街角作家

山田えみる

第1話:「一度、真剣にやってみたいのよ」

 ぼくがはじめての家出をしたのは、高校三年生のゴールデンウィーク明けだった。

 たしかにぼくは『せっかくのゴールデンウィークが模試で潰れた』と友人に愚痴っていたが、まさかそんな理由で家出をするほどぼくは子供じゃない。これでも真面目な生徒で通っているのだ。じゃあ、なぜ家出なんてだいそれたことをしたのか。親に口答え一つしたこともないようなぼくが。

 なんというか――、自分でもよくわかっていないというのが正直なところだ。

 「というわけで、しばらくお世話になります」

 「おい」

 「大丈夫、一週間くらいで帰るからさ」

 「……そういう問題じゃないでしょ」

 「別に彼氏いないならいいだろ?」

 「むぅ」

 というわけで、転がり込んだのは姉である小夜啼(さよなき)小鳥(ことり)のアパートだった。小鳥姉はいま都市部の有名大学に通ううら若き女子大生四回生だった。引越しをしたときにかなり手伝わされたから、場所は知っていた。

 「やー、海外旅行とか行ってなくて助かったよ。いなかったら帰ろうと思ってたんだ。おじゃましまーす。あ、このぬいぐるみ、まだベッドの上にいるんだ」

 なかば強引に侵入したぼくに、小鳥姉はストレートの黒髪をかきあげて、「まあ、いいけどさ」とため息をついた。

 ワンルームの部屋は、さすが女性だけあって客人のいついかなる来訪にも備えて綺麗に掃除されていた――とは正直者で有名なぼくの口からはとても言えなかった。小学生のころから持っているぬいぐるみが鎮座したベッドには、取り込んだ洗濯物やらズボンやら下着やらが散乱していた。読書家の姉らしく、床には数え切れないほどの文庫本が積み上げられていた。机に眼をやると、そこはすでに珈琲の空き缶部隊によって占領済み。台所の惨状は彼女の名誉のために伏せておく。

 「……腐海」

 「なに? なにか文句あるわけ?」

 「いや、宿代は掃除手伝いなどなどで払おうと思って」

 ここまでの新幹線代でぼくの財政は汲々としていたので、これは嬉しい惨状だった。ぼくは自分の部屋を掃除するのは苦手なのだが、人のものを片付けるのは大の得意なのである。

 「父さんや母さんには?」

 「……どうにかこうにか。大事にはならないようにしておいたから」

 「それにしても、まさかあの大樹がねー」

 小鳥姉は奇怪なものを見るかのように、ぼくの顔を覗き込んだ。整った顔立ちに定評のある姉、それも三年の一人暮らし期間を挟んで記憶よりもいくぶん大人の顔立ちになっていた。ちょっとどきまぎしてしまった自分が情けない。

 「遅れてきた反抗期だよ」

 「はいはい。悩め悩め青年、それも必要だから」

 小鳥姉が驚き呆れるのも仕方がない。自分で言うのもなんだが、ぼくは高校三年のいままでいわゆる『真面目な秀才』で通ってきた。成績は上の中。スポーツも人並みにできて、クラス委員長なんて仕事も嫌いじゃない。本を買ってもらうためだけにいい子を演じていた小鳥姉とはちがう。

 「……それにしても今日、平日だろ? 大学とかいいのかよ?」

 荷物を置いてひとしきりゆっくりしたあと、気になっていた疑問を口にした。大学生の授業は比較的自由だと聞いていたが、どうも小鳥姉に外出の意志は見られなかった。というより何日も引き篭っているようにも見える。

 「ん? んー、大学ねえ」

 小鳥姉の返事は歯切れの悪いものだった。

 「文系の四年生ってけっこう暇なの?」

 「そんな噂もあるよねー」

 小鳥姉は移動式の椅子に背もたれを抱くように座り、くるくる廻っていた。

 なにやら嫌な予感のするぼくである。かつていい子で通っていた小鳥姉、親元を離れたときからダメなところが出てきてしまったのだろうか。とにかくいまのやりとりから、良い推測はできそうもない。

 でもこれから一週間宿をともにする以上、多少聞きづらくても問いたださなければならない。意を決して、ぼくは小鳥姉に尋ねた。

 「留年してるの?」

 「……休学しているの」

 ぼくが弱みをひとつ握った瞬間である。


 カタカタカタとタイピング音が途切れない部屋で、ぼくはベッドに寝っ転がりながら少女漫画を読んでいた。むかし小鳥姉が実家にいたころはよく部屋に借りにいっていたものだ。そのせいかはわからないが、ぼくはどちらかと言えば少女漫画のほうが好きになってしまっていた。いくつか気に入っているシリーズがあったのだけど、近所の本屋では同級生に見られる可能性があるので、なかなか続きを読めなかったのだ。

