16.彼女が白衣に着替えたら

 ヴィヴィアーニ星命科学研究所――その存在自体を、先日までフレッタは知らなかった。こうして研究所の前に立ってみても、コの字型の豆腐のような建物は、三日経てば忘れてしまいそうなほどに印象が薄い。

 隣に立つジュネロも似たようなものらしかった。何の考えもなくテキトーに入った食堂で食べた、大して美味くも不味くもないサラダの感想を求められたような表情。その面立ちは普段より明らかに皺が目立ち、ウィッグと同じ墨色の付け髭に覆われ、普段より十五歳は老けて見える。


「平凡な建物だな。悪の秘密結社ってツラじゃねぇ」

「どうでしょうね。苦い毒を隠すなら甘いチョコクッキーの中と相場が決まってる」


 フレッタは不敵な笑みを浮かべ、ダテ眼鏡のズレを直した。

 実年齢をごまかしたジュネロに対し、フレッタが偽ったのは性別だ。もともと女でありながら気立てが男っぽいことは自覚しているので、これまで何度か使った手でもあった。ルチア曰く、「素で男装の麗人が似合うとかマジで同じ血が通ってるのか疑わしい」。フレッタに言わせれば、可愛さの暴力みたいな服を躊躇なく着られる妹の方がよっぽどうらやましいのだが。


 髪は無理に短くせず、一本の太い三つ編みに結い上げていた。ファッションでそうする男性は別段珍しくもない。数日前にはトリスもやっていたことだ。そんなことより苦労したのは、メロン玉の如く育った己の胸を特殊な下着で――サラシと言うらしい――しまい込む過程だった。ルチアが手伝ってくれた際の、恨みがましい目つきは忘れられそうにない。


 あとは二人揃って白衣を着て、堂々と「研究者ですが何か?」なんて態度を取っていれば良い。その開き直りを胸に、二人は研究所の入口をくぐった。

 ご丁寧に受付がある辺り、来客はそこそこ多いと見える。


「失礼。わたくし、ジンギスブルグ研究所から参りました、マルゴ・カンパネラと申します。エトーレ・フェルミ氏に訪問の約束をしていたのですが」


 ジュネロは偽名を名乗り、カウンターの向こうの受付嬢に向けて、胸元のネームプレートを示した。遠くの街に実在する施設のモノらしいが、もちろん精巧な偽造だ。威圧的な髭面とは裏腹に表情はにこやか、手慣れたスマートな所作だった。


「はい、伺っておりますが……えぇと、そちらの方もご一緒で?」


 受付嬢はなぜか困惑した声色ではあったが、慇懃に問い掛けてくる。水を向けられ、フレッタは咳払いと共に背筋を正した。


「あぁ、これは助手です。論文に関する意見交換で、にも是非とも同席してもらいたく」

「ラッザロ・ジョヴァンと申します」


 簡潔な挨拶と共に、フレッタも一礼した。五十路に届こうかという見目のと並ぶと、まるで親子だ。


「左様でございましたか。それと、申し訳ございませんが、訪問は午後からの御予定ではなかったでしょうか? フェルミ教授は、ただいま外出しておりまして」

「なに? そりゃおかしいですなぁ。昼飯前に話そうって取り付けてたはずなんですがね。アイツ、飯食った午後は頭が回らんなんて言い出すような男ですよ。いやいや参ったなぁ……あ、御存知ありませんか?」

「い、いえ。私は一事務員なのでなんとも……ただ、まぁ。ウワサ程度でしたら、少々」

「ウワサ! えぇ、えぇ、そりゃもう色々あるでしょう。フェルミはそういう奴なんです。ここの若手研究員、特にアイツの研究チームの連中にも何度も会ってますがね。やれ白衣がヨレヨレだ、目つきが猜疑心丸出しだ、時間にルーズだと散々。……あぁ、だからですかな。あの男、また時間を勘違いしやがった」


 あちゃーと顔を手で抑えたり、大仰な手振り身振りで話を盛って聞かせるジュネロ。大男の滑稽な仕草がギャップを生み、警戒心というものを巧みに解きほぐす。最初は固かった受付嬢の顔も、徐々に相好が崩れてくる。


