第五話

(だから、期待しちゃったんだけどなー)


 翌週も、高安は来なかった。「気が向いたら」とは言ったが、あれは「行く」という解釈で間違いなかったはずだ。まさかただの社交辞令だったというオチか。


 看護師たちが刺々しい視線を向けてくる中、ショーが終わっても未練たらたらで立ち去れない程度に斎藤は傷心していた。


 椅子に腰かけうなだれていると、少年が二人、駆け寄ってきた。見ると、それは先週の子どもだった。


「ねぇねぇ、どうしたの?」

「ピエロのお兄ちゃん元気ないね?」


 力なく首を振ると、慰めるように背中を撫でてくれるものだから思わず声が出そうになる。お礼の代わりに白いバラの花を渡してやると、少年たちは小躍りして喜んだ。


「ありがとう、ピエロのお兄ちゃん!」

「ありがとうね!」


 その時シルクハットを持ち上げたのは、「こちらこそ」という意味を込めたつもりであった。それを彼らがどう受け取ったのかは分からない。


「とーった!」


 目にも止まらぬ速さでかつらを掴まれ、そのまま引っぺがされた。呆気にとられていると、二人はきゃっきゃと走ってゆく。ようやくかつらを取られたと理解した斎藤はシルクハットを放り出して後を追った。


 子どもという生き物はほんとうにすばしこい。ホワイトボードの裏に回り込んだり、看護師の間を縫うように走ったり、大人の体では出来ない術で逃げ回る。


 病人とは思えない身のこなしだ。きっと骨折か何かで入院していたのだろう。有り余る体力をいたずらで消費しようという算段か。


 こんな状況でも、看護師たちは無視を決め込んでいる。白衣の天使はここにはいないのだと嘆いても、追いかけっこは終わらない。


 ピエロの格好をした大人が子ども相手に振り回されているなんて。恥ずかしいを通り越して情けないが、諦めるタイミングはすでに見失っている。


 一度「止まれ」と声を掛けたら止まってくれるかもしれない。人の性は彼らをそうさせないと知っていたが、もうどうにでもなれと、自暴自棄の心境で大きく息を吸った。


「おい、止まれよ」


 まさしく斎藤が言おうとしていたことを、聞き覚えのある声が代弁した。少年らがびくりとして振り返ると、声の主が腕を組んで立っていた。


「病院で走り回るんじゃねぇよ」


 布団の上から目測していたよりも細い手足が蛍光灯に照らされてさらに白く見えた。脆弱に見えたかといえばそうではない。歩く姿は堂々としていた。


 高安は大きすぎるサンダルをぺたぺたさせて少年に近づくと、


「迷惑してるって分かってんだろ? さっさと返してやれよ」


 その少年は高安よりも体が大きく背も高かった。つかみ合いになればどちらが倒れるかなど明らかだ。


 一触即発か、と思いきや、少年はかつらを放り投げて看護師のもとに走って行った。高安の威嚇がよほど効いたのだろう、涙目である。


 かつらを拾い上げてもう一人の少年はどこへ行ったのかと斎藤が頭を巡らせると、シルクハットを手にとことことやってくる。


「ごめんなさい」


 小さな子どもに頭を下げられて許さないほど、心は狭くない。シルクハットを受け取った手でわしゃわしゃと頭を掻き撫でてやった。


「あんなガキに遊ばれてんじゃねぇよ」


 少年と入れ替わりで高安がやってきた。眉を上げて肩をすくめると、目つきの悪い仏頂面は舌打ちをする。それを注意するどころか、むしろ斎藤の顔は緩んでいる。覆いかぶさるようにかがみこんで、そっと耳打ちした。


「来てくれてありがとう」


 そして高安を抱きかかえてすっくと立ち上がった。左手はかつらとシルクハットでふさがっているため、右腕に乗せるようにして持ち上げる。


「おいこらなにしやがる!」

「部屋まで送ってってやる」

「ざけんな、一人で歩ける!」

「遠慮すんなって」

「離せっての、おいっ!」

「いたたた、こらっ、髪の毛引っ張んなって!」


 二人のやりとりはまるでコントだった。廊下にこだまするのを、しかし誰も止めることができなかった。


 これまで一切言葉を発することがなかったピエロが平然と喋っていること、痩せぎすとはいえ子ども一人を片腕で持ち上げていること、またその子どもの口が異常に悪いことなどに気を取られてしまい、看護師を含めその場にいた者は、二人の背中をただ見つめることしかできなかったのだ。


 病院内にあるまじき言葉の応酬を繰り広げる二人組が無事病室にたどり着くことができたのは、そういうわけであった。


「いやー、まじで助かったわー」

 

 閉めた扉にもたれて、斎藤がぼやく。


「ほんっとあの子達すばしこくてさ、危うく声出すところだった」

「いや、そこは出してもいいだろ」

「一応俺って喋らないピエロだから。それはポリシーとして」

「くっだらねぇな」

「でもまぁ、あそこまでねばったからこそ高安のかっこいいお言葉が聞けたわけだし」

「意味わかんねぇ」

「とにかく助かったよ。これも無事戻ってきたしさ」


 とは言ったものの、かつらは裏地の一部が裂けていた。縮れ毛はさらにこんがらがって、収拾がつかないことになっている。シルクハットはというと、誰かに踏まれたのか足跡付きでつばが折れていた。


