●10. もうとっくに

 学校のない土曜日の朝だというのに、目覚まし時計に叩き起こされる。目覚ましを切って二度寝したい衝動に駆られたけれど、どうにか気力を振り絞って、俺は布団から転げ出た。

 時計を見ると、まだ午前中だ。平日だったらとっくに授業が始まっている時間だけど、休日の朝にしたら普通の起床時間だ。何もなければ昼過ぎまで寝ていたいところだが、そうもいかない。今日は予定があるのだ。


「……目、覚まさないとな」


 このままだと布団に舞い戻ってしまいそうな身体を引き摺って、まずは熱いシャワーを浴びることにした。

 我が家では休日の朝食と昼食はセルフサービスになっているため、頭の内側にこびり付いていた眠気をシャワーで洗い流した後は、冷蔵庫の中身と相談して朝食を用意した。昼食も兼ねるようにしたため、寝起きから丼鉢に山盛りの餡かけキャベツ丼になった。

 食べた後は食器洗いから部屋の掃除まで、母軍曹から割り当てられている休日の日課を一通り終えたときには、時計の針は正午をいくらか回った頃だった。


「おっと、そろそろか」


 俺はお昼代わりに用意した菓子と麦茶を持って自室に戻り、パソコンを立ち上げた。今日はS.Oで堀川の買い物に付き合う予定になっているのだ。


『皆元くんと上手く話せたら、一緒にゲームすることになるわよね。そのとき、あんまり弱いと印象悪いと思うの。だから、ランクも上がったことだし、装備を新調しようと思うの。山野くん、付き合ってね』


 ……という流れで、買い物の付き合いが俺の予定に組み込まれたのだった。


 それだけ見るとデートのようだが、しょせんはネトゲの中でのことだし、堀川としても、一人では不安だから助言者が欲しい、という実利的な意味で誘っただけだ。付き合ってねと言いつつも、その実は、付き人になってね、と言ったつもりでいるだけのことなのだ。だから、いつも以上にそわそわする必要はないはずなのだ。

 そんなことを考えているうちに、パソコンの起動処理が終了する。俺はすぐにS.Oを起動してログイン。フライド豚まんは昨夜のログアウト地点――独立都市アミジェの東に隣接するマップの外れに立っていた。

 ログインしてすぐ、ココロからのウィスパーが飛んできた。指定した相手がどこにいても飛ばせるチャットだ。


『遅いじゃない!』

『五分前だと思うんだが』

『わたしは十分前からいたわ。あと、なんでパーティ抜けてるのよ?』

『あー、昨日落ちる前にうっかり抜けちゃって』

『ふーん』


 なぜパーティを抜けたのかを追求されると、皆元と桜川のことまで話さなければならなくなる。それを避けるためにも、さっさと話題を逸らそう。


『それより、堀川さんはどこにいるんだ? そっちに行くよ』

『昨日落ちたのと同じところよ。逆に、どうして豚くんがここから移動しているのか聞きたいくらいなんだけど?』

『消耗品を買いに行ってから落ちたんだ』

『言い訳っぽく聞こえるのは気のせいかしら?』


 えっ、なんで分かるんだ!?

 肩がびくっと震えてしまって、タイピングが少し遅れた。


『そんなことないよ』

『あっ、さらに言い訳っぽくなった!』

『とにかく、そっちに行くから。じゃあ後で』


 俺は無理やりチャットを終わらせて、街中に向かった。


  ●


 ココロは街中で俺と落ち合って再びパーティを組むと、先ほどまでの会話なんかすっかり忘れた様子でショッピングを開始した。忘れたふりをしてくれているのかもしれない。とにかく助かった。

 S.Oにおけるプレイヤー間の売買は、商人ギルドと呼ばれるシステムに商品を登録して委託販売してもらうのが基本だ。この方法だと、委託した後は狩りに行ったり自由に行動できる。ただし、委託登録できる品数には上限があるし、売れた際に手数料もかかる。また、設定できる売値にも上限があるので、高額のレアになると自分で露店を出して売ったほうが利益を得られる。そのため、プレイヤーが集中している独立都市アミジェの目抜き通りには高額商品を扱う露店がずらりと軒を並べていた。


『通りじゃなくて露店広場ね』

『だな。足の踏み場のほうが少ない』


 いちおうは大通りの両脇に沿って出店されているのだけど、露店の数が一列で済むものではないために、通りの真ん中近くにまではみ出している店も結構ある。これがリアルだったら迷惑どころの話ではないけれど、ネトゲの街並みとしては大賛成だ。ネトゲの街はこうでなくちゃ、と思う。


