クレイズモアの魔女と黒猫

 魔法と精霊に溢れた時代から蒸気と機械の時代へと移り変わる19世紀。西の島国には、教養の一環として魔法を学ぶ全寮制の学校であるクレイズモア校が静かに存在している。

 その校舎のいっとう高い塔の部屋のなかで、彼は暖炉の前に置かれた椅子に深く腰を下ろしていた。少年と言うには年を重ねすぎていて、青年と言うには若すぎる制服姿の彼は、無意識のうちに顎を指で擦りながら本を読んでいた。

 活字を追うように瞳が上下に動き、長い睫毛の影へと埋もれてゆく。興味深い箇所を見つけると、指の動きが止まる。そして、読んでいた本から顔を上げることなく、持ち上げた指先で何かを指し示す。その先にある付けペンがふわりと浮き上がると、ひとりでに動き出し、さらさらと紙に何かを書き始める。彼の長い指先はくるくるりと踊る。何行か分の文字列を書き終えるとぱたりとペンが倒れた。指先も踊るのをやめていた。

 その様子を気にもとめず、座り心地の良い柔らかい椅子に再び埋もれると、流れるような動作で足を組み替える。面白そうに「うん」と本に対し相槌を打ち、再びペンを立たせるとインクを付け直し、再び踊りだす。

 黒茶の髪をした彼は目にかかる長い前髪を邪魔そうに弄る。赤いベストの金のボタンが動くたびにきらりと反射して光っていた。


 その様子を日当たりの良い出窓に寝そべった黒い猫が見つめていた。思い出したようにぺたんと尻尾を窓に打ち付ける。

「手で書いた方が早そうなのに」

 欠伸混じりに話しかけた猫に、彼は気のない様子で言葉を返す。

「本を読みながらレポートを書くならこの方が早いよ、キティ」

 キティと呼ばれた黒猫は、代々この部屋を引き継いできた学生とともに過ごしてきた時間のことをおもう。この部屋は、探偵と呼ばれる役割を代々引き継いだ学生のための場所だった。彼らは謎を解かない。しかし、校内で事件が起これば、どこからともなく現れ、解決に導く。

 黒猫は、この部屋の底に積もった時間と記憶に溶けてゆく。

「わたしは猫だもの、エドワード」

 そんなこと知らないわ、と返したキティに首を竦めて見せたエドワードは、再び文字の世界へと戻っていた。


 黒猫もまた、とろとろとした微睡のなかに戻ってゆく。キティは懐かしい記憶をなぞっていた。彼女は最愛のひとを探し彷徨う幽霊で、夜のなかを駆けてゆく。そのうちに、何代か前の探偵と出会い黒猫の姿になった。最愛のひとの元へと行くために。

 陽だまりの底に丸まり、遠くで紙を捲りペンを走らせる音を聞いていた。その静けさのなかで、彼女の名を呼ぶ声を聞いた気がした。ぴくりと、下ろしていた耳が上を向く。キティ、と再びささやきかける声。中性的なその声は、少年のようでもあったし、女性のようでもあった。


 ふわりと瞑っていた目を開けると、探偵は変わらぬ様子で本を読んでいる。キティは何事もないように伸びをすると、日当たりの良い出窓から飛び降りた。音もなく床に着地をすると、するりと扉の隙間を通り抜けた。その様子を本から顔を上げた彼がゆるやかな瞳で見つめていた。



 その日を境にキティは夜な夜な出かけるようになった。はじめこそ気にしていなかったエドワードも、回数を重ねるにつれ、気にかけない方が難しくなる。

「また、夜の散歩?」

 出窓からそろりと立ち上がったキティに対して、彼は素っ気なく問いかける。そうね、と答えたキティは窓の外を見つめ、そっと再び座り直した。

「やめておくわ。寒い夜だものね」

 どこへ行っているのかと目で問いかける彼の態度を見なかったふりをする。身体を丸めると、目を細めた。髭がぴくりと三度動く。静かな瞳でしばらくキティを見つめていた彼も、小さく肩をすくめると読みかけの本へと視線を戻した。