(これは買い直さなくちゃいけないなぁ)


 目をつけていたウィッグ店の情報を頭の中で整理していると、高安がじっと見つめていることにふと気づいた。


「なに?」

「別に、なんでも」


 言葉を濁すのは初めてで、ついちょっかいをかけたくなる。「なになに、お兄さんに教えてよぉ」と、猫撫で声でつつく。しっぺ返しはすぐだった。


「おっさんウザいぞ」

「あ、今のは結構キた……」

「もういいから、早く下ろせって。いつまでこの状態でいるつもりなんだよ」

「はいはい」


 高安をベッドに下ろして布団を掛けたとき、なにかが足りないという悪寒にも似た感覚に斎藤は首を傾げた。


「なんだよ」

「いや、なんか忘れてる気がして」

「他にもなんか取られたのか?」

「そういうんじゃなくてさ」


 なにかもっと重要なものなんだと、両手を見つめて、高安を見て、天井を見て、最後に足元を見た。点滴の針が床から数センチのあたりでぶらぶらしていた。


「お前っ、点滴、点滴ぃ!」

「うるせぇ」

「早くナースコール! ナースコール押せって!」

「大げさなんだよ。こんなの適当に刺しときゃいいって」

「んなわけないだろ、お前実は馬鹿だろ馬鹿なんだろ!」

「誰が馬鹿だバァカ!」

「ていうかなんで誰も点滴のこと言わなかったんだよ看護師なら普通気づくだろうがぁ!」


 ナースコールを連打しながらひとしきり叫んだ斎藤は、息継ぎの合間に我に返った。


「これって、俺が気づけばよかったって話か?」

「そんなことより」

「そんなことってお前ね」

「早く出てったほうがいいんじゃねえの? あの看護婦が来るぞ」

「そうかもしれないけど」

「また縮こまって隠れたいってんなら、話は別だけどよ」

「分かった、分かった、帰るよ」


 しかし、一つだけ不可解なことがあった。


「なんで点滴スタンドを引いてこなかったんだ?」


 スタンドにはキャスターが付いている。抜かずとも移動は出来たのだ。


「下の方、見てみろよ」


 言われるままにかがみこむと、スタンドはベッドの脚にくくりつけられていた。


「ほどけなくてな。置いてくしかなかった」

「なんでこんなことになってんだ?」


 間が、空いた。


「脱走防止だな」

「ならこれは、意味がなかったってことだな」


 点滴の針をつまみ上げる。


 一人ぼっちの部屋と、枯れた花と、抜かれた点滴。


 連想する斎藤の顔は寂然としていた。


「これ抜くの痛かったろ」

「そうでもない」

「いや、痛かったはずだ」

「なんで妙に確信持ってんだよ」

「だって、俺も昔、抜いたことがあるから」


 腕から抜く仕草をしてにっと笑い、垂れるチューブをスタンドに巻き付けていく。


「あんたも入院してたのか?」

「お前くらいのガキのころにな」

「ガキってなんだよガキって」

「おじゃましました!」


 吠える高安が本を掴んで振りかぶったのを見て、慌てて外に飛び出した。


 扉が閉まる直前、こぼれんばかりに小花をつけたリナリアを投げつけた。空気抵抗を受けつつもなんとかベッドの端に落ちてくれた。


「ゴミを捨ててんじゃねぇよ!」

「ゴミじゃねぇよクソガキ!」


 きびすを返してもう二本か三本、今度は顔に投げつけてやろうかと上げた腕を、誰かに掴まれた。


「斎藤さん、ここでなにやってるんですかっ!」

「げっ」

「げってなんですか!」




 看護師の黄色い声とピエロの弁解が扉越しに聞こえる。高安は手を伸ばし、掴んだ花に顔を寄せた。金魚の尾ひれのような形の白く小さい花が鈴なりに生っていた。ふわりと甘く香る。嫌いな匂いではなかった。


「ガキってなんだよ」


 ぶぅと頬を膨らませて、先週より太くなったと思われる自分の手足に力を籠めたり抜いたりする。少しでも筋肉がついてほしいと考えてのことだ。


 一週間前、一日に五度食事を出してくれと看護師に頼んだ。少量を数回に分けて、というのは以前から提示されていたことであったが、自分から申し出たのは初めてだった。


 高安は出されるものを必死に食した。何度も吐いた。食事を運ぶワゴンの音を聞いただけで胃に不快感を感じた日もあった。においにえずいては、鼻をつまみ、無理やり口に入れて水で流し込んだ。それらは苦痛でしかなかったが、一人で歩ける程度には体力が戻ったのだからやった甲斐がある。


 ピエロのためにというのは癪であるから、久しぶりの散歩のためとしておく。看護師の手を借りず自分の力で歩きたかった。震えて立つ姿など見せたくなかった。そのためになら、頑張れた。