『最初に見たときは猥雑すぎだと思ったけれど、慣れてくるとお祭りみたいで良いかもね』


 ココロが言った。


『だよな!』


 俺と同じ意見になってくれたのが素直に嬉しかった。


『でも、露店で売ってるものって高額品ばかりよね。わたしたちで買えるかしら?』


 その不安はもっともだ。俺たちもプレイを始めたばかりの頃に比べたらずっとお金持ちになったと思うけれど、手近な露店の看板をクリックして商品の値段を見て見ると、どの品物も俺たち二人の所持金を合わせたものより、文字通りの意味で桁違いだった。他の露店をクリックしてみると、二桁や三桁違うものもあった。


『わたしたち、お小遣いを握り締めてブランドショップにやってきた小学生みたいよね』

『世の中にはブランドもので身を固めた小学生もいると思うけど、言いたいことは分かる。けどまー、露店売りの品が超高額ばっかりなのは想像してたことだし、ウィンドウショッピングだと思って楽しめばいんじゃないか。それに、もしかしたら俺たちでも手の届く掘り出し物が見つかるかもしれないしさ』

『……そうね。欲しい装備が見つかったら、それを買うのを目標にしてるんだーって、皆元くんと話すときの話題作りにできるかもだし』

『そうそう。その意気で元気よく言ってみよう!』

『おー!』


 二人でガッツポーズのジェスチャーを取って、俺たちは露店巡りを開始した。

 ……と言っても、どこの露店を見ても一向に手の届く品が見つからず拗ねてしまったえ堀川は、商人ギルドの建物に入って、委託販売品の目録に目を通し始めた。一方で、俺は露店巡りを続けることにした。二人で同じことをするより、別行動したほうが遙かに効率的だと思ったからだ。


 あー……これ完璧、デートじゃないわ。作業だわ……。


 昨晩、なかなか寝付けないほど緊張していたのが馬鹿みたいだ。


『山野くん、来て!』


 俺がちょっと面白そうな掘り出し物を買ったところで、堀川のチャットが飛んできた。同じパーティに所属していれば、離れていてもパーティ会話が通じるし、互いの居場所も確認し合えるのだ。

 ココロの居場所は商人ギルドの建物内だ。あそこには委託販売品の目録を閲覧するためにいつでも大勢のPCが犇めいているから、堀川は誰かとトラブルを起こしたのかも知れない。


『すぐ行く』


 俺はそう返事を飛ばすと、すぐに商人ギルドへ向かった。


 ……結果から言うと、べつにトラブルなんてなかった。


『あのね、掘り出し物を見つけたの。でも、わたしの所持金だけじゃギリギリ足りないのよ。だから、お金を貸してほしいの!』


 という理由で、俺は呼びつけられたのだった。


『あっ、もちろん借りるだけよ。狩りに行って稼いだら、すぐに返すわ。あっ、それだけじゃなくて、次のときはわたしの所持金も使って豚くんの装備を買おう。ねっ、そうやって交互に買い物していくルールにするの。どう? これ良くない?』


 つらつらと立て続けに表示されるチャット。

 堀川のタイプ速度も、この短期間で随分と上達したものだ。俺がブラインドタッチできるようになるまで何ヶ月かかったんだか……地頭の違いというのは、指先にも現れるのかね。

 由無し事に思いを馳せているうちにも、ココロは必死にチャットを綴る。


『本当に掘り出し物なの。いますぐ買わないと、きっと売り切れちゃう! お願い、なんでも言うこと聞くからお金貸して!』

『言ったな? 聞いたからな』


 俺はチャットを返すなり、ココロに取引要請を送る。戸惑うような一瞬の間を置いて、ココロがそれを了承すると、画面中央にトレードボードが表示される。その金額欄に、俺は所持金のほぼ全額を打ち込んで了承ボタンをクリック。また少しの間があってから、ココロも了承を押して、取引が確定された。

 何か言いたげなように見えるココロに、俺は素早く言い立てる。


『まず買い物を。早くしないと売れちゃうぞ』


 そのチャットを見るなり、ココロは卓上に置かれた分厚い本に向き直った。その本が商品目録で、これをクリックすると商品の登録や購入ができるのだ。

 ややあって、ココロが言う。


『買った』

『よかったな。で、どんなの買ったんだ?』


 俺が尋ねたのとほぼ同時に、チャットにリンク付きのアイテム名が表示された。アイテム名をクリックするとそのアイテムについての詳細情報が表示される、というチャット用のコマンドを使ったのだ。堀川のゲーム慣れ速度が凄い。

