21.戻れないなんて言わせない!

「……さすが怪盗さんですね。なんでもお見通しなんだ。かっこいいな」


 にへへ、と奇妙なはにかみ笑いを浮かべるトリス。


「ご存知かもしれませんが、わたしのお母様はもう、この世にいません。お父様を支えられるのは、今となってはわたししかいないんです」


 ここではないどこかへ届けるように、彼女は告げる。ひどく胸の奥を衝かれた気がして、フレッタは少し距離を取った。彼女のこんな顔は見たくなかった。人を想い慕う暖かいはずの言葉を、悲哀がヴェールのように彩っている。

 いつしか彼女の眼差しは、絵物語で女王に拝謁する騎士のごとく、凛とした輝きを宿していた。


「だから心に決めてるんです。何も知らずにただ笑っていればいい、小さなわたしではいられない。お父様が何を考えていようと、それが人の道だろうと蛇の道だろうと、隣に立っていられる存在でありたい」


 射抜くように力強い言葉。小柄な身体にこんな声量があるのかと、フレッタは驚きと共に一抹の寂しさを覚える。出会ってほんの数日、当然のことなのに、それが今はたまらなくもどかしい。

 トリスは言葉を切ると、いきなり、纏っていたケープを外して地面に投げ落とした。ただならぬ様子にルチアも立ち上がる。成り行きを見つめる彼女らの目の前で、トリスは往来の目など無いものであるかのように、さらに上着のボタンを外していく。


「ありがとう、フレッタさん、ルチアさん。その資料は参考になりました。きっと二年前、お父様が『資料』を見たのが始まりだったんですね。……わたしも、もう引き返せない所まで来ているんだってこと、改めてよく分かりました」


 そう言って、彼女は迷いなく上着をも脱ぎ去った。上半身の下着姿をさらけ出し、しかし羞恥など欠片も見せはせず。

 にっこりと、あの写真に写ったいつかの少女のように微笑んで、くるりと後ろを振り向いた。



 トリスの背中には、青白い一本の細い腕が生えていた。



「……な」


 フレッタは言葉を失った。視界の端で、ルチアは両手で口元を覆っている。

 背中の腕は拳を握って開き、トリスの意思で自在に動いていることを示す。精巧な義肢とは考えられなかった。間違いなく人間の腕だ。指先に至るまで皮膚の質感は生々しく、なにより、

 服から露出した範囲に呪痕が見えない以上、背中にある可能性はあった。トリスの心情を考慮し、それを暴かないと決めたのはフレッタ自身だったが――それでも、これは。

 第三の腕は折り曲げた状態で背にピタリと張り付け、気付かれないよう細心の注意を払っていたに違いない。腰まで伸びた長髪は元より、いつも纏っていたケープも、背中の違和感を隠すためのものだったのだろう。

 しばし呆然としていたフレッタは、やがて薄い笑みを浮かべた。己の内に芽生えた戦慄を、かき消すように。少女の心に踏み込むと決めた己の覚悟が、気圧されることのないように。

 ――土壇場ほど、笑い飛ばしてやるのが怪盗流だ。


「呪痕発症部位の移植……噂には、聞いたことあるけどね。研究者なら垂涎モノの成果だ」

「わたしは、お父様にとっての傑作の一つです」


 呪痕症の罹患部位には凝縮された星命力アリアが満ち、一種の寄生体のような振る舞いをする事があるという。神経系を通じて宿主を狂わせる精神汚染も、その影響の一つだと、女闇医者マノンに聞いたことがあった。

 ある一人の人間の中に産まれ、喰らいつく疑似生命――それを切り離し、別の人間に生きたまま移し替える。外道の所業だ。あまりに荒唐無稽で、冒涜的な物語だ。思いついても、常人ならば倫理観が歯止めをかけただろう。

 常人、ならば。


「それ、お母さんの腕なんだろう?」


 その華奢な腕を見て、確信していた。トリスが呪痕を発症した理由についても。

 毅然と振る舞っていた彼女は、少しだけ目を逸らした。


「お母様は二年前の研究中の事故で、右腕に呪痕を負いました。でも、それで絶望したりはしなかった。自分の体を研究に使えば良いと言ったんです。お父様は、その言葉にひどく感激したらしくて」

「研究者の鑑だな。そうでなきゃ務まらないんだろうけど。理解できない世界だ」

「……それ以来、わたしが研究所へ近付くことは禁じられました。研究所の人達にさえ内緒で、二人だけの研究を続けていたそうです。わたしに分かっているのは、お父様が研究にのめり込んであまり家に帰ってこなくなったということ。だんだんお母様は元気が無くなって、半年前……死んじゃったってこと」


 最後の一言は震えていた。当時を思い出しているのか、彼女は閉じた目で空を仰ぎ、己を落ち着かせるように深呼吸した。


「お母様の遺体で、まだ生きていた右腕だけが別に保管されました。その行く末は見ての通りです。……お父様は、わたしに対する呪痕移植手術を、一人で成功させました。母娘だから相性が良かったのかも」