 耳元で名前を囁かれ、彼女は目を開けた。エドワードは椅子に座り、本を開いたまま眠ってしまっている。耳をすますと、キティと呼ぶ声が聞こえた。その声を彼女は待っていた。

 物音を立てないように部屋を出ると階段を飛ぶように降り、中庭へと続く扉を目指す。石造りのその塔はひんやりとしていた。木製の扉まではもう少し。

 猫の身体でも、扉の癖を分かっていれば開けることができる。後ろ足で立ち上がると、前足で扉を押した。僅かな隙間をすり抜ける。


「もう、今夜は遅いよ、キティ」

 扉の近くの壁に寄り掛かるようにしていた彼が声をかける。襟を立てたコートと話すたびに吐かれる白い息。いっとき、幽霊であったときに出会った探偵と見間違い、キティは心臓が掴まれたような心持ちになる。

「あそこに居るのは……」

 言葉が掠れて転がり落ちた。部屋にいるはずのエドワードは、黒猫に対しにこりと微笑み小さく指を鳴らした。その音は探偵の部屋まで届き、眠っていた彼は本を残してゆらりと影のなかに溶けてゆく。

「大した嘘つきね」

 彼の仕草と魔法の気配に部屋で寝ていた彼が影であったことに気がついて、首を振る。呆れたような湿度の高い声がこぼれた。

「君も、今夜は部屋に居るはずでは?」

 その問いかけにキティはツンとすましたような表情を浮かべる。

「気が変わったの」

「さっきの言葉をそっくりお返しするよ。嘘をつく時の君は、髭が三度動くこともね」


 さて、と赤いリボンのついた首輪を持ち上げたエドワードは黒猫を抱えると歩き出す。キティは観念したように抵抗もせず、されるままになる。彼にはもう全てが分かっているのだろうということにも気がついていた。

「最近、流行っている遊びがあるんだ」

 ぽつりと彼が言った。キティは返事もせず、エドワードの腕の中で向かう先を見つめていた。そこにはただ、闇だけが広がっている。彼は迷うことなくキティが向かおうとしていた先に向かっていた。

「校内に居る魔女探し。魔女と出会うと、不思議なことが起こると言う」

 エドワードは敷地内にあるハウスの前に立つ。消灯時間をとっくに過ぎたその場所は静寂の底に佇んでいた。石造りの建物が夜の中に溶けている。鍵のかかっているはずの扉は、彼を招くように軋んだ音を立てながらひとりでに開きだした。エドワードは驚きもせずに中へ入ると、迷うことなく二階を目指す。

 談話室の暖炉の前の椅子にそのひとは座っていた。火が彼の輪郭をなぞり、赤く染まる。


「良い夜だと思わないか」

 魔女のその言葉に、探偵はそうだなと言葉少なに答える。魔女は彼と同じ制服姿のままで、中に赤いベストを身につけていた。魔女の向かいの椅子にエドワードが座ると、キティは床へと飛び降りる。彼女のことをさす魔女の指が五回円を描き、そして暖炉の方へと動く。

「その、暖炉の火を覗いてご覧」

 キティはその落とされた言葉通りに暖炉の火を覗き込む。そこには彼女が探している、愛しいひとの姿が映っていた。彼が何かを話しながら微笑んでいる。声が聞こえない。再び、口を開く。何も届かない。悲しそうな表情を浮かべたあと、すぐに微笑みを見せる。笑った顔が懐かしく、とても好ましい。キティは熱さを感じることもなく、その影に近付こうと一歩を踏み出す。