 アイテム名は【バーニングハート】で、分類はネックレスだ。イラストは、赤いハート型の飾りがぶら下げられたネックレスになっている。そして装備効果は、「魔術スキルの使用時に、消費MPと同量のHPも消費されるようになり、スキルの威力が五割増しになる」だった。

 ――要するに、身を削ることで魔術の威力を上げるネックレス、だ。

 いやこれ、呪われた装備だろ。ただでさえHPの少ない魔術師タイプで、一発ごとに自傷ダメージって、性能尖りすぎだろ……とは思ったけれど、ココロは両手で頬を押さえて科を作るジェスチャーまでして喜んでいる。


『ありがと、豚くん。いい買い物ができたわ。じつは、これと同じものが他に何個か出品されてたんだけど、この一個以外は十倍以上の値段だったのよね。きっと、どうしても即金が欲しくて出血大サービスしたのね。適正価格より一桁も安く手に入るなんて、ラッキーだったわ』

『うん、そうだね』


 俺にはそれしか言えなかった。

 それは適正価格の一割で買えたのではなく、適正価格の十倍で出品されたものが売れ残っていただけなのではないかな――とは言えなかった。

 デートではなかったけれど、女子の買い物に付き合うことになった男子の気持ちを、なんとなく味わった気分にはなれた。わあ、嬉しいな。

 ともかく、魔術の威力を五割上げるために消費コストを十割上げる微妙……いや、癖の強い装備【バーニングハート】を買ったことで、俺たちの所持金は底をついた。買い物は終わったのだった。


『まだ時間あるし、試し打ちしに行こう!』


 ココロがそう言って、いつものガッツポーズをする。でも、俺にはその前に済まさなくてはならな要件があった。


『その前に話があるんだ』

『話? なに?』

『ここじゃ騒がしいし、場所を変えてもいいか?』


 パーティチャットなら、そんなの関係ないじゃない――と言われるかとも思ったけれど、


『分かったわ』


 堀川は神妙そうに、そう言ってくれた。


『じゃあ……』


 と、俺は先に立って歩き出した。向かう先に当てはなかったけれど、土曜日午後の賑わいを避けるように歩いていたら、昨晩の場所まで来てしまっていた。アルジェの東門を抜けてすぐを、城壁に沿って北へ少し行った場所だ。


『ここでいいか』


 草地に座った俺の隣に、ココロも腰を下ろす。


『何もないところね』

『だから、誰も来ないかなって』

『なるほどね』


 そこでやり取りが途切れてしまった。堀川が何も言ってこないのは、俺が用件を切り出すのを待っているからだ。だから、俺も覚悟を決めて訊かなければならない。


『堀川さんにひとつ確認したいことがあるんだ』

『なに?』

『俺たちって、ここでしか話さないよな?』

『ここ?』

『いまみたいにS.Oの中でしか、ってこと』

『そんなことないでしょ。たまに携帯でもメッセしてるわ。あと、電話もごくたまに』

『そうかもだけど、それもS.Oの話をするためだよね』

『百パーセントそうではないけど、だいたいそうね』

『教室では百パーセント話してないよね。ってか、他人のふりしてるよね』

『他人じゃないふりをする意味もないもの。というか、こっちこそトイウカだけど、何が言いたいの?』


 苛立った声で脳内再生されたのは、きっと気のせいじゃない。さあ俺、もう遠回しな発言は止めるんだ。はっきり言うんだ。言うぞ、俺!


『俺たちって他人か?』


 ……。

 ……反応がない。


『堀川さん?』


 ……反応が――あった。


『ごめんなさい、質問の意味が分からないのだけど』

『ええとだな、フライド豚まんとココロは一緒に狩りをする仲間っていうか友達だよな。フレンド登録もしているわけだし』


 今日のログインしてすぐ、パーティを抜けていた俺のログインに堀川がすぐ気づいたのも、互いにフレンド登録されているからだ――という余談はさておき、俺は発言を続ける。


『でも、俺と堀川さんは仲間なのかな? リアルでこんなふうに話すこともないのは友達じゃないからなのかな……みたいなことだ。言いたいのは』


 チャットを打っているうちに自分でもよく分からなくなってきていたけれど、俺の言いたいことが少しでも伝わってくれただろうか……?

