。

 各鎮はいずれも大きな被害をこうむったが、なかでも懐荒鎮は甚だしかった。鎮将 于景うけいが軍民を組織し、徹底抗戦したのが裏目に出た。かえって恨みを買い、あるだけの食糧を根こそぎ強奪される結果になった。鎮の民は数ヶ月間穀物を口にできず、思い余って鎮将に穀倉の食糧を放出するよう強訴した。

「あれは国の軍糧だ。わしの勝手にはできぬ」

 于景はにべもなく訴えを拒絶した。

 その対応に、飢えた民は怒った。

 人は腹が減ると冷静な判断ができなくなる。群集心理が先行した。ろくな協議をするまもなく、あとさきかまわず怒りに任せ、あちこちでむしろ旗が振られた。自然発生的な一揆の勃発だった。

 于景は軍に出動を命じた。しかし軍は動かなかった。

 軍が民に同情した。柔然戦でともに抵抗した仲間だった。戦では多くの死傷者を出した。そのほとんどが軍事に不慣れな民間人だったが、まだ死傷者家族の救済もされていない。後ろめたさが同情をあと押しした。さらにいえば、兵士もまた飢えていたのだ。

もはや処罰どころか、死さえ恐れるものはなくなっていた。軍鎮の治所を襲い、鎮将于景夫妻を引きずり出して血祭りに上げた。倉を開いて食糧をみなで奪いあった。あと戻りのできない懐荒鎮の軍民は、天下に向かって起義を宣言した。

 この事件は伝令の早駈けによって、ただちに朝廷に伝えられた。朝廷は震撼し、うろたえた。余波が懸念された。懸念は当たった。いまでいうドミノ現象だ。すでに述べたが、懐荒鎮は六鎮の東端にある。東から西に向かって一揆の影響が将棋倒しに波及した。

 破六韓抜陵・杜洛周とらくしゅう鮮于修礼せんうしゅうれい葛栄かつえい――こののち八年にわたって繰りひろげられる、北鎮の乱の主な首謀者らの姓名である。


 正光四年(五二三)四月、沃野鎮に棲む匈奴人で国境警備兵の破六韓抜陵が鎮民をひきいて沃野の鎮将を殺害、鎮を占領した。そののち、「真王」の大旗を東に向けて掲げ、気勢をあげた。懐荒鎮の起義に呼応して蜂起したという明らかな意思表示だ。勢いに乗って別働隊が武川・懐朔両鎮を攻略、一時的に占拠するが、のちに奪回される。

 翌年、破六韓抜陵の本隊は西に転じ、五原(内蒙古包頭西北)や白道(内蒙古呼和浩特西北)で政府軍に圧勝し、河套以北を席巻する。甘粛から北流した黄河が内蒙古に入り、東へ湾曲してさらに南下する門型の地―オルドス以北で政府軍相手に連戦連勝したのだ。

 政府軍は城を棄て敗走した。このままでは北の守りは総崩れになる。ことの重大さにようやく気付いた孝明帝は、鎮民救済策として鎮をあらため州とする詔を発した。

 辺境の鎮を蔑視する政策を廃し、鎮民の地位向上を保障したのだ。しかしこの方策は遅きに失した。六鎮とその周辺地区の軍民はすでに北魏を見限り、離脱の趨勢にあった。

 窮地に陥った政府軍は、奇策に出た。

 その次の年、不倶戴天の敵ともいうべき柔然に援助を求めたのだ。こともあろうに百年の敵同士が連合を組むはめになった。互いに意地もあれば面子もある。あいつにだけは負けたくないという意識が、よもやの底力をみせた。北魏広陽王元淵と柔然可汗阿那瑰の連合軍は、離間策など謀略を駆使して一揆勢を混乱させ、もてる力を超えて戦った。黄河流域の埋伏戦で、破六韓抜陵の本隊を完膚なきまで叩き潰したのだ。

