十一冊目 退屈煙管

「あー、退屈だァー」

 ぐでんぐでんぐでんぐでん。


「本日快晴、明日も快晴、ッてか」

 雑誌を開いた状態で覆い被せるようにして一人の男がソファの上に転がっている。意味もなく消し忘れた蛍光灯がぼんやり灯る。

「ぱっぱっぱっぱー、らりらったるら」

 喧騒と怒号の飛び交う都会の外れ。そこに小さな事務所がある。

 もしもなにも知らない何処かの誰かが誤ってこの一室に入ってみれば、その余りにも状態に絶句してしまうだろう。強化ガラスのテーブル、ベッドと見紛うほど大きなソファ。エアコン、冷蔵庫。以上。

 黒のスーツを着こなした男は、そのに眩暈を感じていた。

 スーツを着ているその男はまるで博打打ちやくざのようにも見えるが、その左手に下げる風呂敷包みがその雰囲気をぶち壊している。

 ソファに寝転がる男は来客に漸く気がつき、「んお?」とだけ声を発した。

「……………」

 革靴特有の床を叩く音を響かせてソファの上の怠惰を具現化したかの様な男に近づき、顔に被さる雑誌を払いのけてスーツの男はきょとんと目を丸くするそいつの名前を呼ぶ。

「よう、是空ぜくう

「おお、おひさー」

 スーツの男は風呂敷包みを是空の眼前に掲げる。

「頼みたいものがある」

 是空はまた目をしばたいた後、今度はその大きな目を細めてにやあり、と口角を上げた。長い睫毛に縁取られた目の、限りなく緋に近い朱の中にスーツの男の顔が映る。

「話くらいなら聞いてやるよ、アグリ」

 そう言って、スーツの男––––––アグリへ向けてその体を起こし、ソファに正しく腰掛け、自分の横をポンポンと叩いた。




「人形、だな」

 風呂敷を開いたそこには、木目込みのお内裏さまがいた。しげしげとその人形を手に取り、様々な角度から観察する。重みを確かめようと手に持ったその瞬間、是空はアグリを横目で見た。

「なぁアグリぃ、これ何奴から頼まれた?」

「あ?」

「何奴から頼まれたっつってんだよ馬耳かてめぇは。厄介なモン押し付けやがって正義漢るのも好い加減にしねえと––––––」

「正義感なんざ持っちゃいねえよ………」



 ぐしゃぐしゃの前髪から覗く赤目がアグリを射抜く。

「---冗談はよせ、是空」

 目だけで微笑みながらもその奥の朱には露ほども笑みが見られない。

 いつものことだ。

 是空はこうして試すようにすがめてアグリを見る。

 そうして何事もなかったかのように元に戻るのだ。

 いや、––––––何事も無かったかのように、ではない。

 彼にとっては、何事もないことなのだ。

 全ての事象、すべからくして。

 そうして是空は呟く。

「で?」

 是空は問うた。

れにお前は何を押し付けに来たんだ?」

 その問いに。アグリは答える。

「対になる雛人形との縁を、結んで欲しい」

 うーん。わざとらしく唸り、是空はきっぱりと言い放った。

「いやだね」

「どうしてそうなる!」

「これ、何奴から頼まれた?」

 ぐ。アグリは詰まる。

「もう一度だけ訊いてやる」

 その瞬間。部屋全体の空気が異質なものへと変貌する。重苦しい何かがのしかかる。それはまるで絡みつくようなものだ。全身に痺れを感じる。だが、––––––それはどこか甘美に響いて––––––

 駄目だ。これは、駄目だ。

「何奴から、頼まれたんだ?」

 どくん。

 鼓動。鼓動が煩い。

 左右されてはならない。保て、保て、保て。

 まだいける。まだやれる。

 まだ、保てる。

「………誰からでもない」

 アグリは是空の目を真っ直ぐに見て、はっきりと、一言一句違えることの無いように噛み締めて、是空へ言った。

「俺が、俺の意思でそれを、あるべき場所に返してやりたいと思った。––––––それだけだ」

 是空はどう取ればいいのかわからない笑みを浮かべた。そんな旧友にアグリはどこか安堵した。

「ふん。成る程ね。それじゃあ仕方が無いなァ」

 そうかと思いきや馬鹿にしたように投げやりに言って、厭厭するのだとわかりやすくアグリにアピールする。ころころと表情を変え、見ている側からすればややこしい以外の何物でもない。