「そういえば以前にも何度か……フェルミ教授は外部の方とお会いになる際に、小さな揉め事があった覚えがありますね」


 ついには口元に手をやり、笑いをこらえるような仕草。まだ会って五分も経っていないというのに、もうマルゴ教授に気を許してしまっている。

 と、さすがに口が滑ったことを自覚したか、受付嬢は控えめに口元を抑えた。


「あぁ、失礼致しました。フェルミ教授は、正午には戻られる御予定と伺っております。それまでは、こちらからも連絡が取れませんので……」

「なるほど。では一度、研究室にお邪魔してもよろしいですかな。このまま手ぶらで出直しというのも勿体無い、研究室の方々に挨拶だけでもしていきたいのですが」

「左様でございますか。教授の研究室でしたら、あちらの――」


 受付嬢は右手で西棟側の扉を指し示そうとしたが、ジュネロがそれを制した。


「西棟の最奥の部屋、ですね。大丈夫、よく知っていますよ」

「そうでしたか。もし何かあれば、また仰ってくださいませ」

「お気遣い痛み入ります、その時はぜひ。それじゃ……ほれ。ラッザロ、行くぞ」

「はい」


 ジュネロは深々とお辞儀して、左手の扉へと向かう。リードで引かれる犬のように、フレッタもその後に粛々と続く。

 が、彼女だけ途中で足を止めて振り向いた。


「あぁそうだ、受付さん」

「はい、なんでしょう?」


 助手の方に何か言われるとは思わなかったか、受付嬢はきょとんと目を丸くした。まるで初めて見る昆虫に驚く童女のよう。何かにつけて心が表に出てしまいやすい人物らしい。こんな辛気臭い研究所より、ウチの店番に雇いたい可愛らしさだと、フレッタは苦笑した。

 スッと右手を前に出し、白い物体をコイントスのように空中へと弾いた。困惑を強める受付嬢に、それが飾りボタンであることを示す。


「貴女、おっちょこちょいとかよく言われるでしょう」

「え? いや、決してそのような。祖母にもお前はしっかり者だとよく言われます」

「右手の袖。ボタンがほつれて取れてましたよ」

「……あ、あらやだ。申し訳ございません! どこで引っ掛けてしまったのか……」


 先ほど道案内しようと上げた右腕の裾、たしかにフレッタの言う通りだった。受付嬢は顔を耳までリンゴ色に染め、もう手先を人前には一生出すまい、とでも言わんばかりに萎縮してしまった。

 カウンターにボタンを置き、フレッタは彼女に囁くように言った。


「そうやって表情がころころ変わるの、ぼくは可愛いと思いますよ。お客さんも朗らかな気分で帰ってくれるはずだ」

「えっ……」

「それじゃ、失礼します」


 最後に心の中で、彼女が胸に付けた名札に刻まれた名を――さん、と呼びかける。トリスが名前を借りるくらいだ、きっと歳の差を気にしないくらい仲が良い人なのだろう。

 つかの間の待ちぼうけで、ジュネロが口をへの字に曲げていた。「すいません、行きましょう」とその背をぽんぽんと叩き、フレッタは彼を追い越して西棟への扉を開く。


 殺風景な廊下が続いていて、外には誰も出ていない。どの部屋も中では忙しいのだろうか。聞き耳は無く、監視の目も無い。

 それを認めると――教授と助手はお互い小さなため息をついた。


「とりあえず、中には入れたな。どこから手を付けたものか……」

「あの受付さん、かわいかったですよね。ちょっとお喋りでドジっ娘っぽいけど、笑顔が素敵」

「……お前、初っ端から遊びが過ぎるぜ。新手のナンパに手癖つかってんじゃねぇぞ」

「いやナンパて。あたし女ですし。別にむしり取ったわけじゃないですし。本当に取れかけてたんですって」

「そういう問題じゃない」


 短く言い放ち、ジュネロは手刀でフレッタのおでこを軽くぶった。彼女にしてみれば不本意極まりない言葉。しかし、抗議は口を尖らせる程度に留めておいた。こうして自然な形で所内を歩いて回れるのは、ジュネロのお膳立てあってのことなのだ。午後になれば本物の『マルゴ教授』がやって来るはずで、それまでは堂々と居させてもらえる。

 彼は早速、自分の後ろの扉を示した。


「手早く済ませるなら、ここを当たってみろよ。俺はちょっと所内を回ってみる」


 それだけ言って、彼は西棟の長い廊下を奥へと歩いていった。ここに用事があるのはフレッタであり、畢竟、彼はただテキトーに所内をぶらぶらしていても一向に構わないのだ。ただ、『教授とお付き』の方がそれらしいからという小芝居だった。


「いきなり大将首ってわけか……」


 扉の上のプレートを見て、フレッタは呟いた。

 ジュネロが指し示した、くすんだ白色の扉。そこはどうやら、ゼビアノ・ラフォレーゼ教授――トリスの父親の研究室であるようだ。

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