 また無言の時間が流れる。

 俺が沈黙に負けそうになったとき、ココロの頭上に発言がポップした。


『山野くんは、わたしと教室で話したことがないから、わたしとは友達でも何でもない。赤の他人だ……と言いたいのかしら』

『俺が言いたいっていうか、堀川さんがじつはそう思っているんじゃないかな。いたら嫌だなーって』


 俺は慌てて言い返したけれど、堀川は聞いちゃ……いや、見ちゃいなかった。


『教室で話したことがないのは、山野くんが話しかけてこないからでしょ。それともなによ、わたしから話しかけなくちゃいけなかった? 自分はただ待っているだけで、わたしが話しかけてこないから友達と思っていないんだよねーって、なにそれ。何様? 被害者様? 話しかけなかったわたしが悪い? それでわたしを非難するなら、まず自分を責めてからにしろ!』


 怒濤の如きチャットが、ログを埋め尽くしていく。俺は慌てて目を走らせたけれど、最後まで読んでいられなかった。

 図星だったから。

 けして堀川を非難するつもりで言った言葉ではなかったけれど、自分から堀川に話しかけるという発想を、いまのいままで微塵も考えていなかったことに、いま初めて気づかされたからだった。


 動転した。恥ずかしくなった。顔が一気に発熱して、


「うわあぁ――ッ!!」


 我知らずのうちに、パソコンの前で裏声の雄叫びを上げていた。

 リアルの俺がどれだけ羞恥に悶えても、画面の中のフライド豚まんは顔色ひとつ変えたりしない。だから、チャットで伝えなくてはならない。


『違うんだ、堀川』


 その発言は、しかし、ココロの発言に押し隠された。


『わたしは山野くんに話しかけたいと思ったことはない。話したいことは全部、ここと携帯で話していた。わざわざ教室でリア充アピールする必要を感じたこともなかった。わたしと山野くんのことは、わたしと山野くんが分かっていればいいことだと思っていた。隠す必要はないけれど、ひけらかす必要もないと思っていた。でも、山野くんは違ったんだ。周りにアピールしたかったんだ……ああ、少し違った。自分から話しかけてこないで、わたしが話しかけてくるのを待っていたのだから、アピールしてほしかったんだ。全部、わたしにやらせたかったんだ。でも残念。そういうのは友達にじゃなく、ママに頼んで。わたしは友達じゃなかったみたいだから、どうでもいいけど』


 圧倒的な量と速度のチャットだった。俺の発した一言なんて、あっという間にログの彼方へ押し流されて見えなくなっていた。

 俺はチャットログの表示枠を拡大して、スクロールバーを動かしながら読み返す。動揺の残っている頭では、一度読んだだけでは書くべき返事をまとめられない。読んで、考えて、書く、という三工程を経なくてはならないことが、これほどもどかしいと知らなかった。


『聞いて、堀川。俺は堀川を責めてるわけじゃない』

『煩い。もういい』


 ――不味い。堀川はログアウトする気だ。いますぐ引き留めないと! ……でも、なんて言ったらいい? なんて言ったら、堀川はログアウトを止めてくれる? ――いや、余計なことを考えるな。俺がいま思っていることを伝えるんだ。それだけ考えるんだ!


『俺は堀川のこと友達だと思っている。顔を合わせて話したのが一度きりでもだ。でも、堀川もそう思ってくれているのか分からなくて、俺たち本当に友達なのか確認したかったんだ』


 フライド豚まんの頭上にその発言が表示される直前、ココロの姿は消えた。ログアウトしたのだった。

 伝える相手のいなくなった言葉は、しばらく頭上に浮かんでいた後、消えた。ログにはちゃんと残っているけれど、それに何の意味があるのか。


「いや……意味はあるか」


 俺はさっき拡大したままだったログ表示枠をゆっくりとスクロールさせ、ココロの――堀川の言葉を何回も読み返した。

 何回も、何回も、読み返した。そして考えた。俺が言いたかったこと、堀川に伝えたいこと、そしてやるべきことについて、考えて考えた。その間、何度か電話を掛けたけれど、ずっと話し中だった。メッセも送ったけれど、一向に既読が付かない。

