9 二面性

 わたしがお風呂を上がると、今度は誘拐犯がお風呂に入った。「久しぶりにお湯に浸かるよ」なんて、楽しそうに言っていたけど、お湯はもう抜いた後だった。だって、毛とかが浮いていたら恥ずかしいから。お風呂場から「あれっ、空だ」と驚くような声が聞こえてきた。

 誘拐犯はシャワーを浴びて出てきた。ついでに髭をそって、さっぱりとした彼は、ちょっとかっこよかった。ツンとした釣り目と、高い鼻先、少しこけた頬。パーツの一つ一つが整っていて、不健康そうな青白い肌も神秘的で、引きこもりニートじゃなければモテそうな顔つきだった。わたしはラッキーなのかも知れない。誘拐犯がデブでハゲだったりしたら気持ち悪いけど、こういう神経質そうな美形になら、監禁されるのも悪くない。

 歯ブラシが無いから、代わりに、ぐちゅぐちゅ激しく口を濯いで、わたしたちはベッドに入った。

「僕は床に寝るよ」

「最近寒くなってきたから、風邪引いちゃうよ」

 狭いベッドの中で、わたしたちはスペースを譲り合いながら、横になった。わたしは誘拐犯に背中を向けて、少し膝を抱えて、胎児みたいなポーズで目を瞑った。

 部屋の中が暗くなると、明かりを求めて蝿が飛び回り始めた。ブーン、ブーンと、途切れ途切れに羽音が聞こえる。静かな部屋の中に、その音はやけに大きく響いて、眠りを邪魔してくる。

 蝿の羽音がこうも気になるのは、きっと蚊のせいだ。蚊に刺されると痒いから、蚊の飛ぶ音が聞こえると人間は警戒する。血を吸われるまえにパチンとしようと躍起になる。そのとばっちりが蝿にまで及んで、蝿叩きなんて道具が生まれたのだろう。もともとアレは、蚊を退治するための道具だったに違いない。だって、蝿は蚊と違って人畜無害なヤツだもん、退治する理由がないはずだ。

 でも、人畜無害っていうか、そういう毒にも薬にもならないような人に限って、人から嫌われるのはどうしてだろう?

 お父さんはわたしをレイプする。とても有害な人だ。それなのに、会社では専務とか言うのをしていて、頼られて、慕われている。お母さんのお葬式のとき、お父さんの同僚の人はみんなお父さんに対して丁寧だった。敬意を払われていた。

 対して、この誘拐犯は、わたしが誘惑しても襲ってこない。無害なタイプの人だ。でも、見ている限り、社会からのけ者にされている。家族と住んでいないところを見ると、家族からも嫌われているみたいだ。こんなに普通の人なのに。誘拐犯ではあるけれど、悪い事なんて何も出来ないような善良な人なのに。

 世の中って本当に不公平だなあ、なんて、蝿に邪魔されて眠れ無い間、わたしはそんなことを考えていた。とは言うものの、それほど深く考えたわけじゃない。小難しい事を考えると眠くなる。だから、ものの五分ほどでわたしは眠りに落ちた。お父さんの隣で眠るよりも安心して眠れた。やっぱり、この誘拐犯は人畜無害だと思った。

 ジンチクムガイ。オウムガイの仲間みたいな名前だな。だとすると、ジンチクムガイもまた、オウムガイと同様に生きた化石なのだろうか。ああそうか、だから彼らは現代社会に適応できていないのか。妙につじつまが合っていた。そんなことを思いついて、わたしはクスッと笑った。

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