 かくて北鎮の乱の先行軍は壊滅するが、戦闘は終わらない。戦況を知らない一揆軍の後続部隊が、あとを絶たないのだ。

 もっとも政府軍の健闘はここまでで、斜陽の北魏朝廷に往時の栄光は蘇えらなかった。かえって次に打つ手が裏目に出て、凋落に輪をかける結果となる。

 投降した二十万の叛乱軍を、よりによって河北の・定・えい三州に分散して移住させたのだ。河北は六鎮の延長線上に連なっている。もっとも不適当な配置といっていい。

 案の定、河北に遷された士兵は、半年もしないうちに杜洛周と鮮于修礼の一揆軍に引き抜かれ、ふたたび武器を手にして造反することになる。


 その前年、破六韓抜陵の別働隊によって懐朔鎮が一時的に占拠される以前のことだ。

 六鎮に動揺が走っている。北にたいする備えに専念すべき矛先を南に向けて、一揆のむしろ旗を振る軍鎮が続出している。

「この懐朔鎮はどうなる。守りぬくか、それとも一揆軍に呼応して、攻める側につくか」

 軍鎮の城砦を守備する侯景にも迷いが生じている。柔然の侵入で懐朔鎮も荒らされたが、最小限の被害で食い止めた。柔然の目的は占領支配ではなく人や食糧の掠奪だったから、大軍による総攻めはなかった。せいぜい数十人の騎馬隊が駆け抜けるていどだったので、小隊の侯景には与しやすかった。かつて腹を空かせて他鎮を襲ったじぶんたちの姿に重なった。弓で追い、槍で食い止めて、追い散らした。あえて殺す気にはならなかった。

 北族と呼ばれてはいても、いまは漢族とともに官側に立っている。しかし、もとはといえば戎狄じゅうてきと卑しめられる五胡にすぎない、柔然とどこが違うか。

 侯景はじぶんの思いを高歓に糾してみた。

「おまえはどう思うか。さきにいってみろ」

 高歓はすでに軍鎮を見限り、懐朔鎮を出奔する思案で腹を括っていた。ひそかに同志を集めはじめている。いずれ侯景も仲間に加える考えだったが、侯景の軍団は少年らで構成されている。それぞれが己で判断できる歳まであと二、三年待っても遅くはなかろうと、声をかけるころあいを見計らっていた矢先だった。

「おれには漢族も北族もない。日々の飯を食うのに汲々とするだけの貧しいこの地で、貧しいもの同士が食い物を取りあう戦をしてなんになる。朔北に明日の希望はない。男なら中原に出て、天下をくつがえすほどの雄々しい戦働きがしてみたい」

 侯景はまだ若い。辺境での貧しく変化のない日常をきらい、展望もないままに、中原雄飛の勇ましい夢だけを追っていた。

「爾朱栄という北魏の将軍のことを話したことがあるが、覚えているか」

「名前だけは覚えている。天下無敵の軍団をもっていると聞いた」

「どうだ、その軍団で働いてみるか。わしが口をきいてやる」

 反対するかと思っていた高歓が、ぎゃくに出奔を勧めたのだ。

「やってみたい。だが、大哥あにき)はどうする」

「いずれはわしも爾朱栄軍団に加入し、軍団の天下取りに先駆けるつもりだ。だが、そのまえにやることがある。しばらくは鎮に居残り、伝令を続けるから、まだ幼い弟妹は置いていっていい。二、三年後には、引き取れるようになるだろう」

 赤ん坊のころから可愛がっていた十歳に満たない義理の妹 娃娃ワーワもいる。軍団加入に、幼い弟妹を同行するわけにはいかなかったから、好意に甘えた。みな食うや食わずの極貧時代を生き抜いてここまで育ってきた。双方に真の肉親以上の思い入れがある。

「わたしが引き受けるから、安心して働いておいで」

 婁夫人も快く口を添えてくれる。

「姐さん、恩に着ます」

 侯景の腹は決まった。朔北の狼がふるさとを出奔し、中原で吼えるときがきた。

 侯景が爾朱栄陣営に身を投じるのは、北鎮の乱勃発の翌年である。


 一日、小隊の仲間を糾合し、侯景の一党は鎮を脱出した。権勢盛んな爾朱栄のもとに馳せ参じるべく、モンゴルの原野を二十人の若者が騎馬で疾駆した。解けきらぬ凍て土を鉄蹄でかき削り、白日に向かって、ひたすら南下したのだ。

 乾いた音律が小気味よく耳に響く。朔北の春は遅く、ときおり粉雪が舞い、手綱をもつ手がかじかむ。しかし、野望で身内をこがす若者には苦にならない。夜を日についで先を急いだ。

せんの残骸がかろうじて長城のあとを偲ばせる狭間を抜けると山西に入る。磚は粘土を型で固め、乾燥させて作った灰黒色の煉瓦だ。長城は磚を積み上げて築いた長大な城壁だから、集中して攻撃すれば破壊できる。この一郭は修復されないまま、朔北から山西へ抜ける間道となっている。

 山西に入ると、原野は一転し、山がちの地形にかわる。街が近づくと、そこかしこに仏教寺院が建立され、はるかな岩壁には何体もの大きな仏像が彫られている。未完成のまま放置されたものもある。向かう爾朱栄の陣営は近い。ようやく余裕ができて一息ついた。城砦の警護で鍛えられた若者らに落伍者はなかった。