「どうして――」


 そんな行為を受け入れられた、という問い掛けは、響く笑い声に遮られた。

 何が面白いのか、トリスは自嘲するように笑う。いつになく彼女は饒舌だった。母の死を語る娘の表情とは、到底思えない。

 通りを歩いていた通行人の何名かが、こちらの様子――特に、トリスの第三の腕を目にしたようだ。何だあれは、と気色ばむ気配が伝わってくる。ざわめきは加速度的に大きくなっていくだろう。今ならまだごまかせる――

 その瞬間、トリスはよりハッキリと分かるように哄笑した。腹の底から吼えるような大音声。それにまぎれて、後ろから『バケモノ』という単語が聞こえてきたのは、気のせいだと思いたかった。


「ほら! みんな離れていく。わたしは最早、お父様無しでは生きていけない身体! お父様だって、わたしが支えなきゃきっと普通じゃいられないんだ! お母様が死んじゃった今! これ以外の生き方なんて考えられないでしょう!?」


 躁状態のスイッチが入ってしまったのか、トリスはがなり立てた。フレッタは、できるだけ人目につかないよう自分の体で彼女を隠そうとしたが、そのために踏み出しかけた足がすくんだ。その行動自体、彼女の異形性を肯定するものに他ならないではないか。


「あの晩、背中を触られた時には焦りましたよ。一瞬だから良かったようなものを、気付かれたらどうしようかと」


 永久の白雪を巡る怪盗と怪人の一悶着。フレッタは下着に一瞬触れただけで、その違和感に気付くことはできなかった。あの時の彼女の焦りは、単に後ろを取られた以上のモノがあったらしい。ブティックの試着室で体を見られるのを嫌がったのも、恥ずかしがり屋だけが理由ではあるまい。


「今のお父様は、自分の研究のためなら何だって利用するでしょう。それにあの『雪』は、お父様が探し求めていた悲願なんです。わたしは、その意思に殉じます!」


 動くに動けないフレッタを見かね、ルチアが横から一歩を踏み出す。


「……トリスちゃん」

「来ないで!」


 叫声に、思わずルチアの足が止まる。バチッ、と――雷撃の火花が小さく散った。近づこうにも、触れた瞬間に起爆でもしかねない。

 トリスは姉妹二人を何度か交互に見やってから、一つ息をついて落ち着いた。


「フレッタさん、ルチアさん。わたし一人っ子だから、お姉様ができたみたいで、すごく楽しかったんですよ。本当にありがとうございます。……それに、ジュネロさんも」


 建物の陰への呼びかけ。やれやれといった様子で、拳銃を腰にぶら下げたジュネロが姿を現した。


「バレてたか。女子会に色気のねぇオッサンなんざ、出る幕が無けりゃ一番いいと思ってたんだが。コイツも必要無いか」


 銃を懐にしまい、降参とばかりに両手を上げる。彼ならば、何か事が起これば容赦なくトリスを撃ち抜いただろう。しかし肩の力を抜いた軽口には、どこか安堵感がにじみ出ていた。


「父に届け物をしてくださったこと、感謝しています」


 それだけ言って、トリスは手早く上着とケープを羽織り、三人に深々と一礼した。


「ご迷惑をおかけしました。……さようなら」


 ざわめく小さな人だかりを無視して、トリスは研究所のある方角へと足早に走り去っていった。父の元へ戻り、これから何を成すのだろう。大好きな母親と同じように、死ぬまでその身を削る気なのか。遠のいていく小さな背中には、深い哀切が感じられてならなかった。

 フレッタは黙ってそれを見送り――突き刺すような鋭い眼差しで、見えなくなるまで視線を離さなかった。


「――あぁ、やっと分かった気がする」


 ぽつりと漏れたつぶやきに、ルチアとジュネロはいぶかしげな顔をする。

 最後に一瞬だけだが、フレッタは確かに見た。一礼から頭を上げたトリスの瞳が、翠緑色エメラルドグリーンの輝きが、早朝の澄んだ湖面のように潤んでいたのを。

 あれが迷いなく邪道を行くと決めた人間の眼なものか。あれを彼女自身に独り拭わせ続ける、そんな人生を負わせるのか。

 あの娘は――トリスは、きっとまだ。


「お姉ちゃん?」

「泣いてる顔も可愛いけど、やっぱりあの娘に涙は似合わない」


 独りごち、やがてフレッタはニヤリと笑った。燃え上がるような闘志が、心の底から湧き上がってくるのを感じる。初夏の日差しなど全く関係無く、身体の心地良い火照りを自覚する。

 その真っ直ぐな表情は、彼女の裏の関係者ならば誰もが知っている――舞盗のウィンディアが、時に見せる顔だ。



「――あたしの中で、ウィンディアが求めてるんだ。極上のお宝とびっきりかわいいあの娘をさ!」

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