 いや、ちがうか。

 最初はなからこいつは、何も。

 是空はよれよれの白いワイシャツの腕を捲り上げる。禍々しい刺青が露わになる。

「さて、と」

 お内裏さまをテーブルの上に置き、そして両手をかざした。

「いっちょうやってみっかい」

 是空の刺青が揺らぎ、ぼんやりと薄まったかと思いきや滲んでいく。そして是空の腕が靄に包まれた。

 緋、朱、緑、言葉では表しきれない色取り取りの色の渦。それはまるで淡く儚い花束のようだ。窓から吹き込む風になびき、弧を描いて霧散しては生み出されていく。それなのに是空の腕の刺青は搔き消えることも生み出し尽くして消滅することもなく、只、水に滲んだように腕と外界との境界が危うくなっているだけだ。煙とも靄とも霧ともつかないその花は人形を包み込みゆらゆらと揺蕩う。アグリからすれば何が起こっているのか露ほどもわからない。

「大丈夫なのか?」

「まあ待てや。もうちょいだ」

 その靄が広がりアグリの視界に何も見えなくなったとき。

 ぱん、と。

 何事もなかったかのように霧散した。

「………あ?」

 そこには靄諸共、お内裏さますらない。

「………何処へ送ったんだ?」

「さあ?」

「さあ、ってお前」

「あいつが行きたい場所に送っただけさ。後はあいつ次第だ」

 アグリがちらと是空の刺青を見ると、もう既に危うくなっていた境界はしっかりと元に戻りいつもと変わらぬ姿を取り戻していた。その視線に気づいてかはわからないが、是空は無言で袖を伸ばし刺青を隠す。

 その不可解なものは、言うなれば《縁の形》の一部らしい。

「ああ、お前はこいつが見えるんだったか」

 是空が呟く。アグリは首肯した。

「見えるよ」

「よく見えるよな。普通は逆なんだが」

 そう言いながら是空は煙管きせるを咥える。

「そうなのか?」

「当たり前だろ。全ての縁の形が見えている訳じゃないとはいえ滅多にないさ」

「へえ」

「あーッ今どーでもいーって思っただろー」

 アグリはソファから立ち上がり、テーブルの上に広がった風呂敷を畳んで胸の内ポケットに仕舞った。

「じゃあな、是空。また頼みに来る」

「おう。次はもっと最高に面白くていい感じに退屈凌ぎになるのを所望する。あと今回の報酬だけど、寿司がいいなー。回るやつ行ってみたい」

「は?回らないやつじゃなくてか?」

「回らないのが当たり前だろ?三百年前はそんな感じだったぞ」

「………あっそ」

 是空はアグリに続いて玄関に向かう。一応は客を見送ろうとする志があるらしい。

「じゃあ、寿司はまた別の日にちゃんと連れてくから待って––––––」

「お前さあ、もっと上手い嘘を吐けよ」

 にたあ、と。是空は片方の口端を釣り上げた。

「どうせあの人形から頼まれたんだろ?」

「……………………」

 腕を組んで壁に上半身だけもたれ、是空はいう。

「人間と人間の縁を繋ぐことを生業とする奴は腐って掃いて捨てる程居る割に、人ならざるものと人ならざるものを繋ぐ奴は俺くらいしかいねえからな」

「……………………」

 くくく。喉の奥を震わせて是空は笑う。アグリは無言のまま玄関の扉を開けた。

「お前のそういう取捨選択する処、嫌いじゃない」

「……………………」

 そしてアグリはそのまま事務所を去る。

 手を離され自然と閉まる扉の向こうから微かに是空の人をからかった声がした。

「また来な、阿久利アグリ

 かちゃんと、扉は閉まった。



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