 とつぜん先頭の馬がいななき、棹立ちになった。

 前方にある岩肌の坂の上から、人が転がり落ちてきたのだ。

「なにごとだ」

 侯景は馬を下りて身構えた。

「やあ、驚かせたかの」

 坂の上に人影が現れ、ゆっくりした足取りで、中年の男が下ってきた。

「道案内が、目的地を前にして物取りに化けよった。ちょっと小突いたら、坂道を転がりおって、このざまじゃ。わしは葛恩かつおんという旅の方士じゃが、迷惑をかけたかの」

「いや当方に害はないが、方士こそ大事ござらぬか」

 かつての悪童もいまでは成長して、すこしはおとなの口の利き方を学んでいる。方士をいざない、道端の石を腰かけにし、水をふるまった。

「どちらへゆかれる。腹をこわした仲間がおるで、薬をいただけまいか」

 方士は医方に通じている。病を見立て、薬剤を調合するのである。

「どれどれ、診て進ぜよう」

 方士は肩に担いだ荷を下ろすと、なかを探って薬を取り出した。そして少年らを見やりながら、だれにともなくつぶやいた。

「おぬしら、爾朱栄に合力志願か。やめておけ、命がいくつあっても足りないぞ」

 口をふくらませて反駁しようとする仲間の少年をおさえて、侯景がこたえた。

「もとより命がけは承知のうえだ。だがおれたちは若い。なにもせず、むざむざ終える一生など願い下げだ。たとえからだを張ってでも納得できる仕事がしたい。命を託すに値する人に仕えたい」

 方士は向きなおり侯景をみすえて、さらに訊ねた。

「ほう、なんのためにだ。富貴か、栄達か、それとも意気に感じてか」

 侯景はことばに詰まった。これまでの人生、己が意思のおもむくままに、夢中で突っ走ってきただけだった。損得や理由など考えたこともなかった。

あえていえば、飯のためだ。飯を食うのにいちいち理由を考える必要があるか。

 方士は目を細めた。侯景に興味をもったようだ。

「方士のわざに相術というものがある」

 人相・手相などを観て、吉凶・運命を占う観相術だ。

「人の相術は、九成の術と人相三十六法からなる」

 観相で重要なのは第一印象だ。瞬間的に宏観審視(マクロ的な精密診断)を下す。そして、その基礎のうえに精神・魂魄・形貌・気色などの九要素を把握し、智愚・善悪・貴賎・福気の深浅を見きわめる。さらに額・髪・眉・眼・耳・鼻・唇・舌・手・声音など人体三十六部位の観察を通じて、人の吉凶・運命を予言するのだ。

「わしは都人の依頼で、北鎮の様子を覗きがてら、爾朱栄の相を観にやってきたのじゃが、やがて日も暮れようし、今宵は急ぐまでもない。これ若いの、名はなんという。さても数奇な相をしておる。もそっと顔を寄せろ。おぬしの人相を観てとらす」

 侯景は姓名を名乗ったきり口をつぐみ、方士のなすがままにしたがった。方士は侯景の顔や手を無遠慮にさすり、舐めるように見つめては、ときおりため息をもらした。

 小半時もそうしていたろうか。方士はうなったきり、ことばを発しなかった。

 やがて西日がゆっくりと傾いた。薄暗がりのなか、方士が耳元でささやいた。

「侯景よ、よく聞け。わしはさいぜんおぬしを見て、数奇な相をしておると申したが、じつはおぬしには天子の相がある。帝になる相だから、ふつうなら吉相のはずだが、案に相違して凶相にも思える。なにかしら背後に悪魔の手招きが見え隠れしてならんのだ。いずれにせよ、これがおぬしの運命だ。だがおぬしはまだ若い。いちどだけなら、己が意志で運命をかえることができる。天子の相とひきかえにすれば、長寿が得られるのだ。いまならまだ間に合う。天子の相を選ぶか、それともたかだか五十年の人生、倍の百まで生きて、人の倍だけ飯を喰ってみるか」

 侯景は目をつむったまま、方士のささやきに聞き入っていた。驚きはなかった。方士の見立てを、とうぜんのように受入れていた。

 ――このおれが一天万乗の天子になるだと? 夢か、でなければ大戯言おおたわごとか。長寿とひきかえにできるだと? 人間五十まで生きられれば十分ではないか。百まで生きてなにをする。おれに長寿はいらぬ。天子になる運命ならば、それもよし。朔北の狼の生まれかわりと自称するこのおれが、中原の天子になるか。ままよ、おれは帝になる運命を選ぶ。たとえ悪魔の誘いであろうと乗ってやる。皇帝となって、天下を穀物で満たせてみせる。万民を飢えの苦しみから救ってくれる。

 夢うつつのなかで声にこそならなかったが、暗黙裡に侯景は、天子になる己が運命に同意していた。

 夜半、侯景は眼が覚めた。仲間たちはみな寝入っていた。方士の姿はなかった。

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