 そうして考えたり、電話やメッセを試みているうちに夕飯の時間が来て、歯を磨いて、風呂に入って、布団に入る。そして目を閉じて呟く。


「……やっぱり、これしかないよな」


 実のところ、答えはとっくに出ていた。

 でも、その答えを実行するには勇気が要って、だから他にもっと利口な方法はないかと半日ずっと考え続けて――そうして出した結論は、これしかない、なのだった。


「大丈夫」


 自分に言い聞かせる。


「恥を掻いても、学年が変わるまで堪えればいいだけだ」


  ●


 週が開けて、月曜日の朝がやってきた。月曜の朝はいつだって少し憂鬱だけど、今朝はいつにも増して、そうだった。

 堀川とはあれから一度も連絡が取れていない。日曜日にも何度かメッセを送ってみたけれど、土曜日に送ったものに既読すら付いていないままだった。

 堀川はあれから一度も携帯を開いていないのか、それとも俺がブロック設定されてしまっているのか……。

 そのことを考えると、通学路を歩く足取りが重たくなっていく。このまま学校に辿り着かなければいいのに……などと益体もないことを考えているうちに、教室の前まで来てしまった。

 開け放たれた引き戸の前で、俺は足を止めた――止まってしまった。


「……」


 ひとつ大きく息を吸う。埃っぽい空気だけど、それでも少しくらいは気を落ち着かせる効果があったみたいだ。竦んでいた足が前へと動き出す。


「――よし、いくぞ」


 入り口でしばし突っ立っていた俺は、オタ友を始めとした数名のクラスメイトから奇異の目で見られていた。でも、これから向けられるだろう視線の数と強さに比べれば、そのくらいは気にするに値しない。

 俺は自分の机に鞄を置くと、椅子を引くこともなく、立ったまま教室をぐるりと一瞥した。

 教室の隅のほうに集まっているオタ友たち。真ん中には桜川さんグループ。他にもいくつかのグループに分かれて、みんなが朝の談笑を楽しんでいる。あ、皆元は別だ。すでに登校してきて自分の席に座っているけれど、こちらをちらりと見ずにゲーム雑誌を読み耽っている。

 俺はそんな中を通り抜けて、一番後ろの中央の席へと向かう。教室を睥睨するかのようなその席に座って、一時間目の予習を一人で黙々と進めているクラスメイトの前まで向かう。

 そのクラスメイトの名前は、


「堀川さん」


 俺の呼びかけに、問題集を解いていた堀川の手が止まった。でも、またすぐに動き出す。顔を上げることはない。無視するつもりだ。でも――反応があったというのは、俺の声が聞こえているということだ。だったらもう、やるしかない。


「堀川さん、いまさらじゃもう遅いかもしれないけれど、でも――」


 口の中が干上がる。舌が下顎に引っ付いていて、言葉が上手く出てこない。いや、言うのを怖がっているのは身体じゃない。気持ちのほうだ。

 の静寂を邪魔した馬鹿野郎に気づいたクラスメイトが、非難や好奇、驚きの目を向けてきている。視線の糸が寄り集まって、俺の喉をきゅっと締め上げる。


 ――高嶺の花に声をかけるとか、あいつマジありえんし。空気読めろっつーの。


 誰の声でもないの声が脳裏でこだまする。幻聴だ、思い込みだと分かっていても、視界がぐるぐる渦巻いてくる。……だいたい、こんなの柄じゃないんだ。俺がこんな目立つことして許されると思っているのか? いや、許されまい。……ああ、そうだ。いますぐ回れ右して、席に戻ろう。いまならまだ、みんな五分で記憶から俺のことを抹消してくれるはずだ。そうだ、いまなら間に合う。もう諦めて――

 そのとき、堀川の手が止まった。そして、聞こえるか聞こえないかの溜め息をして、顔を上げた。


「……」


 何も言ってこない。ただ、俺のことをまっすぐに見つめてくるだけだ。


 ――ああ、堀川は俺が言うのを待ってくれているんだ。


 それが分かった瞬間、舌を引っ付かせていた自分の臆病さも、喉を締め付けていた視線の束も砕け散る。


 いま言わなくちゃ。いま言いたい。


 言うべき責任と、言いたい衝動が重なったとき、言葉が溢れた。


「堀川さん、俺と友達になってください」


 それは叫びでもなく、訴えでも、まして周囲にアピールするためのものでもなく――ぽかぽかの日向で寝転んでいたらふと零れた吐息のような、ただの言葉だった。


 堀川は俺を見上げたまま一度ゆっくり瞬きをして、


「もうとっくに、でしょ」


 満面の笑顔ではなく、目の片端だけでそっと笑むような、俺にしか笑顔だと分からない顔で、そう答えてくれた。

 周りの目が俺たちを見ているのは気づいていたけれど、いまだけは気にならなかった。

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