「待て」

 エドワードが赤い首輪を掴む。前足に火がかかり、毛が焦げるような臭いがした。思わず猫の鳴き声が喉から転がり出た。キティ、と咎めるように名を呼ばれたが、暖炉の火を名残惜しそうに眺めるのをやめられない。もう、そこにその人の姿は無かった。


「君は夜な夜なこうしてキティを連れ込んでいるのか、ライアン」

「いや、違う。彼女は僕を見つけ、そして彼を見つけた」

 ちらりと、魔女であるライアンはキティの方に視線を向ける。火に当たった前足を舐めていたキティは視線に気がつき、すましたような表情で二人を見つめた。

「そう、わたしが彼を見つけたのよ」

 キティと呼ばれた声に導かれるように彼女はあの日、魔女と出会った。魔女は小さなガラス張りの温室のベンチで夢のなかにいる。白金の髪が太陽の日差しを浴びて透き通っていた。花に囲まれた魔女の姿は目覚めない眠りに囚われているようにもおもえた。

 名前を呼んだのは彼だと、不思議と理解していた。


 ベンチの近くの小さな噴水の縁を歩いていたキティは呼びかけられたような気がして、ふと水のなかを覗き込む。そこには探している愛しい人の姿が映っていた。水の中に落ちそうになって慌てて踏みとどまる。水に触れた前足のせいで波紋が広がり、水に映るその姿を消し去った。

「君は探偵の黒猫だね」

 目を覚ました彼が欠伸をしながら声をかけてきた。キティは何も言わずに、彼を見つめる。彼女を呼んだのは彼であったが、彼の意思ではない。


 彼らと出会い、キティは夜になると愛しい人の影を探して彷徨っていた。

「魔女の力というわけか」

 話を聞いたエドワードが口を挟む。ライアンは何も答えない。クレイズモア校の中で魔法に秀でている生徒のことを魔女と呼ぶ。不思議と絶えることなく魔女と呼ばれる生徒は現れた。

「彼女に興味があってね。人語を解する獣なんて、もう滅んだと思っていた。だが、彼女の生い立ちは特殊のようだ」

 もう興味がないというように、手を振ってみせる。その言葉にキティは咄嗟に尻尾を立てる。

「蒔いた餌に食いついたというわけ?」

「君が現れたのは、本当に偶然だった。その後は多少手を加えたが、それもこれで終わりだ」

 キティは毛を逆立て、獲物を狙う瞳になる。殺気立った気配を纏った彼女はしかし、何かに気がついたように尾を下げると、覚束ない足取りで部屋を出て行った。

「偽りの影だということは分かっていたわ。それでも、出会えるのが嬉しかった」

 振り返ることなく彼女はそう、寂しげに呟いた。黒い影が夜の闇へと溶けていく。黙って見ていたエドワードは声をかけようとしたが、ライアンが彼の肩を叩き、首を横に振る。

「そろそろ、あの過去の影に囚われるのは終わりにするべきだったんだ」

 悲しげに視線を落とす。エドワードはライアンのことを幼少の頃から知っている。強すぎる魔女の力がキティの特殊な生い立ちと共鳴し、過去の幻を生み出したのだろうという推測はできた。

「同じことは起こらないのか?」

「さっき、首輪に特殊な魔法を織り込んでおいた。少々複雑でね、漸く組みあがった魔法なんだ。彼女の力を少し制限している。しばらくはこれで保つはずだ」

 わかった、とエドワードは頷く。キティの過去は断片的にしか知らないが、彼女の大切なものに触れたのだということは分かった。


 翌日、キティは時折、遠くを見るような目をして窓の外を眺めていた。それ以外は、昨夜のことなど忘れてしまったようにいつもと変わらない。

「エドワード、誰か来たみたいよ」

 部屋の入口に続く階段を上る足音を聞きつけ、声をかける。彼は読んでいた本から顔を上げると、微笑んだ。

「では、お茶の準備でもしようか」

 そうね、と応えた彼女は、いつもの窓辺で陽だまりのなかに溶けていった。


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