 問題は当日であった。スタンドの縛りは一見簡単そうだったが、短い爪では結び目をほどけなかった。針を抜いたのは苦肉の策だった。医療器具を外すことに不安はあったが、一週間の努力を無駄にしたくなかった。


 だが結局間に合わなかったのだから、おかしな話だ。やっとの思いで駆けつけたとき、ピエロが子ども相手に苦労しているのを見て、思いは怒りに転じた。


 今はというと、努力は実を結んだのか否か測っているところだ。


「ピエロのくせに」


 唸るように呟いた。


「晶君、点滴抜いちゃったの!」


 飛び込んできた看護師は、きゃあきゃあと身振り手振りで事の重大さを説いてきた。ピエロに聞いてようやく知ったようだ。


「ダメじゃないのこんなことしたら!」


 看護師はぷりぷりという擬音がつきそうな動作で持ってきた新しい点滴をスタンドに掛け、もう抜かないでねと念を押して針を刺した。


「なんで、ピエロの兄ちゃんは看護師に嫌われてんの?」


 タイミングを見計らって聞くと、看護師は顎に拳を当てて首を傾げた。


「ピエロって、斎藤さんのこと?」


「斎藤って誰?」と言いそうになり焦った。

名前を知らなかったなんてバレたら、絶対に笑われる。


「うーんとねー、あの人はいろいろあるんだよ」

「いろいろって?」

「簡単に言うと、おふざけが過ぎてるってことかなー」

「おふざけ?」


 高安の声が一段低くなったことに、この看護師は気づきもしない。


「そう、手品のおふざけ。花を出すだけ出して、片づけとか準備を看護師たちに手伝わせてるから、みんなふざけるな、って怒ってるんだよね」

「それはおふざけとは少し違うだろ」

「やってることは、おふざけなんだから、そう言われても仕方ないの、あの人は」


 リップでてらてらと光る唇を歪ませて、さらに続ける。


「あとは、手品師ピエロをこの病院でやるようになった経緯が、ちょっとねー」

「なに、それ」

「いやー、これはあんまり言えないんだー」


 あはは、ごめんねー。謝る気のない空っぽの言葉が降ってくる。


 なんでこんなのが専属で就くことになったのか。そうやって眉間を押さえるたび、この看護師だからこそ自分に付けられた、その理由に至る。


「そうそう、お父様からお手紙を預かってますよ」

「父さんから?」

「はい、どうぞー」


 その白い封筒には封字だけが記されて、名前も書かれていなかった。


 看護師が立ち去ってすぐに便せんを引っ張り出した。堅苦しい文が数行だけ綴られていた。それらを全て読み終えるまで、高安は耐えられなかった。


 しゃくりあげると体が軋んだ。腹が痛んだ。頭痛がした。押し寄せた涙の洪水を止める堰はなくて、激しい感情の嵐に、されるがままに嬲られた。


 だから、斎藤が扉の隙間から様子を窺っていることに、気づかなかった。




 一体何があったというのか。斎藤は扉に手をかけた状態から動けずにいた。もう一方の手には文庫本があり、ブックカバーが波打っている。


 暇つぶしにはなるだろうと持ってきたのを、シルクハットとかつらをロッカーに入れたときに思い出して、ピエロメイクのまま慌てて戻ってきたのが、数十秒前になる。


 猛獣の咆哮のような泣き声が、心臓を揺さぶった。体を折り曲げて咳き込む姿にとうとう我慢できなくなって、部屋に踏み入った。


 高安の顔を、涙と鼻水がぐしゃぐしゃに汚していた。斎藤を見ると口に手を当てて、声を殺した。無数の棘に刺されたような痛みを感じ、斎藤は衝動的に抱きしめた。


 それを合図に、高安は再び泣き出した。なにがそれほどに辛いのか。先ほどまでなかった便せんは、なにか関係があるのだろうか。


「どうしたんだ?」


 しかし高安は言葉にならない声を出し首を振るばかりである。斎藤は背中をさすってやることしかできない。


「斎藤さん」


 なにを訴えかけるのかと思えば、それは自分の名前ではないか。高安の細い手が、執事服の裾を掴む。


「こんなの、誰かに頼んでいいことじゃない、でも、頼れるのはあんたしかいないんだ。頼む、俺を……、ここから連れ出してくれ」


 目を見開く斎藤を、濡れた眼差しが射抜いた。




 看護師が病棟巡回でその病室を訪ねた時、ベッドは丸く盛り上がっていた。患者の高安晶にしては珍しい体勢であったが、よほどショックだったのだろう。手紙の内容は想像に難くなかった。


「晶くーん?」


 呼びかけにぴくりとも応じない。点滴を確認すると、減り具合が遅い気がした。


「晶君、また点滴外したりなんて、してないよね?」


 再び声を掛けるのだが応答はない。それどころか、呼吸による体の動きさえないではないか。


 まさかと思い布団を剥ぐと、枕と積み重なった文庫本が現れた。点滴のチューブが絡まったイヌショウマの花が揺れる。


 看護師は奇声を上げた。

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