 「大樹、珈琲」

 「はいはい」

 こちらを向かずに告げられた要求に、ぼくはベッドから勢いをつけて起き上がった。ちょうど読み終わってたので手にした巻を本棚に戻し、次をベッドの上に投げる。

 「砂糖・ミルクはいかがなさいましょう」

 パソコンに向かっている姉の机から空のカップを回収し、ウェイター風に告げると「ミルクなし。砂糖ありありで」とそっけない返事が返ってきた。どうやら頭への糖分補給をしたいらしかった。姉は珈琲に対して特定の好みは持っておらず、状況に応じてブラックも要求したりする。

 さっき買ってきたインスタント珈琲の粉をカップに入れ、ポットから熱湯を注ぐ。姉はこの単純な作業がめんどくさいと思ったのか缶珈琲に頼っていたが、いまはぼくという執事がいる。使えるものは使うと言うのが、姉の哲学だ。

 「作業は進んだ?」

 「うにゃ。思っていたよりはねー」

 化粧もせず、色気も何もない格好で小鳥姉は自分のノートパソコンに向かっていた。人前であまりかけたくはないと言っていた度のきつい真面目眼鏡をかけて、キーボードをまるで親の仇とばかりに叩いている。


 小夜啼小鳥の休学の理由は、『執筆に集中したいから』というものだった。小鳥姉はたしかに本の虫と呼ばれるくらいの読書家ではあったが、もちろん作家ではない。ごくごくふつうの一般人女性だ。これから文学賞に送って、作家となるのだと小鳥姉は息巻いていた。

 「いわば、就活ね」

 モノはいいようだ。


 小鳥姉が小説を執筆するというのは、いまに始まったことではなかった。

 本読みに共通していることなのか、小鳥姉の想像力のツバサは『小鳥』の域を超えていた。幼いころからいろいろな創作話を聞かされた。高校に上がったあたりから恥ずかしくなったのかぼくに見せるということはなくなっていたけれど、彼女は独学でウェブサイトを作り、そこで自作の小説を発表していた。

 既存の小説や漫画に飽きたときに、その小説を読んだことがあった。それはちょっと上手い素人レベルのもので、思っていたよりはしっかりとした出来だった。中には『原稿用紙換算300枚です』なんてpdfで誰が読むんだって作品もあった。ぼくはさすがに読んではいないが、それは姉の筆力の証明に一役買っていた。

 いまはとある小説投稿サイトに短編小説を連載しているらしく、ファンも一定数いるらしい。

 だから、ぼくは姉の小説の才能は認めている。

 けれど――。

 「……本気なの?」

 そう問わずにはいられなかった。

 「だって小説大賞の倍率なんて――、よく知らないけど、数百倍とかなんだろ?」

 いくらなんでも狭き門過ぎる。

 ぼくにとって作家というのは、例えば小学生なりたい職業ランキングに出てくる『野球選手』や『ケーキ屋さん』と同じ引き出しに収納されている。夢をみるだけならタダ。進路に悩む受験生からすれば、失笑に近いものだった。

 「冗談だったら、休学はしない。うちが遊んでるように見える?」

 首を横に振る。

 たとえば大学のサークルやアルバイトとかで友人と遊び呆けているならば、こんなに客人を拒む部屋にはならない。いまぼくが見ているこの部屋は、小鳥姉が孤独に頑張ってきたことを雄弁に語っている。

 「でも休学までしなくても……」

 大学やアルバイトの時間を差し引いたとしても、『趣味』に使える時間は余っているはずだ。少なくとも、受験生であるぼくよりかは。

 「一度、真剣にやってみたいのよ」

 答えになっていないような気もしたが、小鳥姉はそのまま椅子を回転させてワープロソフトを起動させた。ちらと見えたデスクトップには同じようなアイコンがいくつもあり、姉の精力的な仕事ぶりを無言で証明していた。

 両の手首に無造作に巻かれた包帯については見なかったことにしておいた。


 台所を片付けるのに要した30分は、ぼくにある決意をさせた。明日にでもカビキラーとパイプ用洗剤を購入しようということだ。ちなみに排水口にあったじゃがいものかけらからは芽が出ており、小鳥姉の緑化への関心の高さを伺わせた。

 そのあたりのぼくの批判に、姉は無機質なタイピング音で答えた。

 夕食はありあわせの材料でラーメンを作ることになった。ただ台所のゴミ箱を見る限り、小鳥姉はここ数週間、即席ラーメンばかりを食べ続けるという苦行をしているらしく、食事係としてはいろいろ考えさせられるものがあった。

 「父さんや母さんは元気にしてる?」

 「ぼちぼち。いつも通り」

 さすがに食事するときくらいは姉もパソコンの前を離れるらしく、ベッドの下に収納してあったこたつ机を出して二人でラーメンを啜った。一緒の食卓を囲むのは数年ぶり、姉とふたりだけなんて二桁もない。

 「で。正直なところ、どうして家出なんて。虐められでもした?」

 小鳥姉はきっと、食事時に交渉を進めると成功しやすいという法則を知っているにちがいなかった。即答できるものではないため、ぼくはレンゲでスープを啜った。小鳥姉はぼくが口を開くまで待っていてくれた。

 「……つまらなくなって」

 「はぁ」

 小鳥姉はもっとドラマチックなものを期待していたのか、生返事をした。

 「なんていうのかな、ぼくはいままで『何も選んでないんだよ』」

 ものごころついたときから、ぼくは当たり前に安穏と生きてきた。ありきたりな言い方だけど、レールは敷いてあった。小中高と進み、趣味も特になく、それこそドラマチックなこともなく、ここまで来てしまった。

 「――それで急に『さあ、選べ』って言われても困るわけで」

 先生たちはさもぼくたちが強い情熱と未来への希望を持っているかのように、『さあ、やりたいことをやりなさい。行きたい道に進みなさい』って言う。そのわりに『じゃあ、海賊王かNEETになりたいです』とか言うと、止められる。

 「……なるほどね」

 「小鳥姉、実家の近所に豚舎ってあったでしょ?」

 「ん、どうした急に」

 ぼくたちの家の近くには豚舎があって、風向きによっては強烈な臭いを運んでくることで有名だった。学校への行き帰りで何の気なしにそこを覗き込むことがある。

 「豚が並んでさ、みんな同じ方向向いて餌を食べてる。肥えに肥えた豚に、『さあ、お前はどこに出荷されたいんだ』って言っているようなものだよね……」

 事実、ぼくは模試や定期テストを受けているときに、みんなが豚舎の豚に見えたことがある。みんなで同じ方向を向いて、いかに自分に価値があるのかを競うのだ。もちろんその中にはぼくも含まれていて、吐き気がした。

 「大樹……」

 何か優しい言葉でもかけてくれると思ったが、小鳥姉はさも不快そうな顔をしてチャーシューをぼくの器に移した。ああ、そういうこと。ぼくはこころの中で十字を切ったのちに合掌して、そのお肉を頬張った。

 ぼくはまだ出荷されるこころの準備ができていない。


 食事の後片付けもぼくの仕事だった。そのあいだに小鳥姉はカラスの行水とまがうほどの速さでシャワーを浴び、ふたたびパソコンの前でカタカタ打ち出した。気を使われるよりはマシだったが、せめてシャワーを浴びるときくらいは恥らいが欲しかった。

 「いまは何を書いているの?」

 食器洗いが終わり、少女漫画の続きの巻を本棚から抜き取るついでに尋ねた。小鳥姉はいま打ち込んでいる一文を打ち終わって、ぼくのほうを見上げた。濡れたままの黒髪がいやに艶めかしかった。

 「いまは和モノ。ゴールデンウィークに思いついたから……」

 「和。お茶とか京都とか」

 パソコンの画面を覗こうとしたら、ぱたんと閉じられてしまった。

 「八百万の神様とか。信仰心と人間社会の都合の折り合いのはなし」

 「お、意外と真面目なはなしだね。でも、そういうのって資料とかないと詳しく書けないんじゃ……」

 机の隅に無造作に置かれた本が目に入った。大学の図書館から借りてきたらしいその本の背には『古事記』であったり、その解説書を表す文字が入っていた。その隣のファイルには、ウェブサイトをコピーしたものに蛍光ペンでラインを引いてあったり、ボールペンでいろいろ書き込みをしているものが何枚も挟まっていた。

 「へえ」

 ぼくはそれ以上気の利いたことが言えず、ベッドに寝転がって漫画を開いた。小鳥姉はなにごともなかったかのようにパソコンを開いて、少し逡巡した後にまたカタカタとキーボードを叩き始めた。

 ――ぼくはきっと羨ましかったのだと思う。

 こんなことを言うと小鳥姉は『当たり前だ』と憤慨するだろうけど、彼女は『豚舎の豚』ではないのだろう。むしろ孤高の狼と言ってもいいのかもしれなかった。それは与えられる餌には興味がなく、自ら望み、自ら刈り取った価値のある肉に食らいつく。もちろん肉が得られず飢えることも、外敵に襲われて喰われることもあるだろうけど、それでも豚舎の豚から見れば羨ましいことこの上ないのだ。

 漫画の内容は頭に入らず、ぼくはこのたった四年早く生まれてきたこの女性が、自分の為に休学し、自分の為に調べ物に時間をかけ、自分の為に物語を綴っている――、ただそれだけのことの凄さに驚いていた。

 「ページをめくる音が聞こえなくなったわ。居眠りをしているのなら、さっさとシャワー浴びてきなさい」

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